不比等から5代後の藤原良世自身が撰した興福寺縁起にも記され、
俗説としても流布して大鏡にも記され、
公卿補任にも書かれているということから、事実がどうであったかはともかく、
道長とかが自分は皇胤だと信じ、また周りの人もそう扱っていたことは確かだと思う。
>>563の通りだからこそ藤氏が源氏よりも格上でも、誰も文句言わなかったっていうのは
歴史を見る上で重要なことではないか。

実際に、不比等の男系子孫と、(それ以外?の)天智帝の男系子孫は
かなり特定できるわけだから、Y遺伝子の鑑定を行えば
落胤だったかどうかは、確認できるんじゃないかな。