武家公家の家格について語るスレ
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この手の話題が盛り上がるのでスレッド立ててみました。
家格についての話題なら何でも結構かと思います^^ 徳川治宝=従一位
将軍家でも従一位は家斉が久方ぶりだったのに
なぜ紀州藩主如きが従一位? 半家の西洞院家の分家が名家に分類されてるけど
昇進ルート見ると分家の方も半家じゃないの? >>411
当時の紀州藩主が徳川家斉の息子。
新将軍家慶の任官に当たってのご祝儀昇叙で従一位。
将軍家に縁があるとこういうことは結構あるよ。 そのせいか知らんけど
家慶以降は将軍継嗣の段階で従一位になったな 朝廷なんて柔弱でチャラチャラした腑抜けの役立たず集団だろ 武家がお歯黒の長袖者に膝を屈していたのは、日本史における一大汚点。
信長や家康のときに、腐りきった朝廷や公家は一掃しておくべきだった。 権力の根拠として朝廷は必要だろ
また日本の伝統文化の保持発展にもかかせない あんな惰弱な麻呂連中を権力の根拠にしなければいけなかったのは、
武家にとっての屈辱であり、一大痛恨事だな。 天皇家や公家だって5世紀には武装して
武力で日本を支配者にのし上がっただろw
だいたい江戸幕府だって3代目以降は戦もせず
幼児や障がい者だって将軍になっていた そりゃ戦する必要ないからな
足利将軍は戦をするのが多いけどそれはいつも大名に反抗されてるからで
最初から絶対服従なら戦なんか誰もしない 武家は朝廷公家の伝統文化芸術に対して敬意をもっていたけどな >>422
> 天皇家や公家だって5世紀には武装して
> 武力で日本を支配者にのし上がっただろw
天皇自身が戦場で指揮を取ったケースは少ないだろ。
天武天皇も即位してからは戦場に立っていないはず。 徳川家(松平)の近縁として
岩松家 横瀬家 里見家 山名家 大館家などが
真に家柄が高いといえるのでは?。 里見とか酷い扱いだよね。
豊臣時代以降どんどん封土を削られて最後に難癖付けられてあっさり改易。 岩松なんか、家康に媚びを売っておけば、由良や横瀬と同じように千石取りの高家になれただろうに・・・ この上の書き込みで細川が松平氏姓をもらわなかったとあるが、実際は、
もらえなかった。関ヶ原で武功を余り上げられなかったのと国主ではない。
江戸時代の幕藩体制において一番の名誉でもある松平氏姓を断る家なんて、
秀忠時代、すぐさま改易だよ。アホか。細川ってほんとアホだらけ。 幽斎が丹波の西軍1万余を丹後に留めさせただけで充分だろ。 細川家はそもそも中大名からなぜか大大名だからな。
豊前から肥後大身になったのは棚ボタ。
加藤家改易の後に旗、像、紋をつけて肥後入国したくらいに、
肥後では加藤人気があった。 >>433
家柄は
細川 >>>>> 加藤
なんだがな。 家柄がーとか言うのはみじめすぎる
松平姓貰えなかったくせに 豊前小倉39万9千石の時点で大大名ではないのか?
それに豊前移封は、忠興の関ヶ原で奮戦も論功行賞に込み込みだろうし 表高は30万石だし中大名と大大名の境目付近の微妙な所 >>435
家柄は
細川 >>>>> 松平
だろ。もともとは。 >385
木戸はもともと身分が高かったから
下級武士から神輿にされたのだろう 肥後の細川は、和泉守護の細川でなくて
奉公衆の淡路細川の分家(義分家)の細川だって東大の先生が
言ってたよ
松平さんや加藤さんと、どっこいどっこいなんだって
ほんものの和泉守護の細川は京都で朝廷の侍になったみたい
ちなみに細川氏嫡流の京兆家は東北の小藩の家老になったんだって
武衛家は消滅、河内畠山氏のみ高家として殿中に残れたらしい (肥後)細川家の史料は多いと言われてるけど
それはあくまでも忠興の代移行の話で、藤孝の史料はイメージ程多くないんだよな 五摂家の諸大夫で正四位になった人と従五位の大名とでは、どちらが格上なんですか? 宮中だと諸大夫の座次は位階によるので摂家諸大夫>大名諸大夫
殿中だと摂家諸大夫は摂家の家来として殿上之間御次という控之間に候して
大名と一緒に並ぶということがないので上下の規定はないかと
ただ仮に席次を決めるとすれば
大名四品(四位諸大夫)以上は必ず五位諸大夫の上席なので
やはり摂家諸大夫>大名五位諸大夫となるか まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった では、近衛家諸大夫の進藤家で従三位に昇った者がいたが、殿中では、大廊下ということになるのか?
鎌倉時代、藤原定家は、やはり摂家の家司を勤めていたが、権中納言に昇った。もっと古くは大納言に昇った者もいた。この様な例外な者は、御三家当主が若年であれば、官位が上になり、将軍家世継と同格となる。
殿中では、どの様な待遇となるのか? 時代が違うからな。
豊臣の大老を関白家家司と見ると、内大臣、大納言、中納言が居並ぶな。 定家は道長の男系子孫だし、一応、代々公卿の家柄だから
江戸時代の諸大夫と一緒にするのは違う気がする
>>446の言う通り大廊下に詰めるってことはなかっただろうし
御三家当主と席次の上下を競うようなことがあったかは知らんが
ただ三位になると社会通念上、それなりに厚遇されたはずだとは思う。 三位って位のもつ不思議な重みは何なんだろうね
律令制が定められたときには、三位と四位の間にここまでの差が
出るとは思わなかったはずだが 昔は従三位以上に昇る人は人数が少なかったし、
まさに雲の上の人ってくらい尊かったわけだからね
従二位大納言・大伴旅人と、正二位権大納言・烏丸光広では
官位だけ見ると似たようなもんだが、社会的な重みは全然違う 藤原基経は、正三位摂政右大臣だからな。昔は三位以上は偉かった。 >>449
三位だろうがなんだろうが、地下だろ。
目見得以下だろうし、公卿の勅使並みの大廊下なんてあり得ないね。 江戸期の武家の三位以上って、どのような位置づけはどうなんだろ?
右大将を兼ねて大臣に上る徳川家の地下の家司扱いなのか、それとも公卿である門流扱いなのか >>455
地下家の出身でも三位以上は公卿だし、その死は薨去。
まあ確かに大廊下はないだろうけど。 斯波義銀と吉良義昭が戦そっちのけで席次を争ったとか
江戸時代の武士は、たかが畳一枚の格式の上下を必死に争っていたって
よくバカにされるけど、
このスレの住人がもし過去に生れてたら、彼ら以上に下らない身分の上下で必死になりそうだな 武家と公家の格式も、自分がその場にいたらって考えると結構わかり易いよね。
公家は位通り自分が上だって言いたがるし、
武家は自分たちが公家を養ってあげてるんだから公家よりも上だって言いたがる。
そこで、お互い争うわけだが、結局力が強いのは武家だから、
位通りよりは、武家よりに相場が決まる。
でも武家だって、官位制度自体を否定してしまうと今度は自分たちの立場がなくなるので
官位は官位で尊重して、自分たちの身を守るっていう。 >>458
それを馬鹿げたことと思っていた学生時代。
いざ社会に出てみたら誰を上座にするかで胃が痛くなるほど悩んでいる私が居ます。 >>457
地下でも三位に登ることはあったらしいけど。
京都の街で三位の地下人と五位の殿上人が出会ったら、どちらが目上になるの? 知る限りでは、進藤氏しか例はありませんが、地下で三位に叙位されたとしても高齢です。
もし、出会ったら家格の上の方が優位でしょうね。 >>464
陰陽頭に昇った幸徳井保ロのほか、
局務・官務の中原姓押小路家、小槻姓壬生家などの当主の一部が
従三位に叙位されているはず。そんなに多くはないが、極めて稀ってほどでもないと思う。 >>462
実際に自分の立場になって考えてみると、かなり違うんだよな。>>459の通り。
今の会社でも、オヤジはオヤジで、役職の上下で必死になってるし、
女の多い部署なんかだと、いつも大奥みたいに小さな権力闘争ばかりしてるわけで
まあ昔の人のことは笑えん。 江戸時代になると、極位極官で比較してたんでしょ。
清華の大臣が摂家の少将に謙るんだから。
三位に登る地下が威張れるのは地下にだけなわけで。 江戸時代の公家の乗り物は何でっしゃろ。
どのくらい下の位まで利用できたんやろ。 位階は身分内での上下に関わる
堂上・親王家殿上人(若江)・六位蔵人>地下諸大夫>侍>士分以下
したがって
五位殿上人>地下三位諸大夫
地下六位諸大夫>五位侍
武家侍從以上は殿上人なので三位諸大夫より上 >>468
烏帽子や冠を被るときは輿もしくは騎乗。被らんときは駕篭。
利用は親王・摂家・清華は常に乗物。平堂上は財力による。乗物を常備し、
それを担ぐ剛力ものを雇えること。無理なら徒歩。参内も徒歩。
遠出んときは今でいうレンタル。 >>468
牛車と言いたいところだがほとんど駕籠。
だから身分上の制約はない。
まあ駕籠のグレードは違うけど。 >>470
まるで「老中が侍従だから」侍従以上は殿上人なのだとでも言うかのようなこの言い草ね 従五位下の小大名と従三位の地下人とでどちらが上かは微妙なところだな。 非参議従三位 押小路師資(家禄54石)
従五位下摂津守 鍋島直温(肥前蓮池藩主、5万2000石)
↑こんな感じ?禄高は1000倍違うが 武家でも四品以上は領知高・知行高は全く関係なく完全に官位によって序列化される
但しそれ以下だと官位に全く関係なく領知高・知行高によって序列化される まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 非参議従三位 押小路師資(家禄54石)
年収540万円か。
ちょっと少ないな。 押小路家は地下筆頭で付け届けも多いから、下手な平堂上より豊かな暮らしぶりだよね。維新でもちゃんと男爵になれたし。
家職化が曲減に達すると、家格と収入から比例しなくなる訳で、
貧乏堂上が反発し続けたわけだけど、地下はどう対応してたんだろ?
幕末の宮廷だと、摂家の諸大夫が怖かったとあるが、堂上についてはあんまらり記述がないが、馬鹿にしてたりしたのかな? 【訃報】
綾小路 有昭氏(あやのこうじ・ありてる=元富国生命保険常務)
6月28日、呼吸不全のため死去、86歳。連絡先は同社秘書室。
告別式は5日午前10時から東京都渋谷区西原2の42の1の代々幡斎場。
喪主は長男、有則氏。
綾小路子爵家の家系だね。 結局>>476だと、さすがに押小路さんの方が格上でしょ?
例えばどこかの道ですれ違ったら(そんなこと実際にはほとんどないだろうけど)
鍋島分家の殿様の方が道を譲るでしょ。 江戸時代の公家なんて大名家との婚姻がなによりも食いぶちだったからな。
あと同じ菩提寺院の檀家。
島津家の近衛家、黒田家の有栖川宮家、前田家の三条家、
みんな武家が面倒みてるやないかい。 >>486
供も連れずに徒歩で歩いている押小路三位に駕篭に乗って行列を組んでいる
鍋島摂津守が道を譲るとは考えられん。将軍家の権威を背負っているとはいえ
旗本の禁裏附(五位)だって平堂上相手なら素通りだし。 蓮池鍋島家は甲斐守・摂津守を交互に名乗ったらしいが、
直温は摂津守ではなく甲斐守じゃないかな
堂上公家であれば仕事柄、江戸に下向したりすることもあっただろうけど
そういうときに大名行列とすれ違ったら、御三家とかは別として、
一般的には公家が本陣、大名が脇本陣でないの? 公家とか、ご三家みたいな厄介な相手と道中でかち合わないようにするのが家老、奉行の腕の見せどころ。 >>489
それは堂上公家だからではなく仕事柄の関係じゃない? >>492
勅使でなく別の要件で公家が旅行する場合には
例えば従四位上の大大名と正二位権大納言が重なったら
前者(大名)が本陣、後者(公家)が脇に泊ったであろう、ということ?
よく知らんで済まないが、その主張を支持する根拠って何だろう? > 一般的には公家が本陣、大名が脇本陣でないの?
一般的にはというくらいだから相当数の事例があるんだろうけど、具体的にはどの例かな? 勅使だったら、ご三家でも譲るんじゃないか、さすがに。 >>494
すまん、勅使が本陣に泊るときには一般の大名は脇に泊ったっていうのは
ごく一般的な常識で、ネットで検索すると幾らでも出てくる。例えば
http://www.yc-sanjo.com/tohkaidoh-53/Vol.48/Vol.48.html
> 勅使・院使など格の高い公家が本陣に泊まる場合には、大名も脇本陣に泊まらねばならなかった。
文献:慶應義塾大学 三田情報センター 文献シリーズ22
もっと直接の文献もきっとあるんだろうけど、自分は素人なんで知らない。すまん。
で、じゃあ勅使でない正二位の公家が、(もし仮に)何らかの用件で旅行をした場合に
大名を本陣に泊まらせて、自分は退くだろうってのが>>492さんの主張しているところだという風に
読めるんだが、>>492さんがそう信じている根拠って何なんだろう?
って尋ねているのだが。 >>496
いや、まさに同じことについて根拠を聞きたかったんだが、筆足らずもいいところで申し訳ない。 幕末になると「将軍は天皇の臣下」という建前から勅使に平伏するようになったというが、そな頃になると武家公家の序列も変わったのだろうか。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>498
承久の乱以後は武家は天皇の臣下とは皮膚感覚的に思ってなかったろうね。
建武政権が超短命だったのもその辺の感覚も大きかったろうと思う。
天皇を頂点とする朝廷は武家とは別個の組織って感覚だろうな。
その感覚がもっとも如実に出たのが武家官位制度だろうね。
天皇の臣下のつもりはないし公家の下のつもりでもないけれど、
社会的地位の権威づけとして官位にかわるものは見いだせなかったってことだね。
天皇の臣下である将軍を通じて武家も天皇の臣下という感覚にかわったのはいつごろだろうか。
その感覚の変化も興味深いね。 将軍家の臣下で居続けていた武家が、天皇の臣下と言う認識を最後まで持つことがあったのだろうか?
明治維新も官位を受けていた大名自身がお仕えする天皇のために幕府を倒したのではなく、大名の家臣クラスの者がまさに錦御旗として朝廷を担いだだけだし
大名などの武家が天皇の臣下に名実ともになったのは、華族制度に移行し武家も公家も同じ身分体系に組み替えられてからでは 水戸家は、大日本史を編纂していたせいか、天皇の臣下の意識が高かったような。
そんな家の出身でしかも母親が皇族の慶喜を将軍にしたのが間違いだったな。 黒船来航時に家定みたいな半分池沼入ったようなのが将軍だった時点で
徳川幕府の命運は尽きていた
将軍がまともならいちいち条約結ぶのに朝廷の勅許なんて求める必要なかったし >>504
徳川将軍なんて半分以上は池沼みたいなもんだったから、まあやむを得ないよ。
むしろあそこで潰れて新政府に移行してくれて、
その後の日本にとってはとてもラッキーだった。 >>504
統治機構がしっかり出来ていれば、トップが暗愚でも政務は回るよ。無論、聡明なトップのほうが望ましいに決まっているが。
最悪なのはトップが半可通で意固地な場合かな。 もし徳川家定が、家康なみに有能な人物だったら
その後の日本はどうなっていただろう?
あるいは、もし後醍醐天皇みたいな自称有能な、うざい奴だったら? >>507
そうなると、天皇はローマ法王的な神官に近い立場になって、徳川将軍が現世の君主となったのではないでしょうか
話は変わりますが、江戸時代、公家と大名層では通婚して姻戚関係になっていました。
しかし。公家の子息が大名の世子になって家を継いだり、大名の子息が公家を継ぐことはなかったと思います。
女系では維がっていて、武家同士、公家同士であれば養子になっていたのに、なぜ公家と武家の間で男子の養子がなかったのでしょうか?
やはり公家と武家では、家格、身分に差があったのでしょうか? > しかし。公家の子息が大名の世子になって家を継いだり、大名の子息が公家を継ぐことはなかったと思います。
例外的だが、ないことはないね。
公家の子が武家を嗣いだ例
細川澄之、佐竹義隣など
武家の子が公家を嗣いだ例
持明院基定など
最近で有名な例は近衛忠Wさんだが、これは既にそういう範疇でもないか。
いずれにせよ近世までは例外であったことは間違いないので、
やっぱり公家・武家の区分はある種、動かしがたいものという意識はあったんでしょうな。 忠臣蔵に浅野内匠頭が応接する勅使として
高野保春っていう公家が出てきて
当然、いかにもお公家さんって感じで描かれることが多いんだが、
この人実は持明院基定の子で、祖父の代までは武士なんだよな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています