あのさ、賜姓皇族の多くが落ちぶれて行ったとか、その程度のことを
知らないわけがないだろうが・・・orz

自分が言っているのはまず第一に、
平安時代当時は藤原氏が皇胤かも知れない、という意識を
多くの人が持っていたであろう、ということ。
藤原北家自らが撰した興福寺縁起という重要文書にそう記されて
いることから、少なくとも藤原氏自身の多くはそういう意識であったであろうことが推測できるし、
それに、大鏡という文献の性質上、そこに書かれた不比等皇胤説は
当時の貴族社会で一般的に受け入れられたものであっただろうことも
ほぼ明確に推測できる、ということ。

それから第二に、
もし「当時の貴族社会の中で不比等落胤説が受け入れられていたのであれば、
それは当時の藤原氏の地位を考える上でかなり重要な要素になる」
ということ。

別に藤原氏が「皇胤だから」栄えたとか言うつもりは勿論全然ないわけだが、
だからといって、皇胤とみなされたことが全く、もしくはほとんど
その藤原氏の地位向上に寄与していなかった、と出張する人がいたとしたら、
かえってものすごく不思議な気がするけど。
「皇胤であるとみなされていた」ことはそれなりに大きな影響であったなんて、
当り前じゃん?としか思えないわけだけれど。