【独眼竜】伊達政宗【遅すぎた戦国大名】
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どうだろ?今度は徳川と組んで北条を圧迫か、或いは北条とそのまま同盟つづけて西側と対決するか…
どうも前者かなあ… 或いは北条伊達に新たに徳川を加えて三者同盟結んで秀吉と対決。
これが一番可能性あるかも。 あとあと背後を突かれないように相馬か宇都宮を攻めたと思う。 織田信長があと何年か長生きして
伊達政宗と会っていたら
面白かったのに 二人とも実績がともなわないのに過大評価されてるよな。
民衆皆殺しの極悪人としても共通してるw せっかく芦名滅ぼしたら
秀吉の小田原攻めだから痛いな
もう少し時間があれば
佐竹を滅ぼして関東に進出できたのに 登米市の資料館に行ってみたら、伊達家って平安時代から続く武門の名家なんだな。
奥州探題っていう位の高い一族なのだ。 >>29
その書き方だとまるで奥州探題をずっと世襲していたように聞こえるなw 奥州に介入し、芦名と組んだ佐竹を叩く
相馬と岩城が佐竹討伐に従わなければ
まず、相馬岩城を壊滅させるだろう 小田原攻めがあと数ヶ月遅かったら相馬も佐竹も滅亡していただろう 伊達ってそこまで凄いか?
一部の宮城県人が持ち上げてるだけの気がする。 伊達を中央で迎え撃つ秀吉は、家督以前の家柄から天下人だぞ。
いや、伊達が雑魚だとは言わない。しかし秀吉には太刀打ち出来ないだろう。 いくら伊達ががんばっても、早く生れても
北条を滅ぼせたとは到底思えないんだが?
なので、どうあがいても史実通り中央政権に屈服する以外に道はない。 佐竹氏次第でしょ
佐竹氏の所領をポーランドみたいに伊達北条で南北で分割して返す刀で東北統一
後顧の憂い無く北条氏と同盟できるなら家康の挙動も分からなくなる 贔屓武将なんて時代で変わるだろ
100年後は最上が天下をとれた男とか言われてんじゃないか 今日の地方紙でも、また慶長遣欧使節が震災復興とか書いてるしw wikiの慶長遣欧使節欄、気持ち悪いくらい政宗贔屓の書き方してあるな
知識ないので書き直せないが、出典無い事柄を断定した書き方してる辺りファン系の人物事典だわ 慶長遣欧使節
震災復興
でググると、大沢さんと言う学芸員のブログが出てきたわ。
ソースもなしに断定してるあたり、こいつが火付け役だと思われ。 政宗が10年早く生まれていても
伊達家相続後も蘆名盛氏が存命のせいで葦名家には介入できないから
領土拡大のペースは史実と比べて格段に落ちるだろうし、
北条との抗争が1580年代後半ほど激化していない、
比較的余力のある状態の佐竹と衝突することになるから
大したことできなそう
十年早く生まれてもその十年を奥州での泥沼の抗争に費やすだけで
結果は変わらない悪寒 >>48
ない。下手すれば、最上義光以下の評価だった。
あの大河ドラマで評価は逆転したけどね。ただ、時間が経って今は
どうなのかは判らない。 あのドラマでは最上義光は悪に描かれすぎた
最後のほうで優しい爺様に変貌してた記憶 政宗は最終的に従二位、権中納言まで昇進している
最上や佐竹と同列ではない 大正時代の流行の奴まで持ち出すと逆にショボく見えるからやめとけw 十年早く生まれていたらなんて言い草は公の業績に対する最大級の侮蔑 10年じゃなくて1年早いだけで
相馬岩城佐竹を滅ぼして
200万石の大大名になったな 従二位とか階級賞とかそういうの東北人は好きやなあw
あんたらマゾ気質やろ?
反日なのか忠誠犬なのかはっきりせい >>51
政宗は最終的に従二位、権中納言まで昇進している
従四位上陸奥守の毛利元就や、従四位下大膳大夫の武田信玄、
従五位上左京大夫の北条氏康とは同列に扱えない! 伊達政宗>>>>(越えられない官位の壁)>>>>毛利、武田、北条、上杉、今川、細川その他クズ大勢 >>59
その理屈だと政宗より前田利家のほうが格上。
政宗は従三位権中納言が極官で死後贈位で従二位だけど
利家は従二位権大納言が極官で死後贈位で従一位だからな
政宗ごときが中央に来てもフルボッコだな
まあ中央にはその前田利家よりもはるかに有能な信長や秀吉、家康もいるわけで
東北南部で暴れてた坊やが天下を取れるとか論じる時点でおこがましい 政宗なら佐竹を滅ぼしたら
あっさり水戸に本拠を遷すかもね
玄服当初の書状で関東制覇って書いてるし 伊達家の内や周辺勢力の情勢変化自体、上方や関東の情勢変化に呼応して変化したんだから、
単に田舎勢力だから遅れて勢力が肥大しただけだよ。 鉄砲の導入にしろ、隣接する大勢力に対抗する勢力の統合にしろ、軍事上の大変革が起これば、
隣接地域にドミノ式に影響が広がってゆく。
自勢力もいち早く変革しないと滅ぶだけだし、遠隔からの情報には田舎ではなかなか取り入れにくいから。
伊達の片メクラは、ちょうど奥羽の入口あたりにその影響が波及する時点で一番の勢力だったというだけ。
時間軸を繰り上げても、片メクラが勢力を伸ばす下地自体が存在しない。 全体的に信長・秀吉・元就とか火事場泥棒系のコソ泥大名ばかり糞みたいに評価しようとするのが
アホマスコミ
斉藤が弱りきってた事やら北畠の分裂・六角の弱体化・尾張のチート国力など
周辺状況は基本無視。
なのに本能寺の時だけ状況的に見て運が悪かっただの言って糞みたいなダブスタで信長秀吉元就マンセーの馬鹿がNHK なんで信長の火事場泥棒のおこぼれに預かっただけのたいした戦功もない雑魚が信玄より上になるんだ? 伊達政宗とか言う火事場泥棒系のコソ泥大名ばかり糞みたいに評価しようとするのが
アホマスコミ
北条氏との抗争で佐竹が弱りきってた事やら葦名家中の分裂・大崎の弱体化
天文の乱以降もある程度残った南東北への影響力など周辺状況は基本無視。
なのに奥州仕置の時だけ状況的に見て運が悪かっただの言って糞みたいなダブスタで伊達政宗マンセーの馬鹿がNHK 周りな弱体化してもそれに付け入る才がなければ小大名のまま
佐竹ももともとは強かった
北条のの膨張を抑えられなかった時点で才がなかったということ つまり奥州仕置までに豊臣に対抗できる勢力を確保できなかった時点で
政宗もせいぜい地方の有力大名以上に成り上がれる器じゃなかったということですね そもそもIFを真面目に論じる奴は頭がおかしい
信長厨が筆頭で政宗厨と信玄厨が続く >>71
つうか、政宗の「福島全県制圧」は、奥州の、中世的な馴れ合いが、西から進む抜本的社会改革の影響で一瞬退いた、
しかし、まだ「桃山的中央政府」は、完全には、奥州まで影響を及ぼしきれない
その間隙を最大限に突いて、ほぼ「考えられるベストの最大領域」を制圧したわけだから、
IFの成立の余地が、そもそも全く存在しないんだよね。
政宗は、大変に強運な男で、ほぼ所与の条件で、考えられる最も巨大な権力を握ることに、
各場面ごとに、見事に成功している。
ということは、「史実以上の活躍は無理」ということで、
つまり、伊達政宗ほど、IF妄想に適さない武将も居ない、ということだと思う。
政宗ヲタは、IF妄想ではなく、「史実の妄想解釈」が主流なんじゃなかろうか。
唯一IFが成立し得るのは、1615年の大阪の陣終結直後の、ただ一回だが、
あそこで、反徳川で挙兵したら、伊達に味方する者はおらず、確実に徳川に潰されただろう。
やっぱり、この男には、どこにもIFの出る幕はない。
むしろ、危機で早々に潰された可能性を論じるほうが、現実味があって面白いw >>73
だからこそ小田原攻めがもう少し遅ければ
近隣諸国を平定できたのではないかと。
芦名滅亡で隣国で一国で対抗できる勢力は上杉だけだったのだから 暗殺未遂がなく、小田原に遅参しなければ会津も安堵されたかもしれない >>71
「もし大村益次郎という鬼才がいなかったら、戊辰戦争はあんなに早く終わらなかっただろう」
と言うのは正しいと俺は結構本気で考えているが、
俺は頭がおかしいか?
俺はいいとしても、例えば
「もしクレオパトラの・・・」と言ったパスカルは、頭がおかしいどころか
人類文化史上有数の天才だった、ってのは事実だと思うよ。 別にパスカルの業績は自然科学と哲学の分野のものであって
クレオパトラについて言及したことじゃないんだけどな
パスカルが天才であることは否定することはしないけど、
ここでパスカルを引き合いに出す君が論理的だとはとても思えないな >>77
なぜ?
>>71さんは
「IFを真面目に論じる奴は頭がおかしい」と言っているわけで、
従って「>>71さんの主張によればパスカルは頭がおかしい」ということになる。
でも、「少くとも俺はパスカルが頭がおかしいとは思わない」。
従って「少くとも俺は>>71さんの主張に賛成はできない」
ということを述べているまでだが。
何かおかしいか?
業績がどこの分野だとか、そんなことは全く話していないのだが。
悪いが君の言っていることの方が、到底論理的には見えませんね。 っていうかさ、もし>>77さんが>>71と同一人物だったとして(別人でも構わないが)、
>>77みたいな言い方が、ただの揚げ足取り(実際には揚げ足も取れてないが)に過ぎず、
有意味な議論になってない、ってことが、どうしてわからないんだろう?
別にパスカルの頭がおかしいとか、おかしくないとか
そういうことが重要なわけじゃないんだ。
>>71さんはそもそも「歴史でIFを語ること」自体に対する反対表明をしていて、
それに対して、俺は
「歴史でIFを語ることは無意味である場合が多いけど、
でも俺の例やパスカルの例のように、歴史でIFを語ることが無意味でないこともありえる」
と主張しているわけ。
なんで、そういう論点を外して、パスカルの専門が云々とか、
そういう的外れなことを言うんだろう?そんなこと、今誰も話してないだろ?
繰り返すが、>>77の書き込みが「論理的」だとはとても俺には思えない。 あとすまんもう一つ、気になったので
> パスカルの業績は自然科学と哲学の分野のものであって
> クレオパトラについて言及したことじゃないんだけどな
パスカルがクレオパトラについて言及したのは「パンセ」の中の有名な一節において
なのであって、まさにこの部分は、
「パスカルの哲学的業績の中の大事な部分」なんだが。
あなたは哲学には詳しくないし興味もないのかも知れないけど、
一般常識としてパンせくらい読んでみてもいいと思うよ。 「歴史でIFを語るな」と主張する人間は多いが、
本当に歴史でIFを語ったことのない人というのを見たことがないのが不思議。
学術論文でIFを主眼として論説してはならない、というのは当然に正しいが、
でもよく見ると学術論文の中でも細かいところでIFが述べられていたりするし、
だからってその論文の価値が下がるわけじゃない。 話が違う方向に進んでるが。
でも政宗が10年早く生まれた場合の論文なんて書いても馬鹿にされるのは目に見えてないか?
そんなの仮想戦記でやれと言われたらいいほうで、無視されるだけだろ。
誰か学者相手にイフを論じて、真面目に返事されたら報告してほしいわ。 ていうか、政宗は父母が何歳の時に生まれた?
仮にそのイフを認めるなら、俺的には「どうすれば10年早く生まれたか」しかありえないわ。
母の年齢的に10年早い種付けは難しいと思われ、また早い種付けで政宗(と同等の器量人)が生まれる可能性はどうなんだか。
あと、領土拡大に始まり天下云々までいうなら、その根拠となりうる史料を提示の上で語れと言う他ない。 10年早く生まれたら親父と家督争いしてそう
立ってって普通なら滅亡クラスのお家騒動を何回もやらかしてるのに、命脈を保ってる希有な家だ >>85
それはありえない
若いから家督を譲らないなら
働き盛りの40で家督を譲るはずがない 政宗が十年前に生まれたならば、
他の人物も皆十年前に生まれていたと考えるのが妥当ではなかろうか? 政宗の先祖がみんな十年早く生まれ、一方で政宗の先祖に当たらない人たちがそのまま生まれたんでは、
日本史そのものがカオスだな。政宗も生まれないだろう。 いやいや頼朝も尊氏も秀吉もその他全ての有象無象が
十年前倒しになるということだろう
結論
歴史的事象の全てが10年繰り上がるだけ 伊達が天下とか言うのは、頭の悪い政宗厨が願望を歴史に持ち込んでるだけだろ なんでわざわざ日本史板でやるかなあ。
戦国板でやればまだこんなに叩かれなかっただろうに。 >>74-75
だから、そういうIFそのものの想定が、論理必然で、絶対に無理なんだ。
これは、戦国武将でも、伊達政宗に特有の現象に近い。
繰り返しになるが、
政宗が、浜通りを除く福島を一気に制圧する前提として、
1580年代中葉になって、奥州の武将間の馴れ合いが解消しつつあった、という条件がある。
これは、1570年代に、「大物同士の予定調和プロレス」だった中部地方の権力状況が
畿内を押さえて中央進出した尾張政権の圧力を受けて、あっという間に激変し、
その影響が、越後筋と関東筋から、奥州に波及してきたことによるもの。
東海勢の圧力で、社会の仕組みを組み替えられ、なりふり構わなくなった佐竹・北条・上杉の
間接的影響があってはじめて、政宗の一刀両断が可能だった。
ところが、同じ1585年には、秀吉は西国向けの私戦禁止令を出していて、東国に出されるのも時間の問題、
つまり、関西の中央政権は、東北の馴れ合いが解消したその時には、さらに次のステップに進んでいた。
政宗は、これを横目に見つつ、ギリギリまで、戦国型の私戦による領土拡張を目論んで、
その結果が、あの最大版図と、尻拭いのための、「首の皮一枚の綱渡りパフォーマンス」だったわけだから、
史実以上の領土獲得は無理。 無理ではない
少なくとも毒殺未遂がなく
速やかに小田原に参陣していれば
会津も安堵、後の岩出山移封でも
本領は残されて100万石くらいには
なっていた可能性はある そもそも毒殺未遂云々自体が眉唾。
義姫が出奔するのは小田原の陣から4年も立ったあとにだしなあ。
それに蘆名義広を没落させた後もすぐに会津の支配に成功したわけじゃない。
伊南の川原田盛次のように天正十七年秋の片倉小十郎、長沼盛秀らによる侵攻を退け
独立した立場の在地領主も多かったしそんな状態で領有主張した所で通るわけ無い。 >>94
政宗の覇権は、畿内再統一あってこそで早く生まれても同じというのは説得力ある。 家康が上杉征伐で進軍したのに
いざ三成が挙兵したら
西に行くから上杉とは事を構えるな
とはおかしいよな
家康が全軍を西に向けてしまったから
上杉は大軍で最上を攻めて
政宗も最上へ援軍を出さざるを得なくなった
一揆を煽動してたとしても
上杉の関東進軍を阻止したんだから
旧領を加増すべきだったよな 余計なことをしなけば
58万石+49万=107万石
前田家に並ぶ大大名になってたな
まあ江戸中期には実高100万石越えてたから夢は叶ったんだけどな 政宗が天下人になってたらスペインの植民地になってそうだなw 上杉が関東に攻め込まなかったのは、
上杉が庄内領を分断する形で存在する最上領の確保を優先したから。
政宗がしたのは南部領で一揆扇動して山形城に詰めていた南部利直を帰国させただけ
三千程度の援軍送ったとしてもそれは南部勢の穴埋め程度。
そりゃお墨付きなんて反故にされるわな。 "秀吉が10年早く死んでいたら"
って方が妄想しやすいな 秀吉が1年早く死んでたら
蒲生が会津、上杉は越後のままだったから
政宗も南下しやすがっただろう 政宗が10年早く生れていたら天下統一は夢じゃない。
当時の当主は相馬親子に大敗を喫し、御館の乱でも敗戦するなど戦が雑魚で
政略面でも南奥州連合の形成の波に取り残された田村との同盟を余技なくされるなど
凡庸な才覚しかない輝宗だったけど
政宗なら70年台一杯使って奥州制覇
その後南下して佐竹、北条などを潰し一気に天下に一番近い存在へ。
生れた時期が遅すぎたのが悔やまれる >>98
だろ?
政宗が大胆な動きを出来た、その本当の理由は、
畿内の革新的再統一と、これを受けた中部地方の混乱によって、
南奥の領主層が軒並み浮き足立って、ぬるいプロレスのような、中世的権力構造を捨てたところにある。
この揺らぎを最大限に使って、政宗は仙道を制圧し、会津に突っ込んで葦名を滅ぼした。
だが、それをもたらしたのは、織豊政権それ自体なのであって、
政宗は、良い顔をしない秀吉と、すぐに、それも真正面から向かい合うことになる。これは論理必然のこと。
政宗ヲタの妄想の本質的ポイントは、
「中世が永遠に続くかに思われた東北において、伊達政宗なる英雄が、突如として出現し、
誰も思い付かなかった、独創的な恐怖の征服活動を行なって、権力構造を一刀両断して、南奥を制覇した」
という、奇怪な神話にあるのかもしれない。
つまり、他の地域との連関を、何も見てない。
これは、会津が、保科松平の強烈な歴史記憶のため、更に過去の記憶を消され、葦名びいきでないことが大きいのかも。 政宗が惣無事例が出てたから相馬や岩城や佐竹相手に侵攻ひかえまくってたからな
惣無事例なければ上記勢力は史実より遥かに速く瞬殺されてただろうな
真に運が悪かった。 会津の確保で手一杯だっただけ全然控えてね〜だろーが 東北の戦国時代って、朝廷とも天下とも関係ない所でご近所喧嘩をしてる感じなんだが。
小さな島で地域にしか影響力のない二大勢力が選挙でどかどかしてる感じ それ別に四国でも九州でも関東でも北陸でも同じだろ。
そもそも朝廷自体、影響力なくなって天下と関係なくなってるし。 10年早く…ってなんで広まったんだ?
言い出したのは作家なんだろうけど大河ででも言ってたりしたん? しかし南部と津軽の抗争に決着つけたのは近衛家が津軽家に売った偽系図だから案外関係はある。
それに大崎も最上も斯波も元をたどれば足利なわけで決して朝廷と無関係ではない。
津軽の北畠は北畠顕信の子孫で南部はその家臣。
徳川・蒲生・浅野が南部を優遇したのは伊達に対する牽制。 朝廷は力は無いが大義名分のためのちからは有るからな
今もだが >>109
南東北の戦国史は、本当に「コップの中のプロレスごっこ」だからなあ。
他の地方への影響が全く存在しなかったから、
例えば、他の地方の人が、その郷土史を編纂する際に、誰も振り向かない(振り向く必要がない)
これが、中四国から関東甲信越までの地域だと、まず、「隣接する地域に確実に影響を与えて」いる。
そして、「直接または間接的に、畿内の中央政権に影響を与えて」いる。
京都の権威は失墜していたが、権力と情報のキーステーションが、ずっと畿内にあったことは確実で、
畿内に影響を与えることは、玉突き的に、他の地方への影響も与えていることになる。
東北南部の場合、畿内から埃を被った権威を貰うことはあるが、一方的に貰うだけだ。
他方、九州と東北北部の場合、畿内からは遠いが、今度は大和文化圏の外側への影響が、少なからずある。
明や李朝を震撼させ、琉球と深い関係を持った九州勢力は、当然の話なので、ここでは特に言及しないが、
北東北の場合、その動乱の帰趨自体が、北海道史に深刻な影響を与え続ける。
南奥の場合、これも無いんだよなあ。つうか、関東にすら、ほとんど影響を与えられていない。影響を受けるばかり。 「コップの中のプロレスごっこ」に最もよく当てはまるのは信長のいる尾張とその周辺だろう
道三・義龍・龍興と三代続けての内紛とクーデター騒ぎで弱体化しきった斉藤
木造・長野・神戸・関・北畠など完全に内紛で弱りきった伊勢。
遠州騒乱と松平独立で弱体化しきった今川
観音寺騒動と対浅井の敗戦で極度に弱体化しきった六角
三好や松永らの反逆で権威が落ちきり信長に助けを求めてきた足利将軍家
守護の赤松・小寺・別所など衰退した弱小勢力しかいない播磨但馬。
こんなグダグダな地域なら誰でも平定できる。信長が奥州にいたら葦名どころか大内あたりに瞬殺されてたのは間違いない >>115
「無いもの」は証明できない。悪魔の証明という。有ると主張するほうが、主張立証しなければならない。
つうか、戦国史で、南奥勢力が、「影響を与える側」になった事例って、
ほんと、ほとんど見当たらないでしょ。
強いて言えば、上杉謙信死亡後、越後が大動乱に陥った時に、
会津の葦名氏が、下越の権力状況に、少しだけちょっかいを出したことくらい。 ・直江状に怒った家康が上杉討伐に大軍で動いた
・秀吉が政宗やら奥州の戦争をやめさせようとして総無事例出した
・信長が南奥州の葦名や伊達家と友好関係を築き新発田決起に尽力した
・奥州平泉は幕府の中核だった
・葦名盛氏が佐竹義重との戦いに勝利したため北条氏政は有利に関東を北上できた
・葦名盛氏が相馬岩城二階堂猪苗代白川結城石川などに加え佐竹も加えた大連合を築き
関東で佐竹義重が築いた反北条連合と合わさり強大な源氏勢力圏が形成され
里見を降伏させ、榎本・小山領を取った北条の北進を多いに阻み、武田勝頼と組んで北条を押しまくった。
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