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晴久の時、播磨侵攻した模様。

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 天文六年(1537)尼子経久は第一線を退き、嫡孫の詮久(のち晴久)に家督を譲った。このとき経久八十歳、詮久は二十三歳の若さであった。
 尼子の若大将詮久の動きは活発で、同年八月、戦国の軍資金として名高い石見大森銀山を奪取した。勢いにのった詮久は、足利将軍義晴の
命を受けて上洛して覇を天下にとなえようと決意し、東をにらみ、天文六年の暮、長駆播磨に遠征して赤松軍を破り、翌天文七年美作・備中・但馬・播磨と
上洛の道を画策し、天文八年十月、播磨の英賀を攻略し、東部中国へ勢力を拡大した。
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http://www2.harimaya.com/amago/am_kobou.html

毛利元就の姦計に引っ掛かり、新宮党事件を起こしてしまい一気に自滅したが、経久の後の晴久も
自滅前はかなり強かった。