司馬遼太郎の家康過少評価は異常
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秀頼は肥満で陣頭指揮取れなかった説まであるんだよな… 秀頼が天王寺合戦に出馬するのは難しいだろうね。
前日の道明寺合戦で真田信繁は後藤基次救援に時間的に齟齬を来たして失敗してる。
これだけで城内には真田に対する不信感が強まっただろう。牢人諸将間には対立もあったようだしね
しかも、天王寺合戦って実際は一刻半くらいの短時間で終わり、その直後に大坂城が炎上している。
秀頼が天王寺口まで出ている間に、追い詰められた城から内応者が出る可能性がある。 慌てて牢人をかき集めたはいいけど、牢人諸将を統制する力が譜代衆になくなってしまった。
もし譜代衆がきちんと統制してたら秀頼出馬もあり得ただろうが… 家康の本陣に迫ったと言っても、数万規模の激戦で旗本が混乱したくらいで、
家康が自刃を決意するほどの状況だったかと言えば明らかに創作だな。しかし司馬は創作は全面採用なんだよね 家康好き=山本周五郎、山岡荘八=暴力否定、秩序維持、漸進改革、学生運動その他暴力的運動に否定的=戦前の暴力と戦後の暴力の反省
家康嫌い=司馬遼太郎=暴力肯定、「この世には有益な暗殺もある」みたいなことを堂々と書いちゃう
で、60年代〜70年代前半だけは家康を異常に否定する基地外が増えた
しかしいつの世も平和と穏健と秩序維持が好きなので、家康は80年代以降再評価されて今に至る と言うか現代の家康再評価は、家康は秩序維持者ではなく、天下泰平を達成し、
かつ秀吉みたいな殴り込みをせずに海外交易を活発に行った明るい男と言う評価なんだけどなw 長宗我部、木村らの諸隊が八尾と若江の戦闘で壊滅してるので手持ち戦力がない >>1
家康のことを根暗な性格とか決め付けてたのが行け好かなかった。 >>62 歴史を進めた暗殺は桜田門外事変だけ、と司馬先生は仰っておるじゃろ。
とにかく、徳川260年が日本を貶めたのは事実。 司馬は徳川政権は大坂を優遇してくれたと繰り返してるが 利家が死んでも野望をむき出すことなく秀頼の後見をして豊臣を守れば忠臣かもしれんが
形としては御家乗っ取りかつ主人一家を殺害だから好かれるわけがないw >>69
家康は秀吉の遺命を忠実に守ってただけなのに
三成はじめ西軍陣営が野心剥き出しで暴走したから制裁した。
大坂の陣は淀殿と秀頼が無能かつアホだったから自滅した。
はい論破。 >>71
太閤の御置目を守るどころか私的婚姻を進める家康
この時に利家ら四大老で家康をきっちり処断してればよかったw。
利家が死ぬや、お家乗っ取りの障害がなくなり
利長や景勝に帰国を勧めては謀反のでっち上げ
前田は屈服したが上杉は屈服しなかったので戦になった。
(上杉は国替え[加増も]があったので浪人を雇ったり、城の普請は当たり前)
関ヶ原後も主君の秀頼に戦勝を報告してるわけだが
そのまま豊家の家老を続けるような家康ではないねw
いよいよかつての主家を滅亡させる大坂の陣では
家康本陣が崩れ[三河物語]かつての主君の義元と同じ目に
あいそうになったのはご愛嬌w >>66
全然事実ではない、江戸幕府は国内の内乱から喧嘩に至るまで武力発動を停止し、
高税率で取った税収をガンガンインフラ整備に回し中期からは驚異的な低税率を実現
おかげで民間に資本が蓄積され産業が発展、幕末には工場制手工業も始まり日本はあっという間に近代化に適応できた
すべて「今後は民衆はむさと殺されることはない」とお触れを出した権現様のおかげ
>>72
きっちり処分したら豊臣政権の大番頭がいなくなって内乱勃発なんですけど?
だから家康をある程度牽制した後は和解したんだろ 天領では国民負担率は30%以下。世界最低水準のアメリカよりはるかに小さな政府
百姓天国、商人天国、官僚は地獄、いつリストラされるか分からないから賄賂なんてもってのほかと言う世界 >>73
>中期からは驚異的な低税率を実現
えっ?江戸時代って末期になればなるほど税金足りなくて
庶民に重税課したり武士が内職したりしてたでしょ?
そもそも朝廷や幕府が徴税するのは農民からだけで
商人にはもともと税金が課せられていないから(室町幕府の政策である座だけが特殊だった)
権現様のおかげで工場制手工業が始まったわけでもなんでもない >>76
いや、渡辺崋山は伊豆で「天領の百姓は生活がどえらく楽ちんだから俺らも天領の百姓になりてえよ」
と言ってるのを聞いてあきれたと日記に書いている。天領の百姓の生活はうんと楽だよ
武士は地獄。だって米価がどんどん下がる上に、俸禄は変わらないから内職をせざるを得ない
しかし武士は公務員なので、公務員は超安月給
商人は元々税金が課されていないから、実際の国民負担率はもっと低かった可能性が高い
それは権現さまが軍事力凍結を宣言して喧嘩停止を徹底し、インフラ投資に熱意を注いだ延長線上にあるわな。 年貢率は天領の4公6民を標準としていました。将軍のお膝元の関東は関東郡代伊奈氏による独特の農業土木技術により新田を開墾し当初10年間は年貢を免除するなどの優遇政策を行いその間の実効年貢率は1公9民だったと記録が残っています。
(伊奈氏は天領の農民から「神様、仏様、伊奈様」と慕われていました。)「百姓は生かさず殺さず」という言葉は有名で、確かに徳川家の記録に残っていますが、発言したのは大久保長安で、
それを聞いた家康は「百姓は国の宝とんだ心得違いだ」と激怒したとの記録が残っています。明治時代になってから、新政府が自らの政権の優位性を主張するのに江戸時代の百姓は虐げられていたと、
その言葉のみを学校で教えたのが真実だそうです。 天領は実効で30%以下、諸藩は60%以上だな。薩摩や会津は70%は取ってるだろ 諸藩は参勤交代で大量のムダ金をドブに捨てることを強要されてたから
(会津みたいに、百姓から容赦なく搾り上げた年貢で大枚はたいて大見得張って、
幕府に尻尾振って喜んでる藩も多かっただろうが)、
天領よりも諸藩のほうが武士の生活が豪勢だったわけでもないだろう。
いずれにせよ、北朝鮮の将軍様一族並みの特権階級であったことに変わりはない。 1721年→1846年の人口
周防66%増
薩摩62%増
陸奥18%減
東北11%減
関東13%減
中部14%増
近畿6%減
中国21%増
四国27%増
九州14%増
日本史再発見 理系の視点から(朝日選書) 天明・天保の飢饉があったので関東と奥羽は大打撃を受けたのは確かだな。
関東奥羽の開発で18世紀の前半までは高度経済成長だけど、その後が頭打ちなので
近畿がなぜ減ってるのかは知らないが。19世紀は気象的に西日本は比較的生産力をキープできたはず 司馬の家康は過大過少の前にまずキャラが違いすぎる
温厚な長者を装おうとしても生来の(祖父や父譲りの)癇癪玉みたいな性格が
終生直らなかったという家康が
なぜか感情の起伏のない古狸にw >>80
明治政府が徹底して徳川暗黒史観を教え込んだんだよな。それが戦後も続いた。とんだ洗脳だぜ こいつのせいで日本が100年は遅れたからな
幕末、明治になって一気にそのつけがきた 家康を人格者だとか徳川が神というほうがとんだ洗脳だぜ >>86
司馬は、忠輝の説明の際に、徳川の血の中に時折現れる狂気の気質、
みたいなこと書いてて家康にもその気があったことに触れているよ
特に狂気が表に出すぎたのが忠輝とか忠直だが 30年前の歴史教科書を見ると、百姓は生かさぬように殺さぬようにとか、
慶安のお触書とか、とにかく徳川が百姓をいびってたことを示す怪文書は何でも教科書に載せていた。
中国共産党も顔負けの捏造教育 >>90
殺戮マシーンの両巨頭・信長、秀吉に比べればカワイイもんだろ。 徳川幕府は、その愚民政策で日本を貶めたよな。
あの鎖国・農本主義政策への転換がなければ、絶対主義王政が花開き、
早期に西欧列強に伍して世界を主導、あの昭和の悪夢もなければ、明るい文化が育ち、
今頃は中国・南北朝鮮なんて存在せず、北方領土問題も起こらず、亜細亜に冨み榮え、強い平和な大国が出来ていた。
それと、主に豊臣政権時代の歴史を捏造、日本人の歴史知識を大きく歪めたことは万死に値する。
豊臣家康・羽柴秀忠と名乗らされ、武家家格制度の下、秀吉の完璧な統治・支配に服していたのに、
それを曲げて伝えよった。
>>94
逆だね。豊臣政権が続いていたらその後の明清交代で確実にちょっかいを出して清と対立関係に入る。
明からたきつけられるから間違いない。江戸幕府ほど厳しく内政不干渉に徹することが出来ない。
あと何より、江戸幕府は軍事力で豊臣政権を滅ぼし、関東に拠点を置いたことで
初期に強力な大名の配置転換とインフラ投資を断行した。結果、関西資本が関東に流入し東日本が飛躍的に成長した
武士が集住する大消費地・江戸が誕生したことで奥羽地方の生産が刺激され、波及効果で豊かになった。
豊臣政権の継続なら、東日本は東日本在地の大名のまま。ロシアの東漸に対して手を打てなかったに決まってる。 それまで「内陸部の経済後進地帯」だった東日本に大量に資金をつぎ込み、国土の均衡ある発展を可能にし、
内需主導の成長を実現し、東から来る米国・ロシアと言う二大国と通商をするに適した国家を作り上げた
畿内から江戸に前線を進めた功績だけで徳川は偉大だよ
しかも最終的には国民負担率が3割を切るという超低税率国家を実現したわけだから 新井白石・松平定信への賛美は、ほとんど捏造の産物なので、
「清貧や経済萎縮こそ日本を精強へ立ち直らせる」式の妄想を現在でも生んでいるこの両名は、ゴミ箱に捨てたほうが良い。
他は、綱吉は財政を立て直していた、とか萩原重秀(方向は正しいがちょっとインフレしすぎ)・田沼意次(この人は功罪あり)とか、
新井白石(天皇礼賛以外はデフレ強権でむしろ悪政)・松平定信(農村福祉以外は悪政だらけ)より取り上げるべき人間が存在する。 >>97
始祖家康の業績と豊臣政権からの簒奪過程については確かに捏造はあるが、事実は誤魔化せないから
「評価」で誤魔化してる部分が多く、それほどひどくはない。
水戸学なんて異物が誕生したのは江戸時代なればこそだろう。 >>99
新井白石と松平定信は業績に詐称多し
両名の業績を信じるなかれ 松平定信は幕府の老中首座・将軍輔佐に就く前
白河藩主だった天明の大飢饉の最中である天明3年(1783年)であるが、
定信は天明の大飢饉で苦しむ領民を救うため、自らが率先して倹約に努め、
さらに領民に対する食料救済措置を迅速に行なったため、
白河藩内で天明の大飢饉による餓死者は出なかったと言われている。
特に東北地方における被害が大きかった天明の大飢饉で、
これは異例のことと言ってもよい。 >>93
織田・豊臣で天下統一がなされてて家康はあとは
豊臣秀頼一人を殺せば天下が取れる状態だったからだろ
家康も若い頃はかなりの人殺してるし息子と正室も殺してる
戦国大名数あれど正室殺したのは家康一人だけ
(正室殺しは信長の命令じゃないからw) >>101
実際には将軍家の血筋であることを利用して
強引に米を買い占めたからであってそのせいで諸大名から顰蹙買ってますな そう。
当時米の買い占めは、東北諸藩への災害対策のため禁止されていた。
これを破って、飢餓を撒き散らしたのが松平定信だった。 東北は典型的なモノカルチャー経済だったんだな
江戸時代から戦前は需要の高い米
戦後は労働力を関東へ供給
宗主国が植民地に対してやる事のド典型だ 東北地域は植民地というよりは、薩摩が導入したサツマイモのような飢饉対策作物を
稲作増産の為に藩が禁止しちゃったから、飢饉への対処能力が年々低下して人口も減ることになった。
ジャガイモ? お助け芋とかいう名前で入ってきつつあったんですけど、藩が・・・・・・ お前、薩摩の調所の債務破棄と奄美琉球収奪なんてまともな藩のすることじゃないぞ。
薩摩は偉大だけど、毛が逆立つくらい恐ろしいことやってるんだから
それと仙台や南部、会津は酷かったけど、庄内みたいに北前船が入る日本海側はかなり豊かだな。 南部も、米作や表高に拘らなければ餓死者は少なかっただろう。あれは人災。 家康は偉大。司馬遼太郎が何と言おうと歴ゲーの能力値で世界中の人間が家康の偉大さを知っている 真田の草の者があと一歩で家康を仕留めていた。
日本の歴史にとって、これほど惜しいことはない。 あと一歩で命を奪われそうになったのに、真田家を取り潰さなかった徳川はやっぱり偉大だな
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1416777484
>徳川家康は、どちらかと言うと、日本よりも海外で高く評価されている様ですが、何故、日本よりも海外の方が徳川家康を高く評価されているのでしょうか?
>また、徳川家康の何が海外で評価されているのでしょうか?
>260年戦争のないパックス・トクガワを生み出したからです。
>西欧で二世紀以上も戦争のない時代はありません。
家康が偉大すぎておそろしくなるわ 戦争がないのがそんなに良いのなら平安貴族は世界を統べる資格があるよ ↑じゃあ、今から内戦中の中東かアフリカへ移住してみろよ 1807年 4月 丁卯事件択捉島 ナイホでロシアが上陸し会所を襲撃・略奪、
で択捉島警備の南部藩・津軽藩を 敗走させ、南部藩・津軽藩の6人が捕虜になる
戦争では無いが一方的にやられてたりはしてたみたいだな。 >>113
平安時代は奥羽、坂東や西海で戦争が頻発してるじゃないか
江戸時代には一揆や打ちこわしにすら作法があった
>>115
それには後日談があり、日本は4年後にディアナ号をひっ捕らえてロシア側の釈明を引き出している。
ゴローニン事件ね。最上徳内が得撫島まで探査を終えたのがその事件のわずか20年前のことだよ
入植が本格化したのは、さらに遅れてクナシリメナシの反乱の鎮圧後 江戸時代の一揆で徳川軍が一村皆殺しにした
生瀬一揆に作法があったとは思えないが ああ、江戸初期は普通にあるよ。喧嘩停止を徹底させるために当事者全員を磔刑にするとか秀吉もやってるから
しかし島原の乱・慶安の変以降は一揆は作法を守り、幕府は形式的には処罰しながら柔軟に対処する方針に転じた
その最たる例は天保義民事件の庄内藩だな。 欧米は日本より歴史が短いから、「欧米が戦争に明け暮れていた同じ頃、
日本の武家政権は長年戦がなく安定していた」と称賛される。
だけど、日本の長い歴史の中の江戸時代って、武家政権の一番最後で最大の成熟期なんだよね。
鎌倉・室町・織豊と、過去の武家政権を振り返り、同じ失敗を二度と起こすまいと
雁字絡めに規則や法律で縛った上での安定政権だったわけで
いや、江戸時代はたとえば事件を内済に委ねる割合が高い
たとえば窃盗程度の犯罪だったら役人が裁かず、村落共同体の仕置に委ねる
だから現代風にいう治安警備担当の公務員が極端に少なかった
規則でがんじがらめと言うのはまったく実態と異なるな 奉行所の与力に、「金を出して頼めば、斬られた首もつながる」
つまり賄賂で、どうにでもなると言われていた。
むろん江戸時代には賄賂は悪い事ではなかった。
おおらかな時代だった。 厳しい法定刑が実際の運用で柔軟になり得たのはその通りだが
賄賂は少ない。それ時代劇のイメージw 山本周五郎のながい坂って、家康を意識してるんだよな。 シュリーマンが荷物改めを警戒して武士に袖の下を渡そうとしたら、役人が笑いながら断って
ざっと見せてくれればいいんだよと応対したんだね。
武士から民間人に至るまで、掛け値や心づけの習慣がまったくないので驚いた 明治時代ですら家康人気は三傑でずば抜けていた
司馬の家康像は大阪人の私怨 人気なんてどうやって調べたwまあ認知度は1番かもな
上司が信長、部下が秀吉、父親が家康の人生だったらちょっと嫌かも
東洋の歴史上の人物では、秀吉、チンギスハン、家康の順番に人気があったらしいね。
西郷隆盛が4位。チンギスハンが2位と言うのは面白いなw 家康が偉大すぎて呼び捨てにするのがこわい
権現様と呼ぶことにする >>119
規則でがんじがらめって、じゃあその前の時代はどこがよかったんだい。
江戸時代の凄さは、暴力のコントロール。
もっとも暴虐な連中に自由を与えなかったから達成した繁栄。 ↑今のはなしで。無視して。
ろくに読まずにレスしてしまった。申し訳ない。 大阪の人って、過去に堺市が大野治胤に焼き討ちされた事実もあるのに、
それでもアンチ徳川なのかな。 >135
大阪夏の陣では大阪の町民が徳川方に略奪・暴行・殺人・人さらいなど
堺より酷い目に合ってるからね。 >>136
実際そんな具体的事象より、単純に大阪から首都機能を
奪われたのが癪に触るだけだと思うけど。
別に歴史を知ってる人も知らない人も家康嫌いだからな。
太閤好きの家康嫌いって生まれた時から刷り込まれるから、
どんなに歴史を学んでも「嫌い」って視点からなかなか抜けられない。
「嫌い」が先にたてば、悪いところが目に付くし、忘れられなくなる。
司馬の覇王の家のあとがきなんか、まさにそういう心情が現れてるように思うよ。 江戸時代を通じて大阪はアンチ江戸だが、
現実には太閤の大阪を滅ぼされて、それからは江戸幕府の物流集中策の中で大阪は発展する。
江戸時代の大阪は、江戸幕府のおかげで育った街なんだよ。
しかし感情は別。
特に江戸中期以降は、下り物に代表される産業技術先進地域としての座を江戸が発展することで脅かされるし、
歌舞伎役者も落語家も江戸下りをして帰って来ない。
絵画も尾形光琳等の安土桃山から、浮世絵や読本出版物は江戸の産業となる。癪に障ることが多かった。 それは司馬の無知だよ。慶喜が鳥羽伏見の前後で政権についてたらたぶん上方に政権を持ってきた。
その場合は大阪が政治の中心地になってた可能性がある。
新政府が勝ったからこそ江戸に移駐する必要があったわけでな。 >>137
頼朝は尾張人の流人、伊勢宗瑞は備中人の侵略者、家康は三河人の侵略者
でも東京人や静岡人は誰も文句言わないじゃん
なんで大阪だけそうなるんだよ 結局は特権意識だろ。たぶん大坂が京から遠く離れてたらそんな意識持たなかったと思われる。
圧倒的に流入人口、新参人口のほうが多い東京は、統治の実質さえ担保されるなら名目はどうでもいいと考える。 兵庫開港が遅れまくったから、横浜中心で対外貿易は動いてたしな
東京に来る以外ねえわ 生活スタイルも江戸市民は堅実、大坂市民は華美と言われた。
江戸市民の気前の良さと言うのは、江戸の地元資本家を讃える創作の可能性が高く、
実際はきわめて勤倹貯蓄型だったらしい。 慶喜政権なら
京=政治
大阪=外交
横浜・江戸=天領の首都と外港
長崎=西南諸藩の貿易港
みたいな形で、面白い日本の発展が見られたかもね。
ドイツ帝国のプロイセンとバイエルンみたいに。
江戸は徳川家の官僚群が統治可能だし、徳川家や東国諸藩は安心して大阪に詰められる。 >>122
山岡は山岡で史実とかけ離れてて
バランスますます悪くなるよw 関ヶ原も大坂の陣も正当性があるのは家康側だと史料で証明されたし
そろそろ世間もアンチ徳川史観から脱却して欲しいよね。 むしろ江戸東京礼賛が鼻につく場合があるのだが。
江戸中期以降の関東東北の停滞・衰退を日本の衰退と言い換えたり。 >>149
常識だというからにはたくさん一次史料があるんだよね。
正統性を証明できる一次史料の抜書きをしようよ。 徳川家康の評価が低いのは、彼自身というより徳川家光以降の「鎖国」「技術退化礼賛」が
江戸幕府自体の評判を落としている面が強い。
「江戸で技術退化なんて嘘だ、技術は進歩した平和な社会だったのだ」説の人は目が曇っている。
倹約令は財政好転が目的だったはずなのに、いつの間にか社会の倫理にされて社会全般に強要され、経済萎縮をもたらしただけだった。
倹約のためなら新技術や魅力のある商品は邪魔とされた。
1720年の老中からの命令では、食料、衣服、諸道具、書籍、菓子、玩具等あらゆるものに関して、新規の商品開発を行い、それを販売することを禁じた。 別の司馬批判スレでも言われてたけど
個人としては珍奇な物に目のなく進取の気風に富む家康に
徳川幕府の保守性を時間を逆戻しして覆い被せてるのが司馬だよね まあ、積極財政に転じようとする安倍に
「質実剛健だか清貧武士道だか吹いて経済を萎縮させたのは保守の人々ですよね」と批判が飛んでくるのと同じ。
責任があるのは当人ではないが、前任者や後任の人間が悪いことをやると、彼らの悪行まで背負うことになる。 徳川家康自身は
・家系名門愛好者
・歴史オタク
といった面があり、彼の定めた米本位制に基く幕藩体制も、彼の治世に関しては必要なものだった。
しかし死後神君とされ無謬とされていくと、貨幣経済の伸展や海外の技術発展に抵抗し日本を抑圧する悪魔のような存在として
後世の日本に圧し掛かってくることとなった。彼の評判は神君とされることで貶められたともいえる。 大好きな唐頭の飾りだらけの派手な格好で若い旗本に
「武士は外見よりも中身だ」と説教した話で大笑いした
古参の家臣が「殿さんが一番、外見気にしとる」と突っ込んだと言う 家康自身、自分を重厚な人間に見せようとしていたんだろうな
ただ同時代人の記録でミーハーなおっちょこちょいだとばらされてしまっているという >>153
「東洋では天変地異の責任まで背負わされます」
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