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武家公家の家格について語るスレ

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0001日本@名無史さん
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2013/04/29(月) 17:04:24.21
この手の話題が盛り上がるのでスレッド立ててみました。
家格についての話題なら何でも結構かと思います^^
0003日本@名無史さん
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2013/04/29(月) 21:07:39.97
幕末が好きでよく本を読むんだけど、イマイチ武家の家格がよく分らない
現代でいうとどのくらいのレベルなのか、簡単に分かる方法はないものか
0004日本@名無史さん
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2013/04/30(火) 09:05:58.66
御殿人(みあらかんど)一族の武家は?
0005日本@名無史さん
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2013/06/28(金) 23:01:43.87
>>3
徳川将軍家=清華
徳川家分家=大臣家
大大名=平公家
大名=官務家
大身旗本=諸太夫
0006日本@名無史さん
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2013/06/30(日) 22:03:48.83
>>5
徳川分家って御三家でも大納言か中納言どまりじゃなかったっけ?
大臣家は大臣を出す家じゃなかったけ?
だから徳川分家は羽林相当では?
ただ明治の華族制度では
将軍家が公爵、御三家や前田あたりの大大名が侯爵になってるよね。
このあたりの区分はどうなんだろ?
0007日本@名無史さん
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2013/07/01(月) NY:AN:NY.AN
>>6
将軍家、御三家、御三卿は公爵、侯爵、伯爵と決められた。
大名は現高で決められて、最大でも侯爵どまり。
公爵になった家は維新勲功が加算されてる。
公家は摂家が公爵、清華が侯爵、大臣家と上位平堂上が伯爵、それ以下は子爵。
男爵は家老や大身旗本で実高が万石を超えた家や奈良華族等の特殊な家で当初は少なかった。
0008日本@名無史さん
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2013/10/09(水) 12:42:03.63
摂家は別格だけど
清華家や大臣家は何か優遇あったのでしょうか?
0009日本@名無史さん
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2013/10/09(水) 14:22:55.31
大臣にまで昇れることじゃないか?
羽林家以下ではそこまでの昇進は基本的に無理だし
0010日本@名無史さん
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2013/10/09(水) 19:39:38.50
・国主、国主格、城主、城主格、無城陣屋、という本拠地の規模や住まいでの基準
・江戸城の控え席による基準
・冠位による基準

江戸時代はこの三点が絡んでややこしい
0011日本@名無史さん
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2013/10/10(木) 10:19:41.96
将軍家は清華相当でしょ。
太政大臣になれるのと女御をだせる特権が重要なんじゃ。
天皇、関白、摂政、太政大臣と一上以上になれば、
国政の決定に関与できる立場になるからじゃ?
そすれば、公家、武家と両方を掌握できるからじゃ?
0012日本@名無史さん
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2013/10/10(木) 19:20:55.89
豊太閤は徳川将軍家より上ぢゃの。
なるほど、なるほど。
殺生関白ですら、家康以下より上位を占めているナ。
0013日本@名無史さん
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2013/10/10(木) 20:17:56.51
>>11
清華家風情で代々連続して大臣に叙されたことなどないでしょ。
将軍家は常に大臣に叙されているから、清華家よりは上に扱われている。
0014日本@名無史さん
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2013/10/10(木) 21:42:20.84
>>11
秀吉の時は別として、足利義満以降の将軍家は摂家よりも格上とみなされている。
この時代になると家格が重視されているし、家格は官位とは必ずしも連動していない。
鎌倉期でも、執権、得宗の権威が確立した後の方がむしろ官位が低い傾向があると
いうし。むろん、後期の方が早逝していることが多いということの影響も大きいだろうけど。
0015日本@名無史さん
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2013/10/12(土) 11:41:31.06
>>13
武家官位は公家官位の外の為、家格の上下の比較はナンセンスだと思う。
常に大臣に任じられている(叙は位の場合なので官位の時は任になる)と言うが、
これは将軍に付随した肩書きと言うべきで、従って七代家継のように、
満三歳二ヶ月の幼児が将軍になっても自動的に正二位内大臣右大将が与えられる。
初代家康が従一位太政大臣になっている為、一応これが極位極官の先例になっており、
しかも大将は右大将であるところから見て、強いて言えば家格的には清華家相当と
みなすのが妥当だと思われる。
近世の朝廷は家康に意向で摂家の権威が非常に高められ、それを以て朝廷統制を図った。
しかし、それ以前は三公や左右の大将を清華家が独占した事もあったし、
決して清華家風情と呼ばれるものではないし、大臣就任も早世さえしなければ、
家格通り必ず大臣になれた。
摂家と言えども、全員が連続して摂関に任じられた訳ではなく、九条家は近世当主14人の内、
6人しか摂関になっておらず、二条家も宗煕以後六代にわたり、摂関になれなかった。
0016日本@名無史さん
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2013/10/13(日) 01:23:18.47
ナンセンスを言うなら武家の序列を公家の家格に当てはめること自体がナンセンス
0017日本@名無史さん
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2013/10/13(日) 11:41:08.89
武家官位は公家官位の外とはいえ、一応律令官制の身分を帯しているので、
あながちナンセンスでもないだろうよ。
0018日本@名無史さん
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2013/10/13(日) 11:51:35.03
室町期でも江戸期でも将軍の権威・権力が摂関を上回っていたことは疑いないのに
それが清華と同等になるという時点でやってることがナンセンスだと気付かないのか
>>5に突っ込むのも面倒だがイコールの両側に当時そういう感覚があったとはとても思えないし
武家の家格を官位の点のみで考えること自体が実態とかけはなれている
まあ分かっていながらも名目でしかなくなった律令官制マンセーな公家ごっこで遊びたいのね
0019日本@名無史さん
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2013/10/13(日) 11:57:46.16
摂家にしても将軍家にしても、家格の主要な部分は「摂関」なり「征夷大将軍」
になるというところでしょう?
そこを無視して清華相当だなんだと語るのはナンセンスだと思うが。
0020日本@名無史さん
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2013/10/13(日) 11:59:52.76
>>18
公家の官位にしても、摂家の中少将に大中納言が道を譲るという
礼が確立していた状態だしね。
0021日本@名無史さん
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2013/10/13(日) 16:36:40.75
秀吉の代にも家格作りがあったんだよねえ。

摂関家相当=豊臣宗家
武家清華家=豊臣庶家、5大老家、他
その他侍従、布衣。
0022日本@名無史さん
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2013/10/13(日) 16:54:39.32
圧倒的な武力を背景にした権力を持った将軍が、摂関を上回っていたのは事実だ。
しかし、その将軍も自身の権威付けとして将軍位他の官位を受けている。
公家官位の外なら、それ程権威・権力のある将軍の力をして就任時にいきなり、
極位・極官の従一位太政大臣にならないのか?大将だって左大将を取ればいい。
しかし、実際は正二位・内大臣・右大将という典型的な清華家の官位でしかなく、
ここに将軍の地位の限界と矛盾がある。
武家の家格は三家・三卿・国持ち・城主など領国規模に関わる家格があるが、
この家格はほぼ変動する可能性は少なく、従って大名達の関心は官位の上昇に向く。
固定された封建体制下において、可能性のある自家官位の上昇志向は凄まいものがあり、
有名な会津松平家と井伊家の四位・中将の先任争いなど、その一例だ。
封建下の武家統治方としての武家官位はもっと研究されるべき。
0023日本@名無史さん
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2013/10/13(日) 17:25:47.13
>>22
そういえば征夷大将軍の官位の前列は
家康以前だと
源頼朝 右大将
源実朝 右大臣
徳川家康 内大臣
だよね。

他の将軍の前例はどうだろう?
他になかったら前例に倣ったとも言えるかも。
0024日本@名無史さん
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2013/10/13(日) 17:32:17.37
>>22
頼朝、家康は将軍就任以前の官位ね。
頼朝、家康が先例だと「吉例」となる気がするんだ。
0025日本@名無史さん
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2013/10/13(日) 17:37:08.36
>>22
将軍家の官位だけを抽出すると清華相当というのはその通り
武家が覇者となっても公家の世界というか律令官制では最高峰でなかったというだけで
将軍家の家格が清華家と同等だなんて言うからナンセンスになるわけ
実権を失った天皇や公家が滅ぼされることもなく位の上では極めて高位を維持しながら存続したことのは日本史の大きな謎だわな
0026日本@名無史さん
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2013/10/13(日) 18:18:37.98
徳川将軍家が要求すれば太政大臣でも関白でも望みのままだろ。
朝廷としてはむしろ、実態の権勢に相応しい官職に就いてもらいたいはず。
官位官職が下の者が絶大な権力を持つという構造は、名目的にも朝廷が形骸化するから。
朝廷は力と位が一致してもらわないと困る。
0027日本@名無史さん
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2013/10/13(日) 18:32:16.87
>>22
摂家と清華の差は、左大将任官の有無かね?「摂関に就けるかどうか」
だろ?将軍家にしてもしかりで、前例・家例踏襲以上の装飾的官位は
必要としなくなった後の話だ。
室町時代には、将軍よりも官位の高い公家や大名も存在していたが、
彼らも将軍に伺候する立場であったことに変わりはない。
権威確立後、鎌倉中・後期には得宗の官位が比較的低くなっていたと
いうのも、「官位で飾る必要がなくなったから」だと指摘されている。
江戸時代にしても、大名統制の一つに官位を使った関係上、将軍家も
大名を超越した官位は必要としただろうが、
> 極位・極官の従一位太政大臣にならないのか?大将だって左大将を取ればいい。
無駄に装飾的な官位よりは吉例を優先させたんだろう。右大臣の将軍
でも、公家の左右大臣や摂関より上座に着したということだし。
0028日本@名無史さん
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2013/10/13(日) 18:32:41.16
官位は家格であり、家格は官位だ。
武家の棟梁、天下の覇者と言ったところで、律令体制の官位体系に準じている限り、
将軍と言えども当然極位極官が決まっていれば、官位発給元の朝廷の家格に
相当されても文句は言えない。
それが嫌なら無官か、独立した独自の官位体系を創設すればいいだけの話。
大体が、征夷大将軍などと言う卑官すら朝廷から授けられているんだからね。
0029日本@名無史さん
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2013/10/13(日) 18:33:42.78
>>22
> 封建下の武家統治方としての武家官位はもっと研究されるべき。
近世武家官位も中世武家官位も、すでに多数の研究がなされている
が、それらをレビューしたうえで「不足だ」と言っているのかな?
0030日本@名無史さん
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2013/10/13(日) 20:00:52.05
元服後いきなり権大納言というのは、徳川将軍家だけだね。
0035日本@名無史さん
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2013/10/13(日) 20:39:24.56
>>29
吉川弘文館の日本歴史、それに同館や続群、岩田書院などからも刊行されているし、
学習院大の人化研、東大史料編纂所など大学でも研究されているのは知っている。

あなたがどの様な研究書を知っているのか分かりませんがね。
0036日本@名無史さん
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2013/10/13(日) 20:56:52.21
公家の家格は官位が殆ど全てだろうけど
武家の家格は官位もさることながら石高や将軍家との親疎など
わざと多重構造になっているのに官位にしつこく拘泥する意義がわからん
がっちり徳川幕藩の封建体制が固まってしまってからは石高や親疎が変わることは稀だから
官位の点で諸大名が競ったというのも間違ってはいないが
だからといって官位の点から大きく家格が変動したということも無いから結局は瑣末な大同小異
とにもかくにも持論に強い自信があるのならこんなところで油を売ってないで
将軍家は清華家レベルの家格でしかないんだ律令官制での武家の限界だ
みたいな論文を書いてどっかに載せてもらいなよ
0037日本@名無史さん
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2013/10/19(土) 16:21:18.23
将軍家は摂関家相当でも清華家相当でもなく、『将軍家』だろ…どう考えても。
0038日本@名無史さん
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2013/10/19(土) 21:47:35.62
定規の目盛に貴族と同じ官位を流用しただけで、
測る対象が相互に比較可能と否かは別の問題だと思う
0039日本@名無史さん
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2013/10/20(日) 07:23:30.97
>>37
全く以てその通り

>>38
石高で見れば摂関は旗本・家老で名家は御家人・下士だ
有名無実の官位だけ抽出して論じても意義が無い
官位だけ語りたいなら官位スレでやればいい
0040日本@名無史さん
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2013/10/20(日) 11:51:49.18
ここは武家公家の家格を語るスレでしょう?

ならば朝廷も幕府も同じ律令官制を帯している限りは、比較してもいいじゃん。
将軍の力を持ってすれば摂関にでもなれると言うのも事実だとしても、
正二位内大臣右大将(極位極官は従一位相国)と定めたのも将軍だよ。
と言う事は、これが将軍家の家格になる。律令官制下の家格に将軍家と言う家格が無い限り、
公家の清華家相当と言う比較があってもおかしくはないと思われ。
書き込みをみても、誰も清華家とは言ってはいなくて、相当と言っているだけ。
比較遊びなんだから、ぐだぐだ言う事でもないだろう。
0041日本@名無史さん
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2013/10/20(日) 12:18:53.86
>>40
> 律令官制下の家格に将軍家と言う家格が無い限り、
律令官制下には摂家だの清華だのと言う家格も存在していない。
どれも、「武家(将軍家)」という家と並行して成立してきた格式。
そもそも狭い意味での極位極官を言うなら、摂家も清華も従一位
太政大臣で相違がない。摂家と清華を分ける決定的な違いは「摂関」
だし、将軍家と摂家や清華以下を隔てるのは「将軍」。
本質を無視して語るなら、摂家も清華相当という、無意味な話にし
かならんぞ。
0042日本@名無史さん
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2013/10/20(日) 13:04:08.86
>>41
>将軍家と摂家や清華以下を隔てるのは「将軍」

将軍職自体は公家の官位的には4-5位相当の取るに足らない官位で摂家清華は誰も欲しがらないような官位だが?
天下を取った武士が追認という形で将軍職を賜るだけであって将軍だけでは上級公家と釣り合いが取れないから大臣なり
右大将なりの官位を得ていたということ。

将軍が偉いのは事実上の日本の統治者という事実であって将軍職ではない。
0043日本@名無史さん
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2013/10/20(日) 13:37:58.42
>>42
征夷大将軍の官位相当なんてあったか?
それに、摂家だ清華だというような家格が確立する時期には、征夷大将軍は
頼朝から始まる「公卿の就く地位」になった後だ。
源氏三代の後の摂家将軍以降の将軍家は「上級公家」そのものだし。
> 律令官制下の家格に将軍家と言う家格
なんていうとんちんかんな話を持ち出すようではどうにもならんだろうが、
「自分の珍奇な思いつき」に固執して珍論を並べ立てるのはやめてくれ。
0044日本@名無史さん
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2013/10/20(日) 15:04:43.98
そもそもの話をしだすと、摂関内覧も令外官だし、家格というのも鎌倉以降のできた。
なので、将軍家というのは、将軍家になる。
摂関家は、何相当というぐらいナンセンス。
将軍家特有の官位ルートもある。
0045日本@名無史さん
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2013/10/20(日) 17:00:16.27
>>44
令外官は関係ないし、家格は鎌倉以降というが、将軍家も鎌倉以降だから。
0047日本@名無史さん
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2013/10/20(日) 18:03:43.26
承久の乱以後公武の力は逆転し、摂家将軍、宮将軍による権威の高まりは、
公家の棟梁たる摂家と武家の棟梁たる将軍を同格と見なすようになった。
そしてその権威は足利義満の時に頂点に達し、皇位簒奪を企てたとされている。
皇位への裏付けとなる天皇の血統を示す源氏の象徴は将軍であり、
義満にとってその他の官位など、単なる飾りに過ぎなかった。
徳川将軍も公家に対して領知宛行状を発給する事によって、公家を家臣化している。
将軍から領知宛行状を授けてもらう摂家と将軍家の関係も、これで明らかだろう。
将軍である以上、その他の官位は飾りに過ぎず、将軍家は家格を超越している。
0048日本@名無史さん
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2013/10/21(月) 02:33:27.11
室町殿などは(また徳川将軍家も)「飽くまでも官位から見れば」清華と言うしかないと思う。
(明治期に平島公方家や義輝裔と称する熊本藩士が華族取立を願った際に足利家は清華衆だからという理由を述べているし、他に清華と呼ばれていた史料を見たことがあるけど失念)
それは官位を基準として摂家を頂点とする旧来の家格制度が新興の権力者に対して適合しにくかったというだけで、
事実上の日本国王として摂家以下の拝賀を受けていた等の事実とは矛盾しないと思う。
これは過小評価というより評価装置の方が力不足なのだと言える。

余談だが、現在では「清華家」という言い方が普通に通用しているが、史料や文献には「清華」という「家」を付けない形ばかりが表れている。
「摂家」「大臣家」「羽林家」「名家」「半家」など皆「家」が付くので、それに引きずられる形で「家」が付くと誤解されてきただけで、単に「清華」と呼ばれていたのが正しいのではないか。
ちなみに「名家」も「めいけ」でなく「めいか」が正しいのではないか。
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