先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
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純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。
先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る
前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/ >>973さんと、昔家が別当寺だったとレスした自分は別人です。念のため
色々教えて下さった方ありがとうございます >>975 大宮氷川神社を調べてみたが、あそこは社家の角井家が代々宮司を勤めてたんじゃ無いの?
代々宮司を務める家柄を社家と言うんだけど。 社家なんてごまんとあるだろ。
氷川神社全体での社家は、
石井家、角井家、内倉家、氷川家
この4家で氷川神社を守ってた。
ここの寛政時代の様子を見るとその時代は寺の方が勢力があった様に見えるけど。
https://i.imgur.com/TG6mNVz.jpg
明治維新後、社家の世襲が禁止されたらしいが、何故うちの神社がお目こぼしを受けたのか知らない。 そう言う見方で調べたことがなかったから。
でも自分で作った神社を他の人が守るなんて変じゃ無い?
西角井正慶 のWikiを見るとやはり明治になって社家を下されてるみたいだね。 しかし、それまで社家は代々神主を続けてきた。
想像するに、ある格以上は許されてたのでは無いかと思われる。 (神社の格か社家の格かは知らないが)
神社の社格を守るためには神社の財産がある程度以上と言う制限がかけられたらしい、うちの神社の場合は氏子が山を寄付してくれてその価値を少し水増しして格の問題はクリアしたらしい。 それでも郷社だから大宮氷川神社の社格よりずっと下。
うちがなぜ続いているのか知らないが、昔から天皇家を助けていた事でお目こぼしされたのかな? >>925 その頃までだったら戸籍を取り寄せるとヒントがわかるかもよ。
多いのは婿養子に入ってきた場合。 田畑が少なくて苦労しただろうけど。 先祖に関係ない長い文章が連続してるから書き込みを躊躇するね・・・ >>979
石井ではなくて岩井だよ
あと、氷川家は氷川神社近隣に城を構えていた太田三楽斉の四男である潮田出羽守の家臣であった金杉氏が小田原落城後に社家になり氷川を名乗ったが一代限りで追放されている あと、氷川神社にも維新後に交野時万という尊攘派の元公家が大宮司として入り込んだ
今は東角井家が宮司職を世襲 >>968
官幣大社の一覧を見ていたらすごいことに気づいた。
富士山本宮浅間大社と富士山本宮浅間大社奥宮は別々に官幣大社に
列格されているんだな。だから今も別々の宗教法人。
http://www.genbu.net/engi/indexsya.htm
上に書いたように村山興法寺が富士八合目以上を支配し、頂上に大日堂を
置いたが(大日如来のお堂である)、このお堂を浅間大社の奥宮であるとしてしまった。
奥宮である以上、浅間大社の一部であるはずだが、わざわざこれを独立の神社とし、
おまけに官幣大社にしてしまった。
浅間大社の一部とすると、興法寺(これは明治になって無くなったから正確には村山浅間神社
だが)から返還請求がなされかねない。いや、請求されるに決まっている。
そこで浅間大社に累が及ばぬよう独立の神社とし、かつ官幣大社という社格を与えてしまった
のだ。
宍野半がやったのだろうが、ものすごいことをやるもんだ。やりたい放題だな。
浅間大社の祭神を木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)にしたのも笑える。
官幣大社にするには天皇家や天皇家の祖神とかかわりのある神でなければならない。
山の神は女といわれているので女神であって、かつ天皇家とのかかわり有りというと
天つ神の皇子ニニギノミコトの妻であるコノハナサクヤヒメが丁度よいのである。
皇室の先祖にあたるからである。神武天皇のひいおばあさんになるのか。
しかし、一介の官吏が千年続いているかも知れない神社の
祭神を新たに勝手に決め、さらに皇室の祖神コノハナサクヤヒメを富士山の山の神にして
しまうなど、おそろしいばかりである。 実は宍野半などの神祇官の官吏は、薩摩でやったことをそのまま敷衍しただけなのである。
幕末、薩摩藩は藩内の寺を全て廃し、僧は全員還俗させてしまった。
徹底した廃仏毀釈をやったのである。
薩摩藩のやり方
http://inakaseikatsu.blogspot.com/2018/05/11.html
「まず行われたのは神仏分離だった。廃仏毀釈以前、鹿児島に存在していた4470の神社の
うち、ご神体が仏像でなかったのは、ただ一社しかなかった。一社の例外を除き全ての神社の
ご神体は仏像であったのだ。神道と仏教は分かちがたく共生しあっていた。
しかしこれが「神仏混淆」と批判され、廃仏毀釈運動では、これら仏体のご神体を強制的に
取り除き、新たに神鏡などをつくって祀らせた。−−−中略−−−
後期廃仏毀釈になると、より積極的に信仰が改変されていく。「復古神道」の実現を名目として、
『古事記』『日本書紀』『延喜式』等に書かれていない神を異端扱いし、祭神のすげ替えまでが
実施されるのである。」。
氷川神社にも明治になって官選の宮司が送り込まれ、祭神のすげ替えをやられた。
氷川神社と別のところにある女体社(氷川女体神社)と中氷川社の三社は一体であるので
女体社と中氷川社は合祀。三柱の神は男神と女神とその子供か何からしい神なので、
須佐之男命 (すさのお の みこと)
稲田姫命 (いなだひめ の みこと)
大己貴命 (おおなむち の みこと) の三神とした。
稲田姫命 はクシナダヒメで、オロチに食べられてしまうところをスサノオに助けられ妻に
なった女神。大己貴命はオオクニヌシノミコトで、スサノオの娘の婿さんである。
馬鹿馬鹿しいにもほどがある。ふざけた選択である。 >>959
前に謄本を取った事があるんですが
自分も幕末辺りまでは判りました
高祖父の前の代まででした
真新しい発見は特になかったんですが
謄本に記載されている、明治大正まで住んでいた場所の住所と、今も残っている神社の住所が一致していたので、やっぱりここに住んでいたんだなと。
幕末以前になると過去帳かなあ
しまいこんであって見た事はないけど 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 浅間大社の話なんか全く関係ないのに長々とご苦労さん。
元の話とどこが繋がってるんだろう?
氷川神社の話も尾ひれが長すぎてほとんど意味をなさない。 自分の神社知識をひけらかすスレじゃないんだよ。
話の流れに沿って要点をまとめる様にしないと嫌われるよ。
もしも話を続けたいならコテハンをつけてほしい。 >>977
出雲大社の千家家はもしかしたら天皇家より古いんじゃないかと言われるぐらいの家。
そういうのを持ち出されてもな。それに研究者によると千家家は少なくとも二回は断絶
しているという。天皇家も宮家をたくさん作ることで皇統を絶やさずにきたわけで、それでも
江戸時代に閑院宮(かんいんのみや)家を作らなければ断絶していたのではないかと
いわれている。現在の皇統は閑院の宮家から出ているのだ。
そういうことを考えても、特別の承継システムの無い宮司の家が現在まで続くというのは
疑問だ。続いているといっても明治以前は歌舞伎の襲名みたいなものじゃないのか。
現在宮司の世襲が認められない中で世襲を貫いている家はあと二つあったはず。
だが、廃絶と併合を繰り返しても八万あるという全国の神社の中で、この三家の例にどれだけ
の意味があるのか。君は佳子様でももらうつもりかよw?
君の家の本家はずっと神社だったというが、神社なんてものは明治になるまで無かったのだ。
上に書いただろ。○○神社なんて称するようになったのは明治から。
須賀神社の例まで挙げてやってるだろ。
神様を主体としていても○○山○○寺○○稲荷明神とかさ。
鶴岡八幡でいえば、鶴岡山八幡宮寺八幡宮だ。
湯島天神は寛永寺の管理下にあったので東叡山寛永寺湯島天満宮であった。
これに喜見院という別当寺が付いていた。湯島天神は天台宗のお寺だったのだ。
神社と寺が別のもので、神社だけど仏様も祀ってたという捉え方が既におかしいんだよ。
それは明治以降の神祇官によって洗脳された考え方で、江戸時代までの人は
これは寺だな、とかこれは神社だな、とは考えなかった。
拝み方も神には拍手で仏は合掌なんてこともやっていなかった。 君の家の本家はずっと神社だったというが、神社なんてものは明治になるまで無かったのだ。
上に書いただろ。○○神社なんて称するようになったのは明治から。
須賀神社の例まで挙げてやってるだろ。
神様を主体としていても○○山○○寺○○稲荷明神とかさ。
鶴岡八幡でいえば、鶴岡山八幡宮寺八幡宮だ。
湯島天神は寛永寺の管理下にあったので東叡山寛永寺湯島天満宮であった。
これに喜見院という別当寺が付いていた。湯島天神は天台宗のお寺だったのだ。
神社と寺が別のもので、神社だけど仏様も祀ってたという捉え方が既におかしいんだよ。
それは明治以降の神祇官によって洗脳された考え方で、江戸時代までの人は
これは寺だな、とかこれは神社だな、とは考えなかった。
拝み方も神には拍手で仏は合掌なんてこともやっていなかった。
神仏習合が分からないのは本地垂迹ということが理解できていないからかも知れない。
ウィキの春日権現の項目がよく書けているので見てみたらいい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E6%A8%A9%E7%8F%BE
春日大社には祭神が四柱。中門の向こうに社殿の屋根が四つ見えるのは知っているだろう。
春日の四神は武甕槌命と経津主命、祖神である天児屋根命と比売神。
しかし、これらは実はそれぞれ不空羂索観音、薬師如来、地蔵菩薩、十一面観音であるという
のである。仏たちが日本の神の姿をして現れただけで、姿は神だが実は仏。
「観音様や薬師様や地蔵菩薩様だったのか。な〜〜んだ」、てなもん
仮に宮司なんてものがいたとしても、この仏様たちに何をするのだ?
仏は坊主しか扱えまい。興福寺の僧たちは中門の回廊で読経し、法会を行った。
神殿前の僧の読経は今でも社参式という名で行われている。 上記は一部重複 つづき
では、今の神社にあたるものはなかったのかというと、それはあった。
神仏分離後のように厳密に神だけを祀っていたところは無いだろうが、神社と
いえるようなものはあった。
しかし、そういうものは独立してやっていけるわけではなかった。
何故かというと、神様に拝んでもらって金を払う人間などいなかったからだ。
神社など商売にならなかった。金にならないから神社を残すには寺と一緒にして
寺の管理で何とか存続させるしかなかった。
一方、寺は金がかかった。言い方を変えると僧は稼げたのだ。
僧が護摩や祈祷をし、神様が祀ってあるなら神の前で経を唱える。そういうことを
有り難がって人々はお布施をはずんだのであって、神主に金を払うような物好きな人間は
いなかった。
神社だけというのは食えないから、神主は百姓をやっていた。あるいは大工とか。
祭礼のときだけ神主の格好をして祝詞をあげたりした。
神主というのはボランティアのようなものだった。村の鎮守などはこうして守られてきたのだ。
神主をやるのは村の中の役割分担の結果であった。名主などがやることも多かった。
神主の装束も、現在は神社庁の規定もあり整っているが、昔の神社の神主などが着て
いたのは三河万歳みたいなものだった。
神社単独では、こういう形でしか存続できなかった。 NHKのファミリーヒストリーに狩野英孝がとりあげられていた。
実家の神社の歴史が辿られていた。昔火事にあって維新の頃とかの大事なところは
全然分からないという。火事の原因は三角関係での女の放火。
神主だったがずっと農業をやっていたということである。
社格は村社である。当時無格社とされればどんどん併合されてしまった。併合というが
併合されれば結果はうち捨てられて朽ちてしまうだけである。
村社という形でも残れたのは、敷地が広いのが幸いしたのか。
それとも実家は大百姓だったとか。(何か分からないが、狩野の家は神楽や田楽舞い
をやる家だったのではないかという気がする。)。
神社が残る残らないは運もあった。
https://girhythm.yokohama/sakuradayama-jinja
>>979
上記寛政時代の絵図面を見ると参道際の家には「神主」と書いてあるんだから
神主だったんだろ。宮司なんて言われてたのか?俺は知らんけど。 どんなに神仏混淆が進んでも、どうやっても神は僧だけのものにはならなかった。
それは何故かというと、神は怒るものだからである。気に入らないと怒るのである。
(仏は怒らない。ここが大きな違い。)
神社の御神輿を担ぐのでも、ちょっと前までは氏子しか担げないというところが
ザラにあった。氏子以外の者が神輿に触れると神が怒ると思われていたのである。
日本においては、神というのは祈りの対象ではなく、ただ畏れ敬うものであった。
祭りは神のご機嫌をとるためのもので、それ以上の意味は全くなかった。
神は本来人間の触れざるものであり、禁忌のかたまりであった。
だが、現実には触れざるを得ないこともある。
神がいますとして禁足地とされたところでも、まったく放置はできない。
草が生えれば草むしりをし、木が倒れれば片づけをしなければならない。
その他もろもろ、どうしても人の手が入らなければならない部分はある。
それをやる特別の人達がいたのである。(古くは五、六歳ぐらいまでの子供にやら
せていたのだろうが。)。
(そういう人達の流れが後の世の神人(じにん)である。大人になっても童子の
ような髪型や服装をしていた。)。
石上の神杉に触れたら番人に叱られた。あんなことをしたから私の恋はうまく
いかないのだろうか。という意味の万葉の歌がある。
神木に触れるなど許されなかったのである。
強訴のときに神木を運ぶのは春日の神人で、僧は付いていくだけだった。
僧は身分が高く神人を使役していたのかというとそうではなく、僧は神木になど
触れなかったのである。神と特別の関係にあり、隷属民であるが一種聖視され
ていた人々がいた。神地に入っていっても神に罰せられない人たちがいた。
その種の人々の上位に神主たちはいると考えればよい。
神主はどんなり世が変わっても神を祀る以上は必要欠くべからざる存在だった。
だからといって神仏混淆の世でも神主が力を持っていたということはない。
神主は、僧が支配する中での、いわば専門職のようなものになっていた。 なっがいなぁ。一人でやってて楽しいか?
他の人が寄り付かんから止めてくれや。 村の小さな神社でも吉田家支配なら神主には位階受領がある >>992 なんか思い込みが激しいな。
自分の家系の神社のことしか知らなくて他の神社については知らないと言っても良いが、うちの場合は最初から神社だけだし周りの地元の昔からの神社も一緒に祭り、ある時からは近所のほとんど全ての20位の末社を祭っていた。
収入は氏子からだけではなく、周囲の国人らからの寄付も結構あった様だ。 社領も持っていたし。
また、家系が続かないだろうというのも思い込みだけである。
現在でもうちの家系の人間は本家の周りに何百人かはいる。(特殊な苗字なのでうちの家系以外の人間とははっきり区別できる。) 自分はそこで生まれたが物心着いてからはよその土地で育った。
神主修行をしているうちの家系の人間は今でも十人近くはいるから今の宮司の直系が途絶えたとしてもいつでも同じ家系(血の繋がった)の宮司は補充できる体制になっている。
だって最初に今の苗字を頂いてから700年経つが今だに途絶えていないからね。
江戸時代以降はやはり儲からないから副業をしてたのは事実だが、主に教育関係が多かった様だ。 昔なら寺小屋を開くとか。
今神主修行をしてる人達は色んな神社の禰宜をやったりして一応専業で成り立っている。 血族先祖に限るなんて銘打ってるんだったらそれこそ遺伝子検査すりゃいいだろ。
男系ならY染色体追うだけで大まかな出自分かるぞ。 このスレッドは1000を超えました。
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