武家公家の家格について語るスレ
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この手の話題が盛り上がるのでスレッド立ててみました。
家格についての話題なら何でも結構かと思います^^ >>606
天皇の子孫というだけで出世できるのならわざわざ地方で武家にならずに
都に留まって公家になればよかったのにね。 まあ端的にいうと、
皇室に娘を入れ続けることに成功し皇室の持続的な身内と化したこと、
蔭位の制によって他氏族より早くまた数多く一族が出世できる素地があったこと。
それが実は落胤(と周りから思われていた)だったから出来たんだ、とか言われると、いや違うんじゃないかと思うし、
後宮対策でいえば葛城氏や蘇我氏は百年ほどで消えたが藤原氏が千年続いたというのは
やはり先祖が落胤(と周りから思われていた)だったからだ、とか言われると、いや違うんじゃないかと思うわけ。 えっと、ねえ・・・
一応返答しておくと、
>>610
興福寺縁起だの大鏡だの言っていることから想像してもらえるように、
奈良時代から平安末期にかけての期間を想定しています。
その間に公家家格というものはかなり決まってしまい、
それが江戸時代の堂上公家の家格に影響している。
>>617
平安前期にまだ存続していた伴氏などは、末期には没落して
その結果が>>606の通りなわけですな。
>>618
大臣にまでなった一世源氏の子孫もほとんど没落していると思うけど。
だから?
>>628
まあ確かに阿倍氏まで皇別は入れすぎかも知らん。
>>636
「だけ」じゃないけれど、それが最も大きな要因でしょうね。
>>637
都には他にも皇胤の氏族がたくさんひしめいていたのだから、
それは無理な話でしょう。 >>635
「時期」については上記の通り。
自分が言っているのは、
1. 一般論として、日本の歴史において「皇胤であること」はそれなりに重要視されていた。(大前提)
2. 上記の公家の家格が形成される期間の間、公家社会において藤原氏は
「皇胤であるかもしれない」とみなされていた(小前提)
3. 従って、藤原氏含む公家の家格形成において、「皇胤とみなされていたこと」がそれなりに大きな影響を与えたはず(結論)
という三段論法なわけだけど、正直、この小前提に疑問を挟む人が出ることは想定していたのだが、
大前提にこんなにわけのわからん文句つけてくる人がいてびっくりしている、というのが現状なわけですね。
>>603にも書いた通り、自分からみてこの大前提はごく当り前で当然だし、
それに文句言われても、ああそうですか、この人は日本史ってものを全く知らない、
思い込みだけでものを語ってしまう種類の人なんですね・・・としか思わないわけだけど。
たぶん想像つくと思うが、「日本の歴史一般において皇胤が尊重されていた」
こと自体を、いろんな文献から傍証することは、手間をかければかなりできると思うよ。
結果は見えているので、自分はやる手間かけるつもりもないし、
今ここでできるわけでもないけど。
また、実際には皇別でないと思われる氏族が皇別を名乗っていたことも、
そうすることが自分たちの地位向上に資するという意識があったから、だということも傍証になり得ると思う。
で、これは当然だと思うのだけれど、じゃあ実証的にどうかっていうと
実際に>>606の通り。
御堂流との血縁がどうの言っている人もいるけど、ここは>>615の言う通り
御堂流と血縁関係になること自体に、皇胤であることが関係していたと思われるので。
どんな文句を言ってみたところで、>>606のように明確に結果が出てしまっている以上、
「公家の家格形成に皇胤であることは全く役に立たなかった」と
主張することは全くできないはず。 ・・・で。
>>633
申し訳ないがあなたは、議論の仕方というものを全く理解していらっしゃらない
ようですが、もし仮に
「○○である」ことの立証も、「○○でない」ことの立証もできない場合には、
我々が主張できるのは「○○であるか○○でないかは、わからない」
ということだけですよ。
「○○であることを立証できない」ことが、「○○でない」ことを主張する根拠になり得ると、
もし思っていらっしゃるとしたら、
根本的に中学校から勉強をやり直された方がいいのではないでしょうか。
(冗談で言ってるのじゃなくて、たぶん、背理法とか対偶とか、忘れてるでしょ?
悪いこと言わんから、もう一度勉強なさいな。)
2chってなぜか、「悪魔の証明」だとか言って>>633みたいなことを言う人多くて
昔から不思議なのだけれど・・・
正直、「悪魔の証明」とか言って何か言った気になれる人ってのは
人文科学の素養のない人に限られるわけなんですが。
いずれにせよ、今の場合には「○○はある」と言っている俺はそれなりに根拠を提示して話しているが、
「○○はない」と言っている人は全く何も提示できていないので、
あなたの言っていることさえ当てはまらないですね。 それでね。
自分が不思議なのは
「藤原氏が皇胤とみなされていたことは、その家格形成に
全く(ほとんど)影響しなかった」という不思議な主張を
なさっている人がいて、
元々それほどレベル高いレスが帰ってくるとは期待していなかったのだけれど、
実際に、それを支持する根拠を、この人(たち?)は「全く何も」提示できなかった、っていうこと。
期待はしていなかったが、全く本当に完全な「ゼロ回答」しかできないとは・・・
申し訳ないけど、あなたたちに対してはものすごく呆れたし、驚愕したし、失望した。
この世界で生きるために、もう少しだけ、真摯にものを考えるようにしてみてはいかがでしょうか。 端的にいうと、
>>601 602 616 619 624 629 631 633
お前らのことだ。
>>638
落胤なり皇胤「だから」できたと言っているわけではなくて、
落胤なり皇胤であることがそれなりに影響した、と言っているわけですが。
実際に、これだけ明確に結果に差が出ているわけなんですが。
何で「影響しなかった」とか言えるんですか?ってもう一度だけ聞いておきたい。
まあ、あまり明確な答えが帰ってくるとは、もう期待していませんが。正直。 >日本史ってものを全く知らない、思い込みだけでものを語ってしまう種類の人なんです
自己紹介乙としかいえない。 >>643
638だけど、私が藤原氏が他氏族を圧倒する家格形成を築くことができた基本要因だと思ってるのが
>>638にあるとおり。
で、それらは皇胤(と看做されていた)であることが影響したのかと言われれば、
藤原氏はおのが氏族としてのを繁栄を企図していることが垣間見えるし、
皇室側が詔なんかで藤原氏を称揚する時も鎌足・不比等の業績を讃えるのであって、
ということは、その当時周りから皇胤だと思われていたのかというと、そんな例証は無い。
少なくとも私はそこに、実は皇胤である云々の影響を見出すことはできない。 それでね。
自分が不思議なのは
「藤原氏が皇胤とみなされていたことは、その家格形成に
大きく影響した」という不思議な主張を
なさっている人がいて、
元々それほどレベル高いレスが帰ってくるとは期待していなかったのだけれど、
実際に、それを支持する根拠を、この人は「全く何も」提示できなかった、っていうこと。
期待はしていなかったが、全く本当に完全な「ゼロ回答」しかできないとは・・・
申し訳ないけど、あなたに対してはものすごく呆れたし、驚愕したし、失望した。
この世界で生きるために、もう少しだけ、真摯にものを考えるようにしてみてはいかがでしょうか。 >>643
>落胤なり皇胤「だから」できたわけではなく
影響ないって認めちゃってるじゃん >>640
【一般論として】、日本の歴史において「皇胤であること」は【それなりに】重要視されていた。
このことに文句をつけている人などいませんが・・・。 1. 一般論として、日本の歴史において「皇胤であること」はそれなりに重要視されていた。(大前提)
2. しかし、上記の公家の家格が形成される期間の間、大臣にまでなった一世源氏の子孫は
ほとんど没落している(小前提)
3. 従って、藤原氏含む公家の家格形成において、「皇胤とみなされていたこと」が大きな影響を与えないはず(結論) >>640
「それなりに大きな影響」って数字であらわすとだいたい何%ぐらい? >>641
日本史板で根拠と言えばそれは史料記事
>>646のような傍証を挙げることもせず
思いこみの観念論しか語ってない
ここまで不毛な長文も香ばしい >>640
三段論法があほらしすぎる
犯罪者がみんなパンを食ってたみたいなもんだ
皇子皇孫ですら朝廷に残れなかった系統が数多だというのに
藤原氏に限って遠い先祖が落胤だったかもしれないというのを評価するのは
ダブルスタンダードでしかない >大臣にまでなった一世源氏の子孫もほとんど没落していると思うけど。
>都には他にも皇胤の氏族がたくさんひしめいていたのだから、
なんで「皇胤だったこと」がそれなりに大きな影響を与えなかったの? >>641
「ある」と主張した者が、それを先に証明しなければならない
「ない」ことを証明できないからといって「ある」ことにはならない
これのどこに間違いがあるのかわかりやすく説明していただけますか。 不比等はもしかしたら噂があることで有利になったかもしれないが、その後は代々藤原氏が権力の中枢にいたからだろ
源氏ですら大半は落ちぶれていってるんだから落胤程度の噂で代々権力の中枢にとどまれるわけがない
藤原氏の家格は長期間、権力の中枢にとどまったことで形成されたものだろ?
摂関が藤原氏の世襲のものと認識されるまでに他氏が摂関の座を奪っていれば藤原氏も没落していたかもしれない (すべてはここから始まった)
そもそも昔は、不比等=落胤説が結構な確からしさで信じられていたわけで(今でも否定はされていないが)、
そういう目で見ると藤原氏の独占的繁栄っていうのは結構納得が行く。
ていうか、その落胤伝説がなかったら、
一介の豪族に過ぎない藤原氏が、皇胤である源氏よりも格上であるなんていう風潮は、
そもそも成立しなかったはずだと思う。
っていう目で見ると、>>530は結局、摂家・清華家は全て
天智天皇の男系子孫、ってことで整理がつく。 >(すべてはここから始まった)
いや、始める前にさ、確かめてほしいんだけど、
落胤伝説って「興福寺縁起」じゃなくて「多武峰縁起」(鎌倉時代以降)じゃね?
しかも大鏡の話をパクって、天智−不比等じゃなくて孝徳−定恵になってるという……(間違ってたらスマン)
だとすると、平安後期の「摂関時代」も終わり頃になって初めて落胤話が出てきた可能性も出てくるわけで。
それに大鏡って不比等の兄が中臣意美麻呂だったり、宇合や麻呂が不比等同腹の弟だったりと、
結構滅茶苦茶で信が置けないし、史実に依るというよりは落胤話も物語のネタとして使った感があって、
これによって、それまでの藤原氏の繁栄には貴族社会が藤原氏を皇胤だと認識してたのが影響してた説には
とても同意できない。
むしろ誰かが書いてたように、権力を完全に確立してた藤原氏に落胤話を後付けしたようにも思える。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった あの・・・やっぱり
「皇胤であることが全く、もしくはほとんど影響を与えなかった」
と主張する、もしくは信ずる根拠を述べてくださいませんか、ってあれだけ言ったのに、
これだけ書き込みしといて、本当に全く何も回答できないの??
マジですか?
>>648
ごめん、本気で言ってるの?人の言っていることを少しくらいは
理解してから、書き込みをしてほしいんですが。
自分の主張は、落胤「だから」できた=落胤であったことが藤原氏の家格形成の最大の理由だった、ということではなく、
落胤であることが家格形成にそれなりの影響を与えていたはず、
ということなんですが。
どうしてそれが、「影響ないって認めちゃってる」ことになるの?
ごめん、自分には素で不思議なんだけど、
あなたは本当に、この違いが理解できないほどのアホなんですか?
それとも、わざわざアホのふりしてるんですか?
俺は、わざと池沼のふりをした悪質な輩に、からかわれているだけなのか?
よくわからんな・・・
>>649
文句つけている人がたくさんいるから、困っているんですが。
>>651
そんなの知らんよ。
俺が昔、大学受験に受かったのは「運」のせいと「素質」のせいと
「努力」のせいと、全てあると思っているけど、
そのそれぞれが何%くらいの寄与?とか言われても、そんなこと
知らん、としか答えようがない。
俺が知っているのは、運も素質も努力も、すべてが寄与していた、ということ。 >>652
ごめん、>>646は、>>638が「基本要因」だということの
「傍証」にはなっているけど、
(そして、それには俺も別に反対はしないけど)
その他の要因がなかった、ということの「傍証」には
全くなっていないんですが。これだけ何度も言っても、わかりませんか?
あとこれも何度も言うけど、自分が「影響を与えていた」ことの
傍証として挙げているのは>>606の家格形成結果である、と言っているのだけど。
ここまで明確に結果が出ているのだから、当然それは信じるべき根拠の一つになり得る。
> 日本史板で根拠と言えばそれは史料記事
んなこたないでしょうが・・・・考古学とか全否定するつもりですか?
上に述べたように、例えばDNA鑑定結果とかだって、十分歴史の真実をしる根拠になりえますよ。
>>653
> 皇子皇孫ですら朝廷に残れなかった系統が数多だというのに
勿論そうですけど。
> 藤原氏に限って遠い先祖が落胤だったかもしれないというのを評価するのは
> ダブルスタンダードでしかない
なんでそうなるの?
自分が言っていることは「藤原氏に限ったこと」とかじゃ全然ないんですけど?
>>654
ん?一人だから何?
大人数の側についていさえすれば安心してしまう人ですか? >>655
例えば二つの氏族がいて、もし両方とも皇胤だったら、その場合には「皇胤であること」は影響を与えないわけですが。
っていうか当然じゃない?
>>656
>「ない」ことを証明できないからといって「ある」ことにはならない
別にそれは否定しないけど。
でも、なぜかここには
「ないことを証明できない」のに「ない」と言い張りたがる不思議な人がいるから、途方にくれているんですが・・・
繰り返すけど、もし「ない」ことも「ある」ことも証明できなかったとしたら、
我々が言えるのは「あるかないか、わからない」ということであって、
そこで「ない」と主張するのは誤りですよね。それ位のことは、わかりますよね?
>>657
> その後は代々藤原氏が権力の中枢にいたからだろ
そうですね、何度も言うけどそれは別に否定はしない。
>>658
そうだねえ、何か知らんけど、池沼レベルの言語の通じない人がたくさんいて、
本当に疲れてきたよ・・・
まああまり期待はしていなかったけど、率直な感想として、
「皇胤であることが影響を与えなかった」と言っている人が、
自分がそう信じる根拠について、ここまで本当に「全く何も」述べることができなかった、というのは
自分には本当に驚きだ。
歴史板ってこんなレベルだったのか?
そうは信じたくないが・・・ >>660
合ってるよー、多武峰縁起では定恵が孝徳の皇子になってる。
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879797/240
で、興福寺縁起を見たが、落胤のことなんて書いてない。
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879797/235
大鏡の適当さは笑ってしまう。
諸書を校合なんてこともなく、手近にあった適当な文書を疑いもなく参考にしたんだろう。
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1027818/95
公卿補任を見れば分かるように、落胤云々は註文であって本文ではない。
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991099/12 落胤伝説が、平安時代に有力だったという主張もあるが、本当にそうだろうか。
公卿補任の註文が、果たしてどこまで遡れるかは分からない。
落胤説のような記事は、たとえ風説としてかなり広まっていても、公式な文書に残したりは普通しない。
崇徳天皇や一休のことが、系図に出たりはしないように。
加納諸平以来、石作皇子=多治比嶋、車持皇子=不比等、ということになってるけど、
他の三人がまんま実在なのに、皇子二人だけ婉曲にした意図が分からない。こじつけくさい。
まるっきり架空ではなさげなら、佚名の皇子か、既知の皇族の異称の失伝と考えるべきではないのか。
公卿補任が先行したなら、多武峰縁起がそれと違う話を造作するのも、よくわからない。
しかも、後世も当時もあまり顧みられなかった孝徳に結びつけてどうするのって感じ。
落胤伝説の成立は、時系列で考えると、
竹取物語、大鏡、多武峰縁起、公卿補任という来歴を想定した方がすっきりする。
まず、竹取物語が、今に伝わらない皇子の名を作品に使う。
院政期以降、緩やかに落ち目の藤原氏に、祖先が落胤という伝説が語られるようになり、大鏡や多武峰縁起が記す。
元が噂なので、事実関係も正確なはずもなく、父、子、母が一定しなかったのだろう。
やがて鎌倉期くらいに、父・天智、子・不比等、生母・車持氏という筋に固まり、落胤の話と車持皇子の話が習合し、
説話として有力になったところで、誰かが公卿補任に書き入れた、とそんな感じだろう。 少し一晩、頭を冷やしてみて思ったんだが。
ここで奇妙な主張をしている人たちも、きっと本当は
相手の言うことを落ち着いて読んで、きちんとした主張を
しようとがんばれば、できる子たちなんだろう。
きっと本当は、>>652さんだって、本当に考古学を全否定したいわけじゃなく、
つい成り行きで口走ってしまっただけなんだろう。
どうしてこういうことになるかっていうと、
まずここが2chなので、つい相手の言っていることを読まずに
反射レスしてしまう、ということがあるだろう。
しかし同時にもう一つ、以下のような大きな理由があるのではないか。
俺が言っている
1. 平安時代の家格形成期において、藤原氏は皇胤だと一般的に認識されていた
2. 藤原氏が皇胤だと認識されていたとしたら、それは家格形成にそれなりの影響を与えたはず
について、2.は何度も言う通り、疑いようなく明らかに正しいと思う。しかし
実は1.については自分はそれほど確信しているわけではない。
なので1.ではなく主に2.に反対してくる人がいる、ということが自分には不思議なわけだが、
恐らくここでは、実際に「皇胤でない藤原氏がほぼ独占的に繁栄し、
皇胤はほとんど没落して行った」という「史実」を、多くの人が強烈に認識しているために、
「皇胤であることはほとんど影響しなかった」という先入観を、深く、根強く持ってしまっているのだろう。 だから、例えば>>655みたいな、奇妙な、そして理屈になっていないことを言う人が
跡を絶たなかった、ということなんじゃないか、と思えてきた。
で、もしそうであるとしたら、上記の1.が「もし」正しかったとしたら、
それは日本史一般を扱う人々の中に、ものすごく根強く存在する、この「思い込み」を、
根底から覆すものである、ということを意味するのではないか。
つまりこうやって、明らかな非論理をもって反射レスで反対してくる人が
跡を絶たないということ自体が、この問題がとても根深い、従ってある意味
歴史の認識にとって重要な問題であることを、逆に明らかに示しているのではないか。
・・・恐らくこれは、俺の自己満足ではないだろう。
本当にそれが、最初俺が思っていた以上に重要な問題であることが、
このスレの反射レス群から、逆説的にそれこそ「傍証」される、
っていうことなんだろう。
こう考えると2chってつくづく、不思議なところだね。 >>660 >>667-668
そうだね、上にも書いた通り、それについては俺も確信度は70%くらいしかない。
何で70%もあるかっていうと、大鏡は当時の知識階級が書いたものであって、
従ってそれが「史実」であるか否かとは関係なく、
当時の知識階級の「常識」を反映しているものだろう、と思ったから。
そして上記の通り、「史実」の問題ではなく「当時の一般常識」の問題として
これが果たしてどうであったか、というのは
歴史を考える上で極めて重要な問題であるように思われる。 >>671
落胤伝説が大鏡以前に遡れる強い根拠が無いなら、
不必要な長文でだらだら述べて来たことの大方が崩れるんでないのか?
大鏡が常識を反映?w
あのでたらめな系譜記事からも分かるように、そんな代物じゃないだろう。
そもそも、公卿補任のような書き継ぎ書き継ぎで、史料批判が厳密になされるような文書や、
竹取物語のような完全な創作物、大鏡のような歴史物語、多武峰縁起のような縁起物、
そういう史料としての評価に疑問符を付けざるようなものにしか言及がなく、
六国史のような公刊史書に記載が無いどころか、
平安期の公卿の日記などにも一切記事が無いのに、
70%も確信するとか、それは確信じゃなくて過信だ、間違いない。
2chが不思議なところだとか、池沼呼ばわりとか、偉そうな発言を繰り出すくせに、
史料批判の初歩すら理解していないんじゃないのか?
>>660>>667-668を見て、落胤伝説が当時の一般常識だなんて寝言がよく言えるよw >>660>>667-668に付け加えておくと、(Wikipediaにすら言及されているが)
成立時期としては大鏡に遅れ、多武峰縁起と同時期?な平家物語にも落胤の記事がある。
>>668の指摘のように、この時期には、
まだ親子関係や対象人物が固定化されていなかったと見えて、天智の子が定恵になってる。
しかも、清盛も落胤ということになってる。
異様な出世を遂げた人物には、この手の風説が出現するという良い見本。
中世に成立した系図類など、同時代に信頼すべき記事が無ければ、価値は低い。
いったい何をどう評価すると、風説を書き留めたにすぎない記事を、70%で確信するに至れるのか。
一般常識だったなら、日記や詠歌に何の痕跡も留めていないのはどういうわけか。
2chよりその方が不思議だわ。
>>673
荒らしということか。 >>672
そうだね、確かに興福寺縁起見てみたが、書いていないようだ。
これは俺が自分で確認せずネットを鵜呑みにして、これは済まなかった。
ここが崩れると、確かに、大鏡はともかくとして
平安初期〜中期の家格形成期にそれが信じられていた、と主張する根拠はかなり薄れる。
論理のないアホなことを言う人がたくさんいるので、つい、当り前のことを沢山書いてしまったが、
そこが薄れると、確かにそもそもの根底が怪しくなるね。
結構大発見をしたつもりだったが、そう甘くはなかったかw
指摘については感謝する、有難う。 >>665
いつのまにか「大きな影響」が「それなりの影響」に変わっちゃって、
しかも「藤原氏に限ったこと」じゃなくなっちゃたのね。
あほらし。 >>677
そうそう。
述べてるうちに論旨を少しずつ変える卑怯な奴だよ。
>>591>>606では大きな影響だったのにねw
いつの間にかそれなりの影響に後退してる。
大きいでもそれなりでもいいけど、具体的にどのように影響したのかを全く言わないし。
大発見だとさ、あほらしw
史料批判もできない奴がこういう勘違いをして、ホラ話を著作にして、いい気になるんだよなw
>>676で俺に謝るくらいなら、アホだの池沼だの罵ったことも謝れよ。
ネットソース鵜呑みくん まさか言いたかったことが
皇胤(藤原氏を含む。)であることは、家格形成に『それなり』の影響を与えた『はず』
だったとはねw 当たり前のことをみんなが教えてくれているのに
それに気付かず一人相撲とは こんなめんどくせえ奴がゼミにいたら教官にぶん殴ってもらいたいわw >そもそも昔は、不比等=落胤説が結構な確からしさで信じられていたわけで(今でも否定はされていないが)、
>そういう目で見ると藤原氏の独占的繁栄っていうのは結構納得が行く。
>ていうか、その落胤伝説がなかったら、
> 一介の豪族に過ぎない藤原氏が、皇胤である源氏よりも格上であるなんていう風潮は、
>そもそも成立しなかったはずだと思う。
藤原氏が突出した理由を論じているのかと思っていましたw 藤原氏の場合、母系で皇室に血が入りまくって
皇胤でもないのに、名門血統になり得たんだろう? 794年の公卿補任を見るとすでに
藤氏 5人
皇族 2人
紀氏(皇別)、石川氏(皇別)、大中臣氏(神別)、大伴氏(神別)それぞれ1人
なんだね 初期の頃って南北式京それぞれが他の氏族同等に公卿一人だったのけ? 794年、延暦13年だけど、以下の通り。
正二位右大臣 藤原継縄(南家)
正三位大納言 藤原小黒麻呂(北家)
正三位中納言 紀古佐美
従三位中納言 神王
従三位中納言 壱志濃王
正四位下参議 石川真守
従四位上参議 大中臣諸魚
従四位上参議 藤原雄友(南家)
従四位下参議 藤原内麻呂(北家)
従四位下参議 藤原真友(南家)
従四位下参議 藤原乙叡(南家) まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>689
平安遷都の年には藤原氏による上位独占がかなり進んでるし
皇族はいるけど皇胤(賜姓皇族)はいなかったのね。 読む気はしないと思うが、一通り読み返して思ったことを。
やはりWikipediaはこわいな…と思いつつも
不比等が落胤であることが、奈良時代にすでに大きな影響を与えていたのなら、
公然の事実ということになるので、隠す必要もないから、
藤氏家伝はほのめかしも含めて、現存部分にでもそれなりに記述がありそうだし、
光明立后の言い訳がましい宣命も他に書きようがあったと思う。
細部はともかく大筋は>>668の説明が自然だと思う。
大鏡の記述内容が当時の貴族社会の常識を反映しているとも限らないし、
徒然草の「いでやこの世に…」でも藤原氏皇胤は念頭になさそう。
保立道久氏が皇胤説をどのように説明しているのか、気にはなるが…
まあ話は単純であって
・藤原氏の家格形成は皇胤影響説を採用しなくても普通に十二分に説明できるのではないか。
(逆に藤原氏が皇胤でなかったらその地位を失うような状況があったのか)
・皇胤影響説を支持するには没落した皇胤が多過ぎ(というか大半が没落)ではないか。
・以上のような素朴な疑念をひっくり返すだけの史料や説明がない。
くらいのことなのに、これに全く答えていないので、ほとんど支持が得られない。
結局のところ、>>563の「摂家・清華家は全て天智天皇の子孫、ってことで整理がつく」という
江戸時代以降の状況からの思いつきと見なされても仕方がなく、
ゆえに>>659で「すべてはここから始まった」とか言われるのだろうか。
根拠は皇胤説くらい乏しいが、ここまでからむくらいだから院生じゃないかな。
興福寺縁起が読めるくらいだし、やればできる子じゃないかとは思う。
なので強がってここのレベルの低さを連呼しているのが余計に哀れをさそう。 >>667-668です。
>>694
Wikipediaを鵜呑みにしない方がいいのは勿論なんだけど、
ネット上では他にも「興福寺縁起」を出典として言及されるのが凄く多くて気になる。
誰も文面を引用してないから孫引きっぽいので、単純に誰かの勘違いが拡散してるだけとは思う。
明らかに「大鏡」や「尊卑分脈」の文言なのに「興福寺縁起」からなんて書いてる人もいるし。
それとも、群書類従所収以外の異本があるのか、あるいは、良世作以外の別本があるのか、
はてまた、タイトルを誤認してて実は興福寺の他の文書に記載があるのか。
確認したいけど物凄く面倒くさそうなのでやらない。
光明立后の言い訳については、正しくその通りだね。
当時から公然の秘密であったなら、ああいう迂遠で面倒な手続きを踏む必要も無かっただろう。
藤氏の繁栄は、累代の外戚、功臣・高官の続出、権謀術数の成功、くらいで十分説明できるだろう。
暇があったら図書館で保立道久の新書を読んでみることにするわ。
Googleブックスにプレビューが無くて残念w >>695
あらためて先の資料報告ありがとう。
「興福寺縁起」がやたらと多いのは、Wikipediaから拡散したと思いこんでたが、
異本や他資料の可能性も否定はできないかなあ。
良世でなければ「大鏡」をさかのぼらなさそうなので、大きな影響はないと思うし、
「群書類従」「校刊美術史料」あたりを総チェックなんかとてもできないな。
と思ったが、保立氏読んだらこのあたりの検討はしているはず。
ブログでも皇胤を力説してるし、光明立后をどう説明してるか気になるし、
こちらも時間があれば読んでみるよ。
さすがにここまでくるとスレ違いかな… ttp://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-b78b.html
ttp://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/huhitokousinn.html 公家の家格の定義ってどう認識されていたのだろう?
家によってはどの家格になるか資料によって分かれる場合があるらしいと聞いたので気になりました 藤原氏が皇胤だとして、賜姓皇族系を圧倒する。
有能な人物が毎世代現れたからかも。
ただそれだけだった。
なんじゃそれは。 >>695です。
>>696
家格形成に皇胤であることが如何に影響するか、という点ではギリギリセーフ、のはず。
でもこれで最後にしておきます。
興福寺関係の精査は、そもそも縁起を出典としている人がやるべきことだね。
>>697
おお!ありがてえ!
あいにく近くの図書館に無いわ、新書の分際で3800円(Amazon)もするわで、助かったよ。
> 平安時代にはまったくの事実として信じられていた。
と仰るわりに、代表史料として「帝王編年記」(南北朝期の系図)と「大鏡」(院政期の歴史文学)を挙げてるくらいだから、
やはり「興福寺縁起」(平安前期)には載ってないと考えてよさそう。
大鏡より古い史料があるなら、それを真っ先に例示するっしょ。
あと、持論に都合の悪い「多武峰縁起」や「平家物語」に触れないのは、素直に狡いと思う。
持統が天智系の皇胤を引き立てたいなら、なんで落胤の不比等を選択したのかも合点がいかない。
大津や長屋が草葉の蔭で泣いてをるぞ。川島、志貴、葛野らも侍るは。
不比等が公然の落胤で、それを無闇に取り立てたら、蘇我氏より危険な存在になるんじゃないのかと小一時間。
やはり、功臣・寵臣・外戚として引き立てたという評価でいいと思うがね。
よしこ・しげこ説には、一瞬、おっ!って思ったが、女性名といえば角田文衞。
奈良平安の后妃にそんな傾向が見出せるなら、見逃すはずはないと思うけど、どうなんだろう。 >>700
> 持統が天智系の皇胤を引き立てたいなら、なんで落胤の不比等を選択したのかも合点がいかない。
「落胤」でしかないというのが重要だという解釈なんでしょう。
いかに公然たる存在であっても、落胤は所詮落胤で表向き
には「皇胤」にはなり得ない。
自分の支持だけが拠所で息子のライバルにはなり得ない
異母弟を、他の皇親のけん制も兼ねて引き立てたという
のは、想像としてはありでしょう。
もっとも、無理に落胤であると想定せずとも、
> やはり、功臣・寵臣・外戚として引き立てたという評価でいいと思うがね。
で充分だと思うけど。父の功臣で唯一の大織冠の後継と
いうことで毛並みはそれなりに良いし、自分以外の後ろ盾
を持たないというのも君主側からは都合が良いことだから。 公卿を輩出した武家を無理やり当てはめるとこんな感じ?
六波羅殿 清華家
池殿 半家
門脇殿 半家
鎌倉殿 清華家(将軍家)
足利家 清華家(将軍家)
鎌倉公方家 地下家
畠山家 地下家
赤松家 地下家
大内家 地下家
織田家 清華家
織田信雄家 大臣家→地下家
織田信包家 地下家
羽柴家 摂関家
大和羽柴家 清華家
宇喜多家 清華家
毛利家 清華家→地下家
上杉家 清華家→地下家
前田家 清華家→羽林家
小早川家 清華家
徳川家 清華家→将軍家
尾張徳川家 羽林家
紀伊徳川家 羽林家
水戸徳川家 羽林家
越前松平家 羽林家
細川家 地下家
伊達家 地下家
島津家 地下家
福島家 地下家 >>704
勅許によるものや
二代目以降の官位叙任歴から まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>701
> >>700
平清盛が白河天皇の落胤だったというのは、信ぴょう性が高いみたいだが。 >>710
この家のご当主さんは神田で喫茶店経営されてるね
次期ご当主が公家スレ(だったかな?)に降臨されたことがあった。
もちろん家名など名乗ってないが、質問内容から当てはまる家がそれしかなかった。 >>509
> 公家の子が武家を嗣いだ例
> 細川澄之、佐竹義隣など
この佐竹義隣さんのケース。
どういう事情で相続に至ったのか? >>711
推測とそれに基づく伝承以外の根拠はないでしょ?
信憑性を云々する以前の問題だと思うけど。 摂家や清華家、大臣家などの家格はだれが決めたんですか?
江戸時代の大名なら将軍や幕閣がランク付けしたと思うんですが。 平安時代からの積み重ねが中世の激動の時代というフィルターに掛けられて近世の慣例を作った 武家で清華相当と言えるのは
太政大臣まで上り詰めた平家の本流
将軍在任期間が短いので極官は低めだが官位叙任履歴から鎌倉将軍家
実質は摂関以上だけど摂関じゃない足利、徳川
勅許によって清華成したと言われる豊臣政権での毛利、上杉、宇喜多、前田、小早川くらいか
織田家と秀長家は官位が清華成大名並ではあるが豊臣政権での位置付けが不明 >>719
こういう無理矢理ちがうものを当てはめる人の目的がよくわからん
豊臣家を皇室に擬制するなら宮家や摂家はどこなん
チラシの裏でやってておくれ >>720
どこにも
> 豊臣家を皇室に擬制
した部分は見当たらないが。 よく清華成って単語を見るけど具体的にどういうことやねん
>>709>>710もよくわからん 足利、徳川は、太政大臣が出てるから清華といってもかまわんだろうが。 江戸時代の武家は極位極官が決まっていたから、清華とか関係ないだろ
尾張・紀伊ですら大納言止まり 清華の家格とは一般的に
@極官が太政大臣
A昇進ルートが参議を経由することなく中将→中納言→大納言→大臣
B娘が入内
というのが条件になっていたと思うが
これを100%満たす武家はいないんじゃないか?
徳川はいきなり大納言だから満たしているといっていいのか分からない
そもそも公家の家格にはこだわっていなかったんだろう
しかし例外的に豊臣政権ではかなり意識していたと思われる 清華成についてはいくつか書状が残っていて、秀吉の要請と朝廷の許可で清華に列せられたんじゃなかったか?
だから豊臣政権についてはそれまでの条件を無視して清華家ができたものと思われる
これは豊臣家が摂関になったことで、公家の伝統にも対応しつつ武家の統制に家格を利用しようとしたんだろう 1588年の聚楽第行幸に際して清華成
織田家(信雄、内大臣)
大和羽柴家(秀長、権大納言)
徳川家(家康、権大納言)
近江羽柴家(秀次、権中納言)
宇喜多家(秀家、参議)
↓
同年中に上洛して清華成
上杉家(景勝、参議)
毛利家(輝元、参議)
↓
1590年の小田原征伐前に清華成
前田家(利家、参議)
↓
小田原征伐後に織田信雄が失脚
↓
1591年に秀長と秀保が養子縁組
秀長が死去し、秀保が大和羽柴家を継いで参議輔任
↓
秀吉と秀次が養子縁組
秀次が関白輔任(摂関成)
↓
1594年に小早川隆景と秀俊が養子縁組
↓
1595年に秀保が死去し、大和羽柴家断絶
↓
秀次失脚
↓
1596年に清華成
小早川家(隆景、権中納言) >>730
それを見ても「清華成」と言う人の意図が不思議でならない。
そもそも清華というのは、定着した家格のことだろ。
一定の官位に昇進したことを「清華成」と称するなら、
他の清華以下の公家が同様の官位に進んだ時を全てそう言わないのに、
公家の清華という概念を武家に当てはめてるのには参議も納言も皆清華なの?
矛盾してないか。
同時代にそういう表現はあったの?
家格の成立まえに滅んだ、松殿家を摂家、洞院家を清華とか言うのともまた違うし。 同時代に「清華成」という表現はあったらしい
ただしそのような家格が本当にあったのか議論があって、単に公卿に昇進したことをそう呼んでいるのではという話も聞いたことがある
公家 武家
摂関家 =豊臣家
清華 =清華成
平堂上(羽林)=公家成
地下家 =諸大夫成 諸大夫を従えることができるのは、親王、門跡、摂関、清華だけど、清華成大名はその家臣も諸大夫成していて、やはり清華に準じた待遇だったんだと思う
並の公家がいくら大納言に昇進しても諸大夫を家司として従えることはできなかったはず
官位だけ見れば武家清華は公家の清華より低いが、それは政権が短命で終わったからで、長期化すれば武家清華の官位が引き上げられたか、公家の清華の方が武家並になったかもしれない
秀吉時代に公家の昇進が停滞していたのを見るとおそらく後者ではなかっただろうか >>732
家格形成があったかどうかは豊臣政権が短期間に終わったこともあって、
なかなかはっきりしないわけだね。
>>733
陪臣の官位が一つの試料になるわけか。
豊臣政権の公家武家一緒くたの解決が、徳川政権の武家官位だったけど独自策なのかな。
それとも豊臣政権の頃からそういう模索はあったんだろうか。
お二方ともありがとう、参考になったよ。 徳川時代は豊臣政権下での武家官職インフレの是正に取り組んだ結果、国主≒四品としたことと三家+前田+(松平忠直・光長家)の陪臣叙任に整理した 徳川政権において完全に公家の官位と分離させた武家官位だが、
豊臣政権においても公卿以外は実質分離していたと思われる
侍従は大幅な定員オーバーで、諸大夫なんて重複しまくりだったから ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています