武家公家の家格について語るスレ
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この手の話題が盛り上がるのでスレッド立ててみました。
家格についての話題なら何でも結構かと思います^^ >>489
それは堂上公家だからではなく仕事柄の関係じゃない? >>492
勅使でなく別の要件で公家が旅行する場合には
例えば従四位上の大大名と正二位権大納言が重なったら
前者(大名)が本陣、後者(公家)が脇に泊ったであろう、ということ?
よく知らんで済まないが、その主張を支持する根拠って何だろう? > 一般的には公家が本陣、大名が脇本陣でないの?
一般的にはというくらいだから相当数の事例があるんだろうけど、具体的にはどの例かな? 勅使だったら、ご三家でも譲るんじゃないか、さすがに。 >>494
すまん、勅使が本陣に泊るときには一般の大名は脇に泊ったっていうのは
ごく一般的な常識で、ネットで検索すると幾らでも出てくる。例えば
http://www.yc-sanjo.com/tohkaidoh-53/Vol.48/Vol.48.html
> 勅使・院使など格の高い公家が本陣に泊まる場合には、大名も脇本陣に泊まらねばならなかった。
文献:慶應義塾大学 三田情報センター 文献シリーズ22
もっと直接の文献もきっとあるんだろうけど、自分は素人なんで知らない。すまん。
で、じゃあ勅使でない正二位の公家が、(もし仮に)何らかの用件で旅行をした場合に
大名を本陣に泊まらせて、自分は退くだろうってのが>>492さんの主張しているところだという風に
読めるんだが、>>492さんがそう信じている根拠って何なんだろう?
って尋ねているのだが。 >>496
いや、まさに同じことについて根拠を聞きたかったんだが、筆足らずもいいところで申し訳ない。 幕末になると「将軍は天皇の臣下」という建前から勅使に平伏するようになったというが、そな頃になると武家公家の序列も変わったのだろうか。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>498
承久の乱以後は武家は天皇の臣下とは皮膚感覚的に思ってなかったろうね。
建武政権が超短命だったのもその辺の感覚も大きかったろうと思う。
天皇を頂点とする朝廷は武家とは別個の組織って感覚だろうな。
その感覚がもっとも如実に出たのが武家官位制度だろうね。
天皇の臣下のつもりはないし公家の下のつもりでもないけれど、
社会的地位の権威づけとして官位にかわるものは見いだせなかったってことだね。
天皇の臣下である将軍を通じて武家も天皇の臣下という感覚にかわったのはいつごろだろうか。
その感覚の変化も興味深いね。 将軍家の臣下で居続けていた武家が、天皇の臣下と言う認識を最後まで持つことがあったのだろうか?
明治維新も官位を受けていた大名自身がお仕えする天皇のために幕府を倒したのではなく、大名の家臣クラスの者がまさに錦御旗として朝廷を担いだだけだし
大名などの武家が天皇の臣下に名実ともになったのは、華族制度に移行し武家も公家も同じ身分体系に組み替えられてからでは 水戸家は、大日本史を編纂していたせいか、天皇の臣下の意識が高かったような。
そんな家の出身でしかも母親が皇族の慶喜を将軍にしたのが間違いだったな。 黒船来航時に家定みたいな半分池沼入ったようなのが将軍だった時点で
徳川幕府の命運は尽きていた
将軍がまともならいちいち条約結ぶのに朝廷の勅許なんて求める必要なかったし >>504
徳川将軍なんて半分以上は池沼みたいなもんだったから、まあやむを得ないよ。
むしろあそこで潰れて新政府に移行してくれて、
その後の日本にとってはとてもラッキーだった。 >>504
統治機構がしっかり出来ていれば、トップが暗愚でも政務は回るよ。無論、聡明なトップのほうが望ましいに決まっているが。
最悪なのはトップが半可通で意固地な場合かな。 もし徳川家定が、家康なみに有能な人物だったら
その後の日本はどうなっていただろう?
あるいは、もし後醍醐天皇みたいな自称有能な、うざい奴だったら? >>507
そうなると、天皇はローマ法王的な神官に近い立場になって、徳川将軍が現世の君主となったのではないでしょうか
話は変わりますが、江戸時代、公家と大名層では通婚して姻戚関係になっていました。
しかし。公家の子息が大名の世子になって家を継いだり、大名の子息が公家を継ぐことはなかったと思います。
女系では維がっていて、武家同士、公家同士であれば養子になっていたのに、なぜ公家と武家の間で男子の養子がなかったのでしょうか?
やはり公家と武家では、家格、身分に差があったのでしょうか? > しかし。公家の子息が大名の世子になって家を継いだり、大名の子息が公家を継ぐことはなかったと思います。
例外的だが、ないことはないね。
公家の子が武家を嗣いだ例
細川澄之、佐竹義隣など
武家の子が公家を嗣いだ例
持明院基定など
最近で有名な例は近衛忠Wさんだが、これは既にそういう範疇でもないか。
いずれにせよ近世までは例外であったことは間違いないので、
やっぱり公家・武家の区分はある種、動かしがたいものという意識はあったんでしょうな。 忠臣蔵に浅野内匠頭が応接する勅使として
高野保春っていう公家が出てきて
当然、いかにもお公家さんって感じで描かれることが多いんだが、
この人実は持明院基定の子で、祖父の代までは武士なんだよな 室町時代の細川澄之は別として、
江戸時代の佐竹義隣は、堂上家当主の子息から大名ではなく、大名分家(つまり陪臣)への養子。
持明院基定は旗本・高家から羽林家への養子。
実際に公家と武家では経済力は1000倍くらい違ったわけで、
家格としては公家>=大名家ながら、実際に養子縁組をする際には、
「堂上公家」と「大名未満の家」とで縁組されていることがわかる。
このあたりの難しさが、
江戸時代に公家と武家とで養子縁組が少ない理由だったんじゃないかね。 禁中並公家諸法度には一応制限があって、可被用同姓、女縁其家家督相續、古今一切無之事とある。
大沢家は元々持明院家の分家だから、持明院家への養子が許されたっていうこと。
但し、同姓なら良いわけだから、源氏→源氏、藤氏→藤氏なら問題ないようにも見える。
やっぱりまあ、
せっかく大名の息子に生まれて、摂家や清華家ならともかくも
たかが100石程度の貧乏平堂上に養子に入って、
毎日関白の顔色伺いながら生活するのはやってられん、ってことだったんでしょう。 逆に大名家の方も、みんな側室つくってやりまくるものだから
男子が余りすぎてて、大名家当主の座を狙ってるわけだから
わざわざ公家から養子迎えんでもて感じでしょうな 摂家の近衛家は外様大名の島津の娘を2回養女にしてるよ >>513
そうでもないよ。
末期養子が認められた江戸中期以降でも無嗣断絶した大名家はあったし。
生き残った家でも跡継ぎに相当苦労したところも多かった。
相良なんて例外的なところを挙げるまでもなく尾張徳川家や越前松平家あたりもきわどい綱渡り。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>514
養子は、家を継ぐ前提だから厳格だが、養女は嫁入りの箔つけだから結構行われてる。 >>512
禁中並公家諸法度で、「同姓」なら縁組可、というのなら
結局、藤原氏の間ではかなり自由に縁組できてしまうねw
西園寺公望は「同族」の徳大寺家からの養子だから全然問題ないが、
その父親の徳大寺公純は、閑院流でない、鷹司家からの養子だしね。
藤原氏の中であれば縁組可能だったようだ。
しかしじゃあ、村上源氏の公家を、自称清和源氏の武士の息子が嗣ぐっていうのは
果たして可能だったんだろうか?どっちも源氏(つまり同姓)とはいえ、
実際はほぼ全くの他人だと思うんだけど。 そもそも天皇や親王家の息子が摂家継いでるけど
あれはいいの? 摂政はもともと皇族がやってたからじゃ?
村上源氏は源氏でもあり、藤原道長の後継者最有力候補っていう特殊な事情が
あるようなので、他源氏では微妙かもよ。 >>520
後水尾天皇、近衛信尋、一条昭良の三兄弟は、後陽成天皇と中和門院近衛前子(女御)の間の同母兄弟で非の打ち所がない血統だからな。 いくら藤原氏といえども摂関家に養子に入るのは摂関家以上の血筋が求められたんじゃないの?
ということは摂関家に養子候補がいなければ皇族からしかない 公家諸法度で養子は同姓に限られたけど、その前はいい加減だよね
山科言継は平氏の血筋だったと思うけど山科家は藤原氏、逆に西洞院家は桓武平氏なのに血筋は藤原氏 >>518
箔をつけるなら(?)男子では猶子ですよね
女子に猶子はなかったのでしょうか >>524
> 山科言継は平氏の血筋だったと思うけど
そうだっけ? 幕末の時点で、男系をたどると
摂家
近衛家:皇胤(後陽成天皇)
九条家:藤原氏(九条兼実裔)
二条家:藤原氏(九条兼実裔)
一条家:藤原氏(九条兼実裔)
鷹司家:皇胤(閑院宮直仁親王)
清華家
久我家:藤原氏(九条兼実裔)
三条家:藤原氏(閑院流)
西園寺家:皇胤(閑院宮直仁親王)
徳大寺家:皇胤(閑院宮直仁親王)
花山院家:藤原氏(師実流)
大炊御門家:藤原氏(師実流)
今出川(菊亭)家:皇胤(閑院宮直仁親王)
醍醐家:皇胤(後陽成天皇)
広幡家:藤原氏(近衛基実裔)
まちがってたらすまん。
ほとんど皇胤に支配されてるのかと思ったら、案外藤原氏の血が残ってる感じだね。
上で問題になっていた、異なる源氏の間で養子縁組ができるのか?って話だが、
久我家(村上源氏)の子である豊忠が、正親町源氏である広幡家の後を嗣いでいるから
可能だったみたいだ。
疑問なのは、江戸時代末期に一条家の子息が久我建通として村上源氏嫡流を嗣いでいるのだが、
これは禁中並公家諸法度に照らして、問題なかったのだろうか?
つーか問題だと思うんだが。 源氏嫡流の久我家が藤原氏の男系子孫で、
藤原氏嫡流の近衛家が皇室の男系子孫ってのは皮肉だね >>532
禁中並公家諸法度って、異姓の養子は認めなかったが、異性の実子なら認めたのかな?
それもそれで、ようわからん話だけど。
それか、「実子」ってのは、誰かに聞かれても
「いやこの子は本当に俺の実の子ですから。何か?」とか
言い切ってしまうレベルだったのだろうか? まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>531
そして今の近衛家は清和源氏(細川家)からの養っl >>534
いやだから、実子が養子よりもより「実の子」に近い扱いだったのはわかるんだが、
それは「実の子であると公に言い張っている」ような存在だったのか、
「実の子ではないが実子扱いしていることが公然の事実」だった存在なのか、
どちらなのだろう?と。
普通に考えれば後者なんじゃないかと思っていたのだが、もしそうであるのなら、
幕府が異姓の「養子」を禁じておきながら、
養子よりも更に近い「実子」を禁じていなかったのなら、それは
おかしな話じゃないかと。 幕末であれば、幕府の法度が有名無実化していたのかも・・・ >>538
実子は本当の子ではなく「実子」とわざわざ記載される位だから、
前者でなく後者なのは明らか。
ただし今の感覚と違うのは、DNA鑑定のない当時、
一度生まれてしまった子が誰の子かというのは「原理的に誰も知りえない」事柄に属する。
なので書類上「実子」にしてしまえば、それは「実子」以外の何ものでもなく
幕府だろうと誰だろうと、それ以上とやかく言えなかった、という可能性はある。
ただまあ、久我建通が「実子」だったから久我家を継げたのか、
あるいは幕府の法度が有名無実化していたからなのかは、知らん。 鷹司松平家は、直系が絶えたとき何で鷹司家から養子を迎えなかったのだろうか
初代の嫁の縁から紀伊の連枝扱いだとしても、家格は鷹司家出身だった故だったはずなのに
連枝になって紀伊家からの養子をもらっても、紀伊本藩の相続権もない片道切符の養子だし
財政援助が目当てだったのかな そもそも公家諸法度の異姓養子の禁制って厳格に適用されたもんなの?
摂家が皇子とはいえ他姓の外孫で継いでるんじゃ示しがつかないじゃん >>542
結局そこに行き着くw
堂上公家なんて全員、先祖代々ずっと親戚みたいなもんだから
今さら源氏だの藤氏だの言ってもねえ・・・ってのは正直ある。
後陽成天皇と閑院宮の皇子たちと久我建通の他に、
他姓での養子(実子)で後を継いだ例ってのはあったのかな?江戸時代に 岩倉具視。
堀河康親の子で、堀河氏は藤原北家。
結構普通にあったんじゃないか?w >>541
公家ではないが、足利家であることがアイデンティティーであるはずの喜連川家が全くの他家から養子取ってるしね。 >>546
女縁其家家督相續、古今一切無之事(キリッ
なんて言われても、はぁ?w としか言えないがw
白川伯王家を見てみたが、藤氏の高倉や冷泉から養子とってる。
誰でもいいから源氏か平氏かにできなかったのか。 >>544
岩倉具視も岩倉具慶の「実子」だな。
面白いのは、具視の妻は具慶の娘なんだけど、これがまた堀河康親の「娘」ってことになってる。
おそらく、具視が具慶の「実子」なんで、そのままだと兄妹婚になっちゃうのを避ける意味だと思うんだが、
同じようなケースは幾例かあるようだ。 公家諸法度の同姓限定が適用されるのは家を継ぐ養子のみで
家を継がない養子や実子には適用されなかったでOK?
養子にするか実子するかの境は叙爵済みかどうか? >>548追記
高倉永孝の子の雅陳王、冷泉為起の子の資敬王、どっちも白川家譜にちゃんと実父の記載がある。
高倉永孝と冷泉為起、藤氏だけど実は源氏の血統だったりするか、と思ったがそうでもない。
どっちも養子になった時日は不明だけど、たぶん叙爵までに済ませたと思う。
雅陳王の叙爵は元和5年(1619)で、慶長20年(1615)の法度より先だわ。
>>551
家も継がん奴を養子や実子にしてどないするんじゃい? >>552
(家を継がない養子)や(実子)
鷹司輔平 閑院宮家 → 一条家 → 鷹司家
>>553
そんなマネーロンダリングみたいんが許されるんかーい。
まあつまりザル法だったっちゅうことですな。 幕府「他姓養子はダメよ〜ダメダメ」
公家「実子ですが何か?」
幕府「」 幕府の法度なんてそんなもんさ。
幕府に影響がなければいくらでもすり抜けを許すけど
支障があれば法度を持ち出して処罰する。 他姓養子に関しては別に実害があるわけじゃないしな
歴史好きがイライラする程度
当時もそんなもんだろ >>552
戦前の華族令でも家を継ぐ養子に関しては制限があった。
制限自体は選り好みしなければ家が絶えることはない程度にゆるいが、男系の親族は良くても女系はだめだった。
で、娘の子に継がせたい場合の方法の一つとして平民の兄弟がいる場合に取られた便法が、一度兄弟の養子にするというやり方。
平民にはそういう制限がないし、平民だろうがなんだろうが養子になった時点で「男系の甥」になるからOKということらしい。 なんつーか、タイムマシンに乗って
「実子」とか言って喜んでる連中に、DNA鑑定結果見せつけて
「あ?どこが実子なんじゃい!オラ!」って言ってやりたいわ そもそも実子って養子のことだから
本当の親子は子だから >>530
九条兼実と同世代からの男系子孫でいうと、
摂家+清華家14家のうち、
後白河天皇・・・6
近衛基実・・・1
九条兼実・・・4
三条実房・・・1
中山忠親・・・2
だね。
後白河の勝利だな。さすがと言うべきか >>561
清華の如き凡夫のたぐひ、いかで数の内に入りたるや? そもそも昔は、不比等=落胤説が結構な確からしさで信じられていたわけで(今でも否定はされていないが)、
そういう目で見ると藤原氏の独占的繁栄っていうのは結構納得が行く。
ていうか、その落胤伝説がなかったら、
一介の豪族に過ぎない藤原氏が、皇胤である源氏よりも格上であるなんていう風潮は、
そもそも成立しなかったはずだと思う。
っていう目で見ると、>>530は結局、摂家・清華家は全て
天智天皇の男系子孫、ってことで整理がつく。 当の藤原道長たちは、実際どう思っていたんだろう?
自分は天智天皇の皇胤だと思っていたのか >>567
落胤説は不比等在世当時?だかのかなり早い段階からあった模様で、
9世紀の興福寺縁起にも記載され、その後更に広まって
大鏡にも不比等は落胤だとの記載があるのだが 不比等から5代後の藤原良世自身が撰した興福寺縁起にも記され、
俗説としても流布して大鏡にも記され、
公卿補任にも書かれているということから、事実がどうであったかはともかく、
道長とかが自分は皇胤だと信じ、また周りの人もそう扱っていたことは確かだと思う。
>>563の通りだからこそ藤氏が源氏よりも格上でも、誰も文句言わなかったっていうのは
歴史を見る上で重要なことではないか。
実際に、不比等の男系子孫と、(それ以外?の)天智帝の男系子孫は
かなり特定できるわけだから、Y遺伝子の鑑定を行えば
落胤だったかどうかは、確認できるんじゃないかな。 > Y遺伝子の鑑定を行えば
これは禁断中の禁断。皇室の「男系での相続」っていう伝統を
根本から揺るがす事態になりかねないんで、マジで洒落にならない。
例えば、近衛秀麿の孫である一さんが、不比等の男系子孫だったとしよう。
ふーん、近衛家は藤原氏嫡流だものね。まあそうだよね。
・・・?
・・・・・・Σ(゚д゚)
・・・・・・・・・・!!(゚д゚|||)ェエ工ッッ!!!
てことになりかねない。 >>572
Wikipediaで「近衛一」を検索し、そこから13代ほど父系をクリックして行ってみてくれ。
(つか、便利な時代だなw)
そうすれば言っている意味がわかる。 まあ平安〜鎌倉時代の公家社会の乱脈ぶりを見れば、
誰が誰の男系子孫で、隠し子であってもおかしくない。
現在の皇室が、本当に公式記録の通りの、天智天皇の男系子孫だったら
むしろそっちの方が驚きだ。 近衛信尋は後陽成皇子。
近衛秀麿の孫である一さんが不比等の男系子孫だったとしよう。
ますますわからない。 >>576
「だれも信じてない」は明らかに言いすぎだし、
そもそも信じてる・信じてないにかかわらず、
現在の皇室が男系でつながってないことが、もし明確に証明されたら
大問題であること自体は誰にも否定できない >>570
藤原氏は皇胤だから皇胤である源氏よりも格上でも文句言わないってどういう意味?
周りの人が道長を皇胤だと扱っていたってどういう意味? 道長にとって天皇の落胤の子孫であることがステータスになるのか? 皇胤と言っても、皇統を継いだ系統以外はほぼステータス云々以前に雲散霧消していっているが >>568
意味不明
藤氏より繁栄してない皇別なんて平橘清高いくらでも居る
朝廷で繁栄するためには皇別じゃないといけないなんて風潮がどこにあったんだ?
蘇我、物部、大伴、みんな落胤なのか? >>575みたいに鑑定すれば分かるはずとか言う奴いるけど
>>579みたいな性活環境を想定してるんだと思うが
系譜伝承に信を置かないから鑑定するのに
誰が源氏で誰が藤氏かどうやって検証するんだ?
公家以外の武家の系図や民間の系図なんて更に信用できんだろうし
全く関係ない他氏が入ってることも考えられるし
解決策を呈示してるようで全くの空理空論というお話 藤原氏が皇胤だったかどうかはともかく
皇胤だったから繁栄したっていうのは違う気がする まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 藤原氏が皇胤だから繁栄したとか言ってるやつは、
皇室は直系以外はほとんど消えて言った事をなんだと思ってんだ?w あのさ、賜姓皇族の多くが落ちぶれて行ったとか、その程度のことを
知らないわけがないだろうが・・・orz
自分が言っているのはまず第一に、
平安時代当時は藤原氏が皇胤かも知れない、という意識を
多くの人が持っていたであろう、ということ。
藤原北家自らが撰した興福寺縁起という重要文書にそう記されて
いることから、少なくとも藤原氏自身の多くはそういう意識であったであろうことが推測できるし、
それに、大鏡という文献の性質上、そこに書かれた不比等皇胤説は
当時の貴族社会で一般的に受け入れられたものであっただろうことも
ほぼ明確に推測できる、ということ。
それから第二に、
もし「当時の貴族社会の中で不比等落胤説が受け入れられていたのであれば、
それは当時の藤原氏の地位を考える上でかなり重要な要素になる」
ということ。
別に藤原氏が「皇胤だから」栄えたとか言うつもりは勿論全然ないわけだが、
だからといって、皇胤とみなされたことが全く、もしくはほとんど
その藤原氏の地位向上に寄与していなかった、と出張する人がいたとしたら、
かえってものすごく不思議な気がするけど。
「皇胤であるとみなされていた」ことはそれなりに大きな影響であったなんて、
当り前じゃん?としか思えないわけだけれど。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています