先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
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純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。
先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る
前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/ >>550
以後名前を538とさせて頂きます。
大庄屋だったというのは半分家の言い伝えです。
というのも唯一興味を持った親戚が、もう何十年も前に(おそらく40年は前)ツテをたどって大子町にある本家の元へ行ったら驚くような豪邸で、お帰りなさいませとお手伝いの方がいるような家だったそうです。
その際に喧嘩を治めて大庄屋になったという話と系図を見せてもらったとのことです。
水戸藩の揉め事については私が自分で調べた際に驚きました。まさか喧嘩とはその事だったんでしょうか? 文献を調べようと思いましたが中々うまくいかず…という感じです 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>554
旗本とかの武士の家系って庄屋と同根のが多いんだけど
武士と農村庄屋に別れたあとも長く親戚付き合いを続けたままの家さえあるらしい 太田南畝は御役目で今の国分寺市恋ヶ窪の名主宅に立ち寄った際に、名主に「自分の先祖は恋ヶ窪の太田目と言う所の出だと伝わるが、太田目という土地はないか?太田姓の土地の百姓はいないか?」と質問した。
土人の名主曰く「無御左候」 >>555
大庄屋は太子町周辺には置かれていないはず
それに庄屋でなく大庄屋なら必ず町の歴史に乗ってるよ
そうでなくとも、明治に区長や戸長や戸長補といったものになってるはず。 何ヵ月もド過疎なのに短期間でこの賑わい。何だこのスレは! >>559
そうなんですか… あくまで口伝なのでどこか間違って伝わっている可能性が高いですね。
謎は深まりましたけど、母方ですしここらで諦
めようかと思います。ありがとうございました。 5年間ぐらい色々やってみて思ったんですが、先祖探しって思ったより大変ですね。
親族の協力・理解はほぼ得られませんし、血縁が遠い顔も見た事もない親戚や、行ったことのないような一族の菩提寺を探して訪ねないといけませんし戸籍も直系でないと辿りづらいですし…
当時の記録を読むにしても、それなりの知識も必要になりますし。
今回皆さんにお知恵を頂いて本当に助かりました。また名無しに戻ってこのスレに参加させて頂きます。ありがとうございました。 ここの人って父方母方関わらず皆何かしら先祖の言伝えがある人?
言伝え皆無でどうせ先祖は単なる百姓だろと思って調べてみたら実は庄屋だったとか戦国時代は武家だったとかそういう人いない? そんなのあるわけない。
実際そういう家は墓やら何やら必ず残ってるもん、全く風邪と共に風化してたなんてあるわけない。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>558
江戸時代の御家人でさえも先祖探しは難航したということか 御家人は八割が紀伊半島出身
伊賀、甲賀、根来、雜賀、柳生、山伏など、
紀伊山中の傭兵を稼業としていた雑民が主だからなあ >>563
オレは400年あまり前の先祖が住んでいた場所と同じところで生まれた。
墓も当時から続いている。読めないけどw
400年ほど前、その地の有力者の一人だった家に、関ヶ原で敗れたらしい武士が
帰農して婿入りしたと伝わっているらしい。お寺の話によれば。
ひい爺さんの出身地がわかれば、その程度のことはわかるはず。
ひい爺さんの妹が嫁に行った先で生まれた娘の子孫が聞きに来れば教えてあげるよ。
町村合併以前の町史や村史があれば出て来ることもあるよ。
先祖が城下町や港町にいたら、難しいかもわからんけどね。 >>567
吉宗以後ならともかく、もともとは家康直臣がベースだから、三河〜駿河の東海地方東半分と甲信地方や関東の武士がメイン
五大老時代に大阪在城の期間がけっこうあったんで大坂周辺のもいるんだろうが、たいていは東海以東だろ >>569
いやいやいやいやいやいやいやいや、
下級武士以下を意味する御家人層は、
御家人の組割りでも分かるし、各譜代の下級武士の出自も甲賀がめちゃ多い
三河からの譜代武士は中上級になってる 御家人って下級武士か? 中級か中の下ぐらいじゃないか? 武田旧臣っつたって仕官できたのはごく一部だし信濃って芦田取り潰しで一部幕臣?
伊那だって数家だろ。後は木曽系で数家。関東の北条系なんてほとんど帰農でしょうに 武田旧臣は北条に仕えたヤツも多かったんだが、北条滅亡後に徳川に仕えることになるのが多かったっぽい
あと、本能寺の変後に武田旧領を北条と徳川が侵攻してるから、このときに徳川に拾われたヤツも。特に甲斐は徳川領になったから、少なくないはず。 >>573
お前妄想の嘘ばかりついてんじゃないよ
無知レベルやないか
北条滅亡後の北条貴下は大半が仕官できてない。
城主クラスでほんの数える程度のみ。
浅野家が関東の城主クラスから土豪地侍クラスまで徹底帰農を推奨する触まで出してる
後北条は城主クラスのさらに上の、各方面武士団を統括する評定衆ですら大半が帰農させられてるのに。
なんでそんな無知の癖に妄想と憶測で語ってるの? それに武田武田ゆーとるが、>>572がかなりいい線ついてる。
ものすごいわかりやすいところで、八王子千人同心も実質百章の取り扱い。
武士として取り立ててはいない。 武田旧臣の幕臣って有名どころは、土屋、米倉、横田、三枝、曲渕、駒井、初鹿野、小田切、大久保、柳澤、跡部、依田、秋山、荻原、志村、小宮山、あたりかな? 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>576
真田は入らないのか?
いや、旗本でも御家人でもなく大名なのか 真田信尹は旗本だね後、室賀、屋代といるが数家だね。 coconalaで数千円で手軽な先祖調査をやってくれるサービス見つけたわ
先祖のことをネットで調べ尽くして情報もこれ以上なくてどん詰まり状態だからお願いしてみようと思ってる 先祖探しあるある
・特定の時代の特定の地域の歴史にやけに詳しくなる
・自分と同じ苗字の高貴な人物を見つけて胸が高鳴るが調べていくうちに別人だと分かってガッカリ >>580
血の繋がった人間にわからないことが、たかが数千円で他人にわかるか? じゃあ、旧北条家臣だった、水戸藩付家老の中山家(&兄の系統が旗本)なんか珍しい部類だったんだね。 小田原北条氏の旧臣で旗本なんて珍しくないでしょ
伊達与兵衛とか春日佐衛門とか
でも、幕臣よりも譜代大名の家臣にやたらと多い印象 上級家臣ならまだしも中下級家臣では出自の信憑性は怪しい 仁杉って町奉行所与力も北条旧臣系だな
彦根井伊家重臣の宇津木とか、古河土井家の家老の潮田も 上級ってたいてい三河普代とか岡崎普代、安城普代でそ?
徳川家と同程度しか信憑性のない怪しい出自の武士のほうが、むしろ多くないか? 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 たとえ源氏の流れであっても、帰農した時点でもはや武家ではないので庄屋とかは百姓
武家とは主君を持ち戦する者で百姓とは生き方が違う 武主君のために戦うことだけが本文になった奴隷民は江戸の貧困底辺腹切りマシンの雑魚武士だけだから。
室町までの中世武家と一緒にすんな馬鹿 貴族の血が流れている貧乏人家系と、水呑百姓の血しか流れていない大富豪家系だったらどっちがスゲえなってなる? >>1 養子断絶がダメってどういう意味?
養子になったが、離縁されたという意味? 母親が身ごもってたら血縁は続くが? 血統重視って中国人や朝鮮人みたいだなw
日本人が重視してきたのは家名ですよ。 >>84 うちもそれ以前だと思うが、古事記に出て来る。神功皇后の時代にかなり活躍。
初代は、武内宿禰の子孫あたりくらいからだからもう年代なんてわけわかめ。
武内宿禰自体が200年も活躍してたし。 >>596 三韓征伐が西暦200年頃(実際は120年ずれているかもとも言われている)だから1800年前の祖先の名前が古事記にも日本書紀にも出て来るから、うちの家系(氏)の祖はこの人からとしている。
その前の時代にも名前は出て来るが、具体的な働きについての記述がない。 家の先祖は祖父の撃ノ信州から出て来たんだが、武内宿禰の従者で船頭だったという言い伝えがある
調べれば調べるほど、らどうやら新平民だったのは間違いないと思う >>593
もともと先祖探し関連の本スレが別にあって、
そっちとは違って血縁祖先に限定の別スレを欲しがってたてたとかだったような?
本スレが埋まりきったとき、分ける意味ないし合流しようぜと考える人が多かったからか
本スレの次をたてないまま今に至る。
つまりここはもともと隔離スレだったからルールが特殊 高祖父の本籍地の隣の集落が被差別部落だったみたいだけど(ネットで見つけた古い部落名鑑の写しから判明)うちも関係あるのかな?
隣接してても全然関係ない場合も多いみたいだし 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>600
地域によっては、普通の村の中に一部分だけ被差別部落がある場合もあるから分からんな >>584
そこらは藩主や事情が複雑に絡み合うから短絡的に見ない方がいいとオモ
たとえば件の場合は頼房の母ちゃんの実家は元北条家臣だったよ
>>585
多いのは池田と再婚した督姫(先夫氏直)が亡き先夫の家臣の行く末を気にして
あれやこれやと旦那や大久保長安巻き込んでやってた影響もあるのだろうな
(しかし大久保長安事件でわりもくらったらしいが…)
前田も北条遺臣を囲えーと利家がやっきになってたそうな 【先祖探し】「家系図」作り人気 自分のルーツは? 依頼絶えず 「家に縛られない個人の時代、だからこそルーツをたどりたくなる」★6
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1537688387/l50 >>602
被差別部落はほとんどが枝村で単独の村は珍しい >>605
大坂とかだと単独の村も多いんだけどな
まあ、地域差ってヤツだ 曾祖母が中国地方の部落民だったんだけど、娘である祖母が言うには村の中にぽつんぽつんと部落民が住んでる場所があるだけだったって >>605
なるほど、枝という意味ではお隣なのでそういうことなのかもしれない
一族で嫁をもらったり男子が養子にいった先にその枝が出てこないから近所でも関わりが無かったのかも >>603
譜代に外様事情をぶつけるお前さん嫌いじゃないw
それはともかくうちの先祖は北条遺臣で帰農したけど声がかかって
復帰したと伝わっていて甲冑とか家系図とか氏康とか氏照の花押入り
書状なんかが数通あるけど鳥取の山の方だから小田原とも遠く離れているし
絶対に嘘だーと思っていたけど可能性としてはあるかも?と思えてきた >>609
部落の本場は大坂だろ?
皮革産業で富を築きあげた、一村丸ごと部落の有名な村とかも大坂にはあるんだぞ それは知ってる。有名だもんな。
ただ、なんで大坂、播磨周辺あんな多いのかなと。 >>612
普通の百姓の村の支配を受ける場合がほとんど
穢多身分は普通の百姓村の庄屋の支配で検地、人別帳も庄屋が管理
摂津渡辺村とか少数例 江戸時代全体の平均だと部落民の人口増加率は日本全体の人口増加率を上回っていたみたいだし、その中でも特に経済的に有利だったっぽい大坂の部落は人口が増えたとかじゃないのかな
他の地域だと、部落民以外が手出しできない生業の関係上、近場に部落がないことで生活が不便だからってんで部落を呼び込んだ地域も(特に関東などでは)少なくないらしいけど、
大坂では部落が足りなくて不便な地域って聞かないし、元から多かったんだろうけどな >>614
大坂周辺だと、庄屋も含めて部落の一部になってるトコもあるぞ
もちろん庄屋は庶民じゃないけど、外の村を治めてない部落専業の庄屋な 関東にも武蔵国足立郡前野宿村という一村立の部落があるが、
これは例外中の例外
部落と言えば上野国の部落の穢多身分の者達が苗字を名乗った事を本村の名主らに幕に訴えた事件もあった
下層身分の者も苗字を名乗っていた実態が知れる 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 先祖が諸大名家の藩士とか名主庄屋等の村役人層で戦国時代は土豪だったとか言うパターンが多い中、先祖を調べたら部落だったってのは新鮮だなぁ
部落だからって甘く見ちゃいけないよな
その辺の士族に負けないくらいの由緒ある部落もけっこうあるようだし
俺の知ってる範疇だけど、福岡の由緒ある部落の苗字は公家にもある苗字で菅公の従者で太宰府まで来た者の子孫を自称してる
真相はどうあれ藩主黒田家にその由緒書きを提出して権益を認められていたし、大分には頑なに秦姓を名乗り続けている部落も多く江戸時代にわざわざ禁裏小法師の役を買って都へ登った者もいる >>544
さすがに天武天皇までは難しいと思う
しかし清原氏の子孫って残ってたんだな 皇統としては絶えたけど天武天皇の子孫がいなくなったわけではないよ >>619
静岡市は城近くに本屋敷をもらっていて待遇は旗本レベルの
被差別部落が存在していた
技術を流失させないためにあえて身分を落とし被差別部落という
形にしていた模様
被差別部落といってもきちんと調べれば差別どころか裕福な生活を
おくっていたのもいたんだよ、実際は… というか静岡県は全体的に一部を除き被差別部落とかに対する
差別や偏見などがあまり見受けらえないしいちいち部落がーと
騒ぐこともあんまりなくて温和なエリア
騒いでいるのは利権絡む連中ぐらい
だからもし先祖探しで被差別部落と近くてもそれが静岡県の場合は
あまり気にしなくてもいいんじゃないかなあ
ただ半島系とかは論外だけどね 大井新右衛門尉【おおいしんえもんのじょう(15??〜15??)】
駿河国駿府の商人。皮革職人頭。
今川氏規より皮革職人頭に任じられ、今川氏規領の皮革職人たちの統括を行なった。
1526年、今川氏親より、駿府の屋敷の安堵状を受けた。
大井輝次【おおいてるつぐ(15??〜15??)】
大井新右衛門尉の男。
1544年、連雀商人たちが今川領内から皮革を持ち出すことを防止するため、荷改めの権限を与えられた。
1559年、今川義元の意向を受け二年分の皮革調達を行った。
大井輝次は今川義元から皮革職人、商人頭として特権を与えられたことで、
重要な戦略物資である皮革の流通統制とその調達の役割を果たした。 式下郡五伝村の起源を伝える確かな史料はこれまでのところ一切見つかっていない。
ただ、江戸時代になって新たに作られた部落でないことは、
磯城郡三宅町大字上但馬の共同墓地の無縁塚に室町時代の五輪塔や戦国時代末期の舟形五輪塔が多数残されていること、
元和元年(1615)に三河国刈谷(現愛知県)から郡山城に入った水野勝成の時に初めて設定された郡山藩皮多高が
120石九升五合設定されていることを見れば明らかであり、五伝村の集落形成の時期は戦国時代以前に求めなければならない。 >>624
静岡は本来部落扱いになるような人達がお茶の輸送に従事したため部落化しなかったケースが多い 話ぶったぎって申し訳ないけど、栃木か茨城周辺の家で元々武士だったという(江戸時代なのかは不明)俺の親戚の家の敷地内に八幡太郎の石碑?か御神体的なやつがあるらしいんだけど、誰がいつ何の為に作ったのか、全く検討もつかないらしいとのこと。
誰かわかる人いたりします…? >>624
全般的に、関東周辺では部落はあるが差別意識がないか低いらしい
部落差別が厳しいのは主に関西や中国地方など西日本 >>628
栃木で八幡太郎っつうなら足利氏関係かな? 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 儀兵衛と善兵衛って同じ読みできる?
普通ならぎへえとぜんべえだと思うんだが、どっちも「よしべえ」って読むことできる?
江戸時代の先祖なんだけど、過去帳は儀兵衛なのに墓には善兵衛って刻まれてるから、ほんとに同一人物なのか不安 >>630
やっぱ足利周りですかね
ありがとうございます そういや自分の先祖も過去帳や位牌には「惣兵衛」ってあるのに地域の神社の古文書には「宗兵衛」って書かれてたな
驚いて調べてみると同一人物だった >>619 秦姓は部落とは無関係だろ。 むしろエリートの頂点だぞ。
大分は、宇佐神宮が有り八幡さまの総本山だぞ。
朝鮮からの技術者が多く移り住んだ土地でもあったから、奈良の大仏建立にもここの技術者たちが招かれてようやくできた。
うちの祖先もかなり関係があるが、大友氏の神社仏閣打ちこわし政策でやられた。 >>544 そりゃ血が途絶えなければ残るよ。 それに昔は血が繋がっていなくても家は継続してたし。
うちも1000年前までは全ての直系の人の系図が残ってる。 その前は氏(その土地に住んでた)だから個人の足跡は定かではない。 数代飛び飛びの記述しかない。
しかし、その氏の本貫に住むのはうちの家系のみだった。
副将軍が自分の知る限り二人出ている。
日本書紀や古事記を辿ると、孝元天皇にたどり着く様だが。 >>635 うちの祖先もそうだよ。
史書には別の漢字で書かれたものがいくつかある。
多分昔(1000年以上昔)は、漢字が表音文字との分化が曖昧だったのではないかと思う。
或いは書き間違いというのも沢山有ったのかもしれない。 >>638 古事記と日本書紀で人名が全く別の漢字になってるのが沢山ある。 清原氏って源平藤橘と比べるとあまりぱっとしないな、でも自分からしたら天武天皇(清原氏)の子孫って羨ましいw >>638
そんなに古く遡らなくとも中世でも音通なら違う字を使うのは結構あるよ >>634
ありがとう
>>635
結構あるんだねこういうこと 中世どころか近世でも、重要なのは発音の方で文字表記に当て字を使う例は多かったのでは
本人は正しく使っててもまわりの人は平気で当て字を使う、みたいな感じだったのかも? >>636
宇佐八幡は関係ない豊後地方の事実として大分市のトンネルの上の有名部落とか豊後大野市や国東の数ヶ所に秦さんの部落あるよ
宇佐八幡の関係では豊前長洲の皮細工山崎氏が有名で宇佐八幡の神職も兼ねた
>>640
大分だと玖珠郡の国人・武士達が清原姓を名乗ってる
穴井氏、魚返氏、高橋氏、小幡氏、帆足氏とか >>636
豊後府内藩の穢多頭の秦氏が祭る神は宿神だよ
八幡とかどうでもいい 大分に県外の人が来る機会はあまりないと思うけど、大分空港を利用するならぜひとも見てほしいものがある
岩国上空で降下始めて北から空港に着陸する場合は向かって左側の座席から着陸直前に見える海岸沿いの部落
南から進入する場合は見れないから、空港に着いてからレンタカーでも借りて見に行ってほしい
そこは秦さんばかりの歴史ある部落
江戸中期に備前浪人で剣術の達人がその部落に流れ着き、九州全域と四国や大阪からも穢多身分の者が入門した
今でも入門帳が残されているが、大阪の入門者は荒川姓、佐賀は小川とかなり今とつながる 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 とりあえず大分民からのささやかな情報提供です
豊前は、どちらかと言うと北九州市の小倉藩がメインで、ここは部落のメッカだから大分とはまた事情まるで違うと思う
ほとんどが苗字は部落の地名そのままだからな >>629
西日本は確かにすごいよなあ
西出身の友人が団地エリアみてもしかしてそういうエリア?と
訊いてきた時はびっくらこえたわ >>640
清原氏で著名な人物といったら清少納言? >>651
そういう事ではない
単に秦を苗字として名乗っているだけ
九州に多いのはそれなりに理由があるような気がするが 秦氏の秦は氏族名だから秦という名字の秦氏はいない
名字が秦であればほぼ間違いなく血縁関係のない他人が後世に名乗ったもの ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています