武家公家の家格について語るスレ
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この手の話題が盛り上がるのでスレッド立ててみました。
家格についての話題なら何でも結構かと思います^^ 摂家の近衛家は外様大名の島津の娘を2回養女にしてるよ >>513
そうでもないよ。
末期養子が認められた江戸中期以降でも無嗣断絶した大名家はあったし。
生き残った家でも跡継ぎに相当苦労したところも多かった。
相良なんて例外的なところを挙げるまでもなく尾張徳川家や越前松平家あたりもきわどい綱渡り。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>514
養子は、家を継ぐ前提だから厳格だが、養女は嫁入りの箔つけだから結構行われてる。 >>512
禁中並公家諸法度で、「同姓」なら縁組可、というのなら
結局、藤原氏の間ではかなり自由に縁組できてしまうねw
西園寺公望は「同族」の徳大寺家からの養子だから全然問題ないが、
その父親の徳大寺公純は、閑院流でない、鷹司家からの養子だしね。
藤原氏の中であれば縁組可能だったようだ。
しかしじゃあ、村上源氏の公家を、自称清和源氏の武士の息子が嗣ぐっていうのは
果たして可能だったんだろうか?どっちも源氏(つまり同姓)とはいえ、
実際はほぼ全くの他人だと思うんだけど。 そもそも天皇や親王家の息子が摂家継いでるけど
あれはいいの? 摂政はもともと皇族がやってたからじゃ?
村上源氏は源氏でもあり、藤原道長の後継者最有力候補っていう特殊な事情が
あるようなので、他源氏では微妙かもよ。 >>520
後水尾天皇、近衛信尋、一条昭良の三兄弟は、後陽成天皇と中和門院近衛前子(女御)の間の同母兄弟で非の打ち所がない血統だからな。 いくら藤原氏といえども摂関家に養子に入るのは摂関家以上の血筋が求められたんじゃないの?
ということは摂関家に養子候補がいなければ皇族からしかない 公家諸法度で養子は同姓に限られたけど、その前はいい加減だよね
山科言継は平氏の血筋だったと思うけど山科家は藤原氏、逆に西洞院家は桓武平氏なのに血筋は藤原氏 >>518
箔をつけるなら(?)男子では猶子ですよね
女子に猶子はなかったのでしょうか >>524
> 山科言継は平氏の血筋だったと思うけど
そうだっけ? 幕末の時点で、男系をたどると
摂家
近衛家:皇胤(後陽成天皇)
九条家:藤原氏(九条兼実裔)
二条家:藤原氏(九条兼実裔)
一条家:藤原氏(九条兼実裔)
鷹司家:皇胤(閑院宮直仁親王)
清華家
久我家:藤原氏(九条兼実裔)
三条家:藤原氏(閑院流)
西園寺家:皇胤(閑院宮直仁親王)
徳大寺家:皇胤(閑院宮直仁親王)
花山院家:藤原氏(師実流)
大炊御門家:藤原氏(師実流)
今出川(菊亭)家:皇胤(閑院宮直仁親王)
醍醐家:皇胤(後陽成天皇)
広幡家:藤原氏(近衛基実裔)
まちがってたらすまん。
ほとんど皇胤に支配されてるのかと思ったら、案外藤原氏の血が残ってる感じだね。
上で問題になっていた、異なる源氏の間で養子縁組ができるのか?って話だが、
久我家(村上源氏)の子である豊忠が、正親町源氏である広幡家の後を嗣いでいるから
可能だったみたいだ。
疑問なのは、江戸時代末期に一条家の子息が久我建通として村上源氏嫡流を嗣いでいるのだが、
これは禁中並公家諸法度に照らして、問題なかったのだろうか?
つーか問題だと思うんだが。 源氏嫡流の久我家が藤原氏の男系子孫で、
藤原氏嫡流の近衛家が皇室の男系子孫ってのは皮肉だね >>532
禁中並公家諸法度って、異姓の養子は認めなかったが、異性の実子なら認めたのかな?
それもそれで、ようわからん話だけど。
それか、「実子」ってのは、誰かに聞かれても
「いやこの子は本当に俺の実の子ですから。何か?」とか
言い切ってしまうレベルだったのだろうか? まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>531
そして今の近衛家は清和源氏(細川家)からの養っl >>534
いやだから、実子が養子よりもより「実の子」に近い扱いだったのはわかるんだが、
それは「実の子であると公に言い張っている」ような存在だったのか、
「実の子ではないが実子扱いしていることが公然の事実」だった存在なのか、
どちらなのだろう?と。
普通に考えれば後者なんじゃないかと思っていたのだが、もしそうであるのなら、
幕府が異姓の「養子」を禁じておきながら、
養子よりも更に近い「実子」を禁じていなかったのなら、それは
おかしな話じゃないかと。 幕末であれば、幕府の法度が有名無実化していたのかも・・・ >>538
実子は本当の子ではなく「実子」とわざわざ記載される位だから、
前者でなく後者なのは明らか。
ただし今の感覚と違うのは、DNA鑑定のない当時、
一度生まれてしまった子が誰の子かというのは「原理的に誰も知りえない」事柄に属する。
なので書類上「実子」にしてしまえば、それは「実子」以外の何ものでもなく
幕府だろうと誰だろうと、それ以上とやかく言えなかった、という可能性はある。
ただまあ、久我建通が「実子」だったから久我家を継げたのか、
あるいは幕府の法度が有名無実化していたからなのかは、知らん。 鷹司松平家は、直系が絶えたとき何で鷹司家から養子を迎えなかったのだろうか
初代の嫁の縁から紀伊の連枝扱いだとしても、家格は鷹司家出身だった故だったはずなのに
連枝になって紀伊家からの養子をもらっても、紀伊本藩の相続権もない片道切符の養子だし
財政援助が目当てだったのかな そもそも公家諸法度の異姓養子の禁制って厳格に適用されたもんなの?
摂家が皇子とはいえ他姓の外孫で継いでるんじゃ示しがつかないじゃん >>542
結局そこに行き着くw
堂上公家なんて全員、先祖代々ずっと親戚みたいなもんだから
今さら源氏だの藤氏だの言ってもねえ・・・ってのは正直ある。
後陽成天皇と閑院宮の皇子たちと久我建通の他に、
他姓での養子(実子)で後を継いだ例ってのはあったのかな?江戸時代に 岩倉具視。
堀河康親の子で、堀河氏は藤原北家。
結構普通にあったんじゃないか?w >>541
公家ではないが、足利家であることがアイデンティティーであるはずの喜連川家が全くの他家から養子取ってるしね。 >>546
女縁其家家督相續、古今一切無之事(キリッ
なんて言われても、はぁ?w としか言えないがw
白川伯王家を見てみたが、藤氏の高倉や冷泉から養子とってる。
誰でもいいから源氏か平氏かにできなかったのか。 >>544
岩倉具視も岩倉具慶の「実子」だな。
面白いのは、具視の妻は具慶の娘なんだけど、これがまた堀河康親の「娘」ってことになってる。
おそらく、具視が具慶の「実子」なんで、そのままだと兄妹婚になっちゃうのを避ける意味だと思うんだが、
同じようなケースは幾例かあるようだ。 公家諸法度の同姓限定が適用されるのは家を継ぐ養子のみで
家を継がない養子や実子には適用されなかったでOK?
養子にするか実子するかの境は叙爵済みかどうか? >>548追記
高倉永孝の子の雅陳王、冷泉為起の子の資敬王、どっちも白川家譜にちゃんと実父の記載がある。
高倉永孝と冷泉為起、藤氏だけど実は源氏の血統だったりするか、と思ったがそうでもない。
どっちも養子になった時日は不明だけど、たぶん叙爵までに済ませたと思う。
雅陳王の叙爵は元和5年(1619)で、慶長20年(1615)の法度より先だわ。
>>551
家も継がん奴を養子や実子にしてどないするんじゃい? >>552
(家を継がない養子)や(実子)
鷹司輔平 閑院宮家 → 一条家 → 鷹司家
>>553
そんなマネーロンダリングみたいんが許されるんかーい。
まあつまりザル法だったっちゅうことですな。 幕府「他姓養子はダメよ〜ダメダメ」
公家「実子ですが何か?」
幕府「」 幕府の法度なんてそんなもんさ。
幕府に影響がなければいくらでもすり抜けを許すけど
支障があれば法度を持ち出して処罰する。 他姓養子に関しては別に実害があるわけじゃないしな
歴史好きがイライラする程度
当時もそんなもんだろ >>552
戦前の華族令でも家を継ぐ養子に関しては制限があった。
制限自体は選り好みしなければ家が絶えることはない程度にゆるいが、男系の親族は良くても女系はだめだった。
で、娘の子に継がせたい場合の方法の一つとして平民の兄弟がいる場合に取られた便法が、一度兄弟の養子にするというやり方。
平民にはそういう制限がないし、平民だろうがなんだろうが養子になった時点で「男系の甥」になるからOKということらしい。 なんつーか、タイムマシンに乗って
「実子」とか言って喜んでる連中に、DNA鑑定結果見せつけて
「あ?どこが実子なんじゃい!オラ!」って言ってやりたいわ そもそも実子って養子のことだから
本当の親子は子だから >>530
九条兼実と同世代からの男系子孫でいうと、
摂家+清華家14家のうち、
後白河天皇・・・6
近衛基実・・・1
九条兼実・・・4
三条実房・・・1
中山忠親・・・2
だね。
後白河の勝利だな。さすがと言うべきか >>561
清華の如き凡夫のたぐひ、いかで数の内に入りたるや? そもそも昔は、不比等=落胤説が結構な確からしさで信じられていたわけで(今でも否定はされていないが)、
そういう目で見ると藤原氏の独占的繁栄っていうのは結構納得が行く。
ていうか、その落胤伝説がなかったら、
一介の豪族に過ぎない藤原氏が、皇胤である源氏よりも格上であるなんていう風潮は、
そもそも成立しなかったはずだと思う。
っていう目で見ると、>>530は結局、摂家・清華家は全て
天智天皇の男系子孫、ってことで整理がつく。 当の藤原道長たちは、実際どう思っていたんだろう?
自分は天智天皇の皇胤だと思っていたのか >>567
落胤説は不比等在世当時?だかのかなり早い段階からあった模様で、
9世紀の興福寺縁起にも記載され、その後更に広まって
大鏡にも不比等は落胤だとの記載があるのだが 不比等から5代後の藤原良世自身が撰した興福寺縁起にも記され、
俗説としても流布して大鏡にも記され、
公卿補任にも書かれているということから、事実がどうであったかはともかく、
道長とかが自分は皇胤だと信じ、また周りの人もそう扱っていたことは確かだと思う。
>>563の通りだからこそ藤氏が源氏よりも格上でも、誰も文句言わなかったっていうのは
歴史を見る上で重要なことではないか。
実際に、不比等の男系子孫と、(それ以外?の)天智帝の男系子孫は
かなり特定できるわけだから、Y遺伝子の鑑定を行えば
落胤だったかどうかは、確認できるんじゃないかな。 > Y遺伝子の鑑定を行えば
これは禁断中の禁断。皇室の「男系での相続」っていう伝統を
根本から揺るがす事態になりかねないんで、マジで洒落にならない。
例えば、近衛秀麿の孫である一さんが、不比等の男系子孫だったとしよう。
ふーん、近衛家は藤原氏嫡流だものね。まあそうだよね。
・・・?
・・・・・・Σ(゚д゚)
・・・・・・・・・・!!(゚д゚|||)ェエ工ッッ!!!
てことになりかねない。 >>572
Wikipediaで「近衛一」を検索し、そこから13代ほど父系をクリックして行ってみてくれ。
(つか、便利な時代だなw)
そうすれば言っている意味がわかる。 まあ平安〜鎌倉時代の公家社会の乱脈ぶりを見れば、
誰が誰の男系子孫で、隠し子であってもおかしくない。
現在の皇室が、本当に公式記録の通りの、天智天皇の男系子孫だったら
むしろそっちの方が驚きだ。 近衛信尋は後陽成皇子。
近衛秀麿の孫である一さんが不比等の男系子孫だったとしよう。
ますますわからない。 >>576
「だれも信じてない」は明らかに言いすぎだし、
そもそも信じてる・信じてないにかかわらず、
現在の皇室が男系でつながってないことが、もし明確に証明されたら
大問題であること自体は誰にも否定できない >>570
藤原氏は皇胤だから皇胤である源氏よりも格上でも文句言わないってどういう意味?
周りの人が道長を皇胤だと扱っていたってどういう意味? 道長にとって天皇の落胤の子孫であることがステータスになるのか? 皇胤と言っても、皇統を継いだ系統以外はほぼステータス云々以前に雲散霧消していっているが >>568
意味不明
藤氏より繁栄してない皇別なんて平橘清高いくらでも居る
朝廷で繁栄するためには皇別じゃないといけないなんて風潮がどこにあったんだ?
蘇我、物部、大伴、みんな落胤なのか? >>575みたいに鑑定すれば分かるはずとか言う奴いるけど
>>579みたいな性活環境を想定してるんだと思うが
系譜伝承に信を置かないから鑑定するのに
誰が源氏で誰が藤氏かどうやって検証するんだ?
公家以外の武家の系図や民間の系図なんて更に信用できんだろうし
全く関係ない他氏が入ってることも考えられるし
解決策を呈示してるようで全くの空理空論というお話 藤原氏が皇胤だったかどうかはともかく
皇胤だったから繁栄したっていうのは違う気がする まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 藤原氏が皇胤だから繁栄したとか言ってるやつは、
皇室は直系以外はほとんど消えて言った事をなんだと思ってんだ?w あのさ、賜姓皇族の多くが落ちぶれて行ったとか、その程度のことを
知らないわけがないだろうが・・・orz
自分が言っているのはまず第一に、
平安時代当時は藤原氏が皇胤かも知れない、という意識を
多くの人が持っていたであろう、ということ。
藤原北家自らが撰した興福寺縁起という重要文書にそう記されて
いることから、少なくとも藤原氏自身の多くはそういう意識であったであろうことが推測できるし、
それに、大鏡という文献の性質上、そこに書かれた不比等皇胤説は
当時の貴族社会で一般的に受け入れられたものであっただろうことも
ほぼ明確に推測できる、ということ。
それから第二に、
もし「当時の貴族社会の中で不比等落胤説が受け入れられていたのであれば、
それは当時の藤原氏の地位を考える上でかなり重要な要素になる」
ということ。
別に藤原氏が「皇胤だから」栄えたとか言うつもりは勿論全然ないわけだが、
だからといって、皇胤とみなされたことが全く、もしくはほとんど
その藤原氏の地位向上に寄与していなかった、と出張する人がいたとしたら、
かえってものすごく不思議な気がするけど。
「皇胤であるとみなされていた」ことはそれなりに大きな影響であったなんて、
当り前じゃん?としか思えないわけだけれど。 で、ここから先は歴史的感性の問題になるが、
当時は皇室が日本の支配者であることを誰もが明確に認識していた
にもかかわらず、藤原氏が皇胤氏族よりも明らかに高貴なものと
思われていた、っていうギャップが、
一般的には極めて不思議な現象に思われるわけだ。
そしてその不思議な現象を考える際に、不比等落胤説というものの
存在がある意味で謎を解くものになるんじゃないかってのが自分の印象。
まあこれは印象だし、歴史的感性の問題でこれ以上議論できるものでは
ないかもしれないが、いずれにせよ
>>591に書いたことは明確だと思うので、それだけ同意してくれれば
自分は一応満足する。 あと>>586
もし現在、明確な系図の残っている
源氏や藤原氏の人々のDNA鑑定をしたら、
かなりのことがわかるだろう、ってことはほぼ間違いないと思うよ。
あなたが言っているのは、
「史料って間違いも多いし、あてにならないものも多いから
史料をいくら研究しても歴史はわからない」
って言っているのと一緒。
間違いは他との比較によってある程度校正できるわけだし、
それをして不確かな史料から歴史を読み取っていくのが学問ってものなわけで。
DNA鑑定も同じで、もしきちんとしたデータをとって
きちんと解析することができれば、昔の乱脈ぶりも含めて
いろんなことが解明される可能性が高い、と思う。
実際にはそこまで多くのデータは取らせてもらえないだろうけど。 >藤原氏が皇胤氏族よりも明らかに高貴なものと思われていた
妄想乙 平安期の氏族の序列が一般的に
皇室>藤原氏>真人氏族・源・平など
というのはまあみんな概ね首肯するとは思うが、
その理由が、
藤原氏(天皇の落胤家系)>真人氏族・源・平など(天皇の公認皇子の家系)
というのはやっぱし違うだろ。
なんで「天智の落胤だけ」がなんでそんなに特別やねん。長続きすんねん。
物語文学に落胤記述があるからとか(興福寺縁起にあったかな)、
はし書きに「或いは落胤か」なんて書かれてる程度で、貴族社会に受け入れられてたとは思えない。
同じような落胤談は道鏡や清盛や秀吉などにもあるが、彼らが出世したのは、
あなたは皇胤だったからと思ってるのかもしれんが、俺にはそうは思えん。
藤原氏興隆の理由はもっと違うところに見出すべき。 >>593
なんつうか君は血統信仰がすさまじいな
んなもんどうだっていいじゃん
上にもあるように公家なんて多くは
「為実子」とか「他姓養子」とかで家をつないでんだから >>591
皇胤とみなされたことにより藤原氏のみに与えられた優遇は具体的に何ですか?
それはなぜ他の皇胤には与えられず藤原氏のみに与えられたのですか? >>591
あのさ、別に藤原氏が皇胤でもいいけどさ
落ちぶれた皇胤と落ちぶれなかった皇胤(藤原氏)の違いって何よ? >>593
乱脈ぶりって確定事項みたいに書いてるけど
子供の親が分からなくなるほど常に乱れてたのか?
史書をやたらと疑うつもりは無いが
だったら史書からそういう当時の状況を教えて欲しいわ
>>595
北条氏や徳川氏が覇権を握れたのは皇胤だったからみたいな曲解だよね
なんか血統に夢を見すぎ >>596が説明すべきなのは
藤氏が落胤であったという噂があったことじゃなくて
それが藤氏の興隆にどのように影響したか
>>597も>>596も印象論にすぎないことが分からない? >>592
>>591の第一は同意できるが第二は全く同意できない。
皇胤が優遇されるのは天皇である親兄弟が生きている間だけ。
平安時代の藤原氏にとって祖先が天皇の落胤かもしれないなんてことに重要な意味はない。 >>600
落胤であることが具体的に藤氏の興隆にどのように影響したのですか?
そしてそれはなぜ他の皇胤には影響しなかったのですか? 警察が集団ストーカーをやる理由
それほど事件や犯罪が頻繁におきるわけでもないのに、むやみに組織を拡大してきた結果、警察は暇で暇
でしょうがなくなった。ターゲットを作れば作るほど警察予算が増えていくのでその分、ピンハネできるお金
も増えていく。集団ストーカーは、警察OBの天下り先の防犯協会と連携することで利権を維持できる。
集団ストーカーをすればするほど抗精神薬が売れ、製薬会社と利権で癒着、天下り先確保。
集団ストーカーをすればするほど、暴走族が蔓延ったり、時に、周南市事件のような事件が起こり治安が悪
くなる。警察組織を維持拡大するためには、ある程度事件が起こり、治安が悪くなくてはならない。
集団ストーカーによって生け贄を作り、警察権力の恐さを世間に知らしめる。警察官全員が裏金の偽領収書
を書かせられるシステムがあるため仙波敏郎氏のような正義感のある警察官が警察組織から排除され、腐敗
した人間ほど出世できる仕組みになっている。役に立たない人間を社会から抹殺することで国民を権力者に
とって都合のいい奴隷だけにし税金の徴収効率を上げる。 落胤>>>>>>>>>>>>>>>その他賜姓皇族
そんなに次元の違う存在か?
思い入れがある場合もあるだろうが一般的には単なる庶子では?
仮に思い入れがある存在だとしても、そこ後の人間が
その人とその子孫を数百年以上、担ぐ理由になるのか? あの、ねえ・・・・・・orz
自分が主張したのは、
>>591の1「当時の貴族社会の中で藤原氏=皇胤説はそれなりに受け入れられていた」
>>591の2「皇胤説がそれなりに受け入れられていたということは、
当時の藤原氏の地位を考える上でかなり重要な要素になる」
>>593「遺伝子鑑定は歴史の解明のために、それなりに役にたつ」
の3点だが、
最も自明だと思っていた>>591の2に反対する人が出てくるとは・・・
皇胤であることが昔の日本の社会で重要視されていたなんてことは、
論じるまでもなく明らかなことであって、それに反対してくるような人は
根本的に俺とは全く異なる「日本史」を見ている人だ、としか思えないけど・・・
証拠だとか何とか言うまでもなく、昔の武家は○○天皇何世の子孫とかいうことを誇りにしていたし、
源氏が武家社会で大きな力を持ったのは皇別氏族だったことの影響が大きいわけだけれど。
いま問題にしている公家社会で、皇胤であることが家格の決定に
大きな影響を示していることは、堂上公家の姓を見れば明らかなわけだが。
いま藤原氏は皇胤か?って話をしているので、藤原氏以外で見ると、
清華家・・・皇別(2) それ以外(0)
大臣家・・・皇別(1) それ以外(0)
羽林家・・・皇別(11) それ以外(0)
名家・・・皇別(3) それ以外(0)
半家・・・皇別(11) それ以外(13)
ですよ。明らかに皇胤の家が公家社会の上位を占めていて、
そうでない大伴氏だの蘇我氏だの、下毛野氏だのは堂上公家にさえなれなかったわけなんですけれど。 >>595とかその他の人
あの。。。
「藤原氏が落胤だから源氏よりも高貴とされた」などとは、全く言っていないんだが・・・
藤原氏が大きな勢力を握ったのは、不比等やら冬嗣やら、その他の人々が
極めて政治的に有能で、政敵を排除したからですよ。
そんなの当たり前でしょう?
> 同じような落胤談は道鏡や清盛や秀吉などにもあるが、彼らが出世したのは、
> あなたは皇胤だったからと思ってるのかもしれんが、
そんなこと全く思っていませんが・・・
何度も同じこと言うようだけれど、自分が言っているのは、
藤原氏の家格形成に、藤原氏が皇胤だと思われていたことが
それなりに大きな影響を与えていたはず、ということ。
他の要因が全くないなどとは言っていないし、
何度も言うけれど、「最も大きな要因」は不比等やら冬嗣やらの有能さだったわけで、
そんなの論じるまでもなく明らかでしょ、と思っています。 >>599
>>593
> 乱脈ぶりって確定事項みたいに書いてるけど
> だったら史書からそういう当時の状況を教えて欲しいわ
乱脈ぶり自体は「とはず語り」とか見ればわかる。
実際に誤って子が認知された事態があったかどうかは、
そりゃ正式な史書からはわからないですよね。
物語にはいろんな記載がある(源氏物語とか)けど、
それ以上に史実がどうだったかは推測でしか言えないはずだとは思う。
> 北条氏や徳川氏が覇権を握れたのは皇胤だったからみたいな曲解だよね
何度も言うけど、北条氏や徳川氏が覇権を握れたのは、彼らが軍事的に有能で
敵を滅ぼしたから、ですね。当り前だと思うけど・・・
>>601
> 答えは単純で、「影響しなかった」
は?「影響しなかった」とかどうして主張できるの?
>>602
> 皇胤が優遇されるのは天皇である親兄弟が生きている間だけ。
これも、何を根拠にこう断言できるのか、自分にはおよそ想像もつかないけど。 ていうか、ものすごく当り前で、ごいく当然のことを
主張しているだけのつもりなんだが、
何でこうやってムキになって噛み付いてくる人がいるのか・・・
2chて不思議なところだね。 その「藤原氏の家格形成」ってのはいつのことを言ってるのだ? まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 皇別と言っても村上源氏も宇多源氏も藤原北家御堂流との縁戚関係のおかげで、公家社会に踏みとどまれたのでは?
そうすると皇別であったことも有利に働いたかもしれないがそれ以上に摂関家との繋がりが大切だったのだと思うよ
正親町源氏はだいぶ後の時代になるけど清華となったのは、徳川氏との縁戚のおかげだろうか
名家には桓武平氏がいるが、もともと半家の西洞院の庶流で、おそらく養子で継いだ当主が実家の家格を継承したとかだろう
半家は地下から引き上げられた家も多いので、家職があるか権力者との距離次第で皇別ではなくてもチャンスがあったのではと思う ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています