先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
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純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。
先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る
前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/ 軍事貴族出身の武家の子孫は渡来系の血を引いてる場合がほぼ100%だけど、田舎の普通の地侍の子孫ってどうなんだろうな
やっぱり土民の血しか引いてないんだろうか 日本は貴族が生き残ってる国。チャンコロでいうと太原王氏や清河崔氏のような漢〜唐の宰相の家系貴族が現代でも首相を輩出してる貴族野郎の国。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>901
>軍事貴族出身の武家の子孫は渡来系の血を引いてる場合がほぼ100%だけど
って、「新羅三郎っていうからには新羅系の血を引いてるに違いない」みたいなデムパを信じちゃってる痛い子? >>904
そうじゃない
新羅三郎だって元を辿れば清和天皇に行き着くしその清和天皇は代々遡れば渡来人の血も混ざっているだろ
母系も辿るともっと混ざっていそうだが
だから軍事貴族は新羅三郎みたいに天皇家に繋がる血筋がほとんどということを考えても軍事貴族に渡来人の血が流れているのは間違いでもないだろう 源氏の元祖は北魏!唐の宰相を輩出した名族から嵯峨天皇が肖った。
源氏物語は天皇の側近として宰相職独占してた頃の源氏で、武士の物語と思って読むと自爆する。 平将門の乱の主要登場人物
平貞盛
源護
興世王
六孫王経基
武蔵武芝
藤原玄明
平真樹
藤原維幾
藤原秀郷
この中で根っからの在地勢力は武蔵武芝だが、中央軍事貴族らしいのは誰だろう? 将門追討の恩賞で中央軍事貴族の武士になったのは貞盛と為憲と秀郷。その他は道長四天王世代から武士 武蔵守の百済王貞連の系統って武士にならなかったのかな? 今日は高祖父の足取りを調べに新幹線で先祖の地の図書館へ行ってくる
そこそこの都会だからヒトの入れ替わり激しくて目ぼしい情報は載ってないかもしれんがやるだけやってみたい 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 先祖は百姓だけど名主だった、とか自慢ぽく語る奴いるけど
名主は別に偉くなかった。
PTAの役員みたいに、しょーがなくてやることもあった。
村によっては、みんなで押しつけ合い、いつも押しつけ合いに
なるのが面倒で、順番でやるというところもあった。
百姓だけど姓を名乗ってた、なんて威張る奴もいるが、
普通、どんな百姓でも苗字はあった。
公(おおやけ)の関係で名乗れないだけ。
世田谷の某村の資料などを読むと、全員が苗字を名乗っている。
実際に苗字が無い人もいた。そういうのは猟師とか木樵みたいな人たち。 地域によって名主の役割やランクが違うってことを知らんのかな。 >>916 その世田谷の資料って西暦何年くらいの資料だよ。 うちの先祖を調べてみたんだけど、すんごい小さな離島の生まれなんだわ。
で、直系傍系兄弟姉妹全部戸籍見てみたら、うちの家に嫁いだ人・婿養子に来た人みんな同じ小字の出身なの。
島全体でも数百もいないようなド田舎だから、その中にある小字なんて、数えるほどしか人がいないはずなの。
しかも、嫁入りした人は半分以上同じ名字。ただ親の名前は別だから近い血縁ではなさそう。
昔は、○○家は必ず××村から嫁をもらう、とか○○家は必ず□□家から嫁をもらう、とか言う掟があったりしたのかな? 世田谷の旧家だと宇田川さんとか大場さんが多いイメージ
だいたい彦根藩領だよね うちの母親の先祖は分かるんだけど、父親の先祖が分からない…。
母親のとこは戦国大名の家臣だったから、割合簡単に分かったけど…。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 江戸時代って転居とかって誰でもできたの?教えてください。
俺の家は7代前の人が江戸時代後期〜幕末あたりに、どこかから現在俺が住んでる場所にやってきて、家建てて農業始めたらしい。
親が全然興味ないらしく、詳しくはわからんのだ。 東日本の代々の庄屋名主筋の方が下剋上戦国江戸の大名、旗本より由緒が正しかったりするからな。 純粋に先祖探しについての話題が出来る人がいないね。 >>926
庄屋名主村役人は在来領主の家がなってる場合が多いから東西関係無く家柄良い場合が多い。
うちの田舎では村役人が武士で言う馬乗り以上だった。 >>931
高祖父さんが生きてるってだけで驚きだわ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 名主(庄屋)・組頭・百姓代
この三つを村方三役という。地方(じかた)三役とも言った。
組頭は五人組の責任者。
(ただし長い間には五人組のうち何人もが貧農になることもあるので、必ずしも
五人組の中の一人とは限らなくなった。本百姓の中でも富裕な者がなった。)。
百姓代は名主と組頭の監視係。今でいう監事みたいなもの。
年貢は領主から村に対して課せられたもので、百姓の個人的な負担分と
いうものはなかった(村受制度)。
領主から名主に「お前の村は今年は○○石」と年貢の指示があると、これを
名主が本百姓に割りふる。そして組頭が責任をもって自分の属する五人組の分を
集めた。組頭は名主の補佐役・協力者という地位にあった。 ところが名主と組頭が組んで不正を行うことが多かった。
本当は500石と言ってきたのに550石と指示されたと言って余計に集めネコババ
したり、組頭が自分の分を軽くしてその分を他の四人に負担させたりした。
明らさまな不正でなくても、村受け制度の結果、その年収穫が悪くて年貢を払えない
百姓がいれば他の百姓たちが立て替えなければならないわけで、最終的な割り付け
やその償還・利子の支払いにあたって不正が行われることが多かった。
さらに、村の入り用(村の自治のための費用)は年貢とともに集めるので、年貢より
多くの米を集める。そこで、入り用の額を誤魔化すという形で不正が行われる
余地もあった。
(字が読めず計算もできないと誤魔化されることが多かったので、百姓たちは子供に
読み書き算盤を習わせた。これが日本で識字率が高かった理由の一つだという。)。
こうした誤魔化しを監視するために、江戸時代中期から本百姓たちの代表としての
百姓代という役職が設けられたのである。
百姓代の活動を通じて、本百姓たちは年貢の仕組みや村入り用の内容を知り、改革
の意思を持つようになった。特に本百姓たちが問題にしたのが村役人に対する種々の
免租の特典であった。不合理なものというより、村役人たちが勝手に作り出したものが
多かったのである。年貢の割り付けや立て替えも不公平なものが多く、村入り用に
関する不正も多かった。せっかくの百姓代も名主たちと同じ穴のムジナであることが多く
なり機能しなくなる。すると本百姓たちは改革を求めて騒動を起こした。
これを村方騒動という。
百姓一揆が領主に対する反抗であるのに対して、村方騒動は不正を暴いて領主に
訴えるところに違いがある。 >>751さんのレスを見て(自分は>>747です)うちも庄屋だった事があるのかな、と気になって図書館で郷土史、国会図書館で分限帳?(藩内の村方三役の名前が書いてある名簿)を見ましたが、うちが昔住んでいた村は、村方三役とも別の人の名前が載っていました。
郷土史や藩の記録に断片的に先祖の事が書いてありましたが、江戸時代はすでに別当寺だったようで、家族にも家に伝わる話を色々聞きましたが、昔から寺と神社だったみたいです。
(図書館のレファレンスも利用しましたが、結構助かりました)
元々武家と聞いていると書きましたが、武将だった先祖が残した日記が戦前まであったと家族から聞いたけど他の古文書と一緒に殆ど焼けてしまったらしいのでどうにもならない、、、。 >>925
普通は新田開発だろう。領主が開発したり、村受け開発というのもあり、また商人が
投資として開発事業をすることもあった。
そうやって新たに拓かれた農地に入ったんじゃないの。
>>938
昔は神仏混淆で神と仏が一緒に祀られていたが、全体を管理していたのは
常に寺だった。神社を管理していた寺を神宮寺とか宮寺という。
伊勢神宮や出雲大社にだって神宮司はあったのである。
神宮寺にいて神社と寺を統括していたのが別当。
別当というのは官職の名称で、今でいう「長官」というような意味。
別当が何人もいるとき、その最高位の者を執権という。
神宮寺という寺であるところから分かるが、別当は僧だった。
だからあなたの先祖が別当だったのなら間違いなく仏僧だった。
別当で有名なのが別当公曉(べっとうくぎょう)。源実朝を暗殺した鶴ヶ岡八幡の
別当である。二代将軍源頼家の息子である。
本来将軍になってもおかしくない地位にあったが、父親の失脚によって
僧にされていた。当時鶴ヶ岡八幡は寺でもあり、寺の規模の方が大きかった。
明治になって神仏分離により寺の部分は壊されたが、それにより建物は
三分の一になってしまったという。
別当公曉の例にあるように、領主が自分の建てた寺に別当として一族の者を
送り込むことはよくあった。長男と次男は武士にするが、三男は僧にするという
ような具合。別当という地位に就くのはたいへんなことなので、やはりバックには
武将というような大名レベルの実家があったのだと思う。 >>938
明治維新後、寺だけじゃなく神社もたくさん潰されてるから、そこに残ってた記録類もどうなってることか。 >>938
>国会図書館で分限帳?(藩内の村方三役の名前が書いてある名簿)を見ましたが、
>うちが昔住んでいた村は、村方三役とも別の人の名前が載っていました。
村方三役の名は正確なものか分からない。
実体と分離していたことがあるようだ。
村役人の罷免や交替を要求して起こるのが村方騒動だが、領主に要求しても通らない
ので、自分たちで勝手に別の村役人を決めてしまうことすらあった。
(これに近い事例 http://sito.ehoh.net/noumin11.03.05.23.html)
村方騒動は村方出入(でいり)とも言って、喧嘩のようなものだった。
「打ち壊し」というのを聞いたことがあると思うが、気に入らない名主の家などは
柱を切られて綱で引き倒されてしまうこともあった。
領主に直訴した村役人6人が首を切られた事件があったが、後の研究でこの6人は
当時の村役人とは別の人達であったという報告がなされているものがある。
研究者はたぶん、あなたと同じように分限町を見たのだろう。
そしたらそこに書いてある名前とは別の人たちだったのである。
だが、斬首された6人が領主に対して自分は名主だとか組頭だとか名乗ったのは
事実なのである。 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFM7cedbKFAAyBqU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 名主・庄屋・肝煎といった村方の指導層が一揆、打ち壊しの中心的役割を果たす場合もあらば標的にされる場合もある
名主・庄屋さんも大変だね >>922宇田川って世田谷の方なのか杉並の荻窪、南荻窪あたりもでかい農家に
宇田川が多くて豪邸があると大抵宇田川だな。 >>939
勉強になりました
寺と神社を兼業していたから別当寺っていう位の認識しかなくて
郷土史その他には「○○神社別当○○院」と書いてありました
>>940
神社は今でも町にあって最近見に行ったんですが(地方です)、神社のすぐ近くにある酒店が昔名主だったようで、むしろそういう家から話を聞く事が出来れば色々な事が判ったのかも知れないけど、気が引けたので止めました
横レスすみません
あまり書くとウザくなってしまうのでこれでやめておきます >>944
世田谷吉良氏の給人宇田川木工頭の子孫を自称してる
品川区、江戸川区辺りも宇田川の本場で、こちらは上杉の庶流にして関東郡代伊奈備前守忠次の仕えた後に浪人し新田開発 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>938 郷土風土記が結構出ている。
古本サイトで探してみると意外なヒントが見つかるかもよ。
結構高いけどね。
古書専門サイト
https://www.kosho.or.jp/ >>939 うちの地方では、1600年代に神社の境内に寺が建立され、明治になって神仏分離令で寺は別のところに移って独立した。 別に >>747 へのレスじゃないが
神宮寺の僧を社僧という。社僧は神社の管理だけでなく、神殿の前でお経をあげた。
参拝者も神社・寺を区別していなかった。江戸時代までは仏は合掌、神社では
柏手という決まりもなかった。好き勝手に拝んでいたのだ。
神社に坊主が居たってちっとも不思議に思わなかった。
ところが神仏分離令でそれは有り得ないことになった。
神仏混淆といっても、主体が寺である場合と主体が神社である場合とがある。
1.寺が主体である場合は神社を切り離せばよい。
例:東大寺 境内の鎮守である手向山八幡を独立の神社とした。
もちろん、廃仏毀釈で主たる寺が潰されればそれまで。
2.神社が主体で、それに管理事務所としての神宮寺が付いている場合。
この場合は寺は廃寺になってしまう場合が多かった。
逆に寺に重きを置いて寺として存続を図る場合もあった。
後者の例 京都の曼殊院 天満宮が主体だったが、門跡寺院という格式があったので
寺として存続。さらに天満宮も残した。ま、別当が皇族なんだから特別か。
寺が廃寺となった場合、そこにいた社僧はどうなったかというと、おそらくは神社に移れず
還俗してしまう人が大部分だったと思われる。
いったんは宮司となるが、その後やめていく人も多かったろう。
ただ、別当の中にはそれまでのトップという地位を生かし、神社に移ってからも宮司の
最高位につくような人もいた。
どのような扱いになるかは別当の個人的力量による部分も大きかったろう。 747が祖先は宮司だったというなら、いったんは神社に移って宮司になったのだろう。
しかし現在もその神社はあるものの、そこで血縁者が宮司をやっているわけではないと
いうのなら、神社に移ってから後に宮司をやめたのではないか。
神宮寺に住んでいたからといって別当だったとは限らない。
別当以下階級があった。
http://tobifudo.jp/newmon/jinbutu/shasou.html
さらに、「○○神社別当○○院」というのは何を指して言っているのか不明。
寺院のことなら神宮寺の境内に建てられた小寺院のこと。
詳しいことは調べてくれ。塔頭(隠居した老僧の住む建物)だったりすることが多い。
大きな寺院だと院の中にいくつもの「坊」がある。
神宮寺の名前は別にない。神社と同じ。
鶴ヶ岡八幡宮は寺としては「鶴ヶ岡八幡宮寺」だった。
人間を指して「別当である○○院」ということならきわめて高位の僧だ。
世俗的にも天皇や上皇、将軍などでないと・・・。
そうでないなら修験者。修験者の法名は「○○院○○法師」などとつけた。
この○○神社というのは修験道系の神社かも知れないな。
近くに修験の山があるとか、山伏の祭りがあるとかいう町なら可能性大。
修験道系の神社は明治の神仏分離で簡単に寺を廃し、神社に鞍替えした。
修験道はもともと仏教より神道に近いものなんだろうな。
だから別当その他社僧が神主になるのもスムーズだった。 >>953
家が昔やっていた寺は修験道で、確か明治2年で寺を辞めた事が書いてありました
「明治まで法印○○(うちの名字)氏が永い間宮司を務めた」と県史に記述があったので
明治になっても宮司は続けていたのだろうかと家族に聞いてみましたが、
判りませんでした
曾祖父が継ぐ気がなかったっていう話はしています
因みにやっていた寺は神社の境内にあったようで、今は集会所になっています
寺は神社とは違う名前で、○○院は寺の名前です
郷土史や藩の記録など幾つかの文献を見ましたが、「別当○○院」と書いてありました
(図書館のレファレンス・サービスで調べてもらったのもあります) >>953
スムーズでも簡単でもなかった神社もあるから
全部がそうだったような書き方はいかがなものかと 955氏のレスで思い出したが三嶋大社は社僧を還俗させるのにかなり
骨を折ったらしく拷問や殺された人もいると何かで読んだな
お隣浅間大社にいたっては宮司が神社に戻れなくなったのをいいことに
薩摩の人間を強引に送りこまれて切り崩しくらったとも… 浅間大社宮司家の菩提寺は廃寺とされたのに三嶋宮司家の菩提寺は
続いたことが不思議だったのだがそういう背景で考えると納得 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>954 明治までわかってるなら、自分の戸籍をとってみたら? 江戸後期くらいまでは辿れるかもよ。
俺も辿り寄せて、江戸後期に婿養子に来た家系だったので少し落胆したことがあったが、昔は当たり前だったんだろうな。
直ぐに朝鮮に行ったのでなんでだろうと思ってたが、多分田畑が少なくて外に出ざるを得なかったのかも。 全てがつじつまが合う。 >>954
ご先祖は別当寺におられたということなので、それなら本体は神社だったのだろうと
思ったのだが、もしかしたら江戸時代までは寺だったかも知れない。
修験者が里に拠点を作るときは寺にすることが多かった。
その場合、本山は山の中にあるということにし、里に作るのは院や坊という形にした。
(いわゆるお里坊。だから当山派の山伏は金峰山を本山とし、本寺を聖護院などと
いう名前にする。本山派の山伏は熊野三山を本山とし、本寺を三宝院などとした。)。
二十七先達という言葉でググってみるとよい。ほとんどが院や坊である。
ご先祖の寺の名前は△△院で、その別当寺として○○院という寺があった。
○○院というのはいわゆる寺務所のようなもので、院屋とか院室といわれることがあった。
△△院の方は神仏分離で神社とし、○○院は廃寺とした。ということかも。
修験道系の寺は、寺といっても鳥居があったり(鳥居の上にさらに三角の屋根型の
板をつけたりすることがあったが)、僧であっても僧形をしていなかったりするものが
多かった。(本山派なら有髪。総髪にしていた。主立った者は武士のように髷を結わず
長く垂らしていた。天一坊や由井正雪を想像するとよい。勿論今は聖護院でも坊主頭)。
だからここは神社だといえばその日から神社として通用したかも知れない。
あなたのご先祖も、別当だったから僧だったと上に書いたが、普通の僧の格好は
していなかったと思う。ただし、法印は僧の位であるので、僧であったことは間違いない。 神社にするについて、祭神は修験道系の寺はいろいろ祀ってあるので苦労はない。
神仏混淆の中から生まれた牛頭天王を祀る神社が多い。牛頭天王は、こういうわけの
分からない名前はつけるなと明治政府から通達があり(慶応4年 神祇官事務局達)
八坂神社とか須賀神社などという名前になった。
須賀神社だとアニメの「君の名は」に出てくる神社がそうである。
四谷鎮守ということであるが、これも昔は寺のような神社のようなものである。
http://tokyo-trip.org/spot/visiting/tk0384/
ここに
「江戸切絵図には「稲荷山宝蔵院天王社」と記され、天王社とその別当だった
稲荷山福田寺宝蔵院があったことがわかります。」と書いてある。
「稲荷山宝蔵院」だから寺であり、「天王社」だから神社である。
修験道の寺であれば神社になってもやることはほとんど変わらず、ご先祖が神主に
なるのも問題はなかったと思う。普通の寺や神社では坊主が祢宜どもを見下して
威張っていて神仏分離・廃寺で途方にくれたが、そのようなことはなかったはずである。
だからとりあえず神職にはついたのではないか。
だが、明治五年に「修験道廃止令」が出ている。
公的には山伏というものが無くなってしまった。
さらに明治六年に出た通達で修験者のやる呪術祈祷等が禁じられてしまった。
その後も細かく禁止条項が増やされていき、普通の神官のやることしか出来なくなる。
山伏というものは呪いや祈祷、占術で食っているものである。
それが出来なければ商売にならない。さらに明治の世で呪術祈祷でもあるまい。
ごく小さな神社として存続させるなら一家族くらいしか食えない。
ご先祖が神官になっておられたとしても、このへんで見切りをつけたのかも知れない。 神官とか別当といえば、私の実家はさいたま市の兼業農家なんですが、先祖は氷川神社の社僧で、戦国時代には社僧のまま岩槻の太田氏の出城に仕えて小田原で籠城し、のちに帰農したという伝承があります。
実家は普通の兼業農家で本家も旧名主でもなく、また長屋門等もなく大正期の倉が1つあるだけの家ですが、伝来の刀が大小
一振ずつあり、てっきり戦国時代の物だと思っていたのですが、先日親族に不幸があり帰省したときに衝撃の事実を知りました。
その刀は、幕末期にご先祖が志願して領主の旗本に若党として江戸で仕えた時に帯びていたものであると。
なんで志願してまで旗本の若党になったのかわからないんですが、侍に憧れていたんでしょうかね?
刀と陣笠が残されていますが、ひょっとして鳥羽伏見の戦いに備えて領主が募兵したのか?先祖は従軍したんだろうか?
などと色々思いをめぐらせています。
うちの先祖は百姓なのでもちろん平民ですが、すぐ隣にある村の名主の家は領主と共に甲斐から来たらしく維新まで領主の家士の扱いを受けていました。 庄屋なのに江戸中期に二代だけ諱もつ家って、
なにがかんがえられるんですか? >>963
たまたまその二代だけ記録が残っていただけでは? >>954
>「明治まで法印○○(うちの名字)氏が永い間宮司を務めた」
すまん。神社+別当寺ということで普通の仏僧ということしか頭に浮かばず、
それで法印を僧の位のことだと思ってしまった。
修験の寺(ないし神社)であるとすると、法印はただ山伏という意味かも知れない。
昔は山伏のことを「法印様」などと呼んでいた。
今は山伏のうち経験豊富で中心的存在の人を法印と呼んでいるらしい。
昔でも頭領格の山伏のことを指して言うような気もする。
いずれにしても「法印○○(うちの名字)氏」というのは「山伏の○○氏」という意味と
捉えるべきかも。
「明治まで・・・・務めた」と過去形なので、神社になってから振り返って書かれている
のだろう。だから「宮司」となっていると思われる。
上にも書いたように山伏が里に建てるのは寺だ。
「○○神社別当○○院」とあるが、○○神社という言い方をするのは明治になって
からである。それまでは祇園社とか天満宮とか山王権現といったような言い方。
あと、>>961 にいろいろ書いたが、一番書かなければならないのは神社における
世襲制の禁止のこと。それと神社は国家の管理するところとなり、神主(神職)は官吏
ないし準官吏となったこと。たしか明治四年かな。
田舎の神社でも諸社という社格を得ると町や村から奉幣(お金)を受けた。
神職は官吏扱いである。
だから無格社というどうでもいい神社でないかぎり、親が神主でも跡をつぐことはでき
なくなった。「曾祖父が継ぐ気がなかったっていう話はしています 」というのはいつの
ことか分からないが、関係あるかも知れない。
官幣大社になるような大きな神社だと、神祇官から神主が送り込まれた。
>>956 「お隣浅間大社にいたっては宮司が神社に戻れなくなったのをいいことに
薩摩の人間を強引に送りこまれて切り崩しくらったとも… 」というのは
そのあたりのことだろう。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>963
1.士分の家から婿を貰った。その婿が自分の息子に諱をつけた。
これで二代
2.困窮した藩は金持ちに金納させ、代わりに士分に取り立てた。
坂本龍馬の家などはそういう金納郷士。士分となっても商人は商人の
まま変わりはない。龍馬は商人の子として育った。竜馬がゆく、なんて
のは全部嘘。ただし、士分だから竜馬には諱がある。
金で士分を得た場合、その地位は一代の場合もあり世襲できる場合もあった。
一代限りの場合、その士分を得た人と、その人が生きてる間に生まれて成人した
息子がいればその人に諱がつくはず。
3.国学の徒になった。江戸の中期に国学が大流行した。
国学の徒は日本における正統とは何かに非常にこだわるので、自分の名に
諱をつけた。庄屋レベルの人だと国学をやった可能性は大いにある。
国学をやった人が、自分と自分の息子に諱をつければ二代。 >>956
その送り込まれた薩摩人宍野半は富士山山頂から何百年と山頂で
下界を見守り続けた仏像を降ろしただけでは飽き足らず富士山中から
仏像を全て排除させるという蛮行をやった人
ただ、浅間大社の宮司を務めるにつれ富士山に異常なまでの畏れを持ち
しまいに新興宗教教祖にまでなってしまったという変わった人
そしてなぜか浅間大社の膝元富士宮ではなく富士吉田で新興宗教を開いた >>968
富士(浅間)信仰をめぐって浅間大社と村山浅間神社とが主導権争いをした。
明治になるまでは村山浅間神社が優勢であった。
http://www.city.fujinomiya.lg.jp/fujisan/llti2b0000001lrf.html
村山浅間神社は山伏が築いた富士山興法寺が基になっているらしい。
村山というのは修験の村で熊野系らしい。
富士の登山代行を請け負っていた。もともと山伏というのは寺社への代参を
主要な仕事としていた。
浅間大社との間で、八合目から頂上までは村山浅間神社の支配とするという
取り決めがあった。頂上に大日堂という祠を有していたようである。
しかし、神仏分離で興法寺がなくなり、一挙に劣勢に陥る。
山頂の支配も失う。
その背景に明治政府の力を背景にした宍野半の活動があることは知らなかった。
寺は駄目になり、官幣大社の威光にかなうはずもない。
地蔵や積み石は全部捨てられた。
村山登山道も使われなくなった。
968のおかげで理解が立体的になった。
新田次郎 芙蓉の人 の、富士山に小屋を建てるなと言ってくる山伏は村山修験
だったのかと思った。しかし観測小屋造りに協力したのもこの人たちである。
修験の人たちが宗教的基盤を作り上げていく過程がよく理解できた。 山伏寺だったのが神社になって、今も加持祈祷してますというのがあった。
埼玉県富士見市の水宮神社
http://www.tojoshinbun.com/mizumiya.html
地域の氏神は氷川神社で、、、と言っている。埼玉の氷川神社は熊野系の山伏(聖護院を
本山とする)がいたらしい。社僧とかしていたのか。もちろん大宮や川越などにもいたという。
埼玉は熊野神社も多いけどね。
明治何年かの通達で神社で加持祈祷とかするなって言われてるはずなんだが、この神社は
平気のへいざである。
加持祈祷をするなら本尊である仏が必要。本山派なら不動明王だろう。
不動明王+護摩炊き でないと加持祈祷にはならないだろう。
しかしこちらは神社としたときに天照大神や大国主命など六柱の神を祀ったという。
ご神体が厨子の中に入っているのだろうか。
こういう神様に病気快癒とか祈ってもらってもなあ
https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g1021398-
d9731898-r561211922-Mizumiya_Shrine-Fujimi_Saitama_Prefecture_Kanto.html
写真が面白い。
ハチャメチャだが山伏寺の特徴が少し残っている。
鳥居の上の屋根が本格的なら山王鳥居に近づくかも。
祭壇の厨子のような扉。
山伏は仏像を厨子に入れて担ぎ、里人に拝ませた。その形が残っている。
だが中にお祭りしてあるのは何だろう。わけわからん
立って歩きたいカエルとか輪投げの占い.
お稲荷さんの社は自分で造ってペンキ塗ってるし。境内に二宮金次郎。
明治政府は神道を近代国家にふさわしい宗教にしようと思って頑張ったんだが・・・
上の方の人のご先祖はやめてよかったね。 >>965 なんか色々知らないことを教えてもらってありがたいが、うちの本家の神社と照らし合わせると全く違うけどね。 最初から今まで神社。
うちの神社は明治以降の社格だと郷社。 1300年代に京都の神社から招請してうちの先祖が大宮司となりその後代々受け継いできてる。 うちの名字の本家が代々この神社の宮司。
昔は正五位を貰った事があったみたい。
ずっと神社だし。
宮司をやりながら本職は鎌倉武士だったが世の中の変遷で神主職が本職みたいになっていったみたい。 >>937
あなたは神仏混淆が分かっていない。神社はあったんだよ、寺にも。
神様なんぞ掃いて捨てるほどあった。由来もたいへんなものだった。
そこいらへんの祠みたいのが延喜式まで遡ってしまう。延喜式からさらに
「そもそもは・・・」で白鳳時代まで遡ってしまったり。
要するに延喜式神名張まで遡って、そこに載ってる神様を「勧請をし」てお遷しした
ことにするからいくらでも古くなってしまう。
まあ寺も同じようなものだ。新しく寺を建立するときは、昔そこにあった大寺の名跡を
継ぐことにするんだ。そうやって建てれば、後は「1300年前何々上人が・・・」とか、
いくらでも寺の由来を語れることになる。
修験の神社で「最初から今まで神社」なんてあるわけないって。
ふつうは神社中心でも四つも五つも寺がくっついていたりした。
別当寺にいて法印で、なんで神主オンリーなんだよ。
法印様で神主でもあったということだろ。
昔は坊主が神も仏も拝んだの。
大げさに言うと、江戸時代までの神社の実体は、明治政府によって闇に葬られて
しまった。国民は洗脳されてしまった。
このことを激しい言葉で語っているブログがあるよ。
https://ameblo.jp/adgjmptw-214c/entry-11059044861.html
明治の神祇官がやったことは宗教革命だったのだ。
役人たちは宍野半みたいな狂信者の集まりだったと言ってもいいくらい。 例えば、(何でもいいのだが上に出てくるから大宮氷川神社を例にとると)、武蔵一宮
であり皇室の四方拝の対象ともされた神社でも寛政の頃はこうだった。
https://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_1946/e/bfd06a3e34f0c2348d9a1101c821a707
境内に天神も稲荷も愛宕神社も住吉神社も石上神宮もある。一方で観音堂も不動堂もある。
主祭神として男神と女神と中氷川様といわれる神(たぶん男神と女神の子)が祀られている。
池の向こうにあるので、おそらく古い時代には上賀茂神社のように白砂を山にして
神の依代(よりしろ)としてあったのだろう。さらに古い時代は、森の中のただの空間(神地のみ)
であった。(沖の島のような祭り方)。
参道を挟むように神宮寺が並んでいる。それぞれ「○○院」という塔頭の形式である。
(大徳寺に塔頭が二十いくつある。みな○○院という寺号である。高桐院などを知っている
だろう。ああいうのと同じ。)。このいずれかに別当が住んでいた。
神宮寺は明治になって全部破壊され、神主の館だけが残っている。今の建物はたぶん明治
以降のものだろうが寺院の形式である。
973のご先祖がずっと神主で最初から今まで神社だったのならすごいことだ。
日本史を書き換えるような発見といっていい。
>うちの名字の本家が代々この神社の宮司。
繰り返しになるが、だって「別当寺に住んでる法印様」だったんだろw
俺の書いたことは全部無駄だと思う。他に読んでくれる人もいると思って書いただけだ。
ごめんな 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>975 自分の話が法印様の話とは全く別の話なのは理解してるが、話を一般的な神社と一緒の話としてるみたいだし、ずっと神社であったことがさも珍しい様な話は受け入れ難い。
うちの場合は神仏混淆で神社の中にも仏様を祀ってたらしい。 境内に寺も建ってたらしいが定かでは無い。
うちの神社は小さいが大きな神社だと大昔から何何家が代々宮司をしてるなんて珍しくもないだろ。
出雲大社権宮司 の千家氏に、典子様が嫁がれたが、この千家氏は元出雲氏で一子相伝で出雲大社の神職を行ってたが、1340年以降、千家氏と北島氏に分かれ千家氏が代々宮司を継いでいる。
つまり大昔から代々宮司の例だよ。 >>973さんと、昔家が別当寺だったとレスした自分は別人です。念のため
色々教えて下さった方ありがとうございます >>975 大宮氷川神社を調べてみたが、あそこは社家の角井家が代々宮司を勤めてたんじゃ無いの?
代々宮司を務める家柄を社家と言うんだけど。 社家なんてごまんとあるだろ。
氷川神社全体での社家は、
石井家、角井家、内倉家、氷川家
この4家で氷川神社を守ってた。
ここの寛政時代の様子を見るとその時代は寺の方が勢力があった様に見えるけど。
https://i.imgur.com/TG6mNVz.jpg
明治維新後、社家の世襲が禁止されたらしいが、何故うちの神社がお目こぼしを受けたのか知らない。 そう言う見方で調べたことがなかったから。
でも自分で作った神社を他の人が守るなんて変じゃ無い?
西角井正慶 のWikiを見るとやはり明治になって社家を下されてるみたいだね。 しかし、それまで社家は代々神主を続けてきた。
想像するに、ある格以上は許されてたのでは無いかと思われる。 (神社の格か社家の格かは知らないが)
神社の社格を守るためには神社の財産がある程度以上と言う制限がかけられたらしい、うちの神社の場合は氏子が山を寄付してくれてその価値を少し水増しして格の問題はクリアしたらしい。 それでも郷社だから大宮氷川神社の社格よりずっと下。
うちがなぜ続いているのか知らないが、昔から天皇家を助けていた事でお目こぼしされたのかな? >>925 その頃までだったら戸籍を取り寄せるとヒントがわかるかもよ。
多いのは婿養子に入ってきた場合。 田畑が少なくて苦労しただろうけど。 先祖に関係ない長い文章が連続してるから書き込みを躊躇するね・・・ >>979
石井ではなくて岩井だよ
あと、氷川家は氷川神社近隣に城を構えていた太田三楽斉の四男である潮田出羽守の家臣であった金杉氏が小田原落城後に社家になり氷川を名乗ったが一代限りで追放されている あと、氷川神社にも維新後に交野時万という尊攘派の元公家が大宮司として入り込んだ
今は東角井家が宮司職を世襲 >>968
官幣大社の一覧を見ていたらすごいことに気づいた。
富士山本宮浅間大社と富士山本宮浅間大社奥宮は別々に官幣大社に
列格されているんだな。だから今も別々の宗教法人。
http://www.genbu.net/engi/indexsya.htm
上に書いたように村山興法寺が富士八合目以上を支配し、頂上に大日堂を
置いたが(大日如来のお堂である)、このお堂を浅間大社の奥宮であるとしてしまった。
奥宮である以上、浅間大社の一部であるはずだが、わざわざこれを独立の神社とし、
おまけに官幣大社にしてしまった。
浅間大社の一部とすると、興法寺(これは明治になって無くなったから正確には村山浅間神社
だが)から返還請求がなされかねない。いや、請求されるに決まっている。
そこで浅間大社に累が及ばぬよう独立の神社とし、かつ官幣大社という社格を与えてしまった
のだ。
宍野半がやったのだろうが、ものすごいことをやるもんだ。やりたい放題だな。
浅間大社の祭神を木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)にしたのも笑える。
官幣大社にするには天皇家や天皇家の祖神とかかわりのある神でなければならない。
山の神は女といわれているので女神であって、かつ天皇家とのかかわり有りというと
天つ神の皇子ニニギノミコトの妻であるコノハナサクヤヒメが丁度よいのである。
皇室の先祖にあたるからである。神武天皇のひいおばあさんになるのか。
しかし、一介の官吏が千年続いているかも知れない神社の
祭神を新たに勝手に決め、さらに皇室の祖神コノハナサクヤヒメを富士山の山の神にして
しまうなど、おそろしいばかりである。 実は宍野半などの神祇官の官吏は、薩摩でやったことをそのまま敷衍しただけなのである。
幕末、薩摩藩は藩内の寺を全て廃し、僧は全員還俗させてしまった。
徹底した廃仏毀釈をやったのである。
薩摩藩のやり方
http://inakaseikatsu.blogspot.com/2018/05/11.html
「まず行われたのは神仏分離だった。廃仏毀釈以前、鹿児島に存在していた4470の神社の
うち、ご神体が仏像でなかったのは、ただ一社しかなかった。一社の例外を除き全ての神社の
ご神体は仏像であったのだ。神道と仏教は分かちがたく共生しあっていた。
しかしこれが「神仏混淆」と批判され、廃仏毀釈運動では、これら仏体のご神体を強制的に
取り除き、新たに神鏡などをつくって祀らせた。−−−中略−−−
後期廃仏毀釈になると、より積極的に信仰が改変されていく。「復古神道」の実現を名目として、
『古事記』『日本書紀』『延喜式』等に書かれていない神を異端扱いし、祭神のすげ替えまでが
実施されるのである。」。
氷川神社にも明治になって官選の宮司が送り込まれ、祭神のすげ替えをやられた。
氷川神社と別のところにある女体社(氷川女体神社)と中氷川社の三社は一体であるので
女体社と中氷川社は合祀。三柱の神は男神と女神とその子供か何からしい神なので、
須佐之男命 (すさのお の みこと)
稲田姫命 (いなだひめ の みこと)
大己貴命 (おおなむち の みこと) の三神とした。
稲田姫命 はクシナダヒメで、オロチに食べられてしまうところをスサノオに助けられ妻に
なった女神。大己貴命はオオクニヌシノミコトで、スサノオの娘の婿さんである。
馬鹿馬鹿しいにもほどがある。ふざけた選択である。 >>959
前に謄本を取った事があるんですが
自分も幕末辺りまでは判りました
高祖父の前の代まででした
真新しい発見は特になかったんですが
謄本に記載されている、明治大正まで住んでいた場所の住所と、今も残っている神社の住所が一致していたので、やっぱりここに住んでいたんだなと。
幕末以前になると過去帳かなあ
しまいこんであって見た事はないけど 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 浅間大社の話なんか全く関係ないのに長々とご苦労さん。
元の話とどこが繋がってるんだろう?
氷川神社の話も尾ひれが長すぎてほとんど意味をなさない。 自分の神社知識をひけらかすスレじゃないんだよ。
話の流れに沿って要点をまとめる様にしないと嫌われるよ。
もしも話を続けたいならコテハンをつけてほしい。 >>977
出雲大社の千家家はもしかしたら天皇家より古いんじゃないかと言われるぐらいの家。
そういうのを持ち出されてもな。それに研究者によると千家家は少なくとも二回は断絶
しているという。天皇家も宮家をたくさん作ることで皇統を絶やさずにきたわけで、それでも
江戸時代に閑院宮(かんいんのみや)家を作らなければ断絶していたのではないかと
いわれている。現在の皇統は閑院の宮家から出ているのだ。
そういうことを考えても、特別の承継システムの無い宮司の家が現在まで続くというのは
疑問だ。続いているといっても明治以前は歌舞伎の襲名みたいなものじゃないのか。
現在宮司の世襲が認められない中で世襲を貫いている家はあと二つあったはず。
だが、廃絶と併合を繰り返しても八万あるという全国の神社の中で、この三家の例にどれだけ
の意味があるのか。君は佳子様でももらうつもりかよw?
君の家の本家はずっと神社だったというが、神社なんてものは明治になるまで無かったのだ。
上に書いただろ。○○神社なんて称するようになったのは明治から。
須賀神社の例まで挙げてやってるだろ。
神様を主体としていても○○山○○寺○○稲荷明神とかさ。
鶴岡八幡でいえば、鶴岡山八幡宮寺八幡宮だ。
湯島天神は寛永寺の管理下にあったので東叡山寛永寺湯島天満宮であった。
これに喜見院という別当寺が付いていた。湯島天神は天台宗のお寺だったのだ。
神社と寺が別のもので、神社だけど仏様も祀ってたという捉え方が既におかしいんだよ。
それは明治以降の神祇官によって洗脳された考え方で、江戸時代までの人は
これは寺だな、とかこれは神社だな、とは考えなかった。
拝み方も神には拍手で仏は合掌なんてこともやっていなかった。 君の家の本家はずっと神社だったというが、神社なんてものは明治になるまで無かったのだ。
上に書いただろ。○○神社なんて称するようになったのは明治から。
須賀神社の例まで挙げてやってるだろ。
神様を主体としていても○○山○○寺○○稲荷明神とかさ。
鶴岡八幡でいえば、鶴岡山八幡宮寺八幡宮だ。
湯島天神は寛永寺の管理下にあったので東叡山寛永寺湯島天満宮であった。
これに喜見院という別当寺が付いていた。湯島天神は天台宗のお寺だったのだ。
神社と寺が別のもので、神社だけど仏様も祀ってたという捉え方が既におかしいんだよ。
それは明治以降の神祇官によって洗脳された考え方で、江戸時代までの人は
これは寺だな、とかこれは神社だな、とは考えなかった。
拝み方も神には拍手で仏は合掌なんてこともやっていなかった。
神仏習合が分からないのは本地垂迹ということが理解できていないからかも知れない。
ウィキの春日権現の項目がよく書けているので見てみたらいい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E6%A8%A9%E7%8F%BE
春日大社には祭神が四柱。中門の向こうに社殿の屋根が四つ見えるのは知っているだろう。
春日の四神は武甕槌命と経津主命、祖神である天児屋根命と比売神。
しかし、これらは実はそれぞれ不空羂索観音、薬師如来、地蔵菩薩、十一面観音であるという
のである。仏たちが日本の神の姿をして現れただけで、姿は神だが実は仏。
「観音様や薬師様や地蔵菩薩様だったのか。な〜〜んだ」、てなもん
仮に宮司なんてものがいたとしても、この仏様たちに何をするのだ?
仏は坊主しか扱えまい。興福寺の僧たちは中門の回廊で読経し、法会を行った。
神殿前の僧の読経は今でも社参式という名で行われている。 上記は一部重複 つづき
では、今の神社にあたるものはなかったのかというと、それはあった。
神仏分離後のように厳密に神だけを祀っていたところは無いだろうが、神社と
いえるようなものはあった。
しかし、そういうものは独立してやっていけるわけではなかった。
何故かというと、神様に拝んでもらって金を払う人間などいなかったからだ。
神社など商売にならなかった。金にならないから神社を残すには寺と一緒にして
寺の管理で何とか存続させるしかなかった。
一方、寺は金がかかった。言い方を変えると僧は稼げたのだ。
僧が護摩や祈祷をし、神様が祀ってあるなら神の前で経を唱える。そういうことを
有り難がって人々はお布施をはずんだのであって、神主に金を払うような物好きな人間は
いなかった。
神社だけというのは食えないから、神主は百姓をやっていた。あるいは大工とか。
祭礼のときだけ神主の格好をして祝詞をあげたりした。
神主というのはボランティアのようなものだった。村の鎮守などはこうして守られてきたのだ。
神主をやるのは村の中の役割分担の結果であった。名主などがやることも多かった。
神主の装束も、現在は神社庁の規定もあり整っているが、昔の神社の神主などが着て
いたのは三河万歳みたいなものだった。
神社単独では、こういう形でしか存続できなかった。 NHKのファミリーヒストリーに狩野英孝がとりあげられていた。
実家の神社の歴史が辿られていた。昔火事にあって維新の頃とかの大事なところは
全然分からないという。火事の原因は三角関係での女の放火。
神主だったがずっと農業をやっていたということである。
社格は村社である。当時無格社とされればどんどん併合されてしまった。併合というが
併合されれば結果はうち捨てられて朽ちてしまうだけである。
村社という形でも残れたのは、敷地が広いのが幸いしたのか。
それとも実家は大百姓だったとか。(何か分からないが、狩野の家は神楽や田楽舞い
をやる家だったのではないかという気がする。)。
神社が残る残らないは運もあった。
https://girhythm.yokohama/sakuradayama-jinja
>>979
上記寛政時代の絵図面を見ると参道際の家には「神主」と書いてあるんだから
神主だったんだろ。宮司なんて言われてたのか?俺は知らんけど。 どんなに神仏混淆が進んでも、どうやっても神は僧だけのものにはならなかった。
それは何故かというと、神は怒るものだからである。気に入らないと怒るのである。
(仏は怒らない。ここが大きな違い。)
神社の御神輿を担ぐのでも、ちょっと前までは氏子しか担げないというところが
ザラにあった。氏子以外の者が神輿に触れると神が怒ると思われていたのである。
日本においては、神というのは祈りの対象ではなく、ただ畏れ敬うものであった。
祭りは神のご機嫌をとるためのもので、それ以上の意味は全くなかった。
神は本来人間の触れざるものであり、禁忌のかたまりであった。
だが、現実には触れざるを得ないこともある。
神がいますとして禁足地とされたところでも、まったく放置はできない。
草が生えれば草むしりをし、木が倒れれば片づけをしなければならない。
その他もろもろ、どうしても人の手が入らなければならない部分はある。
それをやる特別の人達がいたのである。(古くは五、六歳ぐらいまでの子供にやら
せていたのだろうが。)。
(そういう人達の流れが後の世の神人(じにん)である。大人になっても童子の
ような髪型や服装をしていた。)。
石上の神杉に触れたら番人に叱られた。あんなことをしたから私の恋はうまく
いかないのだろうか。という意味の万葉の歌がある。
神木に触れるなど許されなかったのである。
強訴のときに神木を運ぶのは春日の神人で、僧は付いていくだけだった。
僧は身分が高く神人を使役していたのかというとそうではなく、僧は神木になど
触れなかったのである。神と特別の関係にあり、隷属民であるが一種聖視され
ていた人々がいた。神地に入っていっても神に罰せられない人たちがいた。
その種の人々の上位に神主たちはいると考えればよい。
神主はどんなり世が変わっても神を祀る以上は必要欠くべからざる存在だった。
だからといって神仏混淆の世でも神主が力を持っていたということはない。
神主は、僧が支配する中での、いわば専門職のようなものになっていた。 なっがいなぁ。一人でやってて楽しいか?
他の人が寄り付かんから止めてくれや。 村の小さな神社でも吉田家支配なら神主には位階受領がある >>992 なんか思い込みが激しいな。
自分の家系の神社のことしか知らなくて他の神社については知らないと言っても良いが、うちの場合は最初から神社だけだし周りの地元の昔からの神社も一緒に祭り、ある時からは近所のほとんど全ての20位の末社を祭っていた。
収入は氏子からだけではなく、周囲の国人らからの寄付も結構あった様だ。 社領も持っていたし。
また、家系が続かないだろうというのも思い込みだけである。
現在でもうちの家系の人間は本家の周りに何百人かはいる。(特殊な苗字なのでうちの家系以外の人間とははっきり区別できる。) 自分はそこで生まれたが物心着いてからはよその土地で育った。
神主修行をしているうちの家系の人間は今でも十人近くはいるから今の宮司の直系が途絶えたとしてもいつでも同じ家系(血の繋がった)の宮司は補充できる体制になっている。
だって最初に今の苗字を頂いてから700年経つが今だに途絶えていないからね。
江戸時代以降はやはり儲からないから副業をしてたのは事実だが、主に教育関係が多かった様だ。 昔なら寺小屋を開くとか。
今神主修行をしてる人達は色んな神社の禰宜をやったりして一応専業で成り立っている。 血族先祖に限るなんて銘打ってるんだったらそれこそ遺伝子検査すりゃいいだろ。
男系ならY染色体追うだけで大まかな出自分かるぞ。 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。