【独眼竜】伊達政宗【遅すぎた戦国大名】
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無理ではない
少なくとも毒殺未遂がなく
速やかに小田原に参陣していれば
会津も安堵、後の岩出山移封でも
本領は残されて100万石くらいには
なっていた可能性はある そもそも毒殺未遂云々自体が眉唾。
義姫が出奔するのは小田原の陣から4年も立ったあとにだしなあ。
それに蘆名義広を没落させた後もすぐに会津の支配に成功したわけじゃない。
伊南の川原田盛次のように天正十七年秋の片倉小十郎、長沼盛秀らによる侵攻を退け
独立した立場の在地領主も多かったしそんな状態で領有主張した所で通るわけ無い。 >>94
政宗の覇権は、畿内再統一あってこそで早く生まれても同じというのは説得力ある。 家康が上杉征伐で進軍したのに
いざ三成が挙兵したら
西に行くから上杉とは事を構えるな
とはおかしいよな
家康が全軍を西に向けてしまったから
上杉は大軍で最上を攻めて
政宗も最上へ援軍を出さざるを得なくなった
一揆を煽動してたとしても
上杉の関東進軍を阻止したんだから
旧領を加増すべきだったよな 余計なことをしなけば
58万石+49万=107万石
前田家に並ぶ大大名になってたな
まあ江戸中期には実高100万石越えてたから夢は叶ったんだけどな 政宗が天下人になってたらスペインの植民地になってそうだなw 上杉が関東に攻め込まなかったのは、
上杉が庄内領を分断する形で存在する最上領の確保を優先したから。
政宗がしたのは南部領で一揆扇動して山形城に詰めていた南部利直を帰国させただけ
三千程度の援軍送ったとしてもそれは南部勢の穴埋め程度。
そりゃお墨付きなんて反故にされるわな。 "秀吉が10年早く死んでいたら"
って方が妄想しやすいな 秀吉が1年早く死んでたら
蒲生が会津、上杉は越後のままだったから
政宗も南下しやすがっただろう 政宗が10年早く生れていたら天下統一は夢じゃない。
当時の当主は相馬親子に大敗を喫し、御館の乱でも敗戦するなど戦が雑魚で
政略面でも南奥州連合の形成の波に取り残された田村との同盟を余技なくされるなど
凡庸な才覚しかない輝宗だったけど
政宗なら70年台一杯使って奥州制覇
その後南下して佐竹、北条などを潰し一気に天下に一番近い存在へ。
生れた時期が遅すぎたのが悔やまれる >>98
だろ?
政宗が大胆な動きを出来た、その本当の理由は、
畿内の革新的再統一と、これを受けた中部地方の混乱によって、
南奥の領主層が軒並み浮き足立って、ぬるいプロレスのような、中世的権力構造を捨てたところにある。
この揺らぎを最大限に使って、政宗は仙道を制圧し、会津に突っ込んで葦名を滅ぼした。
だが、それをもたらしたのは、織豊政権それ自体なのであって、
政宗は、良い顔をしない秀吉と、すぐに、それも真正面から向かい合うことになる。これは論理必然のこと。
政宗ヲタの妄想の本質的ポイントは、
「中世が永遠に続くかに思われた東北において、伊達政宗なる英雄が、突如として出現し、
誰も思い付かなかった、独創的な恐怖の征服活動を行なって、権力構造を一刀両断して、南奥を制覇した」
という、奇怪な神話にあるのかもしれない。
つまり、他の地域との連関を、何も見てない。
これは、会津が、保科松平の強烈な歴史記憶のため、更に過去の記憶を消され、葦名びいきでないことが大きいのかも。 政宗が惣無事例が出てたから相馬や岩城や佐竹相手に侵攻ひかえまくってたからな
惣無事例なければ上記勢力は史実より遥かに速く瞬殺されてただろうな
真に運が悪かった。 会津の確保で手一杯だっただけ全然控えてね〜だろーが 東北の戦国時代って、朝廷とも天下とも関係ない所でご近所喧嘩をしてる感じなんだが。
小さな島で地域にしか影響力のない二大勢力が選挙でどかどかしてる感じ それ別に四国でも九州でも関東でも北陸でも同じだろ。
そもそも朝廷自体、影響力なくなって天下と関係なくなってるし。 10年早く…ってなんで広まったんだ?
言い出したのは作家なんだろうけど大河ででも言ってたりしたん? しかし南部と津軽の抗争に決着つけたのは近衛家が津軽家に売った偽系図だから案外関係はある。
それに大崎も最上も斯波も元をたどれば足利なわけで決して朝廷と無関係ではない。
津軽の北畠は北畠顕信の子孫で南部はその家臣。
徳川・蒲生・浅野が南部を優遇したのは伊達に対する牽制。 朝廷は力は無いが大義名分のためのちからは有るからな
今もだが >>109
南東北の戦国史は、本当に「コップの中のプロレスごっこ」だからなあ。
他の地方への影響が全く存在しなかったから、
例えば、他の地方の人が、その郷土史を編纂する際に、誰も振り向かない(振り向く必要がない)
これが、中四国から関東甲信越までの地域だと、まず、「隣接する地域に確実に影響を与えて」いる。
そして、「直接または間接的に、畿内の中央政権に影響を与えて」いる。
京都の権威は失墜していたが、権力と情報のキーステーションが、ずっと畿内にあったことは確実で、
畿内に影響を与えることは、玉突き的に、他の地方への影響も与えていることになる。
東北南部の場合、畿内から埃を被った権威を貰うことはあるが、一方的に貰うだけだ。
他方、九州と東北北部の場合、畿内からは遠いが、今度は大和文化圏の外側への影響が、少なからずある。
明や李朝を震撼させ、琉球と深い関係を持った九州勢力は、当然の話なので、ここでは特に言及しないが、
北東北の場合、その動乱の帰趨自体が、北海道史に深刻な影響を与え続ける。
南奥の場合、これも無いんだよなあ。つうか、関東にすら、ほとんど影響を与えられていない。影響を受けるばかり。 「コップの中のプロレスごっこ」に最もよく当てはまるのは信長のいる尾張とその周辺だろう
道三・義龍・龍興と三代続けての内紛とクーデター騒ぎで弱体化しきった斉藤
木造・長野・神戸・関・北畠など完全に内紛で弱りきった伊勢。
遠州騒乱と松平独立で弱体化しきった今川
観音寺騒動と対浅井の敗戦で極度に弱体化しきった六角
三好や松永らの反逆で権威が落ちきり信長に助けを求めてきた足利将軍家
守護の赤松・小寺・別所など衰退した弱小勢力しかいない播磨但馬。
こんなグダグダな地域なら誰でも平定できる。信長が奥州にいたら葦名どころか大内あたりに瞬殺されてたのは間違いない >>115
「無いもの」は証明できない。悪魔の証明という。有ると主張するほうが、主張立証しなければならない。
つうか、戦国史で、南奥勢力が、「影響を与える側」になった事例って、
ほんと、ほとんど見当たらないでしょ。
強いて言えば、上杉謙信死亡後、越後が大動乱に陥った時に、
会津の葦名氏が、下越の権力状況に、少しだけちょっかいを出したことくらい。 ・直江状に怒った家康が上杉討伐に大軍で動いた
・秀吉が政宗やら奥州の戦争をやめさせようとして総無事例出した
・信長が南奥州の葦名や伊達家と友好関係を築き新発田決起に尽力した
・奥州平泉は幕府の中核だった
・葦名盛氏が佐竹義重との戦いに勝利したため北条氏政は有利に関東を北上できた
・葦名盛氏が相馬岩城二階堂猪苗代白川結城石川などに加え佐竹も加えた大連合を築き
関東で佐竹義重が築いた反北条連合と合わさり強大な源氏勢力圏が形成され
里見を降伏させ、榎本・小山領を取った北条の北進を多いに阻み、武田勝頼と組んで北条を押しまくった。
一杯ある件 >>118
そんなもんか。どれもこれも、反対側からみれば、どうでもいい話ばかりじゃないか。
しかも、上杉征伐やら、挙句は奥州藤原氏まで持ち出してるし(しかも奥州藤原氏は北奥だ)
(つうか、時代を拡張するなら、南北朝をお忘れですよw)
結局、個別の戦闘レベルですら、辛うじて、影響らしきものを及ぼしているのは、会津の葦名だけなんだ。
東北南端に陣取り、関東や越後と関係が深い葦名が、やや特殊なポジションにあったことは、俺も否定しない。
つうか、これが>>1に関わる。
葦名と茨城内陸の佐竹が、中央や隣接地方の情勢に影響され、「リングにパイプ椅子を持ち込む」ことにより、
南奥は、ぬるすぎる八百長プロレスから、ガチンコの戦国修羅の国に、ようやく変化することになる。
でも、ようやく修羅の国になった頃には、秀吉は惣無事令のカウントダウンに入っている。
政宗が「活躍」出来たのは、この一瞬でしか無い。だから、史実がmaxなんだよ。
史実がmaxなんて武将は、そうそういないのに、どうしてこれを称賛せず、変な妄想に走るかなあ?? >>119
>>どれもこれも、反対側からみれば、どうでもいい話ばかりじゃないか
どこがどうでもいいんだよタコ
>>しかも、上杉征伐やら、挙句は奥州藤原氏まで持ち出してるし(しかも奥州藤原氏は北奥だ)
奥州や会津の戦争史で他地域への影響性のことだろうがw頭大丈夫か?
>>結局、個別の戦闘レベルですら、辛うじて、影響らしきものを及ぼしているのは、会津の葦名だけなんだ
そら南奥州の中心的存在が葦名と佐竹だから他の連中はこの2勢力や伊達との角逐という観点をなしに存在はできないってだけだろアホ
>>東北南端に陣取り、関東や越後と関係が深い葦名が、やや特殊なポジションにあったことは、俺も否定しない
葦名以北の伊達や最上も秀吉やら信長と連絡取りまくってるし御館の乱や新発田の乱での協力でも大いに中央と関わってるし
そもそも奥州がどうでもいい地域なら奥州征伐軍なんて決起するわけないし秀吉の総無事例が届くわけもないし家康も奥州征伐なんて行うわけがない
信長の頃ですら中央と伊達や最上は多いに連絡しあってたりするのに
>>葦名と茨城内陸の佐竹が、中央や隣接地方の情勢に影響され、「リングにパイプ椅子を持ち込む」ことにより、
意味がわからん。中央や隣接地域の情勢に影響されてリングにパイプいすを持ち込んだって何のことだ?
>>南奥は、ぬるすぎる八百長プロレスから、ガチンコの戦国修羅の国に、ようやく変化することになる
意味不明。八百長プロレスってなんだよタコw南奥州での戦乱は伊達晴宗の天分の乱や佐竹義昭、葦名盛氏、田村隆顕の時代からおこりまくってるじゃねぇかw
相試閧ナぼす滅ぼbウないとかそうb「う観点で修羅bヌうこうをいうbネら信長周辺は涛熾エでくたくたbノなってた地域bホかりだから
グダグダプロレスどころか「仲良し同士のジャンケン大会」だぞw >>114
芦名氏は上杉家にも影響を及ぼしたよ。新発田重家も、芦名家や伊達輝宗のバックアップが
なければ反乱は出来なかったしね。 葦名盛氏は越後だけでなく常陸や下野での攻防で佐竹義重を大破して北条が北信しやすい状況作ったこともある
思いっきり他地域に影響及ぼしてる
つうか南奥州だけ密閉された空間じゃないので隣接した地域や、その隣接した地域が隣接した地域などに影響及ぼすのは当たり前
奥州だけ周辺からの影響から隔絶されてて独自の文化や戦史刻んでるとかアホにも程がある 信長が伊達や葦名と関係築こうと書状のやり取りしたり秀吉も停戦令出したり東北遠征軍編成したり
家康が東北征伐しようとしたりしてるし十分届いてるじゃん
東北だけをなぜ特別扱いしようとするのかわからん 信長周辺が一番グダグダな権力構造の領国統治国ばかり
道三・義龍・龍興と三代続けての内紛とクーデター騒ぎで弱体化しきった斉藤
木造・長野・神戸・関・北畠など完全に内紛で弱りきった伊勢。
遠州騒乱と松平独立で弱体化しきった今川
観音寺騒動と対浅井の敗戦で極度に弱体化しきった六角
三好や松永らの反逆で権威が落ちきり信長に助けを求めてきた足利将軍家
守護の赤松・小寺・別所など衰退した弱小勢力しかいない播磨但馬。
こんなグダグダな地域なら誰でも平定できる。信長が奥州にいたら葦名どころか大内あたりに瞬殺されてたのは間違いない 伊達政宗は葦名120万石を短期間で倒した神武将だからな。
輝宗が散々苦戦した相馬を滅亡寸前においやり奥州で髄一の勢力を誇った南奥連合を壊滅させた。
大崎、葛西、葦名、最上、相馬、猪苗代、二階堂、佐竹、白河、石川、岩城、大内。
これだけ敵対して圧倒的勢いで勢力拡張した。 秀吉の総無事令なきゃ相馬も佐竹も上杉も最上も政宗に滅ぼされるか
追い込まれるかどっちかだろ。実際相馬も滅亡寸前だったし佐竹は葦名滅ぼされて大ピンチ。
上杉は葦名を救う事ができず窮してたし 政宗は80過ぎの北信愛に完敗するくらいだからなあ。
かといって佐竹は勝てそうになるといつも勝手に暴走して自滅するし。 なんではるか遠くで自分が起こした一揆勢が負けたのは政宗の負けになるんだよアホ
信長死後の織田家が木っ端微塵になったから信長は雑魚といってのと同じようなもんだなw 葦名は150万石くらいだろ。
猪苗代と大内が寝返ったとはいえ、相馬佐竹石川白河岩城という大連合を組んで伊達と戦ってるし
大崎葛西も味方
摺上原では後方部隊や別方面部隊含め3万くらいいたし。 伊達の味方って田村くらいだろ。最上も敵対しだしたし。東西南北敵に囲まれてよく戦えるわ。 >>130
>信長死後の織田家が木っ端微塵になったから信長は雑魚といってのと同じようなもんだなw
信長は軍人として優秀でも君主としては雑魚だろ。 弱体化しきった幼君斉藤に負けまくり長島一向一揆餓死寸前数百を数万で騙まし討ちにして一門10人以上殺され大河内城攻めや浅井朝倉みたいな自国の6分の1しかない国力
の勢力に滅亡寸前に追い込まれる信長が軍人として優秀なわけないじゃん いや北信愛に完敗したときの政宗はもう岩出山城に移ってるし、
白石宗直は戦闘にも参加して負けてる。 葦名が120万石とか150万石とか頭おかしい。
蒲生が会津に来たときは42万石で検地しまくって
追加加増まで受けてようやく92万石。
その後釜に座った上杉が佐渡と庄内と持ってるようやく120万石。
織豊期の強力な支配体制を持ってようやく打ち出せた数値以上のものを
葦名は最初から持ってたのかよ
そもそも天文の乱でgdgdになった後や輝宗隠居時点ですら
伊達家の支配領域は東北随一だぞ 葦名は盛氏末期で150万石くらいだろ
猪苗代、二階堂、白川結城、石川、大内、畠山、岩城、相馬らを取り込み、
佐竹義重も屈服状態で土下座。越後や下野の一部にすら領土が広がってるし 政宗は日本史上初の売国奴。
支倉常長を使い
スペインと一緒に徳川幕府を潰そうと画策した
最悪の男が政宗の真実です。 >>139
大友宗麟やキリシタン大名忘れてるぞ>日本史の売国奴
てか政宗もそうだけど当時の武将たちに愛国精神とか領民労わるとか。そんな気持ちこれっぽちも無さそうだな。
秀吉は近年朝鮮のせいで悪扱いされがちだが
バテレン追放して奴隷止めさせただけでも現代の感覚からして凄い 市村高男氏の著作「東国の戦国合戦」読んだ印象だけど
当時の関東や南陸奥は地方統一へ向けての過渡期で
北条氏や伊達氏の侵略はある程度必然性はあったと思うんだよな。(侵略された側からフザケンなって怒られそうだが) まぁ辞生の句や遺訓を見ても他の戦国大名とは一線をしく、
軍事、内政、教養、アイデア、センス、行動力で
幅広く優れてた事は間違いないね
ただしどの分野でも戦国大名一では無いけどそりゃそうだろう 芦名盛氏に政宗ほどの野心があれば
北関東(下野常陸北部)までいけた?
それ以上南下すると北条と当たるんで難しいが 葦名盛氏で北関東まで進出してたんだが…
下野北部での攻防で佐竹義重に打ち勝って領土にしてる。
その後佐竹+結城宇都宮那須壬生を初めとする関東の反北条連合の形成に加え
葦名・二階堂白川結城石川相馬猪苗代畠山などを連合とする南奥州連合が合体し、
強大な源氏勢力圏が生まれてる
沼尻の戦いでは関東の反北条連合に加え南奥州の諸将まで軍勢派遣したりしてる でも常陸までは難しいかな。
間接的とはいえ白河氏救援して佐竹氏と戦ってたけど
最終的には佐竹有利の状況で白川の服属化は止められなかった。 終わってない
和睦条件として
佐竹が先に獲得した結城に返還する代わり
義重次男の渇食丸に白河結城の名跡を継がせる。
実質傘下に取り込まれてる 白河結城と佐竹が完全に和睦した後だと
戦う大義ないからな
南下するとしたら佐竹と組んで那須滅ぼすか
その前に田村滅ぼすか >>103-104
秀吉の関東出馬が一年遅れてたらのほうが一番現実性ない?
伊達北条連合が佐竹滅ぼせられたかは分からんが
相馬氏宇都宮氏は確実に瀕死になってたと思う 北条征伐で北条に味方してりゃ間違いなく勝てただろ
わずか34500の寡兵に29万の大軍がありながら全く自力では手も足も出ず一柳堀尾嫡男前だ重臣平岩弟依田戦死に
氏家負傷とアホっぷりを晒してたし 同意。佐竹の史料によると米20万石も用意していながら豊臣方は兵站維持できるギリギリまで追い込まれてたみたいだし
伊達が味方すりゃ佐竹や相馬や宇都宮や結城なんて瞬殺されるだろうし
その後大軍となった伊達軍が徳川や上杉・真田などを蹴散らして終り >豊臣方は兵站維持できるギリギリまで追い込まれてたみたいだし
東山道にて、中世軍隊が行ってきた通常の補給体制で戦役に参加していることを指摘して、兵站崩壊を強弁する 久保田正志? あと一年あっても宇都宮家はなんだかんだで生き残るんじゃないかな
天正14年以降だと北条も秀吉の手前
あまり大規模な北関東出兵は控えてるみたいだし(北条氏邦がチョコっと宇都宮領攻めたくらい) 北条はそうでも政宗は容赦なく責めるだろ
芦名を滅ぼしたくらいだからな 秀吉も会津領を勝手に攻めたことには激怒して返還させてるけど、
その長前に攻略した宇多郡領に関しては特に何もいってないみたいなんだよな。
それどころか政宗が小田原参上後は相馬攻めの計画黙認してるみたいだが、
相馬氏て中央政権に見捨てられてる? 佐竹軍に敗れて逃走した政宗が乗馬していた馬を見たら
下痢だけでなく精液も漏れていた。
これを成実がゲラゲラ笑ったところ スーパー政宗は「ビビッてたんじゃねぇ。こういうプレーが大好きなんだ」
これを脇で見ていた小十郎は「家康以上の大物だ!」と感涙。
その精液まみれの姿を一生忘れないように絵師に描かせたと言う。
ウルトラ政宗の家臣の度重なる出奔は 偉大なる指導者政宗の衆道に対する嫉妬であり
みんなウルトラ政宗を愛するがゆえの行動である。
その証拠に帰参するやウルトラ政宗に天下取りの戦略を報告した。
そう彼等は他国へのスパイをしていた。
成実に至っては 上杉から5万石での仕官を誘われたが
俺の才能をもっと高く買ってくれるとこに行くと拒絶したという、
その結果、家康の懐に飛び込み 相模で100人頭と言う旗本大々名の待遇を得て
(家康の衆道相手の井伊直政もビックリである)
さんざん武蔵江戸の情勢を諜報し
家康打倒の策を引っ提げて帰参し関が原の折に
ウルトラ政宗に帰参し、その報告はスペインすらも利用して
天下を取る計略であり 家康が関が原でもっともウルトラ政宗を恐れたのも納得である。
外見からしてオーラがあり誰もが認めた天下人の器量あるスーパー大名の政宗。
そのスーパ−政宗が率先して猿にたびたび土下座を繰り返す。 これで諸大名が「あの政宗公ほどのものが!」と恐れすすんで猿に従ったのである。
特にスーパー政宗が「占領した奥羽の領地はすべて秀吉殿に献上するため」との無視無欲な姿勢は人徳の人との印象を諸大名に強く与え
家光のころには諸大名が「本来なら政宗公こそ将軍の器」と敬愛し 家光も「政宗様こそ天下の副将軍」と讃えた。
秀吉ごときに奥羽の占領地を献上する仁愛の天下安寧策をのちにパクったのが
家康の会津上杉討伐の際に上方で三成が挙兵した際の山内一豊であり、家康へ自らの領地を献上した姿勢をみて
諸大名は「これは政宗公の天下安寧策のやり方だ!」と納得し それぞれに家康に東海道の領地を献上したのであるが
実はこれ、エレクトラ政宗の深慮遠謀であった。 小十郎は「家康以上の大物だ!」と感涙。
その精液まみれの姿を一生忘れないように絵師に描かせた
チンコの大きさを評価するとか衆道の天才ぶりを遺憾なく発揮してるなw 歴女1000人に聞く 訪ねたい城下町ランキング
1位 京都
「平安京」など古都のイメージが強い京都は「城下町として発展した地域もある」。
伏見は大阪や近江と陸路や水路でつながる要衝で、豊臣秀吉が伏見城を築き商業が栄えた。
「伏見の酒」が発展したのもこのころで、今も酒蔵が立ち並び往時をしのぶことができる。
坂本龍馬ゆかりの旅館「寺田屋」など幕末の名所は女性ファンでにぎわう。
世界遺産の二条城は徳川家が建造したものだが、以前には場所は違うものの織田信長の二条城などがあった。
2位 姫路 白鷺城眺めて散策
3位 金沢 戦災免れた武家屋敷
前田家の加賀百万石の城下町として栄えた。
茶屋街も、日本3名園の一つの兼六園と並び、女性の観光客に人気だ。
金箔や加賀友禅などの伝統工芸も多く、資料館巡りも楽しめる。
3位 松本 大火に備えたなまこ壁
5位 大阪 天下の台所支えた水路
「太閤はん」と地元で親しまれる豊臣秀吉ゆかりの地。
大坂夏の陣を経て大阪城は江戸幕府直轄の城となり、城下町が栄えた。
食い倒れで有名な道頓堀は、江戸初期に大坂開発に尽力した徳川家康の孫、松平忠明が開発者の安井道頓の名から付けたといわれる。
水の都とも呼ばれるほど水路の物流網が発達し、天下の台所の役割を担った
http://www.nikkei.com/article/DGXZZO45853740X00C12A9000000/ 伊達厨か、ほんと言いたい放題。
佐竹氏は主力は北条に向け東北は片手間、それでも福島のほとんどを楽に支配。
政宗を甘く見たが、主力が負けたわけではない。
常陸に侵入すれば佐竹もリスク覚悟で南向けの兵当てる。
もちろん南が手薄になれば北条が動き、常陸南部の豪族たちが動く。
佐竹は源氏の癖に頼朝と戦い、徳川に対立したり、奥羽列藩と戦い維新まで生き残った。 >>161
秀吉に小田原で会談したときに
政宗と連れションをした秀吉は政宗公の巨根に驚き
さっそく淀殿を呼び寄せ、はらませるように哀願した。
そしてついに生まれたのがお拾い様であった。 来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/ >>164
関ヶ原の佐竹て途中から徳川に援軍送ったり
対立してないじゃん >>164
二股かけたのがばれて秋田に飛ばされた。
そもそも佐竹は二重構造的な組織、スーパー殿様はいない。
福島市は第二仙台市みたいだし、いわき市は茨城みたいだし。
現代も争奪戦になっちゃう場所。 >>1
10年早く生まれて家督相続と勢力拡大も早かったとすれば
北条徳川ほかと連携して秀吉の天下統一は阻めただろうな
だがそこから単独で天下統一は全く不可能事だろう 最近舘山城が本格的に発掘されだしたけど
あんまりニュースになってないな >>171
政宗が芦名盛氏と南部晴政を倒せたらね。
正直、ここが読めん。少なくとも、南部信直、芦名義広の何倍も厄介な相手だったことは間違いない。 お前ら信心してる?難妙法連してる???
東北大学教授佐藤弘夫によると正しき信仰によって災害を抑えられるそうだwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
http://vukivuki.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-d12a-1.html
佐藤教授・まさにそうですね。本来、国とは民衆のことであり、国家権力というのは「手段」なのです。
しかし、日本では常に権力が「目的」です。日蓮は明確にこれを逆転しました。民衆の幸福こそが「目的」であり、「国家権力は「手段」であると。
立正安国論を提出する契機も、正嘉の大地震によって、多くの民衆が嘆き苦しんでいたことでした。日蓮は、まず正しき信仰によって災害を抑えるという方途を示しました。 俺は無双では政宗使いだ
いつか宮城県に行ってみたいものだな 男色好きを誇りにしているから
必ずや立派な御仁に相違ない。 >>178
松島に行くなら瑞巌寺は絶対に見たほうがいい。
晴れた日に境内から門の向こうにある海を見ると、
額縁におさまる風景画みたいだ。
政宗はそれを見込んで設計したらしい。 『奥羽永慶軍記』一回読んでみたいんだが
面白いか? こいつが現代にいたらヤンキーシャコタン車で成人式に乗り付け市長に咎められたら殴りかかってたようなドキュソだったろうな DQNはDQNでもそう言うタイプのDQNではないと思うんだがな
暴君タイプのDQNと言うか >>182
大阪府知事なのに伊丹空港についてちょっかい出して兵庫県知事に怒られたり、
大阪市長なのに国政に口を出して、党内の国会議員に煙たがられる馬鹿にそっくり 出てくるのが遅すぎたのは必ずしも悪いことばかりではない。
場合によっては、ボロが出ることを未然に防ぐ効果もある。
そして、無限に夢が膨らみ、過大評価される。伊達政宗もその典型では? パパ宗の外交を引き継いでれば200万石の大大名になって
天下を狙えた気もするけどな。 伊達洞中およそ対外戦争をできるような体制ではないから ____
,/:::::::::::::::::::::\
/::::::::::::::::::::::::::::::::::\
|:::::::::::|_|_|_|_|_| こう見えても
|_|_ノ∪ \,, ,,/ ヽ をれはイケてる男だよ。
|::( 6 ー─◎─◎ ) 財閥に近い血脈基準で
|ノ (∵∴∪( o o)∴) やりすてていい女子きめてっかんな。
| < ∵ 3 ∵>
/\ └ ___ ノ
.\\U ___ノ\
\\____) ヽ
東北大学大学院博士課程
吉川裕(29) 仙台在住 >>184
小型版馬超だな
信長政宗タイプのDQNは中国史だとゴロゴロいる 日本三大がっかり名所とかあるけど
個人的には青葉城もそれにいれたい
山城で天守も掘も無く
現存ものも復元ものもほとんど何も無いから
言われないとただの山に見えるんだよww
模擬天守はかっこ悪いから無くてよかったがw
結局護国神社が青葉城だと勘違いしてる奴らが多かったりしてw
宮城護国神社は日露戦争時に長州政府が風水かなんかで伊達の頭を抑えるために青葉城に作ったに決まってるだろw
伊達政宗はもちろんのこと会津仙台、奥羽越列藩同盟は祀られていないw
長州に虚勢され支配されてる仙台伊達哀れw >>193
立派な石垣と堀もある
櫓もある
まあもう少し復元すべきとは思う
ただ今それを言ったら
市民の反発が半端ないな
震災からまだ3年だからな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています