先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
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純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。
先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る
前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/ https://twitter.com/kurisu_1882/status/750733336771850240
平安時代宮之城周辺は土地の豪族大前氏が律令制官職の郡司として統治していたが、
鎌倉時代になると幕府が守護職に派遣した島津氏の支配下に置かれた。
大前氏は豪族として島津氏に抵抗し続けたが勢力は弱り、
江戸時代になると大前一族の居住地が「死苦村」と呼ばれるようになる。
https://twitter.com/kurisu_1882/status/750735399836725248
一七八四年(天明4)年七月七日 島津藩からある布告が出される。
「死苦村儀 以来穢多と相唱 書付等ニモ可相認候」
これは本日をもって被差別身分に落とすという布告である。 京都の駐車場跡地で古銭4万枚! 壺にびっしり 400万円以上
http://www.sankei.com/west/news/140708/wst1407080008-n1.html
京都市下京区貞安前之町の駐車場跡地から、室町時代(15世紀)のものとみられる備前焼の壺(高さ66センチ、幅53センチ)が出土し、
なかから古銭4万枚以上がみつかったと、民間の発掘調査会社「イビソク」(本社・岐阜県)が8日、発表した。
同社は、1文は100円ほどと推定。「現在の価値に置き換えれば400万円以上では」という。
応仁の乱…約600年、ひも通した状態
見つかったのは四条河原町にある高島屋京都店の南側。
文献によると付近には当時、河原で染色などをしていた職能集団の集落があったとされるが、壺の持ち主はわかっていない。
ひびに沿って壺の一部をはがしたところ、中に古銭がぎっしりと詰まっていた。
古銭は「開元通宝」(初鋳年代621年)から「宣徳通宝」(同1433年)まで、作られた年代が異なる約50種類が確認された。
97枚を1単位としてひもに通した「さし銭」という状態だった。
同社によると、古銭の大量出土は全国で200例以上あるが、壺に収められた状況や、ひもを通している状態がそのまま確認できるのは珍しい。
壺に入れるのは貯金や隠匿、地鎮などの意味があるという。
http://www5.oita-press.co.jp/images/wn/20141126/434-1-m.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=aAMlx8Xj9jY >>275
ん?屠殺なんかしたら罪に問われるぞ。
認められていたのは牛馬の死体を独占的に取得できる権利だけ。
権利を認められていたのは村の頭とか年寄とか呼ばれる一部の層だけ。
苗字帯刀と一緒で村の中の特定の家だけが代々権利の世襲を認められていた。
それ以外は小作人とか行商人とかその日暮らしを強いられた。
この権利を認められる認められないは由緒などの違いで決められていたと思われる。
また権利を認められた層とそれ以外の層が通婚していたとは考え難い。
明治以降に困窮したと言われるが権利を世襲していた家は江戸時代に蓄えた財を元に新たな商売を始め成功している。
中には貴族院議員多額納税議員互選資格を獲得した家もある。
しかし権利を持っていなかった層は相変わらず困窮したままだった。
金持ちはより金持ちに貧乏人はより貧乏にの構図である。 >苗字帯刀と一緒で村の中の特定の家だけが代々権利の世襲を認められていた。
>この権利を認められる認められないは由緒などの違いで決められていたと思われる。
東三条・竹中庄右衛門について
『京都坊目誌』に、肥前平戸藩松浦肥前守の家臣が先祖で、わけがあって京都の方に移ってきたと書かれています。
仕事は、天部村の捕手の仕事をしていて、一方で「皮革の製造販売を業とし」ということです。
慶応元年、二五歳のとき天部村の組頭になったとあります。そして、帯刀を許されています。
組頭というのはどんなポストかといいますと、その村を代表する年寄と小頭との間のポストだということです。
また捕手の指揮統率に任ぜられていたということであります。
この方が、天部村が明治に入り三つの町、教業町、長光町、巽町になったときに巽町の戸長に明治五年になります。
そして町のために働くのですが、戸長制度が廃止されると総代になります。
「家職を当主に譲り、自ら隠居して専心協同、夜学校の事務に従事し」とあります。
これらの記述を通して、竹中が村の指導者として尽力をしたといえるでしょう。 被差別部落の内部構造を分析しうる史料は非常に少ないが、
近年、東京大学法学部法制史資料室から発見された『京阪文書』に五十六点、
『京五条坂古証文』に十五点の京都の被差別部落関係の史料があって、
江戸時代初頭の余部関係文書が天部村の内部構造の究明にひと役かってくれた。
もちろん、天部村の内部で年寄、組頭、手下、借家人と階層性の強いことはわかっていたが、
それが居住地域にまで及んでいることがわかってきた。
まず、村内は南北に分れ、北町に番頭の年寄すなわち村の有力者が住み、
南町にも年寄は置かれたが、南町は北町に従属していた。
さらに、北町は東西に分けて西側とか西町の呼名が使われている。
この年寄の下に30人の組頭がいて、その組頭の下に村の住人が手下としてしたがっていた。
組頭になる家は固定されており、その内から2名の者が月番をつとめ、村入用などの取り立てにあたった。
また、この他に3名の小頭がいたが、これは年寄によって選任され、日給を給される立場にあった。
年寄は各家より地料を取り立てて、それを自己の取り分としており、組頭は自分が所有する家作の地料を免除されることで、
給与のかわりとしていることから、年寄と組頭は村役人の地位にあったが、小頭はそれに雇われる立場にあったものと思われる。
一般の住人は手下と呼ばれていたが、この手下にも家持ちと借家の別があった。
家持ちは「手下役人」とよばれていたように、一人前の村民として公役をつとめる義務をもつかわりに一定の発言権も保障されていたが、
借家人は地料をおさめるのみで公役をつとめる義務はなかったが、村政へ関与することも出来なかった。
家持ちと借家人の割合は、1704年 (宝永元) の時点で家持ちが39戸・213人、借家が129戸・519人で、1対2となっていた。
刑警吏役のうち実際の首切りにあたるものを「又次郎」とよんだが、天部村の場合は借家人が又次郎役をおこなっており、
人足として二条城の掃除や刑警吏役に実際に出ていたのは、手下のうちの借家層であったと思われる。 過疎ってるなあ
ファミリーヒストリーという番組がこの3月まで放送されていたぐらいなのに・・・ 江戸時代までたどり着けないのがほとんどだろう
役所に行って戸籍から調べたって明治20年くらいで限界だろうよ
それ以外の調査方法は各家庭で違うから何ともな
庄屋とか士族とかなら歴史資料館みたいなところに当たればいいけど
日本人のほとんどは土百姓だったんだぜ >>284
庄屋とか士族でも郷土資料館に史料が無い家は少なくないだろ。一般百姓が調べにくいって点は同意する 遺伝解析の結果、弥生人は、中国の呉からではなく、朝鮮半島の北部から来たことが判明しました。
弥生人が渡来したとすれば、2800年前頃、朝鮮北部から、中国江南の稲をもってやってきたということになる。
土師器、鉄製農具、養蚕は、卑弥呼の朝貢からやってきた秦氏たちが三世紀に伝えて、古墳時代が始まった。
弥生人は、中国の春秋戦国時代にはまったく関係ない朝鮮北部から日本へ来た。
O1b2の流入と稲の流入に因果関係はないというのが結論だろう。
あれは、みかんみたいに誰かが中国奥地へ取りに行ったんだろう?
縄文人を中心に考えれば、朝鮮半島から弥生人がやってきたので、
中国大陸の存在を知ったということがあるかもしれない。
新大陸発見だね。そして、稲を取りに行ったと。 弥生人の列島移住は春秋戦国より古いんだが
むしろ殷周革命の前後頃だぞ
殷末に紂王が東征を繰り返していた時代に故国を逐われた人々の一部が移住したか、
もしくは西周の拡大期に東方諸国を攻め滅ぼした際の流民が移住したかってとこだ
時期によっては山東半島に朝鮮半島系の住民が多く住んでいたこともあるらしいし、
その辺の人らが殷または周の征伐によって移住したとしたら、朝鮮半島系の住民が山東半島方面から移住したという可能性も十分にある。
まあ朝鮮半島から直接かもしれないが、いずれにせよ移住の時期は殷周革命の前か直後ぐらいと考えるべき。 >>285
そうなの?
藩によって事情がかなり違いそうだな
廃藩置県の直前に、もう最後だからって足軽にまで由緒書を提出させた藩なんかは
士族なら全員余裕で見つかるよ うちの地元は旗本領と京都所司代領と大坂城代管理地が入り乱れてる感じか
大名領も飛び地がいくらかあるが、だいたいどれも数百数千石あれば大きい方。小さいのは百石単位
士族の居住とか考えがたいレベルかな? >>285庄屋と上級武士は公式文書に載ってるから戦災等で焼けてない限り必ず資料は市町村が持ってるし
ちょっとした歴史資料にも引用されてるよ。下級武士ぐらいだと資料はあっても整理されてなくて
公開どころじゃないだろう NHK「ファミリーヒストリー」が放送再開したのに、相変わらず人がおらん >>292渡部の母方の家が無くなった事情等はまったく触れなかったな。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
0DRS1 今日坂本龍一やってたな。
足軽の先祖で相当の貧困
明治以降の母方は小作人だって このまえの市村正親の先祖も足軽だったな。先祖が足軽ってどういう気持ちなんだろうか?庶民ではないと思うんだろうか? 先祖が足軽ってのも嫌だな。水飲み百姓も嫌だけどって・・・人口比で考えると
水飲み百姓>>>零細農家>>足軽って感じかね? 足軽でも権利が株として売買され、富裕な農民・商人の次・三男の就職口ともなったそうだから
下っ端でもそれなりに安定していたんだろう。 伊藤博文は足軽から公爵にまで上り詰めた。
山縣有朋は足軽以下から公爵にまで上り詰めた。 >>305
いやいやいやいや、裕福な農家の次三男の就職先になっていたという証拠出してくれないか。
そんな現代のデマの事実などないが?
なんで豪農の次男とはいえ、分家すれば土地の分地でなくとも全うな生活が保証され、もしくは養子か、
すくなくとも徒士株くらい買えるのに、
なんで貧困にあえぐ小作人レベルの生活水準の身分なんか買わなきゃならない?
しかも足軽て、、 あのな、坂本の家も足軽なんて聞いたことないといっていた。
それくらい足軽なんて明治くらいは人には軽々しく言えないレベルの下層身分
跡形も痕跡残せる財力も泊もない。
足軽は、
- ゾウリ履くこと許されない
〜傘さすこと許されない
〜着る服も素材から徹底制限
〜帯刀も髷も苗字も袴も許されない
〜屋敷も持つことすら許されない長屋住まいの強制
〜三食の飯すらままならない福利厚生
〜不浄と呼ばれる公的現業(衛生、インフラ土木、捕縛、刑務執行など)
〜藩の究極の奴隷民としての立場の強要(パワハラ、セクハラ、暴力、名誉毀損当たり前の日常)
こんな糞足軽が、豪農の就職先だ?
釣りも休み休み言えや 大体、伊藤博文の産まれた百姓の林家は、
>>林十蔵は、わずか5段の田と2段の畑と山林6段しか所有していませんでした。
>>当時はその2倍の土地がないと最低限の生活ができなかったため、他家の小作などもしていました。
こんな貧農が養子に行った先が足軽だろが。
庄屋舐めすぎだ しかも足軽以下は口入れ屋からの斡旋が大半
こんな手配師経由の身分を由緒ある豪農庄屋の次男三男が、就職先として買っただ?
嘘も大概にしろ。
>>口入れ屋から雇い入れるということが行われていた。多くは百姓の次男以下などが奉公したが
百姓とかいてあればみな庄屋となんのか?
手配師経由なんて任侠経由だぞ。
伊藤博文のような貧農の口べらしさき程度の身分だろが。
貧農と庄屋を一緒にするな 原嘉道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%98%89%E9%81%93
1867年3月23日信濃国高井郡小山村(現在の長野県須坂市小山)に原茂作の長男として生まれる。
父は旧須坂藩の足軽小頭を務めたが、もともとは原虎胤の末裔を称する庄屋格の農家の出である。
明治維新で秩禄処分後も、農家だったのでさほど生活苦を味わわずに済んだ。 糞テレビでも、毎回
【百姓は貧困にあえぎ、武士から徹底統制されて苦汁を飲む生活を強いられた】
【武士は絶対!】
みたいな表記で毎回百姓は差別されていたみたいな現代の日差別としてテレビで扱われてるが、
百姓は小作人から庄屋まで全部ふくまろており、
武士も将軍から足軽までイッショクタに表記されており
いつ庄屋ご下級武士ごときには非道な扱いうけた?
下級武士ごとき舐めてたら、単体なら即潰したるっちゅーねん >>311
なんだその庄屋格とは?
庄屋ちゃうやんけ。
格なんて曖昧さが庄屋には絶対的になれない家と証明さしてるようなもん 天野八郎
>>上野国甘楽郡磐戸村の名主大井田吉五郎忠恕の次男。
>>幼少時から学問や武道を修め、直心影流を学ぶ。1865年、与力の広浜喜之進の養子とな うーむ、でも先祖が足軽て云われたら嫌だな・・・最下級でもいいから馬上か田舎の
旧家がいいかな >>289
この人みたいに、「藩が地域一帯を支配していた」と思いこんでるやつが多いのかねえ。
薩摩や長州や紀の国や尾張なんかはそうだろうし、関東は幕府の直轄地だから、
そうだったのかも知れんけど。
藩=ひとかたまりの地域の支配者で地主であると思い込んでるやつ多そうだな。 >>320
そやねん、ほんま、馬鹿だから藩が土地の所有者みたいにおもっとるやつ多すぎんねんまじ 恐らく江戸時代に昔はうちもその辺の武士よりも名門の武家であったと言っていたんだろうな。
そのへんの不満のガス抜きが「庄屋」なわけで、庄屋は農民と笑う輩は江戸幕府よりもデリカシーが無い >>298普通城下住まい以外、つまり農村居住の武士は郷士と呼ぶんだが・・・
黒田家は郷士制度ないのかね?
先祖が郷士なら結構かっこいい感じに聞こえるけど 除籍で幕末まで、檀家寺の過去帳も家事のため幕末まで。
もう手詰まり? >>325黙れ!小作人
>>326小作人なら手詰まりかな。庄屋・組頭なら郷土史調べれば出てくるでしょ 庄屋なんて雑魚じゃん。
落ちぶれて庄屋になるんだから。 ド田舎で、郷土資料も満足に無いのよ。と言うか、あるけどメインが大正から昭和なのよ・・・それも大火が原因みたいだが。
墓も個人墓は潰されて家族で一つになっとるし・・・ それじゃどうにもならんな。
庄屋でも名家と呼ばれる家なら角川書店だったかな?出ている県別歴史人物事典で苗字を
見てみるといいよ。大体は網羅されてると思う https://r.nikkei.com/article/DGXNASHC1701M_X10C14A4AA1P00
南朝、後醍醐天皇の皇居はここ、堀家住宅だが、
この堀家は勿論南朝時代から南朝方の有力土豪
江戸時代はこんなレベルでも郷士庄屋。
庄屋層はこんな由緒正しき家系だらけだよな。
江戸の武士層は先代の成り上がり先代の出自すら分からない雑多の野良犬レベルだらけなのに、、 >>334
後醍醐天皇の崩御後に即位した後村上天皇の時代に行宮となった賀名生の土豪が、そこを訪れたこともないはずの後醍醐天皇から与えられたのですか。
と思ったけど、京都を脱した直後の後醍醐天皇が吉野に向かう前に数日ばかり滞在してたのか
しかし。
>賀名生には、足利尊氏に京を追われた後醍醐天皇が一時滞在。
ダウトですね、尊氏は後醍醐帝を京都から逃がすつもりはなかったのに脱走して京を離れたのですよ。
後醍醐帝が尊氏に京を逐われたという事実はありません。 後醍醐はいずれにしても、
南朝方の当時の有力武家であった家が、江戸時代 は郷士庄屋だ
このクラスが主流なのが庄屋層
かたや江戸武士層はまじ秀吉のような人足レベルが出自の主流
ほんと江戸の武士層は糞レベル >>334
後村上帝が南朝の御所にしていたのは明白となっとりますがなにか? その部分に対する異論は書き込んでないけど、どういう反論なの? 天皇の御所に使われたクラスの格式の室町初期の豪族の武家レベルが江戸時代の庄屋層と言いたいんだろ >>333いや。本の題名とは違って「家」が基本でその中の有名な当主や一族のものが掲載
されているが、各県で編集方針が異なるらしく詳細に載っている県もあれば同姓の郷土史に登場する人物を軽く説明しているだけの県もある。 落ちぶれた結果、武士の身分から転落して庄屋になったのに、何か勘違いしてる馬鹿がずっと住み着いてる。 主人運が悪過ぎたわが家
今川→村上→武田→北条と・・・どうしろと。
以後、天領で新田開発して庄屋になるも身分は農らしいが代官文書とかだと郷士
とあるみたいだけども 家主義の時代に血統は二の次三の次。
ヤマト王権の大王も黎明期は血統関係なかったはず 村上の前に今川ってとこ、ちょっと変わってるな?
他の時と違って大きく移動しないと成立しないし。 >>345そそ。
今川が滅びた後に一族が四散して北条家に行ったのもいるんだけど信濃に逃げたのが
村上に仕えたらしい。ただ、実際は武田の影響下にあって信濃侵攻の先鋒じゃないかと
いわれてる(地元郷土史家談) ええ?
信濃の村上が信濃を逐われて越後に行った後で今川滅亡だった気がするけど……(←気がする、気がする、気がする >>347なにか間違ってるかもしれんスマン。
同姓の一族が結構いて四散して別々の行動が一緒になってしまってるのか
自分のなにか勘違いかもしれん 滅亡と書いたのが悪かったのか。桶狭間の後の影響力低下か・・・それでも時系列あわないね
(村上)→武田→北条→庄屋多数 (今川からの発給文書は持っていない、
村上も地域の伝承があるだけ、武田北条家発給文書あり)
今川→北条→徳川家臣数家 (今川北条徳川発給文書あり)
と二手にわかれていて
各家の系図を合わせたりして、たぶん自分の勘違いが入ってる
間違いがあれば史家が何か言うはずだから。。 あと、もう一系統あった
今川→北条 一緒に狭山についていったが何故か家臣ではなく庄屋になった家 関ヶ原他、合戦で破れた家の家臣だった人は、それまでの褒美やらで土地を買って豪農に
なったのがいるらしい。
勘兵衛で、蓄えを配ってる場面があるが、戦国武士の家臣はただで仕えていたわけじゃない。 通常は自分の領地に帰農というか武士身分を認められず庄屋として帰農するがな 351
合戦で負け、主家がDNAレベルで消える家も多数いるなかで、
褒美をもらっているとか、
また、戦国時代の土地の売買が主流ではない時代の売買豪農とやらの実例教えてくれないか?
私は聞いたことすらない。
当時、そもそも室町から続く守護大名に連なりし家臣は、在郷の地侍や土豪の寄親寄子制度
そもそもが土地を大地主だし、
また別の土地に移されても開墾開発地主になって庄屋がほとんどだろ 351
合戦で負け、主家がDNAレベルで消える家も多数いるなかで、
褒美をもらっているとか、
また、戦国時代の土地の売買が主流ではない時代の売買豪農とやらの実例教えてくれないか?
私は聞いたことすらない。
当時、そもそも室町から続く守護大名に連なりし家臣は、在郷の地侍や土豪の寄親寄子制度
そもそもが土地を大地主だし、
また別の土地に移されても開墾開発地主になって庄屋がほとんどだろ たぶん、土地を買ったんではなく、その金で荒地を開拓したんでは?
土豪開発新田とか?
あちこちに元武士が刀を捨てて新田開発をした話は結構残ってるが
大体金の出所経緯は不明なのが多い 落ちぶれた奴らのどうでも良い話は辞めろ
つまんねーよ
落ちぶれ自慢でもしたいのか 室町幕府の滅亡後は守護もなにもないが一応
上杉家、結城家、京極家、和泉細川家、小笠原家、島津家、
佐竹家、宗家,伊達家、毛利家
てか自分でググれ 父方母方直系傍系関わらずとにかく調べまくったけど、明治以前に生まれた女性で名前に漢字が含まれる人が見事に一人もいなかった。
男は平凡な名前でも漢字だから親がどんな思いを込めたかは何となくわかる。ただ、女性の名前は何考えてつけたのか分からん物が多い。
イト、キヌ、きり、とち、まき等・・・身の回りで美しいもの、健やかに育つイメージの植物など。なんとなく想像がつく。
いきの、ユキノ、きう、きやう・・・まず語感から何も連想できない。漢字がないから推測も出来ない。
昔の人は何をもとに女の子の名前つけたんだろ。
あと、見事に漢字がゼロだけど、一般人は漢字使うなみたいなルールや風潮あったの? >>357
関ケ原時点では弱小大名だが、赤松や山名もいる 関東は本当にロマンあったよな
戦国末期ですら、頂点が後北条家というだけで、
在郷は平安からの関東武士団たる開発領主がひしめき合って封建社会を完全に維持できていた。
本当の意味の武士社会が存在していたよ。
しかし、豊臣秀吉の関東征伐により、その秩序は完全に崩壊してしまった。
関東には千葉氏やら秩父氏やら成田氏やら、徳川が認めし超名門とされた関東八屋形衆レベルがことごとくDNAレベルで滅ぼされた。
本当に成り上がりは酷すぎる 関東では、秀吉の関東征伐の時、
平安からの関東武士団が混成する鉢形衆やら、秩父衆、八王子衆、関東北面武士団やら、
関東の広大な板東勢力ですら、どこの在方兵力は500〜多くて3000なのに、
秀吉は
鉢形衆には1300に対し25000、
八王子城には1500に対し30000
関東北面武士団の一つ、忍城には500に対し20000、
など、
関東勢力は少数だが生粋の名門武士団に対し、
秀吉軍団は本当に人数かき集めの、糞みたいな成り上がりの出自不肖の馬の骨集団だからな
こんなやつらに関東の歴史が崩壊させられたと考えるだけで、怒りが込み上げてくるわ
こんな輩が江戸武士だからな 郷土史に記録がない家は探せないし探せても名前だけとか意味ないっしょ
庄屋や大百姓ぐらいなら戦国武将となんとか繋がるか、繋げられるけどね >>364
探さなきゃわからない、イコール直系でも近親分家ですらない家だろ
単なる遡りまくったDNAレベルの繋りなんて、歴史的になんの価値もない
そんなの遡りゃ皆兄弟だわ近所なんて。
遡って他人の家なんかに根拠求めてもなあ
江戸時代、旗本や御家人層に伊賀や甲賀衆が多くおり、
多くは次男や三男、分家が武士となって、
その本家は地元伊賀での貧農層が多く、
江戸初期、幕府に本家が同じく上京して幕臣に加えることを嘆願するが一切受け入れられなかった
DNAが直系の繋がりあっても、家が別離ならもはや他人
それをDNAですら直系でない家まで遡って、なにがしたいのと思う 先祖に松代藩士がいる身としては、どこかで真田家と繋がっていないかなと微かな
望みを持つがな・・・ 藩士は藩士
藩主と簡単につながらない
平社員が社長の親族なんてケースはそうそうないだろ? >>368 それはどうか。藤原氏とはユダヤ人で、郷を形成していたガド族だった。いわば、御車寄せ。藩主はよくわからん。城主。旗本。 ファミリーヒストリー
志村けんの総本家、歴史がある割によくわからんのだな。言い伝えとかのこらんもんかな?
唯、16世紀ごろ名主を務める家は強力なバックボーンが必要とのこと、まあ豪族であったと
この辺は2chの総意と同じだが、少し繋げるのは無理があるような気もするな
>>372
志村けんの総本家とやらは名主だったの? ありがとう。
で、その名主の本家は何がよくわからないといってたんですか?
それから、16世紀の名主は強力なバックボンが必要だとナレーションあったんですか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています