>(すべてはここから始まった)

いや、始める前にさ、確かめてほしいんだけど、
落胤伝説って「興福寺縁起」じゃなくて「多武峰縁起」(鎌倉時代以降)じゃね?
しかも大鏡の話をパクって、天智−不比等じゃなくて孝徳−定恵になってるという……(間違ってたらスマン)
だとすると、平安後期の「摂関時代」も終わり頃になって初めて落胤話が出てきた可能性も出てくるわけで。
それに大鏡って不比等の兄が中臣意美麻呂だったり、宇合や麻呂が不比等同腹の弟だったりと、
結構滅茶苦茶で信が置けないし、史実に依るというよりは落胤話も物語のネタとして使った感があって、
これによって、それまでの藤原氏の繁栄には貴族社会が藤原氏を皇胤だと認識してたのが影響してた説には
とても同意できない。
むしろ誰かが書いてたように、権力を完全に確立してた藤原氏に落胤話を後付けしたようにも思える。