読む気はしないと思うが、一通り読み返して思ったことを。
やはりWikipediaはこわいな…と思いつつも
不比等が落胤であることが、奈良時代にすでに大きな影響を与えていたのなら、
公然の事実ということになるので、隠す必要もないから、
藤氏家伝はほのめかしも含めて、現存部分にでもそれなりに記述がありそうだし、
光明立后の言い訳がましい宣命も他に書きようがあったと思う。
細部はともかく大筋は>>668の説明が自然だと思う。
大鏡の記述内容が当時の貴族社会の常識を反映しているとも限らないし、
徒然草の「いでやこの世に…」でも藤原氏皇胤は念頭になさそう。
保立道久氏が皇胤説をどのように説明しているのか、気にはなるが…

まあ話は単純であって
・藤原氏の家格形成は皇胤影響説を採用しなくても普通に十二分に説明できるのではないか。
 (逆に藤原氏が皇胤でなかったらその地位を失うような状況があったのか)
・皇胤影響説を支持するには没落した皇胤が多過ぎ(というか大半が没落)ではないか。
・以上のような素朴な疑念をひっくり返すだけの史料や説明がない。

くらいのことなのに、これに全く答えていないので、ほとんど支持が得られない。
結局のところ、>>563の「摂家・清華家は全て天智天皇の子孫、ってことで整理がつく」という
江戸時代以降の状況からの思いつきと見なされても仕方がなく、
ゆえに>>659で「すべてはここから始まった」とか言われるのだろうか。

根拠は皇胤説くらい乏しいが、ここまでからむくらいだから院生じゃないかな。
興福寺縁起が読めるくらいだし、やればできる子じゃないかとは思う。
なので強がってここのレベルの低さを連呼しているのが余計に哀れをさそう。