先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
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純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。
先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る
前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/ >>364
探さなきゃわからない、イコール直系でも近親分家ですらない家だろ
単なる遡りまくったDNAレベルの繋りなんて、歴史的になんの価値もない
そんなの遡りゃ皆兄弟だわ近所なんて。
遡って他人の家なんかに根拠求めてもなあ
江戸時代、旗本や御家人層に伊賀や甲賀衆が多くおり、
多くは次男や三男、分家が武士となって、
その本家は地元伊賀での貧農層が多く、
江戸初期、幕府に本家が同じく上京して幕臣に加えることを嘆願するが一切受け入れられなかった
DNAが直系の繋がりあっても、家が別離ならもはや他人
それをDNAですら直系でない家まで遡って、なにがしたいのと思う 先祖に松代藩士がいる身としては、どこかで真田家と繋がっていないかなと微かな
望みを持つがな・・・ 藩士は藩士
藩主と簡単につながらない
平社員が社長の親族なんてケースはそうそうないだろ? >>368 それはどうか。藤原氏とはユダヤ人で、郷を形成していたガド族だった。いわば、御車寄せ。藩主はよくわからん。城主。旗本。 ファミリーヒストリー
志村けんの総本家、歴史がある割によくわからんのだな。言い伝えとかのこらんもんかな?
唯、16世紀ごろ名主を務める家は強力なバックボーンが必要とのこと、まあ豪族であったと
この辺は2chの総意と同じだが、少し繋げるのは無理があるような気もするな
>>372
志村けんの総本家とやらは名主だったの? ありがとう。
で、その名主の本家は何がよくわからないといってたんですか?
それから、16世紀の名主は強力なバックボンが必要だとナレーションあったんですか? 天正壬午起請文に志村姓の武士がいる→彼らは甲州街道の警備のため八王子に移り住んだと→そこから東村山近く(本家ってどこだっけ?)に一族に者が越してきた可能性が高い→当時名主を務めた事が傍証→というのは16世紀の名主は強力な力が無ければできないと by平山優
総本家には特にその辺の話は伝わっていないみたい二十数代目とかだからもっと前からいた土着の豪族な気がするけど・・・名前だけ伝わっているのか土着してからの代数
だかは言っていないから分かんない それと同時に後北条氏の遺臣にも志村姓の武士がいたと番組では言ってたな また落ちぶれかよ。
もうそんな話はいいわ。
好き好んで落ちぶれる奴なんていないんだから。
庄屋とか名主とかは腹一杯。 東京をルーツとする志村氏は、武蔵の名族豊嶋氏の一族で、武蔵国豊島郡志村郷(東京都板橋区)
を本拠とする鎌倉武士の出身。戦国時代には早くから北条氏の家臣となっていた wiki
こっちの可能性の方が高い気がするけどNHKはなぜ武田と繋げたがるのだろうか?
昔、志村という地名も存在したらしいのに
田舎の名族で家系図を持たない家が結構あって(過去帳はある)何故かと思ったが
明らかすぎて書く意味がないみたい。
志村家も土着の豪族で当たり前すぎて書き記さなかったんじゃないの? 武田の遺臣にも志村姓の武士が多くいたからじゃないの? つか、武蔵中部とかの旧族って少なからず武田家に仕えてたりするしなあ
武田領に入ったわけでもないのにさ
けっこう移動が多かったのかね >>379
>田舎の名族で家系図を持たない家が結構あって(過去帳はある)何故かと思ったが
>明らかすぎて書く意味がないみたい。
そんなことは無い。
家系図が無いというのは、その程度って事。
名族と言うのも詐称だろう。 別に同じ名字っていうだけで、無理やり感を感じるよな ある本家が庄屋で分家が旗本の家では旗本は当然家系図はあるが本家の方に聞いたら家系図は無いとのこと。
分家が仕官のため持ち出したのかもしれんが・・・
また、庄屋が苗字帯刀の許しを得るさい必要とされると言われるが、苗字帯刀を許されたある家の本を
読んでいたら昭和初期に古文書から名前を逐一調べて家系図を作ったと(南北朝から昭和まで)
まあ本当の本当の名族は明らかに天皇から連なる系譜は存在してるだろうけど
田舎の名族じゃ途中で記録が消えてたり、訳わかんなくなってるだろ 名族を詐称してる奴が多いから、そういう話は信用出来ない。 もしかしてコ川家も冷泉家も名門じゃないと言ってしまう人?? >>384
田舎の名門じゃなくとも、
江戸の大名家ですら九割自称なんだが。
徳川はあまりに酷すぎる大名家の面々の出自に、
寛政諸家系図伝を編纂して、
林羅山に各大名家から自称でいいからと家系図提出させてるんだが?
信憑性は一切問わないという幕府のお墨付きで家系図提出させた幕府の悩みの種が、大名家の面々の酷すぎる出自
だから高家も創設。 江戸の近世大名家が出自が酷すぎるのは、
江戸初期の学者兼藩主だった鳥取藩主の池田家が、きちんと文献で残してるからな。
>>鳥取池田家の5代藩主で学者の池田定常は「今の武家は民間よりあらわれて大名になった者が多いのでその多くの大名家の先祖はよくわからないと記してい
江戸の大名家自体が庶民の底辺たる労働者階級の出だらけ。
そこに仕えた藩士なんて、もはや目も当てられたレベルじゃない出自
話にならんわまじ 江戸の武士こそ、江戸の底辺階層と血統的親和性が実はあるという だからと言って落ちぶれた庄屋が名族ってことはない。
落ちぶれてから、家系が劣化してるから。
百姓同士で血縁結んだりでな。 逆に江戸大名は、江戸時代を通じて家系が良くなり、江戸末期には名族と呼ばれてもおかしくなくなった。 一夫多妻も側室も無い一般人の場合、子どもの数ってどれくらいが限界だろう?
大正生まれのうちの祖母は11人兄弟で、母親は二十歳から40半ばまでずっと妊娠か授乳期だったようだけど、よっぽど体力無いと無理だよな?
男は相手さえいればいくらでも作れるが。 子どもが生まれたら乳母を雇って自分では授乳しないようにすると次の子を妊娠するまでの期間が短くなる
庶民から程遠い例だが、マリアテレジアは16人の子を産んだらしい
世界記録はたしか19人だったか。
この人の場合は双子三つ子と多産子が多かったらしいが。 >>392そりゃなんとも…
農民だって階層化してるから土豪だった家と水飲み百姓が通婚するとは思えない >>395
世界記録は60超えてるよ。もちろん父親は同じじゃない。
同一両親の多産記録ってどれくらいが限界だろうか。 >>396
所詮は農民内での序列にすぎない
落ちぶれてから加速度的に家系が劣化したと言わざるを得ない
江戸大名は大名同士や公家から嫁をもらうとかしてるから、
江戸期を通じて家系が良質化されてる
比べ物にならないよ >>398
小作人や下級武士の子孫はそう思いたいのだろうけど現実として少し前の
世代までは華族や旧庄屋との婚姻は別格の扱いだろ >少し前の世代までは華族や旧庄屋との婚姻は別格の扱い
華族は別格だろうけど、旧庄屋の場合、庄屋だからとかじゃなくて、財力を活かして学歴を手に入れて、
官僚とか学者とか多額納税の貴族院議員とか衆議院議員とかを出した場合に別格になったんじゃないか。
そうじゃない、ただの旧庄屋でも別格? 戦前の総理大臣はほぼ公家と武家出身者で占められてる。
庄屋の生まれは犬養毅のみ。
例外は寺族の清浦奎吾と生家が貧農の広田弘毅ぐらいか。
戦後になると急に豪農生まれの総理大臣が増え始める。 庄屋=農民であり、まったく大した事ない
これが結論 戦後は旧庄屋出身の総理や政治家多そうだな。戦前は藩閥のせいなのかね? >>400
40年ぐらい前かな。上場している企業の成り上がり創業社長が息子の嫁に旧庄屋の家の娘が欲しくて、つてをたどりかつて疎開していた地方の旧庄屋の娘を貰ったという話があった。そこまでするもんかね?と今でも思うけども 嘘だな。
紀州の田舎から成り上がった松下幸之助が娘婿に欲したのは、公家の血統。
庄屋なんて相手にもしなかった。
庄屋は百姓だよ。
高貴な血統ではない。
そこら辺にゴロゴロいる。 俺の曾祖父は、某外様大名の家臣だったが次男坊だったので、嫁は庄屋の娘。
曾祖父の兄で長男は、ちゃんと武家の娘をもらってる。 商売の家は公家は嫌がるって聞いたことがあるけどな理由はたかられるからと なんか足軽の子孫が庄屋にひがんでるのかしらんが、
現皇族には例外の大和田を除けば、
旧大名家と旧公卿、大宮司家、旧庄屋しかいないんだよ笑
糞下級武士のような類いまれなる貧困な出自不詳の底辺出身なんて一切いないわけだが。 また、庄屋基地外が出たな
庄屋なんて下層なんだよ いつになったら解るんだ
だから百姓は駄目なんだ ずっとマニアックな少人数が盛り上がってる感じだけど、普通に昔の戸籍制度や一般人の生活について質問するのはOK? 大正ごろ、養子に出した子を死亡したと届け出る場合ってあった?
どうも辻褄が合わないことがあります。
まず、うちの祖父は戸籍上は次男。実家の仏壇&除籍謄本によると、子どもの頃に死んだ兄がいます。
しかし、親父いわく、養子に行った兄がいて、子どもの頃に祖父と一緒に葬式に出たとのこと。親父の兄弟もその葬式のことを覚えていた。ただ、小さい頃だから名前や年齢はわからない。
祖父の兄弟にきいてみたら、「そんな人知らんなぁ」
謎が多すぎて意味がわからない。
仮説を立ててみた。
@特別な事情があり、実質長男である祖父以外には、兄に存在が知らされていなかった?
→でも、そんな秘密の存在の人の葬式に、祖父はわざわざ子ども連れていくだろうか?
また、兄弟たちに隠し続けるのは可能だろうか?
A戸籍上は大正10年に死んだことになっている長男が実は生きていて、養子に行った日を死亡日として届けているのではないか。
Bよく見ると、曾祖父母の結構の届け出は祖父の出生届と同時に出ており、それまで兄と姉は無戸籍だったみたい。その間に養子に行った兄も生まれていた可能性。
→でも、何故祖父の兄弟は知らない?
皆さんはどう思われますか?
あと、昔は無国籍児ってよくいたの?長姉は8歳まで無国籍だったみたいだけど、生活できんのかな? 明治天皇 :昭憲皇太后 一条家
大正天皇 :貞明皇后 九条家
昭和天皇 :香淳皇后 久邇宮
今上天皇 :美智子皇后 正田家(←名主)
こうみると上級武士の家ぐらいから貰ってもよかったのにね。
ただ、当時それなりの生活をできる旧上級武士の家柄となると数が限られたのかな? 昭憲皇太后は熊本藩主・細川斉茲の孫
香淳皇后は薩摩藩主・島津忠義の孫 皇族も
皆
旧会津松平家、出雲大宮司家、徳川家、津軽家、鳥取家そして麻生庄屋家と、
大名家と大宮司家、財閥家、そして庄屋しかいない。
なぜ、いつから庄屋は底辺なんだか聞きたいわ
旧大名家の成り上がりが江戸期を通じて、例え蜂須賀や藤堂レベルの底辺の出でも貴族化していったのは認める
だが、糞下級武士と称するリアルな最底辺出自風情の奴隷職ごときに庄屋の格式が色褪せることなど絶対ないから。
それは明治以降のあらゆる角度から立証できるわけだ、こうやって。
旧名門庄屋は旧大名家には劣るとも、準ずる地位と名誉と財力と特権とを歴史的結果が実証している >>415
女系入れだしたらマジで百姓とかでてくるんじゃない? そもそも天皇には蜂須賀や秀吉系の血もふんだんに交じってるのに、何を今さら >>412
祖父の兄に、もうひとり庶子がいたんじゃないか? >>421
それが戸籍に全く載らないってありえる?ありえたとして、養父の戸籍には実子として載ってしまうの?
そもそも、二人いる祖父の兄弟がその人の存在を全く知らないのも不自然だし・・・秘密を貫いたんだとしても、じゃぁなぜ兄弟には頑なに秘密にしたのに我が子には全く隠してなかったのかと言う不思議さもあり・・・ >>422
庶子だと戸籍の載り方はさまざま
養家の実子になったり、母方の実家の戸籍に入れられたりすることもあったようだよ
あなたの祖父の兄弟が知らないのは、曾祖父が曾祖母の手前もあり、あまりおおっぴらにできず、秘密にしていたと考えられる
祖父だけは実質長男だったから曾祖父から聞かされていたんじゃないかな 続き
祖父の兄、姉の例を見ても分かるように、かつては届出の仕方でどうとでもなった
祖父の兄、姉も不自然さがあるし、こちらも出生の事情に秘密があるかもね >>423
届け出次第で養子が実子にもなったのか・・祖父たちとは母親が違うか、同じだったとしたら曾祖母の実家の戸籍に載ってる可能性もあるのかな。
曾祖父は本家の長男なのに遠方に就職した身だから子どもが出来てからも結婚の届け出に時間を要したのは何となくわかるが、もう当時を知る人は誰もいないから確かめようがないなぁ・・・
ちなみに、8歳まで無国籍なら学校も行けないだろうけど、大正時代に入ってもそんな人いっぱいいたのかな!? その、謎の兄を探る方法って戸籍に載ってない以上はどうしようもないよね!? >>425
曾祖父夫婦と祖父の兄・姉って年齢構成的に問題なさそう?
戸籍って除籍謄本のことだよね?
誰のまで入手してる? >>427
曾祖父が28歳、30歳の時だから違和感は無いかなぁ。
除籍は、父、祖父、曾祖父転籍分も全て、曾祖父の弟(高祖母が載っているので)、高祖父、までですね。 祖父ではなく祖母の兄だったりして(親父さんの勘違い) >>427
あ、書き忘れてたけど、曾祖母は曾祖父より8つ下だから、二十歳と22で祖父の姉と兄を生んでる。
>>430
なるほど、その可能性あるか。
ただ、葬式には祖父と親父しか出てないから、祖母方の親戚である可能性は低いんです・・・ そのうちの誰かが双子だったりしない?
双子の片方を殺す風習の土地だと
殺すのに忍びない場合、死んだ事にして養子に出すケースが割と多かったらしいよ とりま父方の男系だけでなく祖母方や曾祖母方の女系の除籍謄本を取りまくるべき >>432
双子はいないなぁ。
子どもが生まれても何年も無届けってのも何か背景あるのかな?
実は他にも謎があって、何年も無届けだった二人が、戸籍と過去帳で年齢も感じも違うんだよね・・・
まぁ、女性はひらがなとカタカナの違い、男性は仁と二の違いだけだから同一人物とは分かるんだけど。
>>433
そうしてみるか。
曾祖母の田舎と、その息子の嫁である祖母の田舎が完全に同じだから、窓口で怪しまれそうだ・・・ 未婚のまま子が生まれ、母親の戸籍に入籍したものの、数年後結婚したとしたら戸籍にはどう表記されるんだろう?やっぱり「○○より入籍」は書かれるのかな?
上記の無届け二人だけど出生地と「□□の子、父△△認知届け出 大正七年○月×日受付」とだけ書いてある。
先に曾祖母の戸籍で小さい頃に登録されてる可能性あり?
何かめっちゃ気になって仕方なくなってきたわw 曾祖父夫婦の婚姻届けの遅さから、なかなか入籍できない事情があったものと推測される
(両家あるいはいずれかの実家に反対されたとか)
そうであれば、養育にも不安があるわけで、最初の子が里子に出されていても不思議ではない
曾祖父母や祖父母がやりとりしていた年賀状とか、住所録とか、アルバムとか残ってないのかね >>436
曾祖母は離島の漁師の長男だが、当時最先端の紡績工場で働くため関西へ。斜め向かいに住んでいたのが曾祖母の兄。曾祖母も住んでいたかは明確じゃない。結婚しにくかったのはよく分かる。
二人とも亡くなってだいぶ経つし、家は建て替えたし、祖父母は断捨離名人だったしで、親戚中に散逸した写真数枚しか祖父母を知る手がかりはないなぁ・・・ >>434役所が遠いと後で用があるときにまとめてということはあったらしいけど >>417
落ちぶれて庄屋になった時点で、農民階級となり、下層となった。
それは歴史的事実だよ。
事実から目を背けるなよ。 戸籍謄本が親が盛った程厚く無かった(´・ω・`) 言ってた通りの事は載ってたが(´・ω・`) >>392
百姓どうしとか言うが、普通は近隣の村の庄屋とだな
一般の村民とは結婚しない
村人は村人と。庄屋は庄屋と。階層に分かれてるよ、現代だと知らんけど。 >>439
士農工商と呼ばれる身分制度というのは後代の捏造でデタラメだよ
たとえば、農民と商人の間に身分の差は全く存在しなかったしな
儒教の中にあった適当な言葉を使って過去の制度を悪くいうための言葉にすぎないんだよ 少なくとも、江戸時代の制度として庄屋および町庄屋と一般農民の間にも身分差を設定されてはいた
町庄屋>(≒)農村の庄屋>>庶民
だったらしい >>440
謄本って厚いからステータス高いわけじゃないのでは?
次男や三男で分家繰り返したり、結婚離婚繰り返したりしたらめちゃ増えるよ?
蓮舫なんか16ページくらいあっただろw 消えた養子の大叔父について書いてたものです。
気になって祖父方の曾祖母と、祖母の除籍を取ってきました。
結果、曾祖母に婚前の出産歴は無く、祖父から見た兄貴は存在せず。
念のため確認した祖母の兄弟も、親から聞いていた以外はいないし、養子になった人もいなかった。
可能性として残るのは、曾祖父に庶子がいて、母親の戸籍に入ってたパターン。これはもう他人の戸籍だから探しようがない。
それか、死んだことにされている兄貴が養子に行ったと言う珍説が本当か。
そして、偶然奇妙な出来事に気づいた。祖父方の曾祖母と祖母、つまり姑と嫁にあたる二家の先祖を辿った訳だけど、曾祖母の祖父の家から養子で他家に出たのが祖母の祖父だった。
つまり嫁と姑とが従兄弟関係で、俺の祖母はいとこの息子と結婚したことになる。しかも、そんな関係で祖父の方が遥かに歳上と言うややこしさ。
たぶん本人も知らなかったっぽい。
昔は狭い地域で近親婚繰り返してたのかな。
疑問は晴れなかったけど新たな発見があったわ。 てか封建制って事細かに身分が細分化されて秩序だっていたわけで庄屋と庶民の間なんて殿様と下級家臣ぐらいの差はあるだろ >>448
見合いで初めて会ったみたいよ。養子縁組だらけで、血縁上はいとこでも他人だわ。
ちなみに、無戸籍児と思ってた兄弟二人は曾祖母の実家の籍に父親空欄で載ってたわ。
あとから認知してうちの戸籍に入ったから、転籍や入籍でなく新規になってたようだ。
でも、結局養子に出た兄貴は分からずじまい。 うち完全に農家だと思ってたら除籍の名前が右衛門だらけだ。
あんま名前は関係ないのかな? それとも農家ではなく、特殊な職の家だったとか、
ちゃんと調べてみて、よくわからない職業があったりしない? いや、正直職業は調べようがない。
ただ、地域が江戸時代から続くみかん山のど真ん中だから勝手に判断。
農家で衛門はやっぱり特殊? うちの先祖は○兵衛が多かった
明治になると途端に現代風の名前ばかり >>442
デタラメだという証明をしなさい
君の妄想にしか思えない
百姓の子孫だから、庄屋を持ち上げているだけにしか見えないよ >>450
もと庄屋な感じがする
大夫成り とかの感じの名前だ。 >>456
証明って、すでに複数の成書が出回ってるが。通史の一部として そんな程度で江戸時代の身分制度全部を否定できるはずがない。 >>457
元ってのは何故?
大夫成がよくわからない...
ちなみに、地名で検索しても、明治以降の歴史しか出てこないド田舎ですw 農家でも何でも良いけど、
むかーしから住んでいたという意味でしょ >>460
庄屋という地位、職務は江戸時代のもので明治には公式の地位ではないから、元としか言いようがないってだけ 除籍見てたらさ、明治11年当時に18歳の男と12歳の女の間に子どもが出来てんの。
何回も見直したけど、養子でも無いし年齢も間違いない。
こんなことってありえる!? しかも沢山子ども生んだから孫より年下の子がいるwww
変な話、高2と小5が交わったわけか。ありえるかなぁ・・・ 連投すみません。
意味不明なことが記載されてる。
名前はボカしてるけど、ちょっと見てください。
戸主:□川○次郎 の戸籍。
母ちの、長男、二男○松、長女、三男、婦、孫3人が記載されている。
妻が居ない。子どもたちにも母親の記載がない。
続いて、二男○松が他家に養子に出て戸主になった戸籍を確認。
父:亡○次郎
母:亡ちの
とある。
想像したくは無いけど、○次郎さんは実母と4人も子ども作ったってこと!?
ただ、年齢考えると、長男生んだ時が○次郎27歳、ちの52歳、末っ子を生んだ時で○次郎36歳、ちの61歳だからまずありえないと思うんだけど・・・
何か背景わかりそうな方いませんか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています