先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
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純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。
先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る
前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/ >>477
さすがにそれは無理
土地台帳は今でいう土地登記簿のこと
一筆ごとに土地の所有者とかが記載されてるやつ
分筆や合筆、売買や相続なんかで所有者が変われば登記されるんで
遡っていけば元の所有者がわかるけど、せいぜい明治20年代くらいまでだったはず とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
PNM >>473
制度としては、S27年?の法律からじゃないかな。
それ以前は、戸籍=住民票だったはず。
だから、「赤紙」はすべて本籍に送られた。
地方出身者で都会に出て仕事をしている次男三男等は、急いで連絡しないといけなかった。
次男が結婚すると、新しく戸籍を作ったはず。
国勢調査は、「本籍」と「現住地」で県別の人口なんかの統計を出したんだと思う。
両方がのってるのを見たことがある。
あくまでも「寄留地」ってことで、今の住民票とは違うね。
なんで2つに分けたんだろうなあ。
それと、「戸籍」は東アジアだけらしいが、それにしても住民票と戸籍に相当する
ものは必須だから、なんらかの仕組みがあるんだろうけど。 >>466
庶子だけど、父の戸籍に入れた(母を妻に出来ない事情があった)
次男の戸籍は間違って書いてる。
こんなのが考えられる。 >>471
明治民法、徴兵制、が出来たり確立するまでは、わりといい加減だったみたいだね。
江戸時代はそんなものは必要なかったから。6年に一度の宗門人別帳くらいで。
誰が誰の子供であるかなんて、本人たちがわかっていればいいし、幕府なんて全く
関係ないし、藩も関係ない。
軍人は武士だから、庶民には無縁。
重要だったのは、年貢だけ。明治になって地租改正したけど。
二十歳で徴兵検査ってあたりから、きっちり届けるようになったんじゃないかな。
学校は、明治の大合併のあたりで、「村」に一つ作るけど、そのころでも誰と誰が
同じ年に産まれたって把握出来るくらいの範囲だった。
戸籍を見て就学通知を出すとかやりはじめたのはいつ頃だろう? >>483
徴兵制のために戸籍制を整えたと言われてるぐらいで徴兵は早くから確立されてるけど?
明治一桁年代から徴兵検査してるじゃん >>484
西南戦争は士族の反乱だが、徴兵制=士族の否定だと、多くの反対にあった。
明治一桁で「すべての20歳の男」を徴兵していたか? 明治初期は徴兵検査の合格率が数パーセントしかなくて大半が不合格だったからな
検査受けた人の二十人に一人ぐらいしか合格してなかったはず
たしか合格者の全員が徴兵されたわけでもなかったはずだし(?) 平城帝嵯峨帝の大同時代に由緒ある家だけど、百済とか新羅とかいうクソ喰い半島渡来系じゃないよ(^^) 土地台帳って、制度ができた以前の土地所有者は記載されない? そりゃそうだろ
それ以前なら検地帳に類するものを探すしかないんじゃねえの >>487
そんな由緒ある家が
レイシストやってるなんてみっともない 色川高志(葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)の挑発
色川高志「関東連合文句があったらいつでも俺を金属バットで殴り殺しに来やがれっ!! 関東連合の糞野郎どもは俺様がぶちのめしてやるぜっ!!
賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! 糞バエ関東連合どもっ!! 待ってるぜっ!!」 (挑戦状) 昔庄屋の旧家あたりだど菩提寺過去帳で一発で分かるだろ。
まぁ、大抵の日本人は苗字で鎌倉の武士先祖がわかると言えばそれまで。 うちは菩提寺が1860年に全焼してて、それ以前は皆無。住職に聞いたし、その火事は郷土史に載ってるから間違いない。
法務局に土地台帳を郵送で請求したんだけど、返事は何日くらいで来るもんなの? 土地台帳見てみた。
高祖父の名前が書いてあるだけで、沿革は何もなし。曾祖父が相続した後の事も何も書いてなかった。
宅地になる前は耕地で登録されてるんだけど、家がそこには無かったということなのかな?
あと、耕地を所有ってことは身分は農民確定? >>494
百姓=農民ではないよ。
武士と町民(城下町等に住む職人と商人等)以外は百姓だ。
時国家は百姓なんだぜw >>492
それがそうでもない。
うちは、その古い旧家で菩提寺もあるが、一族の誰かが調べ始めたけど諦めたらしい。
過去帳には、誰が親かは書いてないとかで、途中で辿れなくなった。
推測はできないことはないが、確実ではない。
宗門人別帳ならわかるらしいが、それが残ってるかどうかは不明。
江戸時代やそれ以前と思われる墓石があるが、古いやつはもう読めない。
そこそこ広いエリアがうちの一族の墓で、他の家の墓地との比較その他から判断するに
その地域の最も古い家の一つらしいこと、昔も有力者だったと思われること、戦国末期
の神社や寺の資料に出てくる名前が先祖らしいこと、それがわかる家でもそんなものだわ。
所謂「本家」ってやつは、大正か昭和に没落し、子孫も絶えて絶家になった。
近隣に戦国時代の小さな山城があるが、その城主一族は別の家だが、江戸時代は
百姓であり大きな地主だったと聞いている。どこどこまで他人の土地を踏まずに行けたとか。
うちの先祖にもそんな話が伝わっている。
多分、じいさんばあさんの代までは、それらのことはみんなが知っていたと思われる。
オレの親の代にはただの貧乏な農民だけどなw >>492
それがそうでもない。
うちは、その古い旧家で菩提寺もあるが、一族の誰かが調べ始めたけど諦めたらしい。
過去帳には、誰が親かは書いてないとかで、途中で辿れなくなった。
推測はできないことはないが、確実ではない。
宗門人別帳ならわかるらしいが、それが残ってるかどうかは不明。
江戸時代やそれ以前と思われる墓石があるが、古いやつはもう読めない。
そこそこ広いエリアがうちの一族の墓で、他の家の墓地との比較その他から判断するに
その地域の最も古い家の一つらしいこと、昔も有力者だったと思われること、戦国末期
の神社や寺の資料に出てくる名前が先祖らしいこと、それがわかる家でもそんなものだわ。
所謂「本家」ってやつは、大正か昭和に没落し、子孫も絶えて絶家になった。
近隣に戦国時代の小さな山城があるが、その城主一族は別の家だが、江戸時代は
百姓であり大きな地主だったと聞いている。どこどこまで他人の土地を踏まずに行けたとか。
うちの先祖にもそんな話が伝わっている。
多分、じいさんばあさんの代までは、それらのことはみんなが知っていたと思われる。
オレの親の代にはただの貧乏な農民だけどなw >>495
土地台帳、読めば読むほど謎だらけ。
まず、「○○村□浦550番地」が除籍謄本に載ってる地名。
現在は「■郡○×町□浦??番地(550は現存しない)」
上記ともに小字は存在せず。
しかし、土地台帳には小字の欄に「小浦駄場」と書いてある。現在、そんな地名は一切存在しない。これは何だろう。
あと、駄場という言葉に差別めいたものを感じるけど、勘違い?
また、土地台帳に記載された番地は「8番耕地550番地」となっている。住所や大字で○番耕地なんて存在するの?
また、もとは耕地で登録され、後に宅地になったけど、先祖は代々そこに住んでいたはず。住んでるのに耕地っありえる?
また、祖父が昭和32年にその土地を相続放棄した過去があるのに、台帳には高祖父の名しか載っていない。
更新せずにそのままってのはあり得るんだろうか? 相続人が所有者変更の登記をしなければ土地台帳はそのままだよ
変更登記し忘れや相続争いで変更登記できなかった結果、
所有者不明の土地がどんどん増えてて社会問題化しはじめてるとか >>466
襲名の可能性もある
○次郎を先祖代々受け継いでるとか 故人である親戚が家の由緒を調べて書き残してくれた冊子があるんだが
・先祖は美濃から江戸の商家に奉公に出てその店を継ぎ、黒田藩御用達となる。
・そこで岡田勢州公の家臣?の林氏の娘(1836年没)を娶っている。
と書かれていた。
だが林氏がどういう人物なのかどう調べたらいいか分からず詰んでる。
娘の没年から林氏はどの世代の岡田氏の家臣だったのかを調べようと思っているんだが、ネットには江戸中期〜後期の岡田氏の家臣一覧など見つからない。
もしあったとしても、林氏が下級武士なら載っていないだろうしな。
それどころか岡田氏自体あまり有名でもないのか江戸中期以降の岡田氏一覧も見つからない。
どうしたもんか・・・・ なんかさ
世代をどんどん遡ると先祖の数は膨大になって日本人誰でも高名な武家やら公家やらの血を引いていることになるって言ってる奴いるじゃん?
それ有り得ないと思うんだが
今でこそ先祖代々庶民家系の人と先祖が華族の人が結婚して子孫を残すなんてことは普通にありえるけど、それが可能になったのは精々明治から
それより昔は庶民は庶民、貴族は貴族で同じ身分家同士の婚姻がほとんどだっただろ?
だから明治以降に武家や公家家系の血が入っているでもない限り、代々名も無き庶民の家の奴は先祖巡っても百姓の血しか流れていないと思うんだよ
お前らどう思うよ でもな
富裕層の方が子孫が多いし、子孫なくて断絶するのはたいてい庶民(武士や貴族では、あるにはあるけど少数派)
その人数差の影響もあり、富裕層でも零落凋落して庶民同然になるヤツがどうしても出てくるんだよ
ただまあ、先祖を調べやすい庄屋層以上と違ってホントの一般庶民のトコまで降りてくることは少ないだろうけどさ >>502
昔は血が濃くなると元気な子が生まれにくくなると言われたのと血統への信仰(?)
からか中央から地方に派遣された役人(当然高貴な家の傍流だろ)に地元豪族の
娘を宛がったりして子孫を残した。その子が子供たくさん産めば次第に下へ下へ
高貴な血がと・・・ >>496
うちに近いかも。うちは墓の陰刻がまだ読めるので江戸初期まで遡れるが
戦国期小さな山城の城主で武田家に仕えていたが、その城主と繋がる系図はない。
近場の家では伝承の残ってる家もあるし系図のある家もあるが当然矛盾だらけで
近郊の同姓庄屋家が全て矛盾なく繋がることはない。
墓の大きさ戒名等から当時の有力者であったようで当然城主の子孫と思われるが
確証はない うちの本家の隣町の昔庄屋をやっていた家からうちの家系に関する明治時代に書かれたと見られる記録と、江戸時代に本家の先祖が書いた記録見つかったんだが
・斎藤龍興公の家臣で馬上の武士
・主君(龍興)が戦で負けて禄を失い先祖(初代)は同伴の武士5人と、従者と一緒に帰農
・位牌によると初代は1609年に亡くなっている
・明治時代に落ちぶれるまでは庄屋を勤めたり広大な土地を持つ地域の素封家として有名だった→菩提寺の住職も同じことを言っていた
・6代目(1700年代中期)と9代目(1850年代)の時に初代が帰農した当時の一緒についてきた従者の子孫に名字を与えた→実際に本家の周囲には与えた名字の家が数件ある
ざっとこんな感じだった
記述からするに単なる地侍っぽいから家柄的には大したことはないなw
まあ古文書は嘘ばかりらしいから半信半疑で真実を調査中
家に関するもっと古い記録は別の町の庄屋の子孫の家にあるらしいから、チャンスがあれば見に行くつもり うちは曽祖父の代に分家したんだけどなぜか曽祖父、曾祖母、その長男も本家の墓に入ってる
分家は本家墓に入れないと思っていたんだがそうでもないのかな
田んぼの中にぽつんと本家の墓があって墓の周囲に木がいっぱい生えていて外から見たら鎮守の森みたいだw
まあ小村の庄屋家系だから大した金もなかったみたいだけど、自分の家系だけの独立墓地(?)というのも悪くない
今度墓の周りに彼岸花植えたいけど本家とは交流全くないから勝手に植えられないし躊躇うわ 除籍全て取り寄せる→
菩提寺見つける→幕末に火事あったから残る記録は除籍と同程度の時代まで→
現地にいた遠い親戚(3人いて、全てかなり高齢)を見つけて聞き取りしたが、「ワシの祖父はこんな名前じゃったんか」みたいにこちらから教えてあげるような状態→
土地台帳取り寄せるが、あまり古い記録は記載されておらず→
町誌読むが、これも大正や昭和初期の記録がほとんど
ここからどうしたら良い!? >>508
過去帳位牌に墓見てるなら、後は地域に残ってる古文書読み漁る位しか無いんじゃね? まあ、そういう古文書だって火事などで焼けたり災害で流されるか埋もれるかしたり、
いろんな理由でなくなってることも多いから、ダメもとだけどな
うちの地元は焼けてなくなってるらしい 件の大火事が、町ひとつほぼ全焼だったのよ。だから町誌にも古い資料が無いんだと思う。
墓は昭和に合一して家族墓。藩領だけど城下ではないから分現帳も無いだろうなぁ。 幕末に火事は痛いね。昭和ぐらいなら郷土誌等は国会図書館にありそうだけど・・・
でも維新のごたごたで資料が散逸した藩もあるし。
505だが江戸初期に庄屋やってた家は藩に出仕して禄を貰ってた家も多いが
個別に知行割当状が残ってるだけで全貌は不明。移封で資料はもうないそう
地方によって辿れる時代には限界があるね 違う話だけど鈴木さん佐藤さんの先祖ってどうやって調べるの?
佐藤一郎なんて同姓同名の人が日本に何千人ているのに? 佐藤と鈴木の大半は明治以前まで苗字がなかった人達だから
諦めた方がいい 1500年代後半に近くの村(A村)の新井家の娘を嫁に貰っているんだが、現在分かっているのはその娘の旧姓(新井)と出身村(A村)、没年、戒名のみ
ちなみに娘の名前も親の名前も分からない。
新井って苗字自体メジャーだから地域の電話帳検索しても物凄い数がヒットして特定が難しい
うちは庄屋をやっていたんだが、その地域の有力一族も新井姓だから恐らく同じく庄屋層かと
昔は同じ身分で婚姻していたらしいからその新井さんをまず調査してみようと思う 苗字で思い出したけど庶民は実は昔から名字を持っていた説が最近は有力だけどな
いくら庶民とは言えどもそこらのうじゃうじゃいる水呑百姓やらまでも名字を持っていたとは考えにくいよな
せいぜい庄屋までだろ持ってたのって
字も読めない書けないごく普通の百姓が名字あったとは考えられないわ ってか庄屋は苗字帯刀が多いだろ。普段は何だが正式な場では裃に脇差でしょ >>516
戦国時代とか江戸時代で苗字があるなら、たいていは庄屋だろ?
>>517
もともとは律令期にすべての民に姓を持たせる政策があって、いちおう姓がばらまかれたんだよ
それをどこかの段階で失った無姓が段々増えただけでな
あと、ヒトの入れ替わりが少ない(自由移動が解禁されてはいない)ので、本人が覚えてなくても村の有力者が代表して(?)村民らの苗字を知ってたりな 父方祖父の母親の家系を辿ってるんだけど戸籍が破棄されているらしく祖父の母親世代の戸籍しか分からない
その前の世代、つまり自分から見たら高祖父に当たる人物は前戸主の欄に名前のみ書かれているだけ
一応高祖父は神戸商人でネットで公開されている神戸の郷土史にはひっそりと名前が載っているけれど詳しい記述は一切ない
本当に名前だけしか乗っていないそんなレベル
苗字もありきたりで特定も出来そうにない
悔しいがここで行き止まりか >>502
江戸中期の農村の調査では、一世代で絶家する割合は下層民の方が多く地主家は少ない。
小作層で14%とかだったらしい。
減った下層へ上層(地主)の次男、三男、その次男、三男・・が埋めていくという構造。
ネットで調べられる天皇の子供、孫、ひ孫・・を調べてみ?
源氏のうち、初代や二代目や当主はある程度系譜がわかるが、次男の次男の次男、
三男の三男の三男・・・なんかは、もはや王族どころか武家の棟梁でさえない。
それでも庶民に比べたら、多くが生き残る。
平安末期の人口800万とか1200万らしいが、、現在は10倍。等しく子孫を残せたわけじゃない。
庶民の多くは絶家になり、上層階級は多くの子孫を残せる。
日本は「婿養子」という習慣があるから、上層の男の末裔が地方の有力者の婿になることも多い。
上層と下層の身分差があやふやなのが日本の特徴で、百姓を母に持つ将軍なんて日本くらいだろう。
天皇家は妻はすべて貴族から選んでいるが、それでも光格天皇の例もある。
貴族の父の妾がすべて貴族ってわけでもないから、天皇といえども母の母の母あたりに
なると名前も不明なのがある。
こうやって1000年以上他国から侵略されずにすごすと、多くの「庶民」は天皇家(藤原も)の
血を引き、逆に天皇家は多くの庶民の血が流れ込む。
現在の皇室は、家康、信長、豊臣その他多くの大名等の血を引くらしい。
武家の娘が公家に嫁ぎ、その娘が摂関家に嫁ぎ。
その武家(大名)の子は多くは側室が産んだ子。
貴賤結婚禁止で、王族との婚姻以外は認められなかった、庶子は後継者になれなかった
欧州とは違うところ。欧州は、各国の王族同士が親戚で、庶民の血は流れ込まなかった。
下へ広がるのは日本と同じだけどな。 母親だけじゃなく父親も庶民な皇帝、劉邦とか朱元璋とかはどうなの? 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>523中国って言っても広いからな
奥地に行けば今でも洞窟、高床式に住んでそうな気もするけど・・・さすがに洞窟はないかな >>523
コピペ耕作、乙
デタラメ以外見当たらないな
>日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し
竪穴式住居は有用だから鎌倉時代頃まで広く使われてた、庶民住宅の本流。
寝殿造り建築物の時代でも主流の住宅様式だ。ましてや、高床式住居とは共存して当然。比較すること自体が無意味だよ
王侯貴族の建物ならともかく庶民住居はコスト制限が厳しいから、多少の新技術ぐらいでは一新することはできないんだ 調査を進めるに当たってずっと本家だと思っていた家がただの名字が同じなだけの違う家だとわかってショックだわ
曽祖父の戸籍とその家の住所が一致したし墓もすぐ近いから絶対に同族かと思ってたのになぁ
うちとその家との間で色々と土地の売り買いがあったらしいからそれでゴチャゴチャになってる
うちの本当の本家は代々の土地を去って岡山に行ったらしいが今はどこにいるか全くわからない >>526
それは家が違うだけでどうみても同族だろ
住所が同じ、墓がすぐ近くなど
全く関係ないなら同住所や墓が近いなんてことはあり得んよ >>525
田舎の方はそうだろうな。
ただ学術的には523の通り。
秦氏が帰化した4C後半頃から新羅の土壁の中国系住居が畿内から広がり始め、
6C末に百済から瓦屋根の寺院建築が畿内に伝わって、
瓦屋根の戸建てに移行していった。
すべて畿内が基準。 >>526-8
先祖調査するなら気安く「本家」という言葉を使わないように。
都心部から離れているところは大抵「本当の本家」は都会に出て
リーマンやっていて、田舎に住んでいるのは本来は分家のとこがまあある。
だいたい、どっちが本家かというくだらないがセンティシブな問題を抱えてるため
本家はどこに行きましたとか発言はよくよく注意すること デビ婦人とかいうのがファミヒスで武士の末裔とか紹介されてるが、
なんの家系図もなんの言われもないし、残ってないのに、
単に実家と、それに近い地侍を勝手に結びつけて、勝手に武士の末裔とか、酷すぎないか?
仮に血統の枝分かれとして、その直系でもなんでもない、枝分かれした末枝でも遡れば武士いうなら、日本人全員武士か豪族の末裔だわな
弾左衛門ですら家系図なら頼朝の末裔なんだから、話にならないわNhk
加賀藩主の前田なんて日本全国五万といるから、ならみんな遡れば藩主前田と血を別けた先祖だな 身分は血統に与えられているのではなく、家単位に与えられているものという大前提がぬけてるからなんだよ 加賀に先祖代々の土地があって明治初頭まで遡れるのなら可能性は高いと思うけど じーちゃんから戦国時代に先祖はすごい武士だったとか聞かされて来たから勝手に想像膨らませて天皇家から出た某有名な武将の庶流(自分と名字が同じ)の子孫だろうなこりゃとウキウキしてたんだけど先祖を調べていくうちに幻想は崩れたなw
武将どころかただの田舎の地侍やってた百姓だったわ
明治時代に書かれた由緒書には庄屋をやっていましたーとか書かれていたけどそれすら嘘なんじゃないかとめちゃくちゃ疑心暗鬼になっている
だから先祖の言伝えを調べもせずに鵜呑みにしている奴を見ると微妙な気持ちになる >>532
だからなんなのって話だろ?
身分は家に由来し、血統には由来しない。
だから江戸幕府も寛永諸家系図伝でも、日本全国の成り上がりの出自不肖大名家たちに、
源氏に適当に繋げた偽系図を強制的に提出させてるんだよ、価値なんて血統にはないから。
ただ、あまりに江戸武家は出自が酷すぎるため、体裁目的でやらせたわけだが、
大名の黒田や池田、超名門喜連川ですら養子だらけの世界は血統なんか関係ないし、ましてや直系でもない血筋なんて、本人の自己満足でしか価値はない
しかも武家のみならず、農家も分地禁止令がでてるわけで、直系の家しか土地や家格は相続できない
わかる? 貴族皇族に庶民の血が混ざることはあっても逆はほぼ有り得ないだろ
降嫁したとしてもせいぜい庄屋や大商人止まり
記録に一切ないレベルの有象無象まで降りてくるわけがない いちおう庄屋階層の人らは同階級の通婚が基本だから庶民と混ざることは少ないんだけど、
嫁に出したり跡を継がせたりする数より多くの子どもを育ててるから、村内で絶家になった家を継がせたり分家を起こさせたりしてるんだよ
そういう分家の一部は零落して庶民に落ちるからね、そのへんから庶民化する道筋がある >>534
池田はどっちも養子だらけじゃないんだが…
むしろ珍しいぐらい養子がほとんと入ってない 突然申し訳ありません。初めてこのスレに来た新参ですが、どなたか詳しい方がおられるかと思いますのでお助け頂けますと幸いです。
母方の先祖なんですが手がかりが少なすぎて困っています。事情があり曽祖父が明治時代に茨城から中国地方に流れて来たこと、親族が1人を除いて全く先祖に興味を持たなかったことなどがあり、八方塞がりです。
本題なんですが我が先祖は江戸時代以前はよく分かりませんがとりあえず江戸初期は現在でいう久慈郡大子町で大庄屋だったといいます。
藩主が徳川光圀公の時に山を巡った喧嘩を治めた功績で代々「菊池」の苗字と帯刀・麻裃を許されたと言うことなんですが、該当する文献等はございますでしょうか?
また、このような場合は元々の苗字を名乗ることを許されたという解釈でよろしいんでしょうか?それとも全く関係のない名家の名前を頂くということだったんでしょうか?
ちなみに家紋は丸に違い鷹の羽です。長文になりましたが、お知恵を拝借願えませんでしょうか?よろしくお願いします。 茨城県の史料館とか大子の資料館にでも問い合わせてみたら?
あるかどうか知らんけど 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 538です。一応そういう所に問い合わせたんですけど、家の事なので個別の事案にはお答えできませんとのことでした。
唯一話を聞きに行った親族も数年前に他界し、本家の方も曾孫さんの代になっていて連絡の取りようもない状態です。 自分の名字由来検索してみたら
全国人数約2500人ほどの比較的珍しい?名字だった。
それでルーツが清原氏(天武天皇の皇子舎人親王の子孫)ということだった。 >>541
聞き方が悪かったんじゃねーの?
家のことを強調すりゃ、お役所はそう答えざるを得ないよ >>543
家の事を強調はしてませんよ。ただ、あくまで公的な機関なので覚悟はしてました。
あと不思議な事にネット検索で唯一出てきた町内の庄屋宅跡?を調べてもうちの先祖と苗字が違うんですよね。
あくまで直系じゃないので自分で動くのも難しいですし…
ありがとうございました。 >>545
国立国会図書館のサイトで地域の歴史資料の一部がデータベース化されててインターネット公開されているからまずそこから見てみたら?
http://dl.ndl.go.jp/ja/local_history.html >>544
全国2500人程度の珍しい名字なら、佐藤さんや鈴木さんよりは遡りやすいんじゃない? >>538
太子町て、初代水戸藩主から一村皆殺しにされた村方騒動あった場所じゃね? >>538
その江戸初期は大庄屋と誰が言ってるの?
ただの家の言い伝え?
太子町は江戸初期、大藤ゆう旧佐竹家地侍だった庄屋が、いた。
しかし、水戸藩士二人を斬り殺し、
水戸藩の意向に従わず、
さらに水戸藩にたいして村民に武装させて対峙したことで水戸藩とまるまる村一村が合戦
3ヶ月に及ぶ戦により、水戸藩も多数の死傷者をだすも、村民およそ一千弱は二人を残して皆殺しにされるほど徹底抗戦した村方騒動
水戸藩は庄屋相手に藩士に多数の犠牲が出てしまったことや戦国ままならない時代背景、女子供まで皆殺しにした経緯から
この事件は光國により隠蔽され、明治以降になり徐々に明るみに 。
この村方騒動以降の村政は水戸藩が主導のもと明るみにでない不明な地域 >>550
そういう地域って結構あったと思うけどね。天領(幕領)が年貢安くて規制がゆるゆる
なのは、そういうのをみた他藩の農民に騒動を頻発させてお取り潰しにしたかったのかね? 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>551
君素晴らしいな。
そこまで裏読めた奴ほとんどいなかったよ。
おそらく水戸藩が藩士と村方で旧勢力下の庄屋の揉め事をわざと意図的にあみだしてると考える。
水戸藩の文献では、揉め事から恭順させて庄屋をすり替えさせるのが目的と伺える。
しかし、水戸藩が誤算だったのは、まさか村一村がフル武装して合戦挑んでくるとは思ってなかったみたいだ。
見せしめという言葉がかなりでてくる。
当初水戸藩は家老芦沢率いる170の藩兵で攻めるも戦況は水戸藩に多数の死傷者がでて膠着。
3ヶ月に及んだため、増援と共に撫切りという女子供も皆殺しにする心理作戦で庄屋を引っ捕らえて処刑した模様
かなり逸脱したものの、江戸初期の村方の旧勢力を罠ですり替え行うのが目的なんだろうな >>530懐柔策だと思うけど田舎の豪族って結構旗本になったりしてるからな
枝葉の幹を辿れば武士に行く付くのは当たり前と言っちゃ当たり前
一族の一人を召し抱えるから反抗するなってことでしょ
>>536昔の一族って巨大だけどね。分家なんかしなくて従兄弟の子供とかまで
一緒に住んでる。そういうのまで含めての階層 >>550
以後名前を538とさせて頂きます。
大庄屋だったというのは半分家の言い伝えです。
というのも唯一興味を持った親戚が、もう何十年も前に(おそらく40年は前)ツテをたどって大子町にある本家の元へ行ったら驚くような豪邸で、お帰りなさいませとお手伝いの方がいるような家だったそうです。
その際に喧嘩を治めて大庄屋になったという話と系図を見せてもらったとのことです。
水戸藩の揉め事については私が自分で調べた際に驚きました。まさか喧嘩とはその事だったんでしょうか? 文献を調べようと思いましたが中々うまくいかず…という感じです 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>554
旗本とかの武士の家系って庄屋と同根のが多いんだけど
武士と農村庄屋に別れたあとも長く親戚付き合いを続けたままの家さえあるらしい 太田南畝は御役目で今の国分寺市恋ヶ窪の名主宅に立ち寄った際に、名主に「自分の先祖は恋ヶ窪の太田目と言う所の出だと伝わるが、太田目という土地はないか?太田姓の土地の百姓はいないか?」と質問した。
土人の名主曰く「無御左候」 >>555
大庄屋は太子町周辺には置かれていないはず
それに庄屋でなく大庄屋なら必ず町の歴史に乗ってるよ
そうでなくとも、明治に区長や戸長や戸長補といったものになってるはず。 何ヵ月もド過疎なのに短期間でこの賑わい。何だこのスレは! >>559
そうなんですか… あくまで口伝なのでどこか間違って伝わっている可能性が高いですね。
謎は深まりましたけど、母方ですしここらで諦
めようかと思います。ありがとうございました。 5年間ぐらい色々やってみて思ったんですが、先祖探しって思ったより大変ですね。
親族の協力・理解はほぼ得られませんし、血縁が遠い顔も見た事もない親戚や、行ったことのないような一族の菩提寺を探して訪ねないといけませんし戸籍も直系でないと辿りづらいですし…
当時の記録を読むにしても、それなりの知識も必要になりますし。
今回皆さんにお知恵を頂いて本当に助かりました。また名無しに戻ってこのスレに参加させて頂きます。ありがとうございました。 ここの人って父方母方関わらず皆何かしら先祖の言伝えがある人?
言伝え皆無でどうせ先祖は単なる百姓だろと思って調べてみたら実は庄屋だったとか戦国時代は武家だったとかそういう人いない? そんなのあるわけない。
実際そういう家は墓やら何やら必ず残ってるもん、全く風邪と共に風化してたなんてあるわけない。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>558
江戸時代の御家人でさえも先祖探しは難航したということか 御家人は八割が紀伊半島出身
伊賀、甲賀、根来、雜賀、柳生、山伏など、
紀伊山中の傭兵を稼業としていた雑民が主だからなあ >>563
オレは400年あまり前の先祖が住んでいた場所と同じところで生まれた。
墓も当時から続いている。読めないけどw
400年ほど前、その地の有力者の一人だった家に、関ヶ原で敗れたらしい武士が
帰農して婿入りしたと伝わっているらしい。お寺の話によれば。
ひい爺さんの出身地がわかれば、その程度のことはわかるはず。
ひい爺さんの妹が嫁に行った先で生まれた娘の子孫が聞きに来れば教えてあげるよ。
町村合併以前の町史や村史があれば出て来ることもあるよ。
先祖が城下町や港町にいたら、難しいかもわからんけどね。 >>567
吉宗以後ならともかく、もともとは家康直臣がベースだから、三河〜駿河の東海地方東半分と甲信地方や関東の武士がメイン
五大老時代に大阪在城の期間がけっこうあったんで大坂周辺のもいるんだろうが、たいていは東海以東だろ >>569
いやいやいやいやいやいやいやいや、
下級武士以下を意味する御家人層は、
御家人の組割りでも分かるし、各譜代の下級武士の出自も甲賀がめちゃ多い
三河からの譜代武士は中上級になってる 御家人って下級武士か? 中級か中の下ぐらいじゃないか? 武田旧臣っつたって仕官できたのはごく一部だし信濃って芦田取り潰しで一部幕臣?
伊那だって数家だろ。後は木曽系で数家。関東の北条系なんてほとんど帰農でしょうに 武田旧臣は北条に仕えたヤツも多かったんだが、北条滅亡後に徳川に仕えることになるのが多かったっぽい
あと、本能寺の変後に武田旧領を北条と徳川が侵攻してるから、このときに徳川に拾われたヤツも。特に甲斐は徳川領になったから、少なくないはず。 >>573
お前妄想の嘘ばかりついてんじゃないよ
無知レベルやないか
北条滅亡後の北条貴下は大半が仕官できてない。
城主クラスでほんの数える程度のみ。
浅野家が関東の城主クラスから土豪地侍クラスまで徹底帰農を推奨する触まで出してる
後北条は城主クラスのさらに上の、各方面武士団を統括する評定衆ですら大半が帰農させられてるのに。
なんでそんな無知の癖に妄想と憶測で語ってるの? それに武田武田ゆーとるが、>>572がかなりいい線ついてる。
ものすごいわかりやすいところで、八王子千人同心も実質百章の取り扱い。
武士として取り立ててはいない。 武田旧臣の幕臣って有名どころは、土屋、米倉、横田、三枝、曲渕、駒井、初鹿野、小田切、大久保、柳澤、跡部、依田、秋山、荻原、志村、小宮山、あたりかな? 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています