天智・天武・壬申の乱などの雑談スレ
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
蘇我入鹿全盛期から天武天皇崩御の前後までの時代に関する雑談スレをつくりました。
過疎スレになると思うので「原則として」アゲ進行を推奨します。 >>846
元(源氏)は平氏(北条政子)に乗っ取られた鎌倉幕府(源氏)を助けるために
来たと言うことか >>850
渡来人でなければ人類の起源は日本か?(頭大丈夫か 三韓からの上奏文の終わりに近づいても決起が起こらず、蘇我倉山田石川麻呂の声が震えだしたため、入鹿が怪しみ出した為! >>839
秀吉の中国大返しはのろかったって
定説じゃん
しつこいな、九州説の馬鹿者は >>854
>秀吉の中国大返しはのろかったって
定説じゃん
のろかったら「秀吉の中国大返し」なんて今に伝わるもんか。 あほんだら
おまえは「壬申の乱 吉野の宮→(吉野の険しい山越え女人連れ)→不破 4日間 170キロ 30人→3万人」
を 愚直に信じている畿内説の大馬鹿学者と同じだ。 >>855
「中国大返し」は速度が速かったことを言っているわけではない
あほんだら
九州説の大馬鹿学者と同じだ >>856
じゃ、わざわざ、なにをいってるんだ?
おまえは「壬申の乱 吉野の宮→(吉野の険しい山越え女人連れ)→不破 4日間 170キロ 30人→3万人」
を 愚直に信じている畿内説の大馬鹿学者と同じだ。 >>857
>>858
連投馬鹿w
170キロなら一日に40数キロ
フルマラソンすら2時間〜4時間で進めるのだから行けるだろう
また途中から合流した尾張の豪族たちから調達した騎馬隊があったと言われている
九州説の大馬鹿学者と同じだ。 >>859
>170キロなら一日に40数キロ
>フルマラソンすら2時間〜4時間で進めるのだから行けるだろう
もはや、救いようの無いアホ 秀吉の中国大返しは、4日かけて高松城→姫路城を踏破したんじゃなかったか?
6月4日出発、7日姫路着
1日当たり60〜70キロ >4日かけて高松城→姫路城
>1日当たり60〜70キロ
これ、いったい何キロ間の計算してんの? >>862はこれを愚直に信じている畿内説の馬鹿学者か? 馬で行くのもたいへんだよ
慣れている人ばかりならともかく >4日かけて高松城→姫路城
>1日当たり60〜70キロ
これ、いったい何キロ間の計算してんの? 生年不明になっているのは天智と双子で忌み子扱いだった、
とかはないか? >>862
>4日かけて高松城→姫路城
>1日当たり60〜70キロ
これ、いったい何キロ間の計算してんの? 下がりすぎたので (*^_^*)あげ(*^_^*) 下がりすぎたので (*^_^*)あげ(*^_^*)
>>862
>4日かけて高松城→姫路城
>1日当たり60〜70キロ
これ、いったい何キロ間の計算してんの? 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
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念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
RLI 蘇我は河内上宮法皇(アマタリシヒコ大王)の大臣
上宮法皇一家死亡は大和による暗殺の可能性
大王に支配されていた大和は終に入鹿をも暗殺し河内を倒した
同年、難波(大王の首都)に大和孝徳が遷都を宣言したのがその証拠
大和が倭国の全権を握ったので大化を最初の年号と国史はする
http://www.geocities.jp/jhistoryverification/amatarisihiko.htm
その後、百済の崩壊で政権はめまぐるしく変わり、血脈は国史とは異なる
http://www.geocities.jp/jhistoryverification/fuyoyuu.htm アマタラシ系を滅ぼした蘇我
オキナガタラシ系(大津皇子)を滅ぼした鴨と天武
天武朝は自壊して、
皇統は月に戻る
天之御蔭 日之御蔭と隠坐て 龍田神社
天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀ったと『日本書紀』の記述が初見である。
祭神
天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされている。
天武は息長タラシ系を滅ぼしたんじゃないかな
そして鎮魂したと
草薙剣に祟られたのにも訳がある
大津皇子可哀想だな。
辞世の句
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
ももづたふ、敦賀や鈴。
イワレと鴨を恨んでいるのかな。
雲隠りなむ、太陽が雲に隠れるのかな。
太陽は烏。
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕離家向
金烏の家は西にあるのかな。和泉路に賓主はなし。
我こそが応神天皇の子孫だと言いたかったんだろう。
息長氏(敦賀、鈴)、応神天皇 上宮法皇の暗殺は大和かもしれないし蘇我かもしれない
上宮法皇の死から孝徳の遷都までは河内と大和の抗争 大和は河内より古い政権
河内が4ー5世紀に有力になったが大和は倒れなかった
6世紀淀川水系(継体)が有力になったが河内も大和も勢力を失わなかった
7世紀はじめ河内が倒れて大和に政権が戻ったのが大化 >>496
そっスね
当時の唐軍の動きを見れば
天武朝の動きも見えてくる 天智称制は王がいないことになっている
元倭国王は存在していた 封禅に行く予定になっているのが元倭国王
大海人皇子のことだろう 「大阿毎」と書けばはっきりする
http://www.geocities.jp/jhistoryverification/fuyoyuu.htm 蘇我稲目、蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿って蔑称だとおもうが
丈六光銘では巷哥伊奈米、巷哥有明子と書いてるね
蔑称にするなんてパワハラじゃねえのか 丈六光銘には巷哥有明子大臣の長男善徳と書いている
蘇我はみんなまともな名前なんだな
何で書紀は変な漢字にしたのかな? 書紀ってまったくいやな性格だよ つまり、書記を作った側からすると、蘇我を貶める理由があったのだな スメラミコト側からすると政敵ということなのだが
入鹿暗殺後すぐに難波への遷都宣言してるのは難波は蘇我の支配下だったということ
このとき最初の大化年号がつけられたのはスメラミコト側がはじめて全政権を握ったということ?
それまで難波はなんだったんだ?
蘇我はスメラミコトより上だったのではないか だから貶めているんだよ 蘇我氏こそがもともとの倭王で
中大兄に王位を簒奪されたという奇説もあるな。 それ奇説じゃなくて本命にちかい
蘇我が大和系のうえであったとするほうが説明しやすい
「入鹿は権勢を誇ったので誅された」のは蘇我が上位であってもそういえる
入鹿の少し前には倭国王アマタリシヒコ大王がいたが 日本史にはでてこない
蘇我はアマタリシヒコ大王の大臣じゃないかとおもうのだがな 蘇我氏は急進的なテクノクラート集団だったのさ
だから潰された 蘇我は臣だけれどテクノクラートだとしてもいいよ
急進的なとは大和になかった技術をもっていたということかい?それは何?
テクノクラートを潰したのだとすると名前を貶めたことがわからない 書紀は改竄しているから 物語的なのはやむをえない
書紀から史実は読み解けない
まず確実な資料から動かぬ史実を押さえて 書紀は参考程度に読むべし >入鹿暗殺後すぐに難波への遷都宣言してるのは難波は蘇我の支配下だったということ
最近の考古学の成果では686年(朱鳥元)正月に全焼してしまった難波宮築城はどうやら7世紀後期中葉以降(670年代?)ではないかと示唆されています
そもそも大化の改新自体がなく、あったとしても7世紀後期の改革ではなかったかとされていて乙巳の変も年代が下る可能性があります 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 なるほど前期難波宮の完成は後ろにずれ込む可能性ありということですか
書紀でも645に遷都を宣言しましたが落成には時間がかかっています
書紀の大化の改新の諸政策は今や後世の潤色とされています
ところで幸徳はなぜ難波に遷都宣言したのでしょう
これは事実でしょう、実際前期難波宮は遺跡として存在していますから
遷都宣言を645年として難波ってどういうところだったのでしょう?
四天王寺がありました。四天王寺で賑わっていただけでしょうか? >>900
遣隋使の使節団をもてなす迎賓館(鴻臚館)が難波にあっただろ
当時は瀬戸内海を通って大阪湾に着岸していた
孝徳天皇は港町の難波に本拠地を置くことで積極的な対外交渉をしようとした 埋め立てた進んだ現在、難波宮跡は内陸にあるが
当時は上町台地の西まで海が入り込んでおり
難波宮跡は海を見下ろす高台に位置していた 難波には大伴氏の本拠地があった。
仁徳天皇は難波に住んでいた。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 仁徳は堀江を開削して河内湖を排水した 大阪市内の大川は仁徳の土木工事の結果できた
ここに港ができ半島との交流も盛んになった 迎賓館もあったようだ
仁徳はここに宮を作った 南門から丹比までのまっすぐの道を作った(潤色説もあるが堀江の開削よりやさしい)
河内は商工業の中心地となった 百舌鳥古市古墳の人々は難波を拠点にした人々
中でも雄略(ワカタケル大王)は鉄武具の統一で全国制覇した倭の五王の武
武から100年後ハイセイセイが泊まった迎賓館は難波の迎賓館
このときの倭国王はアマタリシヒコ大王
推古とハイセイセイが会ったとする書紀はアマタリシヒコ大王の存在を否定
ハイセイセイが来た時の倭国の都は難波であって明日香ではない
仁徳の丹比への道(難波大道)と孝徳がたてた前期難波宮の中心線は一致する
異論はあるだろうが 難波は明日香より栄えた都だった
こういう事実を踏まえた上で書紀を読みなされ 世界史板でもここのいくつかと同じ長文レスをあちこちで見かけるんだが・・・ 用明と孝徳がほぼ同じ干支年に即位・崩御、名前も寮母も同じというのは。。。
用明即位 585年 45歳 橘豊日 穴穂部間人孝女 崩御47歳 磐余池上陵→53歳に磯長陵に改葬
孝徳即位 645年 45歳 天万豊日 間人孝女 崩御54歳 磯長陵 書紀に書いてある年次・姻戚は適当と疑わねばなりません
正確な文献・金石文・遺跡から史実を構築することです
法隆寺釈迦三尊光背(現存)により上宮法皇は実在しました
後の法王帝説はこの光背を引用して上宮法皇を聖徳太子(厩戸)として取り込もうとしましたが破綻しています
したがって上宮法皇は書紀上の人物とは別に実在しました 彼こそがアマタリシヒコです
磯長(河内)の聖徳太子廟は三棺あって上宮法皇(母・妻と連続死)のものです。
法王帝説と同じく上宮法皇=聖徳太子(厩戸)を主張するために聖徳太子の親の用明の墓を磯長に改葬しんじゃないですか
用明と兄弟の推古の墓も磯長に改葬されていますし、小野妹子の墓も近くにあります まるで物語です
こんなことをして書紀の史実作りをしてるんじゃないですか? 神武天皇稜すらあるわけですから
真実はひとつしかありませんよ
http://www.geocities.jp/jhistoryverification/amatarisihiko.htm 稲荷山古墳出土鉄剣の金石文もどう頑張っても「ワカタケル」なんて読めやしないのに牽強付会で無理やり雄略としたり
もうむちゃくちゃ 記紀宗教はホントむちゃくちゃ そもそも「ワカタケル」なんて副将軍とか将軍代理くらいの意味で
名前じゃなく役職名だろうにねえ なるほど
稲荷山の「獲加多支鹵大王」は「□かた□ろ大王」とは読める
江田船山の「獲□□□鹵大王」と同一人物と考えてよさそう
年次的には全国統一を果たした「武」が「大王」を称していた
獲加多支鹵大王≠雄略なら書紀の虚偽がひろがるだけで
武とアマタリシヒコが大王を名乗ったことにかわりはない 仁徳天皇陵の被葬者は実は雄略天皇ではないかという説が一時期あったが。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 岡ミサンザイ(現仲哀陵)は5世紀でも新しい段階のもので
多くの研究者はワカタケル大王のものと考えている 稲荷山の「獲加多支鹵大王」は本拠地がシキの宮なんだから崇神天皇だろうに >>916
武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと、生年不詳 - 崇神天皇10年9月27日頃)は、記紀に伝わる古代日本の皇族。
第8代孝元天皇皇子で、崇神天皇(第10代)に対する反乱伝承で知られる。
(ウィキペディア)
崇神天皇が欠史八代の正当な後継者なのかどうか微妙。
あるいは簒奪者だったのかもしれない。 河内王朝について
ワカタケル大王からアマタリシヒコ大王までの詳細は不明だけれども河内に王家があったことは古墳からも確実
過去に河内王朝と言った人がいるが河内王朝以前を創作としたのは間違いだろうね
大和には河内より古い勢力あったことが古墳上から証明されている
公費をもらっている学芸員は河内王朝を必ず否定する
河内王朝はあったのだが大和朝廷が唯一とする史学見解を否定することになるからね
天皇陵と称して調査を封鎖しているのは歴史を暴露されるのがいやだからだろう
仁徳天皇陵内の出土品の現物はボストン美術館にある 文字の一つもないのかね
時代があわないとか言いがかりをつけるのは歴史をぼかす目的さ
ボストンに置いたままのほうが改竄されずにすむ
古代東洋史の問題だから中国・韓国とともにやればよろしい 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 孝徳が652に難波宮を完成させたのに すぐ皇太子が上皇・皇后・皇子および公卿百官を連れて大和に戻り
孝徳が落胆して退位しようと山崎に宮を作った が、病を得てなくなったと出ています
孝徳以外の全員で難波を投げ出したような放漫な政治のように見えますが 何があったのですか >>920
それがわかるとよいのだけれど理由はわからないよね
そもそもなんで皇極天皇は退位したんだっけ
後の経緯からすると可能なら退位せずに済ませたかったんだろう
状況からやむなく軽皇子をたてといたが実質権力は皇極・中大兄チーム側にあった
孝徳チームが意向に沿わない路線をやり始めたから対抗するために難波から出て行った… 孝徳が難波に取り残されたころの国内事情や国際情勢で特徴的なものはありますか
一国の王を置き去りにするとは余程大事なことがあって、意見の相違があったとかが
なければ政治能力ゼロを思わせる記述です
書紀はどういうつもりで粗略に書いたのでしょう? >>921
> そもそもなんで皇極天皇は退位したんだっけ
だよなあ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 大化の改新前の中大兄皇子は、大王になれる可能性は高かった?低かった?
中大兄皇子の子供は、なぜ男子が少ないのか?女子は多数いるのに。 いや、こうだと思うね
大化改新は河内国を大和が手に入れた事変
明日香が河内国に威力を見せ付けるために威信をかけて立派な前期難波宮を作った
明日香陣営が難波に乗り込んだが既存の河内勢力との融和はならなかった
これが明日香勢が明日香に戻った現象 孝徳は自分の無力さに失意し崩御した
これを河内の存在を抜きにして語ると書紀のようにはなる
大化白雉ときたが孝徳の死とともに以降年号がないのは大和の政治でなくなったから
その後河内がつけた年号はもちろんあったのさ 大和史観からは空白
>>926
書紀の芸能的な記事には関心がないのだよ 孝徳は難波で内政を主にしているが
次の斉明は内政らきしことをしていない 蝦夷征伐とか百済問題とか将軍のような行動
難波にも明日香にもいた 九州で客死した
王は動かないものだから 倭国王は別に難波にいたのではないかと憶測する 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>929
どこかの寺に推古天皇とトヨトミミ大王が併記されてる資料があったはず
天皇と大王の並立時代があったのかもしれない >>931
聖徳太子は推古天皇の近親者ではなかったのに
強引に系図をくっつけたという説もあるな。 古代日本史は記録の操作があるが
天武天皇が天下を掌握して以降の歴史記録は
おおむね正確で信頼できるのではなかったかな? >>931
丈六光銘のこと?止與彌擧哥斯岐移比彌天皇と等與刀禰ゝ大王が併記されている
609年の作だが原本はなくコピーが747の元興寺縁起資財帳にでている
609年はアマタリシヒコ大王(上宮法皇)存命中で彼以外が大王と記されることはない
スメラミコトはいたかもしれないが大王が倭国王であることは隋書から明らかで
天皇と大王が両巨頭として並存したなんてことはない いずれにしても日本書紀にデタラメが含まれると言えます。
大化の改新に「そもそもなかった」説
『日本書紀』の孝徳紀には645〜647年、天皇が11の詔を下したとあります。
漢字の音訓が混じった和化漢文で書かれ、群臣の前で読み上げたとされています。
しかし、和化漢文が一般化するのは670年ごろのことなので事実としておかしい。
また、孝徳天皇が営んだとされる前期難波宮は、近年の発掘調査で、もう少し後世の天武天皇の時代のものではないかと見直されている。
律令制度が我が国で本格化するのは、白村江の戦(663年)で敗北し、国内の改革を痛感するようになった天智天皇の時代だ。 書紀は記録でなく700年以降に書いたものだからおのずと潤色となる
実際に孝徳という人は大化の改新に近いことをやったと思う
前期難波宮は掘立だが天武期のものなら礎石ではないのか
孝徳はあまりにもそれまでの政治と違うし
天万豊日天皇から百済扶余豊=孝徳ではないかと思うのだが
扶余豊は623年生まれ643年に倭国にきている
書紀は孝徳を654年に死んだことにしているが生きていたのではないのか
百済の皇子が人質ね 扶余勇を参考にしてもわかるようにすごい人物だと思うよ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >実際に孝徳という人は大化の改新に近いことをやったと思う
やってないと思う
そもそも幸徳なんて天皇の実在性が疑わしい 天智も天武も簒奪者だから間にワンクッション挟んだろっていう潤色 元興寺縁起資財帳(747作)に塔露盤銘(651作)のコピーが載っていて
題名の部分に「難波天皇」という表現がある 年次から孝徳にあたる
豊碕宮ができるまでも上町台地のどこかに宮を作っていたくらいで、孝徳は河内専従
明日香の連中に去られたとき隠居用に山崎(京都府)に宮を用意した 孝徳は明日香に戻るつもりはなかった
孝徳(軽皇子)に天皇位をすすめた鎌子が皇極3年に退去した先の三島郡と山崎は隣接している
大阪北部って当時なにがあったの?
>>938
何で孝徳におおいなる潤色をほどこしたのだろう 吉野宮とか和泉宮とか単なる離宮とは思えないんだな
吉野宮は泊瀬と関係が深そうだし >>934
それだそれ。
並立と書いたのは良くなかったかもしれない
両立くらいの方がよかったか
力関係が等しいとは俺も思っていないんだ >>940
> 大阪北部って当時なにがあったの?
軍事氏族でなおかつ大王家には逆らわない大伴氏の根拠地がそのあたりではなかったか?
違っていたらすまん。 >>942
卑弥呼のときに「共立」がでてくる
共立の意味は各国々の王家から倭国の王が決められた
河内あたりが大王を称し長年倭国王であった
アマタリシヒコ大王は最後の大王で倭国王
河内より古い大和のスメラミコトが倭国王を得たのが孝徳のときと思っている >>943
軽皇子は皇極紀に6回名前はでるが姿は現さない
孝徳は難波専門 退位後は(大伴支配?の)摂津に隣接する山崎を予定
孝徳は大和の人ではないんだろう 敏達の孫として挿入された? 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 孝徳の白雉5年遣唐使は「地理と国初の神を問われ答えた」とでる
新唐書に神の名と神武から皇極までの天皇名が並んでいるのはこれに対応する
漢風諡号は700年代にできた説を採用すると
新唐書は和風諡号から漢風諡号に記録を塗り替えたことになるが本当か
また後ろの記事では斉明ではなく天豐財とかかれていたりする
新説として「書紀のあらすじは孝徳のときには出来上がっていた」
「漢風諡号もすでにあった」を提唱する 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>923
皇極天皇はトリカブトで毒殺されたんやで レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。