武家公家の家格について語るスレ
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この手の話題が盛り上がるのでスレッド立ててみました。
家格についての話題なら何でも結構かと思います^^ そもそも実子って養子のことだから
本当の親子は子だから >>530
九条兼実と同世代からの男系子孫でいうと、
摂家+清華家14家のうち、
後白河天皇・・・6
近衛基実・・・1
九条兼実・・・4
三条実房・・・1
中山忠親・・・2
だね。
後白河の勝利だな。さすがと言うべきか >>561
清華の如き凡夫のたぐひ、いかで数の内に入りたるや? そもそも昔は、不比等=落胤説が結構な確からしさで信じられていたわけで(今でも否定はされていないが)、
そういう目で見ると藤原氏の独占的繁栄っていうのは結構納得が行く。
ていうか、その落胤伝説がなかったら、
一介の豪族に過ぎない藤原氏が、皇胤である源氏よりも格上であるなんていう風潮は、
そもそも成立しなかったはずだと思う。
っていう目で見ると、>>530は結局、摂家・清華家は全て
天智天皇の男系子孫、ってことで整理がつく。 当の藤原道長たちは、実際どう思っていたんだろう?
自分は天智天皇の皇胤だと思っていたのか >>567
落胤説は不比等在世当時?だかのかなり早い段階からあった模様で、
9世紀の興福寺縁起にも記載され、その後更に広まって
大鏡にも不比等は落胤だとの記載があるのだが 不比等から5代後の藤原良世自身が撰した興福寺縁起にも記され、
俗説としても流布して大鏡にも記され、
公卿補任にも書かれているということから、事実がどうであったかはともかく、
道長とかが自分は皇胤だと信じ、また周りの人もそう扱っていたことは確かだと思う。
>>563の通りだからこそ藤氏が源氏よりも格上でも、誰も文句言わなかったっていうのは
歴史を見る上で重要なことではないか。
実際に、不比等の男系子孫と、(それ以外?の)天智帝の男系子孫は
かなり特定できるわけだから、Y遺伝子の鑑定を行えば
落胤だったかどうかは、確認できるんじゃないかな。 > Y遺伝子の鑑定を行えば
これは禁断中の禁断。皇室の「男系での相続」っていう伝統を
根本から揺るがす事態になりかねないんで、マジで洒落にならない。
例えば、近衛秀麿の孫である一さんが、不比等の男系子孫だったとしよう。
ふーん、近衛家は藤原氏嫡流だものね。まあそうだよね。
・・・?
・・・・・・Σ(゚д゚)
・・・・・・・・・・!!(゚д゚|||)ェエ工ッッ!!!
てことになりかねない。 >>572
Wikipediaで「近衛一」を検索し、そこから13代ほど父系をクリックして行ってみてくれ。
(つか、便利な時代だなw)
そうすれば言っている意味がわかる。 まあ平安〜鎌倉時代の公家社会の乱脈ぶりを見れば、
誰が誰の男系子孫で、隠し子であってもおかしくない。
現在の皇室が、本当に公式記録の通りの、天智天皇の男系子孫だったら
むしろそっちの方が驚きだ。 近衛信尋は後陽成皇子。
近衛秀麿の孫である一さんが不比等の男系子孫だったとしよう。
ますますわからない。 >>576
「だれも信じてない」は明らかに言いすぎだし、
そもそも信じてる・信じてないにかかわらず、
現在の皇室が男系でつながってないことが、もし明確に証明されたら
大問題であること自体は誰にも否定できない >>570
藤原氏は皇胤だから皇胤である源氏よりも格上でも文句言わないってどういう意味?
周りの人が道長を皇胤だと扱っていたってどういう意味? 道長にとって天皇の落胤の子孫であることがステータスになるのか? 皇胤と言っても、皇統を継いだ系統以外はほぼステータス云々以前に雲散霧消していっているが >>568
意味不明
藤氏より繁栄してない皇別なんて平橘清高いくらでも居る
朝廷で繁栄するためには皇別じゃないといけないなんて風潮がどこにあったんだ?
蘇我、物部、大伴、みんな落胤なのか? >>575みたいに鑑定すれば分かるはずとか言う奴いるけど
>>579みたいな性活環境を想定してるんだと思うが
系譜伝承に信を置かないから鑑定するのに
誰が源氏で誰が藤氏かどうやって検証するんだ?
公家以外の武家の系図や民間の系図なんて更に信用できんだろうし
全く関係ない他氏が入ってることも考えられるし
解決策を呈示してるようで全くの空理空論というお話 藤原氏が皇胤だったかどうかはともかく
皇胤だったから繁栄したっていうのは違う気がする まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 藤原氏が皇胤だから繁栄したとか言ってるやつは、
皇室は直系以外はほとんど消えて言った事をなんだと思ってんだ?w あのさ、賜姓皇族の多くが落ちぶれて行ったとか、その程度のことを
知らないわけがないだろうが・・・orz
自分が言っているのはまず第一に、
平安時代当時は藤原氏が皇胤かも知れない、という意識を
多くの人が持っていたであろう、ということ。
藤原北家自らが撰した興福寺縁起という重要文書にそう記されて
いることから、少なくとも藤原氏自身の多くはそういう意識であったであろうことが推測できるし、
それに、大鏡という文献の性質上、そこに書かれた不比等皇胤説は
当時の貴族社会で一般的に受け入れられたものであっただろうことも
ほぼ明確に推測できる、ということ。
それから第二に、
もし「当時の貴族社会の中で不比等落胤説が受け入れられていたのであれば、
それは当時の藤原氏の地位を考える上でかなり重要な要素になる」
ということ。
別に藤原氏が「皇胤だから」栄えたとか言うつもりは勿論全然ないわけだが、
だからといって、皇胤とみなされたことが全く、もしくはほとんど
その藤原氏の地位向上に寄与していなかった、と出張する人がいたとしたら、
かえってものすごく不思議な気がするけど。
「皇胤であるとみなされていた」ことはそれなりに大きな影響であったなんて、
当り前じゃん?としか思えないわけだけれど。 で、ここから先は歴史的感性の問題になるが、
当時は皇室が日本の支配者であることを誰もが明確に認識していた
にもかかわらず、藤原氏が皇胤氏族よりも明らかに高貴なものと
思われていた、っていうギャップが、
一般的には極めて不思議な現象に思われるわけだ。
そしてその不思議な現象を考える際に、不比等落胤説というものの
存在がある意味で謎を解くものになるんじゃないかってのが自分の印象。
まあこれは印象だし、歴史的感性の問題でこれ以上議論できるものでは
ないかもしれないが、いずれにせよ
>>591に書いたことは明確だと思うので、それだけ同意してくれれば
自分は一応満足する。 あと>>586
もし現在、明確な系図の残っている
源氏や藤原氏の人々のDNA鑑定をしたら、
かなりのことがわかるだろう、ってことはほぼ間違いないと思うよ。
あなたが言っているのは、
「史料って間違いも多いし、あてにならないものも多いから
史料をいくら研究しても歴史はわからない」
って言っているのと一緒。
間違いは他との比較によってある程度校正できるわけだし、
それをして不確かな史料から歴史を読み取っていくのが学問ってものなわけで。
DNA鑑定も同じで、もしきちんとしたデータをとって
きちんと解析することができれば、昔の乱脈ぶりも含めて
いろんなことが解明される可能性が高い、と思う。
実際にはそこまで多くのデータは取らせてもらえないだろうけど。 >藤原氏が皇胤氏族よりも明らかに高貴なものと思われていた
妄想乙 平安期の氏族の序列が一般的に
皇室>藤原氏>真人氏族・源・平など
というのはまあみんな概ね首肯するとは思うが、
その理由が、
藤原氏(天皇の落胤家系)>真人氏族・源・平など(天皇の公認皇子の家系)
というのはやっぱし違うだろ。
なんで「天智の落胤だけ」がなんでそんなに特別やねん。長続きすんねん。
物語文学に落胤記述があるからとか(興福寺縁起にあったかな)、
はし書きに「或いは落胤か」なんて書かれてる程度で、貴族社会に受け入れられてたとは思えない。
同じような落胤談は道鏡や清盛や秀吉などにもあるが、彼らが出世したのは、
あなたは皇胤だったからと思ってるのかもしれんが、俺にはそうは思えん。
藤原氏興隆の理由はもっと違うところに見出すべき。 >>593
なんつうか君は血統信仰がすさまじいな
んなもんどうだっていいじゃん
上にもあるように公家なんて多くは
「為実子」とか「他姓養子」とかで家をつないでんだから >>591
皇胤とみなされたことにより藤原氏のみに与えられた優遇は具体的に何ですか?
それはなぜ他の皇胤には与えられず藤原氏のみに与えられたのですか? >>591
あのさ、別に藤原氏が皇胤でもいいけどさ
落ちぶれた皇胤と落ちぶれなかった皇胤(藤原氏)の違いって何よ? >>593
乱脈ぶりって確定事項みたいに書いてるけど
子供の親が分からなくなるほど常に乱れてたのか?
史書をやたらと疑うつもりは無いが
だったら史書からそういう当時の状況を教えて欲しいわ
>>595
北条氏や徳川氏が覇権を握れたのは皇胤だったからみたいな曲解だよね
なんか血統に夢を見すぎ >>596が説明すべきなのは
藤氏が落胤であったという噂があったことじゃなくて
それが藤氏の興隆にどのように影響したか
>>597も>>596も印象論にすぎないことが分からない? >>592
>>591の第一は同意できるが第二は全く同意できない。
皇胤が優遇されるのは天皇である親兄弟が生きている間だけ。
平安時代の藤原氏にとって祖先が天皇の落胤かもしれないなんてことに重要な意味はない。 >>600
落胤であることが具体的に藤氏の興隆にどのように影響したのですか?
そしてそれはなぜ他の皇胤には影響しなかったのですか? 警察が集団ストーカーをやる理由
それほど事件や犯罪が頻繁におきるわけでもないのに、むやみに組織を拡大してきた結果、警察は暇で暇
でしょうがなくなった。ターゲットを作れば作るほど警察予算が増えていくのでその分、ピンハネできるお金
も増えていく。集団ストーカーは、警察OBの天下り先の防犯協会と連携することで利権を維持できる。
集団ストーカーをすればするほど抗精神薬が売れ、製薬会社と利権で癒着、天下り先確保。
集団ストーカーをすればするほど、暴走族が蔓延ったり、時に、周南市事件のような事件が起こり治安が悪
くなる。警察組織を維持拡大するためには、ある程度事件が起こり、治安が悪くなくてはならない。
集団ストーカーによって生け贄を作り、警察権力の恐さを世間に知らしめる。警察官全員が裏金の偽領収書
を書かせられるシステムがあるため仙波敏郎氏のような正義感のある警察官が警察組織から排除され、腐敗
した人間ほど出世できる仕組みになっている。役に立たない人間を社会から抹殺することで国民を権力者に
とって都合のいい奴隷だけにし税金の徴収効率を上げる。 落胤>>>>>>>>>>>>>>>その他賜姓皇族
そんなに次元の違う存在か?
思い入れがある場合もあるだろうが一般的には単なる庶子では?
仮に思い入れがある存在だとしても、そこ後の人間が
その人とその子孫を数百年以上、担ぐ理由になるのか? あの、ねえ・・・・・・orz
自分が主張したのは、
>>591の1「当時の貴族社会の中で藤原氏=皇胤説はそれなりに受け入れられていた」
>>591の2「皇胤説がそれなりに受け入れられていたということは、
当時の藤原氏の地位を考える上でかなり重要な要素になる」
>>593「遺伝子鑑定は歴史の解明のために、それなりに役にたつ」
の3点だが、
最も自明だと思っていた>>591の2に反対する人が出てくるとは・・・
皇胤であることが昔の日本の社会で重要視されていたなんてことは、
論じるまでもなく明らかなことであって、それに反対してくるような人は
根本的に俺とは全く異なる「日本史」を見ている人だ、としか思えないけど・・・
証拠だとか何とか言うまでもなく、昔の武家は○○天皇何世の子孫とかいうことを誇りにしていたし、
源氏が武家社会で大きな力を持ったのは皇別氏族だったことの影響が大きいわけだけれど。
いま問題にしている公家社会で、皇胤であることが家格の決定に
大きな影響を示していることは、堂上公家の姓を見れば明らかなわけだが。
いま藤原氏は皇胤か?って話をしているので、藤原氏以外で見ると、
清華家・・・皇別(2) それ以外(0)
大臣家・・・皇別(1) それ以外(0)
羽林家・・・皇別(11) それ以外(0)
名家・・・皇別(3) それ以外(0)
半家・・・皇別(11) それ以外(13)
ですよ。明らかに皇胤の家が公家社会の上位を占めていて、
そうでない大伴氏だの蘇我氏だの、下毛野氏だのは堂上公家にさえなれなかったわけなんですけれど。 >>595とかその他の人
あの。。。
「藤原氏が落胤だから源氏よりも高貴とされた」などとは、全く言っていないんだが・・・
藤原氏が大きな勢力を握ったのは、不比等やら冬嗣やら、その他の人々が
極めて政治的に有能で、政敵を排除したからですよ。
そんなの当たり前でしょう?
> 同じような落胤談は道鏡や清盛や秀吉などにもあるが、彼らが出世したのは、
> あなたは皇胤だったからと思ってるのかもしれんが、
そんなこと全く思っていませんが・・・
何度も同じこと言うようだけれど、自分が言っているのは、
藤原氏の家格形成に、藤原氏が皇胤だと思われていたことが
それなりに大きな影響を与えていたはず、ということ。
他の要因が全くないなどとは言っていないし、
何度も言うけれど、「最も大きな要因」は不比等やら冬嗣やらの有能さだったわけで、
そんなの論じるまでもなく明らかでしょ、と思っています。 >>599
>>593
> 乱脈ぶりって確定事項みたいに書いてるけど
> だったら史書からそういう当時の状況を教えて欲しいわ
乱脈ぶり自体は「とはず語り」とか見ればわかる。
実際に誤って子が認知された事態があったかどうかは、
そりゃ正式な史書からはわからないですよね。
物語にはいろんな記載がある(源氏物語とか)けど、
それ以上に史実がどうだったかは推測でしか言えないはずだとは思う。
> 北条氏や徳川氏が覇権を握れたのは皇胤だったからみたいな曲解だよね
何度も言うけど、北条氏や徳川氏が覇権を握れたのは、彼らが軍事的に有能で
敵を滅ぼしたから、ですね。当り前だと思うけど・・・
>>601
> 答えは単純で、「影響しなかった」
は?「影響しなかった」とかどうして主張できるの?
>>602
> 皇胤が優遇されるのは天皇である親兄弟が生きている間だけ。
これも、何を根拠にこう断言できるのか、自分にはおよそ想像もつかないけど。 ていうか、ものすごく当り前で、ごいく当然のことを
主張しているだけのつもりなんだが、
何でこうやってムキになって噛み付いてくる人がいるのか・・・
2chて不思議なところだね。 その「藤原氏の家格形成」ってのはいつのことを言ってるのだ? まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 皇別と言っても村上源氏も宇多源氏も藤原北家御堂流との縁戚関係のおかげで、公家社会に踏みとどまれたのでは?
そうすると皇別であったことも有利に働いたかもしれないがそれ以上に摂関家との繋がりが大切だったのだと思うよ
正親町源氏はだいぶ後の時代になるけど清華となったのは、徳川氏との縁戚のおかげだろうか
名家には桓武平氏がいるが、もともと半家の西洞院の庶流で、おそらく養子で継いだ当主が実家の家格を継承したとかだろう
半家は地下から引き上げられた家も多いので、家職があるか権力者との距離次第で皇別ではなくてもチャンスがあったのではと思う >>613
全くその通りだよね。
他の皇別が消えるか地方に落ちて行ったのに、
村上源氏や正親町源氏が生き残ったのは時の権力者との関係があったから。 藤原摂関家と縁戚になるにはやはりそれ相応の家格が必要なわけで、家格形成期である平安末期にすでに落ちぶれていた氏族よりも皇別が有利だったのは言うまでもない
摂関家と縁戚になれなければ皇別でもあっという間に落ちぶれていく >>607
何度も同じこと言うようだけれど、自分が言っているのは、
藤原氏の家格形成に、藤原氏が皇胤だと思われていたことが
大きな影響を与えていないということ。 >>606
それはいつの時代の公家の構成ですか?
たとえば奈良時代後期や平安時代前期の構成はどうなってますか? >>608
大臣にまでなった一世源氏の子孫がどうなったか調べてみたら如何か。 >>609
ていうか、ものすごく当り前で、ごく当然のことを
主張しているだけのつもりなんだが、
何でこうやってムキになって噛み付いてくる人がいるのか・・・
2chってほんと不思議なところだね。 村上源氏
摂関家との関係で清華家、その庶流が大臣家、羽林家
正親町源氏
徳川家との関係で清華家
宇多源氏
摂関家との関係で羽林家、地下から昇格して半家
清和源氏
足利家との関係で昇格して半家
桓武平氏
半家に踏みとどまる?庶流が江戸時代にどういうわけか名家に
清原氏
明経道を家職としたおかげで半家
であってるかな?
正親町源氏は元皇族だからこそ清華になれたというのはあるとは思うけど、全体的に見るとそれほど有利に働いたわけでもなさそう 最初の数世代で皇別であること以外のアドバンテージを残せれば羽林家までに残れる
もしくは地下から半家への昇格を狙うかってことかな
地下からの昇格には皇別であることは有利になっていないけど
伴氏も蘇我氏も半家ならばなれるチャンスあったのかな
蘇我氏はたしか地下にも残っていないようだが >>616
「藤原氏が皇胤だと思われていたことが大きな影響を与えていない」と主張する根拠は何?
ただの鸚鵡返し? >>620
村上源氏の繁栄は単に藤原氏との縁戚ってだけではなくて、
通親の時代に、むしろ摂関家をも上回る権勢を得たってことも大きい
あれがもう一時代か二時代前であれば、摂関家の仲間入りさえ
できたかも知らん程だけど、結局、清華家どまりだったね。 >>622
そもそも「藤原氏が皇胤だと思われていたことが大きな影響を与えていた」と主張する根拠は何?
鸚鵡返しとは他人の言ったことを「そのまま」言い返すことである。 >>623
村上源氏の後は閑院流が台頭して、
あわや摂家の仲間入りかってところまで行ったけど
やっぱり無理だったね。
もう鎌倉時代には家格が固定してしまい、手遅れだったんだろう。 >>624
やっぱり鸚鵡返ししかできないんだね。哀れだな >>621
蘇我氏ってどこいっちゃったんだろうね?
いつまでぎりぎり、歴史に残っていたんだろう >>606
阿部氏が皇別氏族に入っている気がするが、
これは「自称皇別」な香りがぷんぷんするw >>626
やっぱり鸚鵡返しの意味を理解してないんだね。お可哀想 >>626
やっぱり鸚鵡返ししかできないんだね。哀れだな >>626
「ぼくは自明だと思い込んでいる」、という以上の根拠は何一つとして示せないんだね。話にならんよ。
落胤なんて、日本社会では正式な皇胤とは比較にならないほど低い扱いだっただろうに。
平清盛落胤説と同じで、「出世し、隔絶した地位を築いた」という事実が先にあって、後から落胤説がついてきたと考える方が自然だよ。
あいつ/奴らがあんなに出世するのはおかしい、なにか裏があるはずだ、とね。 >>627
平安初期の石川真守が蘇我氏最後の公卿かな? >>626
議論の一般的ルールとして、
「ある」と主張した者が、それを先に証明しなければならないという暗黙の了解があります。
「あなたが先に「ない」ことを証明せよ、さもなくば「ある」のだ」と主張する詭弁を
「悪魔の証明」と呼びます。 石川朝臣は陽成朝に宗岳(ソガか)朝臣に改姓したね。
御堂関白記にも氏人らしき人の名前が出てくる。
あとは中世・近世地下の宗岡(ムネオカ)氏が実際に宗岳朝臣と関係があるや否や。 >>571は吹いた
>>591の「第二」の根拠、あるいは傍証は結局ないの?
落胤説が家格形成に影響を与えたっていつを想定してるの?
不比等の登場時?あるいは院政期?それとも別の時期?もしくはその間ずっと? だからさ、藤原氏が落胤だとして、それがその他の賜姓皇族系を圧倒する理由って
ただ有能な人がいたからってだけなの? >>606
天皇の子孫というだけで出世できるのならわざわざ地方で武家にならずに
都に留まって公家になればよかったのにね。 まあ端的にいうと、
皇室に娘を入れ続けることに成功し皇室の持続的な身内と化したこと、
蔭位の制によって他氏族より早くまた数多く一族が出世できる素地があったこと。
それが実は落胤(と周りから思われていた)だったから出来たんだ、とか言われると、いや違うんじゃないかと思うし、
後宮対策でいえば葛城氏や蘇我氏は百年ほどで消えたが藤原氏が千年続いたというのは
やはり先祖が落胤(と周りから思われていた)だったからだ、とか言われると、いや違うんじゃないかと思うわけ。 えっと、ねえ・・・
一応返答しておくと、
>>610
興福寺縁起だの大鏡だの言っていることから想像してもらえるように、
奈良時代から平安末期にかけての期間を想定しています。
その間に公家家格というものはかなり決まってしまい、
それが江戸時代の堂上公家の家格に影響している。
>>617
平安前期にまだ存続していた伴氏などは、末期には没落して
その結果が>>606の通りなわけですな。
>>618
大臣にまでなった一世源氏の子孫もほとんど没落していると思うけど。
だから?
>>628
まあ確かに阿倍氏まで皇別は入れすぎかも知らん。
>>636
「だけ」じゃないけれど、それが最も大きな要因でしょうね。
>>637
都には他にも皇胤の氏族がたくさんひしめいていたのだから、
それは無理な話でしょう。 >>635
「時期」については上記の通り。
自分が言っているのは、
1. 一般論として、日本の歴史において「皇胤であること」はそれなりに重要視されていた。(大前提)
2. 上記の公家の家格が形成される期間の間、公家社会において藤原氏は
「皇胤であるかもしれない」とみなされていた(小前提)
3. 従って、藤原氏含む公家の家格形成において、「皇胤とみなされていたこと」がそれなりに大きな影響を与えたはず(結論)
という三段論法なわけだけど、正直、この小前提に疑問を挟む人が出ることは想定していたのだが、
大前提にこんなにわけのわからん文句つけてくる人がいてびっくりしている、というのが現状なわけですね。
>>603にも書いた通り、自分からみてこの大前提はごく当り前で当然だし、
それに文句言われても、ああそうですか、この人は日本史ってものを全く知らない、
思い込みだけでものを語ってしまう種類の人なんですね・・・としか思わないわけだけど。
たぶん想像つくと思うが、「日本の歴史一般において皇胤が尊重されていた」
こと自体を、いろんな文献から傍証することは、手間をかければかなりできると思うよ。
結果は見えているので、自分はやる手間かけるつもりもないし、
今ここでできるわけでもないけど。
また、実際には皇別でないと思われる氏族が皇別を名乗っていたことも、
そうすることが自分たちの地位向上に資するという意識があったから、だということも傍証になり得ると思う。
で、これは当然だと思うのだけれど、じゃあ実証的にどうかっていうと
実際に>>606の通り。
御堂流との血縁がどうの言っている人もいるけど、ここは>>615の言う通り
御堂流と血縁関係になること自体に、皇胤であることが関係していたと思われるので。
どんな文句を言ってみたところで、>>606のように明確に結果が出てしまっている以上、
「公家の家格形成に皇胤であることは全く役に立たなかった」と
主張することは全くできないはず。 ・・・で。
>>633
申し訳ないがあなたは、議論の仕方というものを全く理解していらっしゃらない
ようですが、もし仮に
「○○である」ことの立証も、「○○でない」ことの立証もできない場合には、
我々が主張できるのは「○○であるか○○でないかは、わからない」
ということだけですよ。
「○○であることを立証できない」ことが、「○○でない」ことを主張する根拠になり得ると、
もし思っていらっしゃるとしたら、
根本的に中学校から勉強をやり直された方がいいのではないでしょうか。
(冗談で言ってるのじゃなくて、たぶん、背理法とか対偶とか、忘れてるでしょ?
悪いこと言わんから、もう一度勉強なさいな。)
2chってなぜか、「悪魔の証明」だとか言って>>633みたいなことを言う人多くて
昔から不思議なのだけれど・・・
正直、「悪魔の証明」とか言って何か言った気になれる人ってのは
人文科学の素養のない人に限られるわけなんですが。
いずれにせよ、今の場合には「○○はある」と言っている俺はそれなりに根拠を提示して話しているが、
「○○はない」と言っている人は全く何も提示できていないので、
あなたの言っていることさえ当てはまらないですね。 それでね。
自分が不思議なのは
「藤原氏が皇胤とみなされていたことは、その家格形成に
全く(ほとんど)影響しなかった」という不思議な主張を
なさっている人がいて、
元々それほどレベル高いレスが帰ってくるとは期待していなかったのだけれど、
実際に、それを支持する根拠を、この人(たち?)は「全く何も」提示できなかった、っていうこと。
期待はしていなかったが、全く本当に完全な「ゼロ回答」しかできないとは・・・
申し訳ないけど、あなたたちに対してはものすごく呆れたし、驚愕したし、失望した。
この世界で生きるために、もう少しだけ、真摯にものを考えるようにしてみてはいかがでしょうか。 端的にいうと、
>>601 602 616 619 624 629 631 633
お前らのことだ。
>>638
落胤なり皇胤「だから」できたと言っているわけではなくて、
落胤なり皇胤であることがそれなりに影響した、と言っているわけですが。
実際に、これだけ明確に結果に差が出ているわけなんですが。
何で「影響しなかった」とか言えるんですか?ってもう一度だけ聞いておきたい。
まあ、あまり明確な答えが帰ってくるとは、もう期待していませんが。正直。 >日本史ってものを全く知らない、思い込みだけでものを語ってしまう種類の人なんです
自己紹介乙としかいえない。 >>643
638だけど、私が藤原氏が他氏族を圧倒する家格形成を築くことができた基本要因だと思ってるのが
>>638にあるとおり。
で、それらは皇胤(と看做されていた)であることが影響したのかと言われれば、
藤原氏はおのが氏族としてのを繁栄を企図していることが垣間見えるし、
皇室側が詔なんかで藤原氏を称揚する時も鎌足・不比等の業績を讃えるのであって、
ということは、その当時周りから皇胤だと思われていたのかというと、そんな例証は無い。
少なくとも私はそこに、実は皇胤である云々の影響を見出すことはできない。 それでね。
自分が不思議なのは
「藤原氏が皇胤とみなされていたことは、その家格形成に
大きく影響した」という不思議な主張を
なさっている人がいて、
元々それほどレベル高いレスが帰ってくるとは期待していなかったのだけれど、
実際に、それを支持する根拠を、この人は「全く何も」提示できなかった、っていうこと。
期待はしていなかったが、全く本当に完全な「ゼロ回答」しかできないとは・・・
申し訳ないけど、あなたに対してはものすごく呆れたし、驚愕したし、失望した。
この世界で生きるために、もう少しだけ、真摯にものを考えるようにしてみてはいかがでしょうか。 >>643
>落胤なり皇胤「だから」できたわけではなく
影響ないって認めちゃってるじゃん >>640
【一般論として】、日本の歴史において「皇胤であること」は【それなりに】重要視されていた。
このことに文句をつけている人などいませんが・・・。 1. 一般論として、日本の歴史において「皇胤であること」はそれなりに重要視されていた。(大前提)
2. しかし、上記の公家の家格が形成される期間の間、大臣にまでなった一世源氏の子孫は
ほとんど没落している(小前提)
3. 従って、藤原氏含む公家の家格形成において、「皇胤とみなされていたこと」が大きな影響を与えないはず(結論) >>640
「それなりに大きな影響」って数字であらわすとだいたい何%ぐらい? >>641
日本史板で根拠と言えばそれは史料記事
>>646のような傍証を挙げることもせず
思いこみの観念論しか語ってない
ここまで不毛な長文も香ばしい >>640
三段論法があほらしすぎる
犯罪者がみんなパンを食ってたみたいなもんだ
皇子皇孫ですら朝廷に残れなかった系統が数多だというのに
藤原氏に限って遠い先祖が落胤だったかもしれないというのを評価するのは
ダブルスタンダードでしかない >大臣にまでなった一世源氏の子孫もほとんど没落していると思うけど。
>都には他にも皇胤の氏族がたくさんひしめいていたのだから、
なんで「皇胤だったこと」がそれなりに大きな影響を与えなかったの? >>641
「ある」と主張した者が、それを先に証明しなければならない
「ない」ことを証明できないからといって「ある」ことにはならない
これのどこに間違いがあるのかわかりやすく説明していただけますか。 不比等はもしかしたら噂があることで有利になったかもしれないが、その後は代々藤原氏が権力の中枢にいたからだろ
源氏ですら大半は落ちぶれていってるんだから落胤程度の噂で代々権力の中枢にとどまれるわけがない
藤原氏の家格は長期間、権力の中枢にとどまったことで形成されたものだろ?
摂関が藤原氏の世襲のものと認識されるまでに他氏が摂関の座を奪っていれば藤原氏も没落していたかもしれない (すべてはここから始まった)
そもそも昔は、不比等=落胤説が結構な確からしさで信じられていたわけで(今でも否定はされていないが)、
そういう目で見ると藤原氏の独占的繁栄っていうのは結構納得が行く。
ていうか、その落胤伝説がなかったら、
一介の豪族に過ぎない藤原氏が、皇胤である源氏よりも格上であるなんていう風潮は、
そもそも成立しなかったはずだと思う。
っていう目で見ると、>>530は結局、摂家・清華家は全て
天智天皇の男系子孫、ってことで整理がつく。 >(すべてはここから始まった)
いや、始める前にさ、確かめてほしいんだけど、
落胤伝説って「興福寺縁起」じゃなくて「多武峰縁起」(鎌倉時代以降)じゃね?
しかも大鏡の話をパクって、天智−不比等じゃなくて孝徳−定恵になってるという……(間違ってたらスマン)
だとすると、平安後期の「摂関時代」も終わり頃になって初めて落胤話が出てきた可能性も出てくるわけで。
それに大鏡って不比等の兄が中臣意美麻呂だったり、宇合や麻呂が不比等同腹の弟だったりと、
結構滅茶苦茶で信が置けないし、史実に依るというよりは落胤話も物語のネタとして使った感があって、
これによって、それまでの藤原氏の繁栄には貴族社会が藤原氏を皇胤だと認識してたのが影響してた説には
とても同意できない。
むしろ誰かが書いてたように、権力を完全に確立してた藤原氏に落胤話を後付けしたようにも思える。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています