武家公家の家格について語るスレ
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この手の話題が盛り上がるのでスレッド立ててみました。
家格についての話題なら何でも結構かと思います^^ 足利、徳川は、太政大臣が出てるから清華といってもかまわんだろうが。 江戸時代の武家は極位極官が決まっていたから、清華とか関係ないだろ
尾張・紀伊ですら大納言止まり 清華の家格とは一般的に
@極官が太政大臣
A昇進ルートが参議を経由することなく中将→中納言→大納言→大臣
B娘が入内
というのが条件になっていたと思うが
これを100%満たす武家はいないんじゃないか?
徳川はいきなり大納言だから満たしているといっていいのか分からない
そもそも公家の家格にはこだわっていなかったんだろう
しかし例外的に豊臣政権ではかなり意識していたと思われる 清華成についてはいくつか書状が残っていて、秀吉の要請と朝廷の許可で清華に列せられたんじゃなかったか?
だから豊臣政権についてはそれまでの条件を無視して清華家ができたものと思われる
これは豊臣家が摂関になったことで、公家の伝統にも対応しつつ武家の統制に家格を利用しようとしたんだろう 1588年の聚楽第行幸に際して清華成
織田家(信雄、内大臣)
大和羽柴家(秀長、権大納言)
徳川家(家康、権大納言)
近江羽柴家(秀次、権中納言)
宇喜多家(秀家、参議)
↓
同年中に上洛して清華成
上杉家(景勝、参議)
毛利家(輝元、参議)
↓
1590年の小田原征伐前に清華成
前田家(利家、参議)
↓
小田原征伐後に織田信雄が失脚
↓
1591年に秀長と秀保が養子縁組
秀長が死去し、秀保が大和羽柴家を継いで参議輔任
↓
秀吉と秀次が養子縁組
秀次が関白輔任(摂関成)
↓
1594年に小早川隆景と秀俊が養子縁組
↓
1595年に秀保が死去し、大和羽柴家断絶
↓
秀次失脚
↓
1596年に清華成
小早川家(隆景、権中納言) >>730
それを見ても「清華成」と言う人の意図が不思議でならない。
そもそも清華というのは、定着した家格のことだろ。
一定の官位に昇進したことを「清華成」と称するなら、
他の清華以下の公家が同様の官位に進んだ時を全てそう言わないのに、
公家の清華という概念を武家に当てはめてるのには参議も納言も皆清華なの?
矛盾してないか。
同時代にそういう表現はあったの?
家格の成立まえに滅んだ、松殿家を摂家、洞院家を清華とか言うのともまた違うし。 同時代に「清華成」という表現はあったらしい
ただしそのような家格が本当にあったのか議論があって、単に公卿に昇進したことをそう呼んでいるのではという話も聞いたことがある
公家 武家
摂関家 =豊臣家
清華 =清華成
平堂上(羽林)=公家成
地下家 =諸大夫成 諸大夫を従えることができるのは、親王、門跡、摂関、清華だけど、清華成大名はその家臣も諸大夫成していて、やはり清華に準じた待遇だったんだと思う
並の公家がいくら大納言に昇進しても諸大夫を家司として従えることはできなかったはず
官位だけ見れば武家清華は公家の清華より低いが、それは政権が短命で終わったからで、長期化すれば武家清華の官位が引き上げられたか、公家の清華の方が武家並になったかもしれない
秀吉時代に公家の昇進が停滞していたのを見るとおそらく後者ではなかっただろうか >>732
家格形成があったかどうかは豊臣政権が短期間に終わったこともあって、
なかなかはっきりしないわけだね。
>>733
陪臣の官位が一つの試料になるわけか。
豊臣政権の公家武家一緒くたの解決が、徳川政権の武家官位だったけど独自策なのかな。
それとも豊臣政権の頃からそういう模索はあったんだろうか。
お二方ともありがとう、参考になったよ。 徳川時代は豊臣政権下での武家官職インフレの是正に取り組んだ結果、国主≒四品としたことと三家+前田+(松平忠直・光長家)の陪臣叙任に整理した 徳川政権において完全に公家の官位と分離させた武家官位だが、
豊臣政権においても公卿以外は実質分離していたと思われる
侍従は大幅な定員オーバーで、諸大夫なんて重複しまくりだったから 豊臣政権下では武家に官位を与えすぎて、公家の官位がなくなって困ったと聞いたが 豊臣政権では公卿以上の官位は分離していなかったんだろうね
聚楽行幸の行列でも公卿以上は武家と公家が混ざっているし
武家に官位を与えすぎたのもあるだろうけど、もしかしかたら意図的に公家の昇進を抑えていたのかもしれない >>738
摂関を豊臣で独占するために、公家の大臣新規叙任を押さえてたようだ。
右大臣菊亭晴季が秀次事件連座で解官され、現任大臣は太政大臣秀吉だけになり、その後家康が内大臣任官、秀吉死亡で大臣は、家康一人となり、その後晴季が右大臣復帰、さらに近衛信尹が左大臣復帰。
大臣任官は、大納言を経なければならないが、秀吉時代に公家の大納言の新規任官がどの程度あったのか? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>739
たしか広橋兼勝くらいかな?
でも名家だから大納言が極官
秀吉の関白就任から死去まで権大納言だったのが、西園寺実益と鷹司信房だが
本来なら内大臣に昇進してもおかしくなかった、特に摂関家の鷹司信房は
鷹司信房は権大納言のまま、従一位に進んでるけど、これは摂関家ではほとんど前例がない
大臣には昇進させない、上がりという意味での従一位なのだろうか?
このとき他の摂関家は配流か後継者なしか若年の九条忠栄しかいなくて、このあたりも大臣適任者不足の一因だよね 徳川家康の内大臣昇進は秀吉晩年のもので、秀次事件などでだいぶ当初の政権構想が変更されたあとと思われる
今出川晴季は以前より右大臣で、秀吉の関白就任の功績者でもある
これ以外では大臣への昇進が秀次しかないのを見ると
もしかしたら摂関家、清華家も基本的には大納言を極官とするつもりだったのかもしれない
そうすると武家の清華と大差がない 秀吉政権は、武家主導の公家一統だろう。
後醍醐天皇は、天皇独裁のために摂関、将軍を置こうとしなかったが、秀吉は、摂関を豊臣で独占するために五摂家を押さえこんだ。清華はそのあおりを食った形か。
摂関、太政大臣、左大臣は豊臣氏が独占し、これが完成したら摂関家、清華家は、極官がせいぜい右大臣か内大臣(ねぶり大臣)くらいの処遇を考えていたかもしれない。
そういう中での家康の内大臣任官は、秀吉死後のショートリリーフ指名なんだろうね。 武家官位って家格を規定するぐらいしか意味はなかったの?
五位以上だと内裏昇殿が許されるが武家が内裏に昇殿することって江戸時代あったんだろうか?
あとは公家と婚姻関係を結ぶ時も官位が無いと不便なんだろうか? 京都所司代、老中は侍従に任じられて昇殿していた。
高家も昇殿しないと仕事にならない。 極官五位の大多数の大名と二位の最下級公家、官位だけじゃ全く比較にならんだろ 地下家でも従三位とか時々なれるからな
国持大名しかなれない四位は腐るほど地下や公家侍でもなってる
大名で従三位になれるのは御三家と前田だけ
官位だけで武家と公家は比較できないということ 武家内も官位だけでは序列化できないのかな?
大身陪臣と下級旗本では現実には陪臣のほうが序列が上じゃないかな?
伊達の片倉家と1000石くらいの旗本じゃ無冠の片倉のほうが旗本より上に感じる。 武家
国持大名>準国持大名>城主大名>城主格大名>陣屋大名>寄合旗本>旗本(小普請) >>749
従三位の地下人と五位の殿上人が出くわしたら、どっちが目上なの? >>750
陪臣で江戸に屋敷があったのは、
御三家付家老だけではないのかな >>751
武家の格付けは幾つかあるから、それだけで一律には決められないけどね。
>>752
おっぱいが大きい方だよ。
>>753
何の序列? 何をどう感じるの? >>752
殿上人のほうが絶対的に格上、この頃公家では家格>官位
>>753
陪臣で官位があるのは前田と御三家だけだな
まぁ御三家の附家老は純粋な意味での陪臣ではないが >>755
宮中で出くわしても三位が五位に譲るの?
武生本多は無位無官? 前田と御三家だけというより大名が公卿としての官位を得てる家の諸太夫として家老が官位を得てた。 >>758
前田は(従三位、参議)の公卿になるのに家督30年近くかかるし結構な数の藩主が公卿に到達する前に亡くなっているけど
長命な藩主の晩年までは家臣は無位無官ということ? >>759
加賀八家より本多、前田土佐は常時叙任
残りの2枠を他の6家より叙任 >>759
いや、前田家は堂上に比するべき家柄としてということ。
ただ結果一代で終わった徳川家門の大名は従三位や参議になると家老が叙爵されるケースが多い。
そういう家も続いていれば堂上に准じて家老を諸大夫とする家になったのかもな。 >>761
松平忠直・光長の付家老は叙任されてるよな 御三卿の家老は陪臣としてじゃなくて旗本として叙任されてるのかな? 御三卿の家老職は旗本の職だから旗本として任官するだと思う。
家老になったといっても旗本じゃなくなるわけじゃないし。 御三卿の家臣は幕臣が出向してるだけ
清水も田安も当主不在になれば幕府に戻った 公家のなかで諸大夫がいたのは、大臣家以上と羽林の中山家だけだよね?
大臣家は実質清華と見なされることもあるから分かるけど、中山家にはどうして諸大夫がいたの? 公家のなかで諸大夫がいたのは、大臣家以上と羽林の中山家だけだよね?
大臣家は実質清華と見なされることもあるから分かるけど、中山家にはどうして諸大夫がいたの? 中山と松木は平公家の中では格別家格が高いと聞いたことはある
准大臣とかしょっちゅうなるし 武家官位は雨林に準じているというが従五位下の大名って諸大夫扱い?
それとも公家扱い?
ちなみに地下の諸大夫でも4位とか普通にいるけど武家で4位っていったら最上級大名だよね?
従三位以上を公家というなら御三家と前田しか公家の家格はいなくなるね。 前田さんて新羅系かい?
越前〜出雲〜新羅は新羅海賊と呼ばれた連中のルートだろ ま〜どっちにしろ海人族が味方につかなきゃ航海すらできないんだが 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>767
中山家は三代続けて准大臣を出したので、諸大夫を置く格式
となったと、幕末の宮廷にあったと思う。 >>775
ありがとう
時期的にはどれくらい?
江戸時代かな 武家の女性で生前に三位以上の位を授与された人って居るんだろうか? 平時子(二位尼)は従二位
高倉天皇の乳母だからな。 家康の側室の阿茶局は従一位
徳川和子入内の世話役の功績
春日局が従二位(最初は従三位) 北条政子(平政子)が従二位
ねね(豊臣吉子・豊臣秀吉正室)が従一位
後陽成天皇が聚楽第へ行幸した時の褒美
桂昌院(藤原光子・5代将軍徳川綱吉生母)も従一位 将軍正室で生前に三位以上を下賜されてる人って意外と少ないんだな 鎌倉・室町・江戸の将軍家の側室で生前に五位以上の位を下賜されてる人は
何人居るんだろ? 武家・公家との間の婚姻は割と行われてて閨閥を形成してるけど、
将軍家→摂家はどの程度あったんだろ? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった そういえば東京の万世橋に昔あった交通科学博物館の学芸員に公家の末裔の方
が居たって聞いたんだがどの方だろう? >>789
交通科学博物館ではなく、交通博物館ね。
そんで、勤めてたのは鷹司平通氏。 あなたは40代ロサンゼルス府警新聞作りですか?ドーハの悲劇「中国衝撃イヤフォン」「中国悪夢イヤフォン」ですか?
それともいくつですか?
それともいくつですか?
それともいくつですか? 大宰府天満宮の宮司は菅家末裔の西高辻家が務めてんだな。
昨日の官邸訪問で初めて知った。ももクロとも仲良しなんだな。 > ももクロとも仲良しなんだな。
これで有難味が完全に失せた。 >>30
五摂家の長男(次の当主)もだよ
20代の若さで関白に就任した人達も
中には居るし、 >>749
徳川御三家と前田家は清華家
公家と武家の極位極官の違いは
結局のところ、
国会議員と地方自治体トップの違い
官僚()と自治体の首長(大名) >>795
摂家は元服、叙爵で五位少将になるのが例だったはず。 >>769
極位極官だけ見ればほとんど諸大夫
前田家と御三家、駿河、甲斐、館林、越前松平初期が清華相当、
国持大名が羽林家相当で、それ以外が諸大夫では? 国持ち大名と清華家の結婚は結構あったな。
土佐藩と三条家とか。 >>798
いや極位極官だけ見れば前田家と御三家、駿河、甲斐、館林、越前松平初期が平公家相当
御三卿も平公家だね。
必死で頑張っても准大臣が限界だし。
清華相当なのは徳川宗家のみ。 >>799
公武のつりあいからいうと
内親王・女王・摂家姫と将軍家
女王・摂家姫と御三家御三卿
清華姫と国持大名
って感じか。平公家の姫なら一般大名とか
旗本とかもトツギーノしてるね。 > 清華相当なのは徳川宗家のみ。
たまにこういう主張を見かけるけど、無意味な話だね。
このレベルでの極位極官の話を言い出したら、摂家も清華も同じく従一位太政大臣で同格ということになってしまう。
摂家と清華の決定的な差異は摂関になれるかどうかだし、将軍家を他家と隔絶させているのは摂関を従える権威を有する「将軍」になれるかどうかという点にある。
そこを無視して家格を語っても、全く無駄な話にしかならないよ。 明治になって、御三家と清華が侯爵だから御三家が清華並みの家格でもいいだろう。 幕末以外は武家官位が本気で気にされたことないしな。 公家だらけで山口最盛期の
大内従ニ位兵部卿(貿易用の日本国王印持ち)もなかなか・・
明治以降は毛利大公爵(実質的な長州天下の君)も実現するやら、
さすが大防州・大長州 毛利氏は、本姓大江で大名家では由緒有るほうだな。
桂太郎、木戸孝允も同族だから、明治になって大江氏は繁栄した。 幕末の毛利父子の存在感の無さは異常。
信楽焼のタヌキ置いといても問題なさそう。 >>811
家臣がキャラ濃すぎただけでは?
あれだけ色々やらかす家臣だらけで
ストレス多かったかも 大日本帝国は
木戸孝允に始まり木戸幸一で終わるので
戦前臣下宮中序列一位の木戸内大臣が極人臣を極めた総帥
中臣鎌足の内臣から歴史ある官位の内大臣
なぜか令外官
現代日本の最高権力は財務事務次官なので
大蔵大輔だな
世が世なら五位摂政と呼ばれそうな権限 豊臣公儀の時に定められていた徳川家は清華家相当というものを結局超えら
れていないということ。超えられていたら武家関白を目指しただろうから。
俗説で流れている秀吉は農民上がりだから将軍になれなかった、という風説
は江戸時代に豊臣公儀を下げるための方便ではないかと思う。
関白は天皇の代理人だし、征夷大将軍よりもずっと権威は上だったのに、征夷
大将軍になれない者が関白になれるはずもなく。
家康は本当は関白殿下と呼ばれたかったんだろうが、それでは露骨な簒奪に
なるので征夷大将軍を選んだのだろう。これならば武家の棟梁ではあっても
天皇の臣下の最高峰ではないので豊臣家を騙せたのだろう。
そして豊臣家を攻め潰したあとは徳川家の勢力でそれを無理やり権威付けし
たと。しかし元々は豊臣公儀の五大老筆頭から生じた政権なので結局、豊臣
本家の摂関家相当にはなれなかったのではないかな? さんざん既出だが、室町時代の摂関は将軍家に伺候して偏諱を拝領し、不興を買えばそのまま解官、追放という状態で、将軍家の家礼の筆頭という位置づけが定着している。
幕初に将軍が参内したようなときに摂関が下座についたのも、その伝統の流れ。 >>814
そのことをどっかで書いたら罵倒されたよw
歴史知らん奴多いよね。 将軍宣下の時も幕末以外は将軍が使者の上座なんだよな。
当時は武家の棟梁は天皇より下って意識はかなり希薄だったんだろうな。
まあ、武家の棟梁のお情けで領地もらって生活してるって状態だから無理もない。 豊臣政権の立場で考えれば813の言うのも分かるが
実際は室町将軍と徳川将軍の権威はその当時の摂関を凌駕している
将軍家という家格は、公家や豊臣政権の家格制度では上手くあらわせないってことだよね
摂関家を上回るとも言えるし、清華家相当とも言える >>804
清華家の太政大臣と摂関家の左大臣、上席につくのはどっち? >>816
だがそれを言い出せば征夷大将軍を任命するのは天皇だから、任命する側が
下位になる事はどう考えても矛盾しているだろう >>819
そこを突かれて幕末には勅使上座、将軍平伏に変わったわけで。 将軍の欠点は致命的
将軍と主従関係を結ぶ大名が将軍に謀反を起こせばそれは謀反であるが、朝敵とは限らず
だが関白は天皇の代理人である以上、関白に謀反を起こせばそれは朝敵になるということ
だからこそ幕府は公武合体を目指したんだろうが最初から武家関白になっておけばこんな
苦労はなかったろう
とはいっても、豊臣恩顧の大名も健在で秀頼もいるのに無理やり家康が関白になっていれば
どんな結果が待っていたかはわからんけどな
今の歴史は家康が将軍職を選んだからこそあるのだろうと信じる 鎌倉〜江戸期に武家出身の典侍/掌侍は居たんでしょうか? >>819
勅使はあくまでも使者であって天皇ではないからね。
まあ、江戸時代に限らず平安時代でも勅使が公卿に嘲笑されて追い返されたとか、南北朝〜室町期に宣旨が乱闘の中で泥まみれになったとかといったエピソードには事欠かない。 >>818
太政大臣だね。単に摂家というだけでなく摂関であれば別だけど。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています