武家公家の家格について語るスレ
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この手の話題が盛り上がるのでスレッド立ててみました。
家格についての話題なら何でも結構かと思います^^ 単に「将軍は卑官だから将軍家は清華だ」という無根拠な
思い込みを書き連ねているだけだな。
> それと嵯峨実愛は叙爵内規の存在も知らずに「何でうちが伯爵なんだ!」と内規の規定からすれば見当違いな文句を垂れていただけだよ
これなんか、無知の証明としか言いようがない。嵯峨日記の引用は
「華族誕生」にもあるが、非常に性格であるだけでなく「旧大藩現収
十五万石以上云々」というように、叙爵内規の内容を熟知していな
ければ書けない表現が頻出している。
この程度のことは当然知っていると思っていたんだがね。 後、相変わらず「現代の歴史学用語と当時の用語の混同」を
続けているようだが、「家督」「室町殿」等々、どちらの意味で
使っているのかはっきりさせてくれ。
「室町殿」もあんたが>>71で言い出した「家督」も、両方の
用法をごちゃまぜにして書いているから読みにくくて仕方ない。
> そもそも「新しい歴史用語としての用法」などと、「室町殿」という地位・概念への理解が薄弱
「将軍家の『家督』を指す用語としての『室町殿』」は、現代の
歴史用語以外の何物でもなかろう?同時代にそういう総称と
して使われていたわけでも、そういう概念があったわけでも
ないんだから。それと、
> 中世は隠居したじいさんが権力を持った時代ではなく、公の地位とその家督が分離した時代と言った方が正確。
普通は藤原道長の「大殿時代」や院政期あたりも含めるし、
江戸時代にも当たり前のようにつづけられていると考えられているがね。 >>72
長々と書き連ねているが、要するに
> 「公方は事実上の日本国王であるが、官位だけを見れば清華に比せられうる」
「摂関は尊く征夷大将軍は卑官」という無根拠な思い込みを繰り返しているだけ
だね。「官位だけを見」れば、摂家も清華も将軍家も「従一位太政大臣」が極位
極官であることに差はないんだから。
摂政、関白も本来は本官・本位の身分でしかない。「摂関」自体が高い地位になっ
たのは、強引な手段も含め他の公卿を従え続けたという伝統の積み重ねによるも
の。最初から至高の身分だったわけでは無い。
「将軍」もしかりで、摂関を伺候させ、右大臣の将軍が関白や左右大臣の上座に
座すというように、「本官、本位の序列を超越した身分であることを示し続ける」
ことで権威を獲得していった。
類似の道筋であるのに、「摂関は偉いが〜」と連呼されても、「『あなたは』そう考
えているんですね」としか言いようがないね。根拠が皆無なんだから。 官位を超越しているという意味では、将軍摂関は、上皇と変わらんね。
平安から江戸まで、そういう歴史だったわな。 公卿補任では摂関・大臣・大納言・中納言・参議+散位というくくりはあるが
書式として将軍はナントカの別当のようなものと一緒の兼帯の扱いで摂関とは扱いがまったく違う
それに摂関は宮中座次に関わるけど将軍は関わらない
将軍「だから」偉いとは言えないし
将軍「だから」摂関以下の公卿の上に立ったわけじゃないだろ
公家の家格は昇進ルートや、極官がこうした座次のどこまで到達するかで決まるのだから
この中で将軍を持ち出したり「摂家も極官は太政大臣」と言い張ったところでナニイッテンダコイツとしかならない
結局室町とか江戸の「将軍」の権威・権力は将軍職を含めた官位から引き出されるものではないと言ってるだけだろ
自分こそ「将軍だから偉い」と言いたいだけじゃん
どちらが無根拠な思い込みを書き連ねてるんだか >>79
俺もそう思う。
摂関の場合、大臣でなくても大臣よりも上なのだが、将軍の場合、5位なら少しやばいだろ?
だから最初から内大臣なり二位なりの高官を得ているわけでw 五位の将軍だったら五位の座次につくしかないからな
要するに将軍職単体での地位の低さを担保するために内大臣その他の官位を持ってくるわけだけど
言ってみれば内大臣でも低すぎる
徳川が清華かなんて俺の興味の外だけどそう見なせると言われても仕方ない部分がある
事実上の主権者なのにわざわざなんでそんな地位に?いっそ簒奪しちゃえばよかったんじゃないの?ってのが問題意識に上ってくる
誰だかが天皇が何故続いたかが日本史最大のテーゼみたいに言ってたけどそこにもつながってくる
家格の話っぽくなくなってきたのでとりあえずこの辺で >>82
豊臣の時代から徳川は武家清華家だったじゃん。 すると前田も毛利も上杉もずっと清華なの?
ていうか読み返したら>>63は武家清華「説」なんて言ってるな
岡野説と並べられるレベルの単なる「説」だと思い込んでるのかな
馬鹿丸出し 清華家の家格を持つ北畠氏のまま、
家格の低い織田氏に戻らなかった信雄の空気の読め無さが、
強制出家と秋田への流罪を呼んだ。
関ヶ原の戦いの西軍首謀者だった輝元への懲罰でも強制出家が強要されていて、
結局のところ家臣らを通して必死な命乞い嘆願が行なわれて、
責任を取っての名誉を守る自刃を回避する武士の風上にもおけぬヘタレに対する恥辱的な死一等免除の慈悲であり、
武人としての生命を絶たれたと言っても良い死ぬのが怖い愚主を内外に知らしめる処置なのである。
清華家の家格を上回るために秀吉は藤原氏の養子にならないといけなかったくらいだからね。
実際、北畠氏の家格は征夷大将軍と並ぶ鎮守府大将軍として地方政権を樹立できる資格も余裕で持ってるからね。
そりゃあ北畠の名前にすがってれば高貴な殿上人として、
どんな大罪であろうと死一等免除の遠罪レベルにしてもらえるんだから信雄だって織田なんてクソに戻りたくはないだろうよ。
信雄家康が秀吉に負けたから鎮守府大将軍として政権を立てられ無かったが、
秀吉に勝ってたら朝廷から任じられ政権樹立できただろうね。
平清盛や源頼朝も清華家の家格を手に入れてるしな。
清盛の娘の徳子が天皇の妻になれたのもこれが理由だからね。
摂関家に次ぐ家格だから、これを上回る為には摂関家の養子になるしかない。
のちの羽柴関白家・武家清華家への発展はこの時に端を発している。 何かかなりズレた(イタい?)人が来ちゃったな
北畠は南朝バブルで大臣に任じられたりしてるが、親房がやっと(特別に?)准大臣になったように元来羽林家相当(「羽林家」は近世の呼称なので「相当」と言っとく)の家だよ
ちなみに鎮守大将軍(「鎮守府大将軍」は間違い)になったのは顕家の家系だから伊勢の北畠はちょっと関係ない >>84
江戸時代も大臣昇進資格があった徳川が豊臣時代から武家清華だからといって極官が4位や3位参議の前田etcとかも近世まで清華だったの?と歴史板で平然と聞くその思考回路がわからん。 豊臣政権下では武家を任官を押し進め、公家の官位が足りなくなった。
事実上、公武一体政権だった。
前例にとらわれないから極官もないし、秀吉の気分次第。
家格もへったくりもなくなった。
北畠は官位は低いが、准三后。
前例を大事にする公家としては、准三后家かね 北畠がどうとか言ってる馬鹿は論外だからもう来なくていいよ
ていうかへったくりってw もともと「家格」の話をしているんだと思っていたんだが。
将軍を世襲する足利将軍家や徳川将軍家の「家格」が
清華ははるかにしのぎ、摂家とも同等以上だったという
話だぞ。「将軍職そのものがどうこう」という話自体が全く
の見当違いだ。
>>81
室町時代には四位、五位の将軍もいたが、彼らが公卿の
下、諸大夫に交じって
> 五位の座次
に着いた事例などないぞ。そういう事例があるというなら
言えなくもないがな。
>>82
> 摂関の場合、大臣でなくても大臣よりも上
内大臣以上の経験者でなければ摂関には就けないだろ?
> だから最初から内大臣なり二位なりの高官を得ているわけでw
だから、中・大納言の時にはとりあえず内覧とし、急きょ大臣に
上げるという例が出てくるわけだし。 >>80
> 公家の家格は昇進ルートや、極官がこうした座次のどこまで到達するかで決まるのだから
> この中で将軍を持ち出したり「摂家も極官は太政大臣」と言い張ったところでナニイッテンダコイツとしかならない
足利将軍家、徳川将軍家では、幕末期の挑発を除けば座次は本官、公家の同官
よりも上に就く例だし、昇進ルートに関して言えば、前にも書いたとおり徳川将軍
家の世子は参議どころか中納言も超越していきなり大納言に就くのが通例。
清華はおろか摂家でも家格として中納言を飛び越えるという昇進は無い。 >>81、82
摂関の座次だが、自動的に一座になるわけではない。
そもそも内大臣以上の経験者でなければ就けないし、
上首の大臣の位階が摂関より上であった場合には、
少なくとも同じ位に上がるまでは一座としないというのが
本来の原則。(葉黄記等)。 >>93
近衛基通は治承3年11月17日従二位非参議右中将から、いきなり正二位内大臣関白となっている。
将軍世子の官である大納言さえも越官しているぞ。
そして、その時左大臣は従一位の藤原経宗だったが、正二位内大臣の基通が上とされた。 >>96
関白になるためには内大臣なる必要があるからね。で、基通の継母は
平清盛の娘であり清盛が全盛時に外孫を強引に引き上げただけの話。
そもそもが平清盛による院政停止と反平氏派追放という政変の産物で
あって、中納言を経ない昇進が家格となったわけではない。
もっとも、摂関の場合には実際に公家社会を主導するだけの経験が必
要だから、昇進が早ければいいというものではないということもあろうけ
ど。実際、近衛基通は能力不足をたたかれているし。 将軍家以外の武家は、家格はどうかねと。
朝廷と直接かかわって家格といえるほど、持続した家はなさそうだけど。 結局のところ将軍清華厨は他の武家のことは知らないかどうでもいいんだろ
とりあえず将軍を清華と見立てることが至上課題らしい >>97
基通はずーーーっと「非参議」だったし(政務関与させて貰えない)
父基実から摂関としての教育を受ける機会がなかったからね。
序列については内大臣は確かに左大臣右大臣より下だが
「関白」が左大臣より上位と見なされてたから
左大臣より上位にされたと思う。
(天皇の相談役>太政官の最上位) 将軍家は何が何でも清華家だ!と絶対的に主張している奴なんて一部を除けばいないだろうに
将軍家は何が何でも清華家じゃない!なんて絶対的に否定する必要がどこにあるんだろう
結果的に極論みたいになってるんだけど
他人の言ってることも正確に理解できないのは家が貧しくて高等教育を受ける機会が得られなかったから? >>97
清盛との関係は常識。
>>93が摂家でも中納言を越官する昇進はないと書いているので出しただけ。
基通が中・大納言を越官したのは事実だし、先例の一つとして残るからね。
ただ、その先例を後世再び採用するかどうかは、公家社会のコンセンサスだ。 >>102
江戸時代の徳川将軍が内大臣や太政大臣を帯びていたので、清華家に該当するって?
するわけがない。
江戸時代の徳川家は武家官位であって、徳川家と徳川家に従う武家大名たちの
上下関係を表すためだけのもの。
公家たちとは完全に別なのだから。 >>104
がから武家官位は公家官位の外というのは皆分かっているし、君はどこを見てるの。
そんな事は承知のうえで、公家家格に相当するとしたら清華かなぁ、と遊んでいるだけ。 >>105
公家の家格に当てはめる必要がない。
じゃあ、お前は、公家の清華家って徳川将軍家だよなあ、
と言うのか。 >>107
徳川将軍家を公家に当てはめるからだろ
公家を武家に当てはめればそうなる >>104
たしかに武家官位は「禁中並家諸法度」第七条に「公家当官の外たるべき事」とあり、
独自の体系であったのは間違いない。これは、天皇(朝廷)の持つ官位叙任権に規制を加えたものだが、
形式的であるにせよ、武家官位の場合も朝廷の発給する「位記・口宣」を受けて初めて成立する。
これによって律令制的官位の正当性を担保され、支配の正統性をも得ていた。
従って、武家の官位は徳川家と大名の支配関係のみに用いられたのではなく、
封建統治の重要な要素としての機能も果たしていた。
勿論朝廷との人的関係にも員外の虚官である武家官位は通用し、官位通り遇せられる。 >>109
徳川将軍家も摂関にはなれない
そもそも将軍なんて臨時職で太政官に常に置かれるべきものじゃないしな >>110
事実上、武家の官位を決めるのは江戸幕府で、
朝廷がそれを覆すことなど100%なかったわけだが。
それを清華だの言ってる馬鹿がおかしい。 >>113
今は様々な奨学金を利用できるからな
貧しいから高等教育を受けられなかったというのは言い訳にならないよ
それとも別の理由で大学に入れなかったのかな?
だったらこの板で発言しない方がいいよ
馬鹿にされるだけだからね >>112>>114
あらら。家が貧しい高卒君が、他人に説教してるよ。 >>105
将軍家以外の武家に全く関心が無いのは遊び心が足りないんでないの
>>5でいいのかね >>113
コミュ障だなこいつ
日頃から周囲に空気読めない奴と煙たがられてそう >>117
障害だの学歴だの病気だの
言い出しっぺの方が怪しいと思うけどな >>103
摂関に就くための超越であれば、兼通の例等々前例はいろいろあるね。 >>110
> 形式的であるにせよ、武家官位の場合も朝廷の発給する「位記・口宣」を受けて初めて成立する。
一応まとめて受けてはいたが、受ける前から正式な官位として
通用していた。公家の場合にはわざわざ位記・口宣をもらった
りはしないのが通例だったというくらいだし。 言われて悔しかったことを鸚鵡返しすることしかできないんだね >>120
下級公家など礼金の関係などで口宣を受けない場合がある事も承知しているし、
武家も従五位下の諸太夫の場合は、高家がまとめて奏請・受領をする事も承知している。
しかし、その受領過程がどうであり、正式な位記・口宣が権威を担保してくれる事には間違いない。 九条家だけは寄合に列する資格があるけど、あとの摂家は平旗本だな。 日本一の実力者が就く将軍職そのものは大したことがない卑官なので他の上級公家との官位の釣り合いを取るため清華相当官位昇進ルートを将軍家が辿ったという事すら無視して恥ずかしい事を粘着している奴がいるねw >>104
ならばどうして将軍家は将軍以外に大臣や源氏長者等の清華が今まで就いていた称号を熱望したの?
将軍という職位がが他を超越している摂関並みに偉いのなら征夷大将軍だけでいいでしょう?w
本当に何を言いたいのかわからんww >>125
釣り合いを取るならなんで摂関を凌駕しなかったん?
>>126
大臣にしろ源氏長者にしろ清華固有のものじゃなくね? >>126
馬鹿だな。
江戸幕府内部の序列を決めるために決まってるだろう?
征夷大将軍だけでは、将軍以外の大名の家格が決まらない。
御三家はこの程度、○○家はこの程度、と大名間での上下関係を決めたんだよ。
武家官位がなんのために作られたかも知らない重度の馬鹿だな。 > 清華相当官位昇進ルートを将軍家が辿った
徳川将軍家の世子は、元服後ただちに権大納言に任官するのが例。
例えば徳川家綱(1641-1680):1645年に元服、同日権大納言
家重:1725年に元服、同日権大納言
等々、家光の前例を踏襲している。
清華は言うに及ばず、摂家でも元服・叙爵後は少将から中将、権中納言
等を経るのが通例。 将軍家は、ルートも清華家以上なのに、なんで清華家なの? 堂上家なら全員特に許可も要らずに将軍と見えることはできたん?
だとすると禄高によらず堂上は全て御目見え以上で旗本としていいな
でも地下家でも五位以上とか公卿とかになれば将軍にお目見えできそうな気もする >>130
摂家か清華のどちらかを無理やり当てはめるなら、
したら、「摂関にはつかない」から清華だ、という
理屈だろうね。
そもそもの二択自体が無意味だけど。 >>132
堂上も地下も徳川の直臣じゃないから旗本とか御家人とかじゃない
陪臣 将軍家は清華家か摂関家かなんて、ミカンはリンゴかモモかという問題と一緒。
ミカンなミカン。将軍家さは将軍家。清華家でも摂関家でもない。 明治期に摂関家と将軍家が公爵になったから、同格だとおもっていた。
将軍の正室もほとんどが摂関家か宮家からだしな。 >>137
ちょっと話がずれるけど、奥様をずらずら並べてみると、家格というものが見えてくるかもね。
頼朝の兄弟スレでもそんな話題が出てたので。 御三家は明治時代には侯爵で、清華家と同格になったんだな。 >>139
公家は摂家のみが内親王を娶ることができた。
将軍も紆余曲折はあったが、婚約一人(輿入れ前に将軍家継が夭折)
婚姻一人、内親王を娶った例がある。
御三家は内親王と婚約・婚姻した例はないよね。 >>141
宮家と言っただけで、誰も内親王なんて言っていないぞ。
実際四親王家の娘(女王)を正室にしているだろう。
慶喜の母も有栖川宮織仁親王の娘吉子女王だ。違うか? >>142
だから、御三家の正室と将軍の正室の格の違いをいっただけだが?
どこに御三家は宮家の娘を妻にできなかったと書いてある?
御三家は内親王を妻にできなかったと書いただけ。 江戸時代には宮家は摂家の下だから
摂家の娘より格は低かったんだよね。 >>141
親王家の男子は天皇猶子の手続きを経て親王宣下を受けれたが、女子は女王のままで、
それは将軍に降嫁しても変わらなかった。
家継の許婚であった八十宮吉子は、婚約後一年程で家継が亡くなったため、
婚約は自然解消となり、彼女の内親王宣下も後になってからだ。
おそらく順調に婚約期間が過ぎ結婚となった時には、その前に内親王宣下があったと思うが、
しかし絶対とは言えない。
そう考えるとニュアンス的には同じだが、内親王を娶る事が出来たと言うより、
むしろ天皇の娘を娶る事が出来たと言うのが正しいように思う。 >>145
>女子は女王のままで、 それは将軍に降嫁しても変わらなかった。
女王のまま将軍に降嫁した天皇の娘がいたっけ?
和宮親子内親王は江戸へ下る半年前に内親王宣下を受けており、
八十宮が内親王宣下を受けないまま江戸へ下ったとは考え難い。
どちらにせよ、将軍は和宮親子内親王を娶った事実がある。
御三家には女王(宮家の娘)を娶ったことはあっても
内親王を娶ってないのだから、どちらでもいいと思うが。 >>146
女王のまま将軍に降嫁した天皇の娘がいたっけ?
親王家の娘の事なんだけど。 >>147
摂家に嫁いだ天皇の娘は全員内親王宣下されている。
同様に、将軍家茂は内親王を正室にしている。
将軍は摂家同様、内親王を妻にできたで問題ない。 >>148
摂家に嫁いだ天皇の娘は全員内親王宣下されている。
全員を調べた訳ではないが、近衛基護に降嫁した品宮常子は、正式には内親王宣下は受けていない。
瀬川淑子著「皇女品宮の日常生活」から引いてみる(短くするために一部文章を略する。
常子本人の奥書はそのまま記す)
品宮常子内親王は、寛永19年に、後水尾天皇の第16皇女として生まれた。内親王と呼ばれてはいるが、
実は正規の宣下があった様子はなく、品宮自身、延宝5年(すでに基煕と結婚していた)、
兄弟達と亡母の供養の写経をし、その時の奥書の書名にこう書いている。
奥書などもささせられ候はん由なり。それにつき我身忌み名ならびに親王宣下の事今までついでもなく延引なり。
一日参内のおりふし此の事申し上げる。忌み名は常子に定めらる。親王宣下の事は先年の分なり。
本人が宣下の事は今までなく、とはっきり書いている。しかし著書は後水尾院の品宮とその母広義門院への
寵愛の深さから見て、本来なら内親王宣下があって当然だが、この時忌み名が定まり、
それをもって内親王宣下に準じて公認となったのか、写経の奥書に常子内親王と書名し、
その後は常子内親王として知られている、と書いている。
念のため、公卿補任で常子誕生年の寛永19年から奥書の延宝5年を経て、天和3年(常子41歳)まで、
年間の行事を詳しく調べたが、他の内親王宣下はあったが、やはり常子の内親王宣下はなかった。 鷹司教平室(離縁)・文智女王、近衛尚嗣室・女二宮もそうじゃね 常子内親王の異母姉の文智女王もそうだったね。
たしか、朝幕間の大事件になったおよつ御寮人事件のおよつの娘だったかな。
鷹司教平と離婚後奈良の寺に入った薄幸の女王で、晩年後水尾帝は、
文智女王に対する仕打ちを後悔し、ほのぼのとした親子の愛情が戻った。 >>129
初官が大納言だから他を隔絶しているとでも言いたいの?
だったら初叙が4位の国持大名も皆摂家以上という事になるねw
将軍の官途は内大臣以降は清華の速い方って感じじゃね?
>>126
将軍家が家格の上から摂家をも超越しているのなら大臣職なんていらんだろ?
幕府内の序列を付ける為に大臣とか源氏長者になった?
意味不明過ぎて訳わからんわw 室町から江戸まで、将軍家は天皇家を上回る家格だったのは、まぎれもない事実。
清華家相当なんて、公家のやっかみ。 >>156
将軍は事実上の日本国王。
将軍職自体は卑官だから対朝廷向けに公卿の官位を得ていただけだろ。
ただ、朝廷内の格の上では皇室はおろか摂家よりも下。 >>156
室町将軍はモロ清華じゃね?
事実上の国王だから摂家にすら偏諱を与えていたが。
徳川は内大臣(5歳でも40歳でも内大臣)までは速いけどその後の昇進ルートは清華。 >>159
>将軍は事実上の日本国王
王は帝より下だが? 王には皇帝から冊封された辺境の統治権者という意味がある >>153
将軍の官途は内大臣以降は清華の速い方って感じじゃね?
>>160
徳川は内大臣(5歳でも40歳でも内大臣)までは速いけどその後の昇進ルートは清華。
近世将軍(徳川家)の官途が清華家並みなどとはとんでもない。
幕府の方針により、摂家の権力は清華家以下の公家達とは隔絶したものになってしまった。
太政大臣だから清華家だと言っているようだが、近世太政大臣は摂関経験者の中でも特別な者に限られ、
近衛基煕が近世初めて公家の太政大臣になったのが、やっと宝永6年の事だ。
その後たった7人しか任じられておらず(近衛家4人、九条家・一条家・鷹司家各1人、二条家0)、
摂家の任左大臣の平均年齢が34・7歳であるのに対して任太政大臣のそれは52・4歳。
いかに太政大臣のステイタスが上がっているかが分かる。家光が左大臣に留まったのは、
父と祖父を憚ったためだし、その後家斉までの将軍が左大臣を遠慮したのは家光を憚ったためだ。
しかし家斉はそのような先例に囚われる事なく将軍家の権利を行使し太政大臣となった。
一方清華家は、太政大臣はおろか左大臣すら寛延2年に辞任した醍醐冬煕を最後として任じられていないし、
久我、今出川両家は右大臣のみ、広幡家は内大臣に留まり、太政大臣など遠く及ばなかった。
この様に近世の太政大臣は摂家の中でも特別な存在であり、この官職においては徳川家は、
摂家と同待遇を得ていたのではないだろうか。 武家のトップが摂関待遇、その次が清華、諸侯の上位が羽林っていうのは、豊臣体制の名残かもね
摂関 羽柴秀吉
清華 徳川家康
羽林 上杉景勝、徳川秀忠、前田利家、北畠信雄、羽柴秀長、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景 関白 秀吉
権大納言 義昭
中納言 信雄
権中納言 家康・秀勝・秀長
参議 秀次
左近衛権少将 利家・秀信・景勝
だった
スレ汚し、すんません。 家康以外の武家清華って豊臣政権が永続してたら清華に準じて大臣になれたのかな?
家康は清華の中でも別格扱いで他は大納言止まりのまま? >>170
どの時点での官位?秀吉が関白になった天正13年なら義昭は権大納言だが、
信雄も権大納言だし、他に武家公卿はいない。意味が分からん? 1586年、天正14年だよ。
秀勝が死んだ年。
秀勝が死んだ時、他の人はどんな感じだったんだろって思って。
wiki見ただけなんで他に間違ってたら
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