武家公家の家格について語るスレ
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この手の話題が盛り上がるのでスレッド立ててみました。
家格についての話題なら何でも結構かと思います^^ >>145
>女子は女王のままで、 それは将軍に降嫁しても変わらなかった。
女王のまま将軍に降嫁した天皇の娘がいたっけ?
和宮親子内親王は江戸へ下る半年前に内親王宣下を受けており、
八十宮が内親王宣下を受けないまま江戸へ下ったとは考え難い。
どちらにせよ、将軍は和宮親子内親王を娶った事実がある。
御三家には女王(宮家の娘)を娶ったことはあっても
内親王を娶ってないのだから、どちらでもいいと思うが。 >>146
女王のまま将軍に降嫁した天皇の娘がいたっけ?
親王家の娘の事なんだけど。 >>147
摂家に嫁いだ天皇の娘は全員内親王宣下されている。
同様に、将軍家茂は内親王を正室にしている。
将軍は摂家同様、内親王を妻にできたで問題ない。 >>148
摂家に嫁いだ天皇の娘は全員内親王宣下されている。
全員を調べた訳ではないが、近衛基護に降嫁した品宮常子は、正式には内親王宣下は受けていない。
瀬川淑子著「皇女品宮の日常生活」から引いてみる(短くするために一部文章を略する。
常子本人の奥書はそのまま記す)
品宮常子内親王は、寛永19年に、後水尾天皇の第16皇女として生まれた。内親王と呼ばれてはいるが、
実は正規の宣下があった様子はなく、品宮自身、延宝5年(すでに基煕と結婚していた)、
兄弟達と亡母の供養の写経をし、その時の奥書の書名にこう書いている。
奥書などもささせられ候はん由なり。それにつき我身忌み名ならびに親王宣下の事今までついでもなく延引なり。
一日参内のおりふし此の事申し上げる。忌み名は常子に定めらる。親王宣下の事は先年の分なり。
本人が宣下の事は今までなく、とはっきり書いている。しかし著書は後水尾院の品宮とその母広義門院への
寵愛の深さから見て、本来なら内親王宣下があって当然だが、この時忌み名が定まり、
それをもって内親王宣下に準じて公認となったのか、写経の奥書に常子内親王と書名し、
その後は常子内親王として知られている、と書いている。
念のため、公卿補任で常子誕生年の寛永19年から奥書の延宝5年を経て、天和3年(常子41歳)まで、
年間の行事を詳しく調べたが、他の内親王宣下はあったが、やはり常子の内親王宣下はなかった。 鷹司教平室(離縁)・文智女王、近衛尚嗣室・女二宮もそうじゃね 常子内親王の異母姉の文智女王もそうだったね。
たしか、朝幕間の大事件になったおよつ御寮人事件のおよつの娘だったかな。
鷹司教平と離婚後奈良の寺に入った薄幸の女王で、晩年後水尾帝は、
文智女王に対する仕打ちを後悔し、ほのぼのとした親子の愛情が戻った。 >>129
初官が大納言だから他を隔絶しているとでも言いたいの?
だったら初叙が4位の国持大名も皆摂家以上という事になるねw
将軍の官途は内大臣以降は清華の速い方って感じじゃね?
>>126
将軍家が家格の上から摂家をも超越しているのなら大臣職なんていらんだろ?
幕府内の序列を付ける為に大臣とか源氏長者になった?
意味不明過ぎて訳わからんわw 室町から江戸まで、将軍家は天皇家を上回る家格だったのは、まぎれもない事実。
清華家相当なんて、公家のやっかみ。 >>156
将軍は事実上の日本国王。
将軍職自体は卑官だから対朝廷向けに公卿の官位を得ていただけだろ。
ただ、朝廷内の格の上では皇室はおろか摂家よりも下。 >>156
室町将軍はモロ清華じゃね?
事実上の国王だから摂家にすら偏諱を与えていたが。
徳川は内大臣(5歳でも40歳でも内大臣)までは速いけどその後の昇進ルートは清華。 >>159
>将軍は事実上の日本国王
王は帝より下だが? 王には皇帝から冊封された辺境の統治権者という意味がある >>153
将軍の官途は内大臣以降は清華の速い方って感じじゃね?
>>160
徳川は内大臣(5歳でも40歳でも内大臣)までは速いけどその後の昇進ルートは清華。
近世将軍(徳川家)の官途が清華家並みなどとはとんでもない。
幕府の方針により、摂家の権力は清華家以下の公家達とは隔絶したものになってしまった。
太政大臣だから清華家だと言っているようだが、近世太政大臣は摂関経験者の中でも特別な者に限られ、
近衛基煕が近世初めて公家の太政大臣になったのが、やっと宝永6年の事だ。
その後たった7人しか任じられておらず(近衛家4人、九条家・一条家・鷹司家各1人、二条家0)、
摂家の任左大臣の平均年齢が34・7歳であるのに対して任太政大臣のそれは52・4歳。
いかに太政大臣のステイタスが上がっているかが分かる。家光が左大臣に留まったのは、
父と祖父を憚ったためだし、その後家斉までの将軍が左大臣を遠慮したのは家光を憚ったためだ。
しかし家斉はそのような先例に囚われる事なく将軍家の権利を行使し太政大臣となった。
一方清華家は、太政大臣はおろか左大臣すら寛延2年に辞任した醍醐冬煕を最後として任じられていないし、
久我、今出川両家は右大臣のみ、広幡家は内大臣に留まり、太政大臣など遠く及ばなかった。
この様に近世の太政大臣は摂家の中でも特別な存在であり、この官職においては徳川家は、
摂家と同待遇を得ていたのではないだろうか。 武家のトップが摂関待遇、その次が清華、諸侯の上位が羽林っていうのは、豊臣体制の名残かもね
摂関 羽柴秀吉
清華 徳川家康
羽林 上杉景勝、徳川秀忠、前田利家、北畠信雄、羽柴秀長、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景 関白 秀吉
権大納言 義昭
中納言 信雄
権中納言 家康・秀勝・秀長
参議 秀次
左近衛権少将 利家・秀信・景勝
だった
スレ汚し、すんません。 家康以外の武家清華って豊臣政権が永続してたら清華に準じて大臣になれたのかな?
家康は清華の中でも別格扱いで他は大納言止まりのまま? >>170
どの時点での官位?秀吉が関白になった天正13年なら義昭は権大納言だが、
信雄も権大納言だし、他に武家公卿はいない。意味が分からん? 1586年、天正14年だよ。
秀勝が死んだ年。
秀勝が死んだ時、他の人はどんな感じだったんだろって思って。
wiki見ただけなんで他に間違ってたら
教えてください。 岐阜13万石織田家は中納言だったけど武家清華ではないの? >>174
天正14年は下記の通り。
関白・太政大臣(内大臣から昇任) 豊臣秀吉
権大納言 織田信雄(正三位→従二位)
足利義昭(従三位)
権中納言 徳川家康(参議から昇任)
豊臣秀長( 同 )
参議 豊臣秀次
武家公卿は以上。公卿補任を見れば分かるよ。 武家關白家
羽柴本家:關白秀吉、關白秀次、右大臣秀頼
武家清華
織田(羽柴大野)家:内大臣信雄、宰相秀雄
羽柴武藏(江戸)家:内大臣家康、中納言秀忠
羽柴大和家:大納言秀長、中納言秀保
羽柴近江→尾張家:中納言秀次(→關白家へ)
羽柴加賀家:大納言利家、中納言利長
羽柴備前家:中納言秀家
羽柴越後→會津家:中納言景勝
羽柴安藝家:中納言輝元、宰相秀元(→廢嫡)
羽柴筑前家:中納言隆景、中納言秀秋
武家清華の可能性あり
羽柴會津家:宰相氏郷 朝廷なんてみんな藤原だったんだから、全部羽柴でもいいだろって感じだな。 羽柴関白家ー武家清華家ー公家成国持大名ー諸大夫成豊臣・徳川大小名 慶長3年9月
関白 空位
太政大臣 空位
左大臣 空位
右大臣 空位
内大臣 徳川家康
大納言 前田利家
中納言 徳川秀忠 小早川秀秋 宇喜多秀家 毛利輝元 上杉景勝 豊臣秀頼
織田信雄は官位官職を剥奪されたんですか????? >>184
義昭も信雄も出家して官位的には引退しますた。 ほんと前代未聞だよね。
官位を武家が独占して左右大臣空位って。 >>189
この時点で公家の殆どが滅亡してもおかしくはなかったな 文禄4年秀次が高野山で出家した為、関白と左大臣が同時に空位になり、
秀次と近い関係にあった右大臣今出川晴季も失脚して同じく空位となる。
そして関白、左右大臣欠官のまま、慶長3年太政大臣秀吉が死ぬに及んで、
大臣は内大臣の家康のみとなる。
もっとも12月に晴季が右大臣に環任しているから大空位時代は4ヶ月程の事だが。 義昭は出家して准三后になったし、
信雄も豊臣政権に復帰後に何らかの地位に復帰したんじゃないの?
信長が右大臣を辞任した時もそうだが、
関白→太閤みたいな辞任後や出家後の権威ってなにかあるの? 日本では一度、任官さえすればすぐに辞めてもその権威がついて回るからね。 朝鮮出兵時に秀吉に許されて還俗した信雄の官位は
織田嫡孫の秀信の出世で打ち消された? 関白をやめた秀吉がどうやって政権を維持したのかと思ったら、ずっと太政大臣だったのね。
豊臣政権的に左右大臣を誰にも与えず空位にしていた意味が分からん。 将軍は死んだらすぐ世襲できるけど、関白はそうできなかったのは、何で。
秀頼もそうだけど、摂関家でも確実じゃないよな。 公家が途方もなく沢山いるからね
でも官位自体は限られてる 一応、この家ならここまでってのはあるけど、昇進のスピードや到達できるかは個人差があるね >>198
平安中期の摂関政治全盛の頃ならいざ知らず、平安後期以後になると、
その政治的価値は低下し、清盛、後醍醐、秀吉のような桁外れの実力者が出現した場合、
簡単に交代、廃止、乗っ取りなどが行われてしまう。
家康は朝廷管理のため摂家に絶対的な権威を与えたため、逆に摂関の不在は考えられなかったが、
「禁中並公家諸法度」第四条で摂家であっても、人物の器量に欠ければ大臣、摂関に
任じられるべきではないと明記して、釘を注している。
おのれの所は、家継の様な幼児や家重、家定の様な馬鹿を将軍にしておきながらだ。 公家への法を定めない室町幕府も世襲。
なんか不思議。
摂関家は家業なのに世襲ではない。
鎌倉時代は将軍は朝廷から派遣で、世襲じゃないし。
室町に転換があったのかな。 摂関は五摂家の世襲だろう。五家しかなれないんだから。
秀吉も近衛家の猶子となり関白になっている。 >>203
鎌倉将軍家も、源氏三代は世襲だし、摂家将軍家も摂家だった。ついでに執権も世襲だ。
摂関も藤原北家による世襲だし。 >>209
鎌倉将軍の四代目と五代目の九条頼経と頼嗣は親子だろ? 摂家将軍は摂家ではない
摂家出身だから将軍になったわけでもない
頼朝の縁故によって鎌倉右大将家の相続者として将軍になった >>211
九条家が摂家ではないとは、どういう意味だ? 厳密に言うなら摂家将軍自身は摂家ではないけど
摂家出身だから摂家将軍と言ってるわけだ
それが気に食わないなら摂家門跡とかも言い換えなければならなくなるが
代案がないならそのままにしておくのが吉
特にわかりにくい言葉でもないし 豊臣姓は秀吉死後に、
血縁外にブランドのように与えていると書いているのと、
それ以前に秀吉が聚楽第行幸あたりで次々と豊臣姓を血縁外に与えていたとする説があるようですが、
実際どうなんでしょうか? 豊臣姓って秀吉生前にはあげてないでしょ。
書状にも名である羽柴侍従としてしか出てこないし。 太閤
羽柴秀吉
関白
羽柴秀次
権大納言
関東-徳川家康
権中納言
なし
宰相
中四国-毛利輝元、宇喜多秀家
近畿・中部-前田利家、上杉景勝、羽柴秀保、羽柴秀俊
関東-徳川秀忠
中少将
近畿・中部-織田信包、細川忠興
関東-結城秀康
東北-蒲生氏郷
四位侍従
九州-大友義統、龍造寺政家、立花宗茂 島津義弘、小早川隆景
中四国-長宗我部元親、吉川広家
近畿・中部-羽柴秀勝、木下勝俊、堀秀治、丹羽長重、毛利秀頼、森忠政、前田利長、織田秀信、長谷川秀一、池田輝政、京極高次、稲葉貞通、前田玄以、筒井定次
東北-最上義光
五位侍従
九州-小早川秀包、宗義智、大友義述
関東-井伊直政、大澤基宿、佐竹義宣、里見義康
東北-伊達政宗 極官が正4位上中将の井伊家と正4位下会津松平や従4位中将の伊達や島津とだったら井伊の方が家格は上なの? その時の官位が上の方が上
井伊
常溜、譜代筆頭、大老を出す家、城主
伊達
表大名、大身国持、 豊臣姓をあげるようになったのは、
関ヶ原の戦い後の秀頼名義での
論功行賞の時からだと思う。
家康への牽制に利用したんじゃないかな。 公卿補任を見ればすぐに分かる。
天正15年、秀長、秀次の血縁以外初めて豊臣姓の武家公卿が誕生している。
従四位下参議の豊臣(宇喜多)秀家だ。任参議と同時に従三位昇任。
続いて天正18年には豊臣(前田)利家が従四位下参議に任じられている。
前年の公卿補任に藤原姓で記載されていた秀吉が、天正15年分では豊臣姓に改められ、
それと同時に豊臣姓の賜姓制度がスタートしている事が分かる。 >>232
関が原の戦いの直前に豊臣姓をもらったようです
朝鮮での功績かなにかでしょう 無知低能ばかりだな
諸大夫成と豊臣姓がセット
秀吉が豊臣姓を賜った以後に官位を貰った武士は殆どが豊臣姓名義で貰っているため特に珍しくもないし特に名誉でもない
(但し豊臣賜姓以前に任官した清正などは結果的に貰えていない)
公家成とセットなのは羽柴苗字
家格スレに出入りするならこの程度のことは知っておけよ 諸大夫成と豊臣姓がセット
公家成とセットなのは羽柴苗字
>>229と正反対だけど???
>>232>>233
wikiには下記と書いてるけど、>>228の意見と違うし1996年発表だといささか古いか。。。
村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒沢史学』49号、1996年
天正15年(1587年)九州征伐後 賜羽柴姓
天正16年(1588年)4月11日 従四位下、侍従。賜豊臣姓 一門の他、堀秀政、前田利家(羽柴筑前守)、滝川雄利など秀吉が天下を取る過程の時期に羽柴苗字を貰った者はいるが、
当然政権樹立後に羽柴苗字や豊臣姓の下賜が栄典のようなものとして半ば制度化され運用される以前の話
しかも上記三人のうち前二者は後に公家成しており、羽柴苗字を賜りながら諸大夫身分に留まったのは滝川雄利を含めた初期の例外二、三人のみだったはず。
公家成=侍従(以上)任官→豊臣姓羽柴苗字
諸大夫成=侍従不可→豊臣姓のみ 時系列的には↓
1585輝政従五位下武蔵守
1586秀吉豊臣改姓
1587輝政羽柴苗字
1588輝政従四位下侍従豊臣姓
輝政は秀吉が豊臣姓に改めたとき既に任官していたため豊臣姓を賜る機会は次の転任を待たなければならなかった
「豊臣姓は諸大夫成とセット」と言ったが、より広く「豊臣姓は叙任とセット」と言うべきかも知れない
というよりも、日常で豊臣某と名乗ったり呼んだりするわけではないのだから、
実際は位記官記口宣案の名義上豊臣姓とされるというだけのことで、それほど大袈裟なことではなかったのかも知れない
豊臣姓を賜る文書というのがその他に特に存在するわけではないし
対して羽柴苗字の場合は、文書を発給される(文面は「御一家に仰せ付けられ云々」という感じだったかな?)
また公家成の家の子息は侍従に任官する前でも羽柴某と名乗るから、公家成した個人というよりも、公家成の「家」に与えられる家格標識であったと言った方が正確かも >>218>>227>>233
知ったかぶって明白な虚偽を撒き散らしたり臆測で物を言う馬鹿は書き込まなくていいよ 武家のままでは高位高官に任官できないから
豊臣姓を賜姓+任官という感じでパスさせるって感じ? 関係ないだろ
従五位下の諸大夫でさえわざわざ豊臣某名義にされてるんだから
豊臣姓付与による擬制的同族関係を通した武士統制及び政権安定策 >>239
昔使ってたバッファロー君は落雷で亡くなったけどいい子だった 何も無しな家柄だと従五位程度の家格でも自前で用意しようと思ったらそこそこお金かかるだろうからなぁ 豊臣賜姓されると、もともと源氏だったり藤原氏を名乗っていた家は、氏はチェンジなの? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています