武家公家の家格について語るスレ
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この手の話題が盛り上がるのでスレッド立ててみました。
家格についての話題なら何でも結構かと思います^^ 無知低能ばかりだな
諸大夫成と豊臣姓がセット
秀吉が豊臣姓を賜った以後に官位を貰った武士は殆どが豊臣姓名義で貰っているため特に珍しくもないし特に名誉でもない
(但し豊臣賜姓以前に任官した清正などは結果的に貰えていない)
公家成とセットなのは羽柴苗字
家格スレに出入りするならこの程度のことは知っておけよ 諸大夫成と豊臣姓がセット
公家成とセットなのは羽柴苗字
>>229と正反対だけど???
>>232>>233
wikiには下記と書いてるけど、>>228の意見と違うし1996年発表だといささか古いか。。。
村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒沢史学』49号、1996年
天正15年(1587年)九州征伐後 賜羽柴姓
天正16年(1588年)4月11日 従四位下、侍従。賜豊臣姓 一門の他、堀秀政、前田利家(羽柴筑前守)、滝川雄利など秀吉が天下を取る過程の時期に羽柴苗字を貰った者はいるが、
当然政権樹立後に羽柴苗字や豊臣姓の下賜が栄典のようなものとして半ば制度化され運用される以前の話
しかも上記三人のうち前二者は後に公家成しており、羽柴苗字を賜りながら諸大夫身分に留まったのは滝川雄利を含めた初期の例外二、三人のみだったはず。
公家成=侍従(以上)任官→豊臣姓羽柴苗字
諸大夫成=侍従不可→豊臣姓のみ 時系列的には↓
1585輝政従五位下武蔵守
1586秀吉豊臣改姓
1587輝政羽柴苗字
1588輝政従四位下侍従豊臣姓
輝政は秀吉が豊臣姓に改めたとき既に任官していたため豊臣姓を賜る機会は次の転任を待たなければならなかった
「豊臣姓は諸大夫成とセット」と言ったが、より広く「豊臣姓は叙任とセット」と言うべきかも知れない
というよりも、日常で豊臣某と名乗ったり呼んだりするわけではないのだから、
実際は位記官記口宣案の名義上豊臣姓とされるというだけのことで、それほど大袈裟なことではなかったのかも知れない
豊臣姓を賜る文書というのがその他に特に存在するわけではないし
対して羽柴苗字の場合は、文書を発給される(文面は「御一家に仰せ付けられ云々」という感じだったかな?)
また公家成の家の子息は侍従に任官する前でも羽柴某と名乗るから、公家成した個人というよりも、公家成の「家」に与えられる家格標識であったと言った方が正確かも >>218>>227>>233
知ったかぶって明白な虚偽を撒き散らしたり臆測で物を言う馬鹿は書き込まなくていいよ 武家のままでは高位高官に任官できないから
豊臣姓を賜姓+任官という感じでパスさせるって感じ? 関係ないだろ
従五位下の諸大夫でさえわざわざ豊臣某名義にされてるんだから
豊臣姓付与による擬制的同族関係を通した武士統制及び政権安定策 >>239
昔使ってたバッファロー君は落雷で亡くなったけどいい子だった 何も無しな家柄だと従五位程度の家格でも自前で用意しようと思ったらそこそこお金かかるだろうからなぁ 豊臣賜姓されると、もともと源氏だったり藤原氏を名乗っていた家は、氏はチェンジなの? チェンジというより二重状態な感じかな
紙貼って『豊臣』って上書きしてる状態 あんまり良い糊じゃなかったらしくすぐ剥がれちゃったね 大臣家未満のヒラ公家の中で特に家格が高かったのってどこですか?
松木とか日野とか? 家格自体は羽林家名家で団栗の背比べでしょ
羽振りの良かった家や一時の権勢を誇った家ならあるだろうけど 下橋敬長「維新前の宮廷生活」(『幕末の宮廷』平凡社東洋文庫所収)によれば
准大臣に任ぜられるのは中山・中御門(松木)・園・広橋ぐらいとある
但し他と比べると園は実績として一人しか准大臣になっていない
(園は准大臣宣下の直近の実例の一つと言えるのでそこから下橋が誤認したと思われる)
寛延三年官位御定の規定では
「旧家の内しかるべき家」として大臣家三家及び中御門(松木)・中山・正親町・滋野井を挙げている
但し正親町・滋野井は正二位大納言止まりが多い(下橋もこの両家については「従一位に叙せられる家」としてすら挙げていない)
浅井虎夫『新訂 女官通解』(講談社学術文庫)には
「松木をもって羽林の最とす」「松木家は清華に並び、大臣家につづきたる門閥家なり」とある
摂家親王家清華大臣家以外で諸大夫を使うのは中山家のみ
ここから平堂上最上位は中御門(松木)、中山だと考えられる 伯爵になった家と子爵の公家じゃ大納言に直任で差が付けられていたから伯爵公家が平公家では上級ということで良いのでは?
この定義に習うと大臣家も平公家の分類に入ってしまうが、そもそも大臣家って清華というよりも平に近いだろ。 >>252
昇進過程は羽林家・名家の上層と大差ない。
太政大臣まで昇れるとされているが、実際は内大臣までで羽林家・名家の上層も内大臣に任ぜられる。
そして摂家と清華が任ぜられない参議を大臣家が任ぜられる。
それ以上に昇った例では、三条西家で三例、中院家で一例ほど右大臣に昇った例があるだけ。 たまに大臣になっただけなのに大臣家の家格になったんだろう?
大臣家は中納言になっても中将は兼ねるのでしょうか? >>253
太政大臣まで昇れるとされている
太政大臣まで昇れるのは摂家と清華家。大臣家は通常内大臣が極官。
右大臣の例もあるが、それ以上は絶対に不可能。 江戸期なんか清華でさえ摂家のつなぎで大臣を舐めるだけで殆ど大納言あたりで過ごしていたのに
大臣家なんか全くお呼びじゃないだろw >>255
大臣家、実例は無いにしても理論上、太政大臣まで昇ることは可能だと思っていたが違うの?
十分太政大臣に就く資格がある清華にしても江戸期は太政大臣任官皆無だし(摂関経験者に限るということで任用資格すら失った)。 >>257
およそ鎌倉期に公家の家格が出来上がってから、その後の大臣家(家格ではなく、
大臣に任じられる家)の昇進過程を見ると、太政大臣・大将に昇る家が清華家となり、
大臣(内大臣)には昇っても、大将を兼ねる事が出来ない家が大臣家となっていった。 >>255
PS
つまり、理論上太政大臣に昇る事は可能ではなく、
太政大臣に昇れなかったから、清華家にはなれなかったと言う事だ。
近世は徳川幕府の創設した公家社会なので、官位制度もそれまでとは同一に
論じられない。近世以前には、大臣家の右大臣は三条西公條の一例はあるが、
それ以外は総て内大臣であり、中院家においては准大臣も二例ある。
これを見ても、大臣家の極官が内大臣であった事は明らかだと思う。 >>259
大臣家と清華の違いは大将任用資格だけじゃね?
まぁ大臣家が出自からして清華の分家筋で清華に遥かに及ばず、事実上内大臣が極官なのは異論ないけど
右大臣に中院と三条西がかすった例もあるし(平公家でも僅かに例があるが)実際なれる、なれたは別として
「理論上」太政大臣まで昇進ルートあると言いたかった。
貴方の言うことは十分理解できるし(結果内大臣が極官だったという事実からして)もっともだけどちょっと
私と視点や考え方が違うみたいだ。
でもわざわざレスくれてありがとう。
話は変わるが近世以降は大臣は事実上摂関家の占有官位になって左右大臣大臣家の専売特許だった舐り大臣が
清華まで拡大したよね。
中世までは清華は摂関任用資格と昇進スピード以外、本質的には差が無かったのに。 江戸期、左右大臣は清華は摂関の隙間に短期間入り込むだけだったけど内大臣も5年以上長期で勤めること
出来なかったの?
宮中席次見ても左右大臣と内大臣は、かなり差があるよね? 江戸期は大臣家から内大臣昇進は実質皆無。
なっても数日で解官。
清華は大臣家よりはマシだが数日〜数ヶ月が殆どで長くて2年。
摂家にとっては内大臣は踏み台に過ぎないが昇進が遅れた場合、長期任官している例がある。 清華家とはなっていても、新しく出来た
醍醐家は太政大臣を出したことが無いし、
広幡家に至っては、内大臣しか出したこと無い。
この辺も、「理論上」って感じだね。 >>263
広幡って極官内大臣だけど他の清華と較べたら内大臣昇進率が高い。
他の家と比べ早世が少なかったのか単なる偶然なのか大将兼ねられないから代替だったのかは知らないけど。 >>266
以前にもどこかに広幡家は大将が兼ねられないという書き込みがあったけど、
豊忠、前豊、基豊、忠礼は右大将になっている。
ただ、経豊は内大臣になっているにも関わらず、大将を兼ねられなかった。
これは、先任の大炊御門経久が右大将を兼ねて内大臣になり、続いて久我通明が、
すぐに右大将を兼ねて内大臣になった。
そして、その後を受けて経豊が内大臣になったが、兼ねられるべき右大将は、
大納言の鷹司輔煕のところに行ってしまい、珍しい例になった。 清華の内大臣就任って引退の花道、前官待遇ゲットの手段か?
近世は左大臣になると紛れ込む隙間も殆ど無い感じだし。 近衛の細川は有名だけど現在の五摂家はどこの男系子孫なの? >>267
広幡の右大臣大将兼任の件って制度化されてたの?
それともたまたま内大臣と兼任しなかっただけ? >>270
広幡の右大臣大将兼任の件って制度化されてたの?
ちょっと質問の意味が分からないけど、常豊が大将になれなかった件なら、
やはり広幡家の新家としての弱さと、常豊の運の悪さが重なったのかと思う。
文政7年は九条尚忠が右大臣に転じた後、清華家の3人が内大臣を舐めた年であり、
その一人目が、大納言先任の44歳の大炊御門経久だった。
経久は右大将を兼ねており、これは大臣直前の清華家の先任大納言としては珍しくはなかったが、
問題は次席、三席の大納言が、年齢の接近した清華家の久我通明45歳、広幡経豊46歳だった事。
この為、久我通明は大将になっていなかったが、4ヶ月程で辞任した経久の後を襲った通明は、
内大臣と共に右大将を兼ねる事が出来た。
そして半月程で辞任した通明の後、やっと経豊が内大臣になり、ここで普通なら右大将を兼ねる所だが、
どう言う訳か右大将は鷹司輔煕が任じられてしまった。
常豊が20日程で辞任した後、17歳の左大将近衛忠煕が内大臣になっているが、すでに忠煕は大将を兼ねており、
輔煕は18歳と1歳年上でありながら、大将を兼ねていなかった為、バランス上の事とかとも思われるし、
そこに、弱い新家の広幡家にしわ寄せが来たのではないだろうか。 大塩平八郎のことを調べてたら、養子縁組によって当時の武士の家格の考え方が
透けて見えるように思う。
大塩の祖父は、徳島藩筆頭家老稲田家の家臣真鍋家の生まれで、つまり陪々臣の出。
一旦、同じく稲田家の家臣塩田家に養子に入った後、更に大坂町奉行組与力(抱席御家人)の
大塩家の養子に入っている。全て知行200石相当だ。与力は蔵米支給で、現米80石という
表現になってるけど、禄米二百俵と同じく4公6民で知行200石と同じ扱い。
平八郎の親戚や弟子に養子縁組した人間は多いけど、堺奉行組与力や大阪定番組与力、
大和郡山藩家臣といったように、直臣陪臣の区別なく、知行200石相当の家同士で
行き来している。もちろん、同役である大坂町奉行組与力の間での養子縁組がダントツに多いけど。
これが大名旗本ともなると、同じ大名旗本からって話で別枠になるだろうけどね。お上から
かなり厳しく監視されるし。しかし御家人であれば、陪臣とかそういうのはこだわらないようだ。
あくまで家格は知行高相当で決まるらしい。
ちなみに、もう一段格下の同心(抱席御家人)ともなると、裕福な町人とか農民とかと平気で
養子縁組してる。 町人や農民と養子縁組と言うより、同心株・与力株の金銭による売買だろう。 >>272
徳島藩の直臣と稲田家陪臣で、収入が同じ程度の家同士の縁組はないの?
因みに小藩の中級武士(80石程度)なら庄屋、本陣、社家、寺家あたりとも縁組してる 稲田陪臣が藩外に縁組を求めていたということはないのだろうか? >>272
稲田の家臣で200も貰っているなら家中では上士じゃないか? >>275
稲田昌植の妻有馬久米の兄松田正之の妻蜂須賀笛子
有馬経由で蜂須賀と稲田がつながる 宮本町(宮津市)
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/miyamoto.html
分宮神社
分宮神社は宮本町(文久二年正月旧職人町改称)に鎮座し指定村社にして宮津町東半の産土神なり、(写真参照)その勧請に就いては宮津事跡記に
分宮大明神御勧請之儀京極丹後守高広公府中一之宮に御信仰被爲在毎月御参詣被遊候處雪中
又は、荒等之節御参詣難被遊に付寛永五年丑九月職人町に御勧請同十一月御遷宮其後は一之宮之神主年々祭禮之節神事相勤候處職人町住人に
大兵衝と申者而至而実禮之者に而信仰致侯に付社内之掃除又は宮守に被仰付其後官職可致旨被仰出当社神主と相成御領内神主筆頭に被仰付候
また宮津旧記に
分宮大明神は京極高広公御在城の砌府中一の宮へ御信仰雲中御参詣を御厭ひ今宮津職人町の地へ御引移寛永五辰九月十一日遷宮即ち宮守には
同町太兵衛と云ふ者至って信仰故に宮守となり其後官職の儀は阿部対馬守様御取斗に依って当社の神主となり従六位島谷出雲守と改めらる。
とあれば寛永五年九月十一日藩主京極高広侯籠神社のみ霊を祀られしに濫觴すること明かなり。
→阿部対馬守様御取斗に依って当社の神主となり従六位島谷出雲守と改めらる。
阿部対馬守とは、江戸時代の徳川家譜代家臣の阿部正勝の子孫で、大阪城二代城主の阿部重次の事。
従六位島谷出雲守とは、阿部家従六位なのだろうか・・
奥州安倍氏従六位島谷出雲守・・ 無位無官の町奉行 同心与力と官位持ってる町人とでは町人が偉いの?
土足で官位持ちの容疑者町人の家に踏み込めないという話は聞いたことあるけど >>282
容疑者町人の家には踏み込めないから、家から出てきたところを捕縛する。 日野とか平公家にもかかわらず清華以上の1000石とか800石とかの家禄持っている公家って結構おるけど何物? 平堂上で1000石前後の家は日野家以外は飛鳥井家(羽林家)、広橋家(名家)、烏丸家(名家)、高倉家(半家)、萩原家(半家)で
石高だけなら清華の今出川家に匹敵する多さ。その今出川家も石高だけなら摂家の鷹司家より何故か多い。 >>286
それはじっ(日偏に尼)近衆でしょう。江戸初期から家康や秀忠に接近し、
参内の共をしたり、将軍家に伺候し、臣下の様な礼を取っていた公家衆の事です。
日野、烏丸、広橋、飛鳥井、勧修時、高倉、舟橋等20 家弱が知られています。
その形成や役割は明確ではありませんが、知行高などで優遇され、
幕府による公家衆の分断策と見る事も出来るとされています。
講座前近代の天皇 第2巻天皇権力の構造と展開その2 より >>289
>>286
> 幕府による公家衆の分断策と見る事も出来る
あー、なるほど。 近世朝廷の法制と秩序
ttp://www.yamakawa.co.jp/product/detail/2118/ >>282
町奉行クラスの大身旗本で無位無冠なんてあるの? >>289
武家(足利家)の家礼の流れを汲む家々の事ですか?。
かれらの家々の分家は高家(武士)として徳川家近習になったりしてますね。 役に付いていない大身旗本は一部を覗いて無位無官じゃない? 元の>>282は町奉行が無位無官と言ってるんだが、さすがに無位無官はないんじゃないか。遠国奉行なら別だが。 >>298
奉行本人ではなく奉行所の与力同心と町人を比べていると読み取れるが? 前田利家って、秀吉が天下人になったとき、「羽柴筑前守」って秀吉の旧名をもらってるんだけど、
これって元同僚で友人の立場としては、けっこう精神的にキツイというか屈辱じゃなかったのかね? >>300
徳川期に松平の称号貰った外様大名も屈辱って事か?
内心は分からないにせよ天下人から旧名をそのまま貰えるというのは非常な
栄誉だと認識されていたと思う。
羽柴や豊臣は乱発されすぎて有り難みがないから筑前守をセットで与え、他との差別化を図ったのだろう。
実際、豊臣政権で前田家は過剰なほど優遇されてるしね。 細川じゃ、松平下賜を辞退してるな。
大御所が長岡から細川に戻るように言った直後に、秀忠が下賜しようとしたので大御所の言をたてにうまく断った。 細川、上杉は殿上元服・賜諱があるが松平姓ではない
山内は殿上元服・賜諱も松平姓もない だが、清正が勝手に豊臣姓を使用したとき、秀吉の逆鱗にふれた。 清正て秀吉の遠縁なのに、なんで怒られたんだろ?
陪臣にすら豊臣姓をバンバン下賜してんだし
清正にも気前よく与えれば良いやん >>303
山内は松平○ 殿上元服?じゃなかった?
外様大藩では珍しいと思う。 山内は松平土佐守だよね。諱は2代目の忠義1人しかもらえなかったけど。 細川や上杉は、なぜ松平の名字をもらわなかったんだろう? 建国からたった50年しかない小国の歴史などない
糞スレ終了
>>312
このスレだけじゃなくて日本史板廃止運動しなさい 出自不明の新興武家ならともかく過去に任官例ある家格のとこは必須ではないような 秀吉は武家全体を豊臣氏に取り込んで
豊臣氏のトップ(=氏長者)として武家全体を統制しようとしてたんでしょ?
武家が官位をもらうときは天下人秀吉に無断でもらうわけにもいかず
そうなると自動的に秀吉の推挙で叙任=豊臣朝臣となる
豊臣朝臣でない武家は豊臣賜姓以前もしくは関ヶ原以後に叙任された例に限られるはず そうすると秀吉の構想していた豊臣氏ってのは
今までの氏とは異質なものだよね
そのまま続いてたら血筋をあらわすものじゃなくなって貴族の証みたいなものになってた?
もし将来的に貴種の末裔で担ぎあげられる奴が出てくると
その点で劣る秀吉からしたら血筋をあらわす氏ってのは邪魔な存在だろう
そこで自分を頂点とする氏のみが存在できるように根本的に変えてしまうつもりだったのか お公家さん達にとっては、公卿の定員を武士に横取りされる武家関白制より、徳川幕府の方がありがたかったろう。 とは言っても摂家以外ないような形だっちらどっちも迷惑かも。 >>324
そりゃ分からんよ。
公武が同列の豊臣政権であれば同じ官職は同等の価値を持ってたけど
徳川政権下では京都に押し込められて政権から完全に疎外されたし。 豊臣政権下で武家並みに影響力にあった公家はいたか?菊亭晴季くらいじゃないか。 本当に秀吉がその意味をわかってたかは
難しいけど、平安以降の「血統」を表すものとしての
「氏」とは別物になってただろうね。
これは徳川でもそうだけど、「氏を変更する」ということ自体が
すでに「血統」の正当性を証明してない。
公家さんはその意味がわかってるから
ハナでわらってたろうけどね。
ただ、秀吉が自分の直系のみを豊臣としてたら
従来の使用法なんだけど、「新しい氏の誕生」にはなっちゃうよね。
でも、その場合は「秀吉の出自がはっきりしない」ということから
「豊臣なんて氏、卑賤のものである」と堂々とハナで笑える。
菊亭や近衛はちゃんと考えてたんじゃないだろかな。
そして結果的に追放されたりするけど。
妄想だけど「豊臣」というのも結構イヤラシイ
ネーミングと思うのだよね。
そのままで「金で買った地位」ってのもあるし
「豊臣朝臣」なんて書くと、「臣」が二重になって
「身分をわきまえろよ」との確認みたいになる。
まぁ、公家と秀吉ー武家の価値観の違いって
ことなんだけどね。 公家の間でもたとえば源氏の家に藤原氏から養子、猶子に入るなんて
ことは普通に行われていたんだから、特に
> 公家さんはその意味がわかってるから
> ハナでわらってたろうけどね。
なんて話は起きないね。長尾輝虎が上杉の名跡を継いだとき、近衛前
久が同族になったと祝意を表したという話も伝わっている通り、氏の変更
なんてのは公家にとってもごく普通の話だよ。 >>329
だから、源氏の家に行ったようなのはもう
「仲間じゃないよ」ということでしょう。
前久は上杉好きだから典型的なお世辞
であるしね。
逆に、出自のはっきりしない武家を
猶子じゃなく正式に高貴な藤原家の
血統にいれたことなんてある?
血統の正当性、の話であって
武家が氏の変更をすることはごく普通の
「ハナで笑ってた」話だ、ってことなんだけど。
自分たちの氏は貴種だよ、ってね。 日本で一番出自のはっきりした最高の名門、天皇家の皇子を、
正式に高貴な藤原摂関家の血統にいれた例だな。
とくに近衛家なんて、昭和までずっと後陽成天皇の男系子孫で、
伏見宮一門より現皇室に血が近かったし。 家康の三河守任官を近衛前久が取り次いだときの話も
知らなければ、長尾家や上杉家が何氏なのかも知らな
いようだな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています