武家公家の家格について語るスレ
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この手の話題が盛り上がるのでスレッド立ててみました。
家格についての話題なら何でも結構かと思います^^ 慶長3年9月
関白 空位
太政大臣 空位
左大臣 空位
右大臣 空位
内大臣 徳川家康
大納言 前田利家
中納言 徳川秀忠 小早川秀秋 宇喜多秀家 毛利輝元 上杉景勝 豊臣秀頼
織田信雄は官位官職を剥奪されたんですか????? >>184
義昭も信雄も出家して官位的には引退しますた。 ほんと前代未聞だよね。
官位を武家が独占して左右大臣空位って。 >>189
この時点で公家の殆どが滅亡してもおかしくはなかったな 文禄4年秀次が高野山で出家した為、関白と左大臣が同時に空位になり、
秀次と近い関係にあった右大臣今出川晴季も失脚して同じく空位となる。
そして関白、左右大臣欠官のまま、慶長3年太政大臣秀吉が死ぬに及んで、
大臣は内大臣の家康のみとなる。
もっとも12月に晴季が右大臣に環任しているから大空位時代は4ヶ月程の事だが。 義昭は出家して准三后になったし、
信雄も豊臣政権に復帰後に何らかの地位に復帰したんじゃないの?
信長が右大臣を辞任した時もそうだが、
関白→太閤みたいな辞任後や出家後の権威ってなにかあるの? 日本では一度、任官さえすればすぐに辞めてもその権威がついて回るからね。 朝鮮出兵時に秀吉に許されて還俗した信雄の官位は
織田嫡孫の秀信の出世で打ち消された? 関白をやめた秀吉がどうやって政権を維持したのかと思ったら、ずっと太政大臣だったのね。
豊臣政権的に左右大臣を誰にも与えず空位にしていた意味が分からん。 将軍は死んだらすぐ世襲できるけど、関白はそうできなかったのは、何で。
秀頼もそうだけど、摂関家でも確実じゃないよな。 公家が途方もなく沢山いるからね
でも官位自体は限られてる 一応、この家ならここまでってのはあるけど、昇進のスピードや到達できるかは個人差があるね >>198
平安中期の摂関政治全盛の頃ならいざ知らず、平安後期以後になると、
その政治的価値は低下し、清盛、後醍醐、秀吉のような桁外れの実力者が出現した場合、
簡単に交代、廃止、乗っ取りなどが行われてしまう。
家康は朝廷管理のため摂家に絶対的な権威を与えたため、逆に摂関の不在は考えられなかったが、
「禁中並公家諸法度」第四条で摂家であっても、人物の器量に欠ければ大臣、摂関に
任じられるべきではないと明記して、釘を注している。
おのれの所は、家継の様な幼児や家重、家定の様な馬鹿を将軍にしておきながらだ。 公家への法を定めない室町幕府も世襲。
なんか不思議。
摂関家は家業なのに世襲ではない。
鎌倉時代は将軍は朝廷から派遣で、世襲じゃないし。
室町に転換があったのかな。 摂関は五摂家の世襲だろう。五家しかなれないんだから。
秀吉も近衛家の猶子となり関白になっている。 >>203
鎌倉将軍家も、源氏三代は世襲だし、摂家将軍家も摂家だった。ついでに執権も世襲だ。
摂関も藤原北家による世襲だし。 >>209
鎌倉将軍の四代目と五代目の九条頼経と頼嗣は親子だろ? 摂家将軍は摂家ではない
摂家出身だから将軍になったわけでもない
頼朝の縁故によって鎌倉右大将家の相続者として将軍になった >>211
九条家が摂家ではないとは、どういう意味だ? 厳密に言うなら摂家将軍自身は摂家ではないけど
摂家出身だから摂家将軍と言ってるわけだ
それが気に食わないなら摂家門跡とかも言い換えなければならなくなるが
代案がないならそのままにしておくのが吉
特にわかりにくい言葉でもないし 豊臣姓は秀吉死後に、
血縁外にブランドのように与えていると書いているのと、
それ以前に秀吉が聚楽第行幸あたりで次々と豊臣姓を血縁外に与えていたとする説があるようですが、
実際どうなんでしょうか? 豊臣姓って秀吉生前にはあげてないでしょ。
書状にも名である羽柴侍従としてしか出てこないし。 太閤
羽柴秀吉
関白
羽柴秀次
権大納言
関東-徳川家康
権中納言
なし
宰相
中四国-毛利輝元、宇喜多秀家
近畿・中部-前田利家、上杉景勝、羽柴秀保、羽柴秀俊
関東-徳川秀忠
中少将
近畿・中部-織田信包、細川忠興
関東-結城秀康
東北-蒲生氏郷
四位侍従
九州-大友義統、龍造寺政家、立花宗茂 島津義弘、小早川隆景
中四国-長宗我部元親、吉川広家
近畿・中部-羽柴秀勝、木下勝俊、堀秀治、丹羽長重、毛利秀頼、森忠政、前田利長、織田秀信、長谷川秀一、池田輝政、京極高次、稲葉貞通、前田玄以、筒井定次
東北-最上義光
五位侍従
九州-小早川秀包、宗義智、大友義述
関東-井伊直政、大澤基宿、佐竹義宣、里見義康
東北-伊達政宗 極官が正4位上中将の井伊家と正4位下会津松平や従4位中将の伊達や島津とだったら井伊の方が家格は上なの? その時の官位が上の方が上
井伊
常溜、譜代筆頭、大老を出す家、城主
伊達
表大名、大身国持、 豊臣姓をあげるようになったのは、
関ヶ原の戦い後の秀頼名義での
論功行賞の時からだと思う。
家康への牽制に利用したんじゃないかな。 公卿補任を見ればすぐに分かる。
天正15年、秀長、秀次の血縁以外初めて豊臣姓の武家公卿が誕生している。
従四位下参議の豊臣(宇喜多)秀家だ。任参議と同時に従三位昇任。
続いて天正18年には豊臣(前田)利家が従四位下参議に任じられている。
前年の公卿補任に藤原姓で記載されていた秀吉が、天正15年分では豊臣姓に改められ、
それと同時に豊臣姓の賜姓制度がスタートしている事が分かる。 >>232
関が原の戦いの直前に豊臣姓をもらったようです
朝鮮での功績かなにかでしょう 無知低能ばかりだな
諸大夫成と豊臣姓がセット
秀吉が豊臣姓を賜った以後に官位を貰った武士は殆どが豊臣姓名義で貰っているため特に珍しくもないし特に名誉でもない
(但し豊臣賜姓以前に任官した清正などは結果的に貰えていない)
公家成とセットなのは羽柴苗字
家格スレに出入りするならこの程度のことは知っておけよ 諸大夫成と豊臣姓がセット
公家成とセットなのは羽柴苗字
>>229と正反対だけど???
>>232>>233
wikiには下記と書いてるけど、>>228の意見と違うし1996年発表だといささか古いか。。。
村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒沢史学』49号、1996年
天正15年(1587年)九州征伐後 賜羽柴姓
天正16年(1588年)4月11日 従四位下、侍従。賜豊臣姓 一門の他、堀秀政、前田利家(羽柴筑前守)、滝川雄利など秀吉が天下を取る過程の時期に羽柴苗字を貰った者はいるが、
当然政権樹立後に羽柴苗字や豊臣姓の下賜が栄典のようなものとして半ば制度化され運用される以前の話
しかも上記三人のうち前二者は後に公家成しており、羽柴苗字を賜りながら諸大夫身分に留まったのは滝川雄利を含めた初期の例外二、三人のみだったはず。
公家成=侍従(以上)任官→豊臣姓羽柴苗字
諸大夫成=侍従不可→豊臣姓のみ 時系列的には↓
1585輝政従五位下武蔵守
1586秀吉豊臣改姓
1587輝政羽柴苗字
1588輝政従四位下侍従豊臣姓
輝政は秀吉が豊臣姓に改めたとき既に任官していたため豊臣姓を賜る機会は次の転任を待たなければならなかった
「豊臣姓は諸大夫成とセット」と言ったが、より広く「豊臣姓は叙任とセット」と言うべきかも知れない
というよりも、日常で豊臣某と名乗ったり呼んだりするわけではないのだから、
実際は位記官記口宣案の名義上豊臣姓とされるというだけのことで、それほど大袈裟なことではなかったのかも知れない
豊臣姓を賜る文書というのがその他に特に存在するわけではないし
対して羽柴苗字の場合は、文書を発給される(文面は「御一家に仰せ付けられ云々」という感じだったかな?)
また公家成の家の子息は侍従に任官する前でも羽柴某と名乗るから、公家成した個人というよりも、公家成の「家」に与えられる家格標識であったと言った方が正確かも >>218>>227>>233
知ったかぶって明白な虚偽を撒き散らしたり臆測で物を言う馬鹿は書き込まなくていいよ 武家のままでは高位高官に任官できないから
豊臣姓を賜姓+任官という感じでパスさせるって感じ? 関係ないだろ
従五位下の諸大夫でさえわざわざ豊臣某名義にされてるんだから
豊臣姓付与による擬制的同族関係を通した武士統制及び政権安定策 >>239
昔使ってたバッファロー君は落雷で亡くなったけどいい子だった 何も無しな家柄だと従五位程度の家格でも自前で用意しようと思ったらそこそこお金かかるだろうからなぁ 豊臣賜姓されると、もともと源氏だったり藤原氏を名乗っていた家は、氏はチェンジなの? チェンジというより二重状態な感じかな
紙貼って『豊臣』って上書きしてる状態 あんまり良い糊じゃなかったらしくすぐ剥がれちゃったね 大臣家未満のヒラ公家の中で特に家格が高かったのってどこですか?
松木とか日野とか? 家格自体は羽林家名家で団栗の背比べでしょ
羽振りの良かった家や一時の権勢を誇った家ならあるだろうけど 下橋敬長「維新前の宮廷生活」(『幕末の宮廷』平凡社東洋文庫所収)によれば
准大臣に任ぜられるのは中山・中御門(松木)・園・広橋ぐらいとある
但し他と比べると園は実績として一人しか准大臣になっていない
(園は准大臣宣下の直近の実例の一つと言えるのでそこから下橋が誤認したと思われる)
寛延三年官位御定の規定では
「旧家の内しかるべき家」として大臣家三家及び中御門(松木)・中山・正親町・滋野井を挙げている
但し正親町・滋野井は正二位大納言止まりが多い(下橋もこの両家については「従一位に叙せられる家」としてすら挙げていない)
浅井虎夫『新訂 女官通解』(講談社学術文庫)には
「松木をもって羽林の最とす」「松木家は清華に並び、大臣家につづきたる門閥家なり」とある
摂家親王家清華大臣家以外で諸大夫を使うのは中山家のみ
ここから平堂上最上位は中御門(松木)、中山だと考えられる 伯爵になった家と子爵の公家じゃ大納言に直任で差が付けられていたから伯爵公家が平公家では上級ということで良いのでは?
この定義に習うと大臣家も平公家の分類に入ってしまうが、そもそも大臣家って清華というよりも平に近いだろ。 >>252
昇進過程は羽林家・名家の上層と大差ない。
太政大臣まで昇れるとされているが、実際は内大臣までで羽林家・名家の上層も内大臣に任ぜられる。
そして摂家と清華が任ぜられない参議を大臣家が任ぜられる。
それ以上に昇った例では、三条西家で三例、中院家で一例ほど右大臣に昇った例があるだけ。 たまに大臣になっただけなのに大臣家の家格になったんだろう?
大臣家は中納言になっても中将は兼ねるのでしょうか? >>253
太政大臣まで昇れるとされている
太政大臣まで昇れるのは摂家と清華家。大臣家は通常内大臣が極官。
右大臣の例もあるが、それ以上は絶対に不可能。 江戸期なんか清華でさえ摂家のつなぎで大臣を舐めるだけで殆ど大納言あたりで過ごしていたのに
大臣家なんか全くお呼びじゃないだろw >>255
大臣家、実例は無いにしても理論上、太政大臣まで昇ることは可能だと思っていたが違うの?
十分太政大臣に就く資格がある清華にしても江戸期は太政大臣任官皆無だし(摂関経験者に限るということで任用資格すら失った)。 >>257
およそ鎌倉期に公家の家格が出来上がってから、その後の大臣家(家格ではなく、
大臣に任じられる家)の昇進過程を見ると、太政大臣・大将に昇る家が清華家となり、
大臣(内大臣)には昇っても、大将を兼ねる事が出来ない家が大臣家となっていった。 >>255
PS
つまり、理論上太政大臣に昇る事は可能ではなく、
太政大臣に昇れなかったから、清華家にはなれなかったと言う事だ。
近世は徳川幕府の創設した公家社会なので、官位制度もそれまでとは同一に
論じられない。近世以前には、大臣家の右大臣は三条西公條の一例はあるが、
それ以外は総て内大臣であり、中院家においては准大臣も二例ある。
これを見ても、大臣家の極官が内大臣であった事は明らかだと思う。 >>259
大臣家と清華の違いは大将任用資格だけじゃね?
まぁ大臣家が出自からして清華の分家筋で清華に遥かに及ばず、事実上内大臣が極官なのは異論ないけど
右大臣に中院と三条西がかすった例もあるし(平公家でも僅かに例があるが)実際なれる、なれたは別として
「理論上」太政大臣まで昇進ルートあると言いたかった。
貴方の言うことは十分理解できるし(結果内大臣が極官だったという事実からして)もっともだけどちょっと
私と視点や考え方が違うみたいだ。
でもわざわざレスくれてありがとう。
話は変わるが近世以降は大臣は事実上摂関家の占有官位になって左右大臣大臣家の専売特許だった舐り大臣が
清華まで拡大したよね。
中世までは清華は摂関任用資格と昇進スピード以外、本質的には差が無かったのに。 江戸期、左右大臣は清華は摂関の隙間に短期間入り込むだけだったけど内大臣も5年以上長期で勤めること
出来なかったの?
宮中席次見ても左右大臣と内大臣は、かなり差があるよね? 江戸期は大臣家から内大臣昇進は実質皆無。
なっても数日で解官。
清華は大臣家よりはマシだが数日〜数ヶ月が殆どで長くて2年。
摂家にとっては内大臣は踏み台に過ぎないが昇進が遅れた場合、長期任官している例がある。 清華家とはなっていても、新しく出来た
醍醐家は太政大臣を出したことが無いし、
広幡家に至っては、内大臣しか出したこと無い。
この辺も、「理論上」って感じだね。 >>263
広幡って極官内大臣だけど他の清華と較べたら内大臣昇進率が高い。
他の家と比べ早世が少なかったのか単なる偶然なのか大将兼ねられないから代替だったのかは知らないけど。 >>266
以前にもどこかに広幡家は大将が兼ねられないという書き込みがあったけど、
豊忠、前豊、基豊、忠礼は右大将になっている。
ただ、経豊は内大臣になっているにも関わらず、大将を兼ねられなかった。
これは、先任の大炊御門経久が右大将を兼ねて内大臣になり、続いて久我通明が、
すぐに右大将を兼ねて内大臣になった。
そして、その後を受けて経豊が内大臣になったが、兼ねられるべき右大将は、
大納言の鷹司輔煕のところに行ってしまい、珍しい例になった。 清華の内大臣就任って引退の花道、前官待遇ゲットの手段か?
近世は左大臣になると紛れ込む隙間も殆ど無い感じだし。 近衛の細川は有名だけど現在の五摂家はどこの男系子孫なの? >>267
広幡の右大臣大将兼任の件って制度化されてたの?
それともたまたま内大臣と兼任しなかっただけ? >>270
広幡の右大臣大将兼任の件って制度化されてたの?
ちょっと質問の意味が分からないけど、常豊が大将になれなかった件なら、
やはり広幡家の新家としての弱さと、常豊の運の悪さが重なったのかと思う。
文政7年は九条尚忠が右大臣に転じた後、清華家の3人が内大臣を舐めた年であり、
その一人目が、大納言先任の44歳の大炊御門経久だった。
経久は右大将を兼ねており、これは大臣直前の清華家の先任大納言としては珍しくはなかったが、
問題は次席、三席の大納言が、年齢の接近した清華家の久我通明45歳、広幡経豊46歳だった事。
この為、久我通明は大将になっていなかったが、4ヶ月程で辞任した経久の後を襲った通明は、
内大臣と共に右大将を兼ねる事が出来た。
そして半月程で辞任した通明の後、やっと経豊が内大臣になり、ここで普通なら右大将を兼ねる所だが、
どう言う訳か右大将は鷹司輔煕が任じられてしまった。
常豊が20日程で辞任した後、17歳の左大将近衛忠煕が内大臣になっているが、すでに忠煕は大将を兼ねており、
輔煕は18歳と1歳年上でありながら、大将を兼ねていなかった為、バランス上の事とかとも思われるし、
そこに、弱い新家の広幡家にしわ寄せが来たのではないだろうか。 大塩平八郎のことを調べてたら、養子縁組によって当時の武士の家格の考え方が
透けて見えるように思う。
大塩の祖父は、徳島藩筆頭家老稲田家の家臣真鍋家の生まれで、つまり陪々臣の出。
一旦、同じく稲田家の家臣塩田家に養子に入った後、更に大坂町奉行組与力(抱席御家人)の
大塩家の養子に入っている。全て知行200石相当だ。与力は蔵米支給で、現米80石という
表現になってるけど、禄米二百俵と同じく4公6民で知行200石と同じ扱い。
平八郎の親戚や弟子に養子縁組した人間は多いけど、堺奉行組与力や大阪定番組与力、
大和郡山藩家臣といったように、直臣陪臣の区別なく、知行200石相当の家同士で
行き来している。もちろん、同役である大坂町奉行組与力の間での養子縁組がダントツに多いけど。
これが大名旗本ともなると、同じ大名旗本からって話で別枠になるだろうけどね。お上から
かなり厳しく監視されるし。しかし御家人であれば、陪臣とかそういうのはこだわらないようだ。
あくまで家格は知行高相当で決まるらしい。
ちなみに、もう一段格下の同心(抱席御家人)ともなると、裕福な町人とか農民とかと平気で
養子縁組してる。 町人や農民と養子縁組と言うより、同心株・与力株の金銭による売買だろう。 >>272
徳島藩の直臣と稲田家陪臣で、収入が同じ程度の家同士の縁組はないの?
因みに小藩の中級武士(80石程度)なら庄屋、本陣、社家、寺家あたりとも縁組してる 稲田陪臣が藩外に縁組を求めていたということはないのだろうか? >>272
稲田の家臣で200も貰っているなら家中では上士じゃないか? >>275
稲田昌植の妻有馬久米の兄松田正之の妻蜂須賀笛子
有馬経由で蜂須賀と稲田がつながる 宮本町(宮津市)
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/miyamoto.html
分宮神社
分宮神社は宮本町(文久二年正月旧職人町改称)に鎮座し指定村社にして宮津町東半の産土神なり、(写真参照)その勧請に就いては宮津事跡記に
分宮大明神御勧請之儀京極丹後守高広公府中一之宮に御信仰被爲在毎月御参詣被遊候處雪中
又は、荒等之節御参詣難被遊に付寛永五年丑九月職人町に御勧請同十一月御遷宮其後は一之宮之神主年々祭禮之節神事相勤候處職人町住人に
大兵衝と申者而至而実禮之者に而信仰致侯に付社内之掃除又は宮守に被仰付其後官職可致旨被仰出当社神主と相成御領内神主筆頭に被仰付候
また宮津旧記に
分宮大明神は京極高広公御在城の砌府中一の宮へ御信仰雲中御参詣を御厭ひ今宮津職人町の地へ御引移寛永五辰九月十一日遷宮即ち宮守には
同町太兵衛と云ふ者至って信仰故に宮守となり其後官職の儀は阿部対馬守様御取斗に依って当社の神主となり従六位島谷出雲守と改めらる。
とあれば寛永五年九月十一日藩主京極高広侯籠神社のみ霊を祀られしに濫觴すること明かなり。
→阿部対馬守様御取斗に依って当社の神主となり従六位島谷出雲守と改めらる。
阿部対馬守とは、江戸時代の徳川家譜代家臣の阿部正勝の子孫で、大阪城二代城主の阿部重次の事。
従六位島谷出雲守とは、阿部家従六位なのだろうか・・
奥州安倍氏従六位島谷出雲守・・ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています