【最後の】北条守時【執権】
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・最後の政権指導者
・次政権の指導者と義兄弟
・最後は奮戦して死亡
これだけドラマになる要素が揃っているのになぜかマイナーな赤橋守時さんのスレ。 出目の怪しい御内人の息子ごときが将軍なんて誰も認めるはずがないし
なれるならとっくに得宗家が将軍になってるはずだからありえない じゃあ実際は貞時が濡れ衣を着せて殺したということですか?
何故ですかね。傲慢で命令に従わなかったからかな? 徳川家だって所詮三河の土豪なのに、偽系図で源氏を名乗り
江戸城にはいってふんぞり返ると将軍様らしく見えるからあら不思議 江戸時代と鎌倉時代では家格の認識が違うんじゃねーの? 家康は関ヶ原後に武家政権の名実ともにトップになったけど
北条氏は比企、三浦、安達といった対等な御家人が大勢いて
幕府滅亡まで建前上将軍の部下にすぎなかった 高校日本史ではいかにも執権・得宗として北条氏が独裁やったように書いてるけど、
実際には宇野宗佑よりしょぼいからな。 >>148
ただ飯沼助宗を若年で検非違使に任官させた頼綱への反感
は相当あっただろうな。 足利尊氏が反乱起こさずに後醍醐天皇側の軍勢を殲滅していれば守時も天寿を全うすることができたんだろうな。 正中の変、元弘の乱と二度も鎮圧して隠岐に流したのに三度目があるなんて思わなかったろうよ。 >>156
ナポレオンのようにあとぐされなく暗殺するか、蝦夷地のような再起不能そうな場所に流刑すればよかった。
守時も他の幕府首脳もそこら辺が詰め甘いんだよね。 >>157
後鳥羽上皇も隠岐だったよね。そのまま京に帰ることはなかった。
暗殺ってのはなんか化けて出そうだし。蝦夷は内乱で何されるか分からないし。 >>157
後醍醐は特殊すぎる
島流し先から脱出した天皇なんてこの人が最初で最後
なるべく穏便に処理したかった幕府に殺害は無理じゃないか >>159
光厳天皇支持した時点で穏便な決着は無理だろ。 >>138
でも高時より守時のほうが官位が上だから複雑なんだよな 当時はそこまで官位の上下は関係なかったんじゃ?特に坂東武者の間では 北条高時は24歳の若さで守時に執権を譲って出家
事実上24歳で俗世を離れたことで官位を返上してしまったからな
守時が高時の官位を越えたのは高時出家後、執権になってからだし 「肩書なんて意味がないし、くそくらえ」と言いながら、それに依存していたのが鎌倉幕府じゃないの。 >>164
当時の殺伐とした時代だと、肩書きがあったほうがマシだろ。
まあ肩書きがあっても襲われるんだけどね。 公家、院、朝廷をも凌駕する政治力と経済力、軍事力を持ちながらも、願いは自分の農地を保全することだけというのが御家人だもの。
普通なら承久の乱の後に、朝廷なんて跡形もなく消えてもおかしくないのに、あれで朝廷の監視で満足。
百姓一揆の規模のでかい奴みたいなもんだよ。 >>167
ここは日蓮大聖人の力で朝廷を打破するべきだった >>169
北条の自称後継者のそのまた末裔は説き伏せただろw 旧暦5月22日と言うと今の七月初めかな。
梅雨の季節だな。雨の中で戦ったのかな? >>171
6月30日だな。
最後は自害だが、新田軍も死ぬまで待ってやったのかね? 北条氏って武家政権のトップにしてはカリスマ性がないな とととんでもない、カリスマ性ありすぎ。
名執権泰時とか 回国伝説の時頼とか >>110
信憑性は微妙だが北条氏子孫を名乗る家は結構ある
ただ極楽寺流は聞いたことないな
得宗家(時行流)子孫→
尾張赤目横井氏(横井小楠)
田原本藩平野氏(平野長泰)
伊豆岡野氏(板部岡融成)
佐介流子孫→
飛騨江馬氏
播磨淡河氏(赤松から養子有)
名越流子孫→
名児耶今川氏(名古屋山三郎)
高倉健 >>176
北条の断絶は自業自得な部分もあるんだけどな
南北朝の内乱で記録に残るの南朝側ばっかだし
尊氏憎いのかもしれないが白河や楠さえも北朝側に走ったのいたのに 戦国時代の後北条氏が「北条」を名乗ったのも関東でのカリスマ性故だろ >>180
藤原は渡来人説が多いが・・・・今で言うヤクザ?北条は成り上がり者????? >>181
もう、目の前がくらくらする。
トンデモは、うんざり。 大河ドラマで守時(勝野洋)が高時(鶴太郎)に長年の恩義に感謝して
死ぬつもりで出陣するシーンがあったが
執権より得宗のほうが偉いのがよくわかった >>185
守時は妹婿である足利尊氏に内通しているのではと疑われて
北条一門から浮いた存在になっていた
得宗への忠義はそれを打ち消す目的もあったからね >>187
あのさ
桓武天皇に何人の后と子女がいたか知ってるか? >>187
桓武天皇の母親は日本の下級貴族の出身で
その9代前の先祖が百済王族だったというだけに話。 出自の基準は父系なんだよ。
両親の系統見ていたら、先祖が無限に広がって意味がない。
28代遡ったら、1億人超えるんだから。 守時の洲崎での壮絶な討死と姪浜での英時の粘りこそが妹婿である尊氏が関東と九州を比較的容易に従えることができた要因。あまりに立派な最期だったので同情票が結果的に親族の尊氏に流れたんだと思う。 >>192
そんなに簡単に尊氏が関東と九州を抑えられたなら
尊氏が鎌倉府をおいて実の息子を鎌倉公方として関東に常駐させたり
九州に鎮西探題を置いて一門の今川氏を九州に常駐させたりせんだろ
尊氏・義詮親子は守時や英時を殺した側の人間だということを忘れている
守時や英時を想うなら関東武士は中先代の乱で北条に味方するだろ 北条に味方した大物御家人って外戚安達や二階堂などの文官系除けば武田と大内くらいか 妹が足利尊氏に嫁いだ為
一門から睨まれ
果敢に戦ったのは行動で忠誠を示そうとしたんだよな 守時がよくもまあ、従四位上の位階まで昇叙できたことか?
そして得宗高時がよくもまあ、それを許したことか?
従四位上ということは高時の父貞時と同じ位階でもある。 妹が脱出を試みるときは高氏が謀反する時だから深追いしない
それにしても犬畜生にも劣る奴とばかり高氏を憎みぬいて戦死したんだろうなあ
決して関係の悪くない守時を謹慎させたのは、風当りから守る意味があったかも知れない
可哀想に 兄貴を見捨てて逃げるどっかのビッチ
そう思うことが最後の執権への供養 妻の実家を滅ぼした足利高氏の心境も
複雑だったのかな 後醍醐天皇には寺を作っているけど、どうなんだろう… 高氏は何の迷いもなく裏切ってるだろ
妻子だって殺されても良かったのかも知らん
生き残っててもどうせ逆賊の一味だから そのわりには幕府滅亡後も大切にされてるよね>登子
義詮も基氏も彼女の産んだ子だし 裏切ったほうは北条氏が憎くて裏切ったわけじゃないし
妻子まで追及したら御内人の娘を貰ってる新田さんや御家人たちも総スカンだから >>204
女子供に影響はないからだろ
武田勝頼の母は父信玄が滅ぼした諏訪氏の娘
徳川家光の母は父秀忠が滅ぼした豊臣家の養女
ってよくある話だし
>>205
「太平記」なんかだと北条高時は犬追物ばっかりやってる馬鹿殿で
尊氏は私怨もあって裏切ってるよね
尊氏の祖父は北条から無実の罪を着せられて切腹になったとかさ 北条高時が暗君だったって
脚色やでっち上げだからな 田楽に狂ってたのは尊氏のほうで、高時は体が弱いせいもあって禅談を好んだ
おとなしい性格だからそれほど角は立ってないよ かつて蘇我馬子の妻の物部守屋の妹が夫に兄を殺させて物部家の財産を蘇我家が奪ったという話があるらしいけど登子も守屋妹と同類? >>206
織田信長、豊臣秀吉は女子供にも容赦はないがね。
信長は荒木村重の妻子を生きたまま車裂きにしたし、その他も容赦はなかった。秀吉も秀次の
三族(菊亭晴季、六角義賢、蒲生氏郷、藤堂高虎、若江八人衆、池田知正など)を妻子ごと根絶やしにした。
その他、後白河天皇は、保元の乱の時、上皇方に付いた崇徳上皇(本人は配流だが)の妻子、
藤原忠実(鋸引き)、頼長(車裂き)父子及び忠通の系譜を除く3族、平頼盛、忠正、家弘及び
その妻子、源為義及びその息子(義広、頼賢など)の妻子、孫などを、容赦なく皆殺しにしている。 足利尊氏が白拍子に生ませた直冬を最後まで認知しなかったのは
尊氏なりの清算やけじめの付け方だったのか >>210
で、何?
後生大事に抱え込んだコピペを貼りたいだけなの? >>211
直冬の母が白拍子だというのは吉川栄治原作「私本太平記」の中での創作
(大河ドラマ「太平記」の原作なので大河でもこの通りやっている)
直冬の母は家系図に越前局とある女性でこの女性の系図や経歴は不明
不明であることから言って身分の高い女性ではなかったのだろうが白拍子だとも書いてない >>66みたいに足利氏は北条氏と何重にも婚姻関係結んでて
血縁的には一門みたいなもんなのによく裏切ったな 北条氏自身、いざ政争になったら血縁を屁とも思わない節があるし
お互い様だとおもうわ >>215
蘇我氏滅亡の時に宗家を裏切って生き残った奴が居たり
平家滅亡の時に宗家を裏切って生き残った奴が居たりしたようなもんじゃね?
足利尊氏も父方の祖母は北条氏だし、かなり北条の血は入ってるぞ。 高氏マンセー吉川太平記と史実を混同するのはどうにかしてほしい
>>216
足利と北条は当時「政争」になどなってないわけで、それは無理がありすぎる >>217
でも中先代以降の時行御一行は高時の滅亡は仕方ないと言いつつ尊氏だけは許せんと言ってるのでなあ
いくら南朝に帰順するための方便とはいえ北条一門から見たら相当許しがたい行為なんじゃなかろうか
直接鎌倉を滅ぼした新田のとこにはそんな文句つけてないからな 平家や蘇我氏の場合はその前から内部分裂があり内乱で露呈したが
北条氏は政変はあっても恩讐の持ち越しがあまりないからな
最も反抗的だった名越や、被害者の安達も得宗に従ってるし、逆に金沢貞顕も執権に就いてる
後醍醐側に寝返った人間なんていないから、尚更高氏が目立つんだろう
その後の尊氏も北条残党には容赦ないし(投降を受け入れた大仏高直ですら結局斬ってしまった) 意外なのが尊氏の離反後、北条時行は宮方に加わってるんだよね
後醍醐こそすべての元凶なんだがいいのかよ、時行… 元弘の乱で没収された北条氏の所領の多くが足利に流れたのだから
足利を敵視するのだろう。後醍醐がそれを決めたとは言えそれを現実に
覆すには足利を倒すしかないからな。(絶対無理だろうけど) 残された時行の役目は、北条家再興だ。後醍醐についておけば活躍しだいで
北条家の汚名がそがれる。
逆に足利につくことは足利の家臣扱いになるので絶対嫌であったろう。 観応の擾乱でも直義が南朝に走ったりしてるし敵の敵は味方みたいな考え方だろ あまり取り上げられないが嘉元の乱は鎌倉幕府滅亡の遠因としてかなり重要な政変。
同格の御家人、得宗以外の北条一族を排除してきた北条得宗家が
一門の宗方を切り捨てざるをえなかった。 北条氏一族で生き残ったのは
今川家と婚姻関係があった名越北条氏だけ。
名越氏の場合、足利宗家と対立関係にあった斯波家のプライドの拠り所に
初代の斯波家氏の生母が名越北条家の出身だったのが関係していたので
足利宗家としては、名越北条家を召し抱えることが、
斯波家へのけん制にもなったのが大きな要因だと思われる。 >>227
斯波氏への牽制策か…なるほどなぁ
了俊の難太平記確認してきたけど名越の系譜は足利時代ちゃっかり重要職ついてるのね…
我等が先祖事は義氏の御子に長氏上総介より吉良とは申すなり((関口、入野、木田中、一色の部分略
今川基氏には御妹がたくさんおわして、皆公家の重縁(縁者)になり
今川の石川が居り、名児耶(那古野)という。
此れ(名児耶)は基氏の御養子だったので、故殿(頼国、範国)御為には連枝(兄弟)である。
仍建武の頃(範国の頃)御所(足利尊氏)に申し入れられて御一流(一族扱い)となりき。
建武二年に駿河国手越河原の戦 味方が駆けつけなかったので今川名児耶三郎(名児耶高範息)はこの時に討死した。
故殿の御為には従兄弟の子共也とか故殿は従兄弟にておはしましきとか
初期今川って相当いとこ縁族大事に扱ってるなw >>227
鎌倉北条氏が悉く滅んだせいで後に伊勢氏が北条を名乗るのに抵抗感がなかった 金沢貞将が鎌倉幕府滅亡直前に最後の執権になったんだっけ? >>230
最後の執権はスレの通り赤橋守時
金沢貞将は一つ前の執権 最後の執権ってわりに足利義昭や徳川慶喜に比べて知名度が低い >>233
それをいうなら、鎌倉幕府最後の将軍は... >>235
守邦親王、結構存在感はあったようだよ。
ずっと鎌倉にいて、いろいろな政策をしたようだよ。
最後は東勝寺で長崎高重、摂津親鑑に自害の手本を見せてもらって自害した。
守邦親王の死を見守ってから、北条家、御家人、御内人らが一斉に自害した。
守邦親王の妻子も東勝寺で殉じたため、守邦親王の血統は残らなかった。 ちなみに、鎌倉、室町、江戸で、幕府に殉じたのは鎌倉の守邦親王のみ。 >>236
守邦親王って自害してないんじゃ?
得宗の北条高時をはじめ北条一門200余名が鎌倉東勝寺で自害したのは元弘3年5月25日
一方、守邦親王はこのときは出家したのみで死んだのは3か月後でしょ
場所も東勝寺ではない
あと守邦親王と一緒に自害した妻子って誰?
北条高時すら母や妻は女であることで免じられて足利の世まで生き残ったし
息子も脱出させてるよね >>239
尊良親王は鎌倉に住んだこともなければ
鎌倉幕府の将軍だったこともない
越前で新田義顕と共に死んでいるが妻子は連れていない
やっぱり>>236は鎌倉幕府最後の将軍守邦親王のことを言っていて
最後を間違えている >>240
南朝はかなりの長期戦で相当消耗してから滅んだが
北条は力を温存したまま突然滅んだに近いからな
足利尊氏(高氏)だって得宗北条高時から偏諱を貰い
北条の正室をありがたがる北条一門のような顔しながら
突然北条を裏切ってるから >>242
足利と言い北条と言い嫁ぎ先も滅ぼせんと天下人とは言えないわな 守邦の亡くなった時期を考えると、通常の自然死とは思えんな。
最後の将軍が幕府滅亡から三ヶ月後に急逝って、タイミング的に不自然きわまる。 守邦親王って都に帰らなかったんだな
歴代の親王将軍は将軍辞めさせられたら都に帰ってたのに
お飾りとはいえ鎌倉幕府滅亡の責任があったから? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています