【在位】徳川家斉【50年】
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>>16
定信はそんなことしてないだろw
家斉の10代の時の子が少ないのは正室問題で正室が決まらず
(家斉は一橋時代に島津の娘と婚約していたが、将軍になるにあたり
将軍御台所は摂家か宮家から迎えなければならないとして揉めた。
結局、島津の娘を近衛家の養女にして御台所に迎えた)
大奥を束ねる正室がいないのに側室を持つわけにいかなかったからだよね。
17歳で正室を迎えてからはコンスタントに子作りしている。 いやいや、家斉は数え齢13歳で大奥入りしてた筈だぞ
正室(広大院)迎える前にお万を孕ませて、市中に落首されて笑い者になってるぞ >>18
家斉が将軍になって江戸城入りしたのが15歳の時なので13歳から大奥はないw
家斉が正室と結婚したのは寛政元年(1789年)2月4日で、家斉17歳の時。
家斉の第一子淑姫は寛政元年生まれだが誕生日が明らかでない
いずれにせよ家斉が第一子を儲けたのは17歳の時
誕生は正室との結婚後だろう >>14
おもしろかった。相手が変われば案外、男なら
みんな家斉かもね。
ところで、どこで調べてるんだ? 家斉がペリー来航以降の幕末期に存命だったら、
幕府が滅亡することもなかっただろうな。 皆が皆、あの家斉みたいにヤリ放題にはならない
綱吉の動物好きみたいに性以外の何かに極度に依存するのもいれば
家治や家茂みたいに奥さん一筋(みたいな感じ)なのも居るし あれ? 綱吉は女好きだったろう。
使用済みを柳沢吉保に下げ渡ししてるし・・・
柳沢の前の側用人の妻と娘もやっちゃったって話もあったよな。 >>23
家治も家定も側室いるじゃん
正室一筋じゃなかった
綱吉も正室も側室も大勢いて世継ぎを作るために励んでたよな
綱吉が生類憐みの令を出したのは母桂昌院が綱吉に世継ぎができないのは
生き物の殺生の祟りだと信じていらからだとか 5代将軍徳川綱吉のもと、綱吉自身が多数の美童を小姓として持ち、12歳で寵愛した柳沢吉保を後に側用人・老中甲府太守として栄達させたことに見ならい、
諸大名こぞって寵童を持ち、その美しさ華やかさを競い合った。
寵童を取り立てる慣習は6代将軍徳川家宣の側用人で、猿楽師出身の間部詮房の例がなお続いた >>14に続いて考察
男腹、女腹という区分なら
男腹:速成院(男5、女2)、皆春院(男6、女2)
女腹:契真院(男1、女3)、妙操院(男1、女3)、清昇院(女2)、専行院(女3)
どちらとも言えない:広大院(男1)、香琳院(男1)、真性院(男1)、宝池院(男2、女2)、慧明院(女1)、超操院(女1)、芳心院(女1)、本性院(男3、女4)、智照院(女1)、本輪院(男3、女2)、青蓮院(男1、女1)
どちらとも言えないが一番多く、男腹・女腹も大体は誤差の範囲という事か 綱吉は男女ともに愛する両刀使いだっただけ
家光は男しか愛さないホモ 信長はあんなに戦場駈けずり回ってたのに
21人も子供産ませてんだな それは何もしないでひたすら子作りに励んでいた我ら兄弟への面当てでござるか 信長って秀吉や家康ほど漁色家のイメージがなくて、
どちらかというと若衆好きの男色家のイメージが強いのに、
子沢山だったのは正直意外だった。 >>33
信長は49歳で亡くなったのもあるが、
秀吉や家康みたいに年取ってから娘や孫ほどに年の離れた
若い女に手を出して老醜晒してないからだと思う
どちらかといえば家康より秀吉のほうが漁色家のイメージ強いが
(秀吉より32歳年下だった淀殿があまりにも有名だからね)
孫より若い女に手を出した家康のほうが年の差は激しくやってることはエグイ 子を作るのも仕事だからな。
家が傾くのは大抵は後継問題。
家康の死後100年で秀忠の男系は絶えたし、その後継は家康が50歳過ぎてから作った子供の系統だし。 >>35
徳川慶喜は子だくさんだったが幕府は終了したがな 早世も多いからね
家康の息子11人の内
現代まで男系で血筋残してるのが4人だけ >>36
慶喜は将軍をやめたから子だくさんになれた。
京都の政界で活動してた頃は、二十代から三十前後の若い時期だったのに、
子どもができなかった。
子どもがボコボコできるのは、静岡に隠棲した中年以降。 >>38
慶喜の現役時代、慶喜の妻は正室の一条美賀子一人だけ。
慶喜は将軍になる前に美賀子に子を一度産ませている(ただし子は夭折)。
慶喜は将軍後見職〜二条城で将軍就任〜二条城で大政奉還までほぼ京都か大阪におり、
美賀子は江戸に置かれていたために、慶喜が将軍だった時期には完全別居だった。
大政奉還後、明治になって以降、慶喜は美賀子の許可のもと、
新村信、中根幸の2人の側室を迎えた。
側室が産んだ子供は、美賀子を嫡母としている。 京都時代の慶喜にお手つきの女性が全くいなかったとは考えにくいな。
新門辰五郎の娘を愛妾としていたという話もあるし。 慶喜は一橋時代にお志賀という女中に手を出していたとか
将軍後見職について京都に行く際に新門辰五郎の娘芳を連れて行ったとか色々言われてるけれども
結局慶喜は一度も江戸城に入らず、美賀子含め江戸城大奥に連れて入った者もおらず、
志賀も芳も御中臈などになっていないのでよくわからんのだよな 自転車とカメラと飯盒炊爨を楽しみつつ、子供を大量に作成した一橋であった 既に明治の代になってから子をなした慶喜の場合とは時代や環境がちがうとはいえ、
家斉も側室の中で、特定の女性に集中的に子どもを生ませてる印象がある。 松平容保も隠居後にたくさん生まれてるね
男盛りの20代は何をしていた? >>44
松平容保は会津藩先代藩主松平容敬の一人娘・敏姫の
婿養子として会津藩を継いでいる
敏姫が亡くなるまでは一夫一妻だったせいじゃないかな >>45 1861年に敏姫は死んでるし、京都時代はモテモテだったろう >>46
敏姫が亡くなったとき容保は26歳
すでに20代が半分以上過ぎてるでしょ
だいたい容保は京都に遊びに行ったわけではなく
大軍率いて寺に滞在していたわけだが寺に側室囲うわけにもいかんだろうが 俺は社命で出張・単身赴任していた時が一番Hしていた。
容保もか・・・ >>48
容保が大金果たいて遊郭に遊びに行けんでしょ。
ただでさえ、容保は素行の悪い新撰組の連中に
誅殺命令出す立場にいたんだから。 でも、斗南藩主になった容大(1869年7月生)を仕込んだ時期って、
籠城戦の真っ最中か、その直後くらいの計算になるんだよな。 >>49
殿様が遊郭に遊びに行くのは外聞が悪い。
しかし、御手付きの側女を置くのは珍しくもない。
新撰組の連中だって京都妻を囲ってたんだから、殿様が愛妾くらい置いていてもおかしくない。 >>50
会津藩が新政府軍に降伏し会津を明け渡したのは、明治元年(1868年)9月22日(旧暦)。
容大が仕込まれたのはその後だよ。
妊娠期間は約280日なので、明治2年(1869年)6月3日生(旧暦)が仕込まれたのは、
確かに明け渡し直後だが。
明治2年(1869年)には容保の別の側室も娘の美祢を産んでいる。
敏姫死後は普通に側室がいたんじゃないか。
ちなみに容保は最初の正室・敏姫の死の翌年、
文久2年(1862年)に加賀藩主前田慶寧の娘・礼姫と婚約した。
しかし、両者は一度も会うことなく、明治に入り、婚約解消している。 >>52
降伏、開城して謹慎の身のはずなのに、側室に子ども仕込むなんて、
不謹慎じゃないのか?
家臣もよく怒らなかったな。 >>53
謹慎中なんて他にやることないだろ。
会津藩崩壊で家臣はバラバラだし。 いや謹慎中は女色や一切の煩悩を断って、ひたすら謹慎するのが当然だろ。 >>55
謹慎って表門を閉門しておくだけで
女色は禁じられてないでしょ >>43
>家斉も側室の中で、特定の女性に集中的に子どもを生ませてる印象がある。
ただ、出産を時系列で見ると色んな女に万遍なく孕ませてるから
基本的には側室を公平に扱ってたとは思う。
産褥や急病で早死にする側室もいたし、結果的に壮健な側室に子が多くなったという感じ。
ただ、お気に入りの側室でも30に近くなってきたら
別の10代前半の女の中で側室候補を物色はしてただろうな。
最初と最後の出産年齢的に、側室は推測13〜15歳で見初められてるはず。
30手前、20代中盤、20代前半、10代後半あたりの女を1〜2人ずつのローテに
数年で新しい側室も入れるという流れか >>14
家斉の側室はほぼ生年不詳だよ。
側室たちが13歳から子供を産み続けたというのも考え難いし
最後の子を産んだのが30歳と決めつける必要もない。
御三家などでは30代半ばの正室が子供を産んだ例もあるし、
甲府時代の家宣正室も30代後半で子を産んでいる。
江戸城大奥は30歳でお褥すべり、と断言する必要はない。 オットセイ将軍と言うが、普通に考えて、健康な成人男子が
避妊なしの中だしセックスを週1回以上20〜50歳代
の間、やるとすると、これぐらいの子供が出来るのは当然だろ。
特別に家斉が猿みたいにセックスばかりやっていたわけでは
ないと思う。他の将軍の精子が弱すぎただけだろ。
家康を除く、他の将軍が成長した子供が少ないから、そう見える
だけで、天皇(特に平安時代の)には10人20人以上の子供が
いたのが珍しくなかったからな。 関係ないが、スレタイの「在位」はおかしいだろ。
征夷大将軍が「職」なんだから「在職」ではないか? >>62
さぁ
隠居もしないで長生きしたのって伊達政宗か真田信之か藤堂高虎あたりかな? >>60
ここは、2ちゃんやがな。みなさん気にしてまへん。 >>59
普通じゃないから当時も「オットセイ将軍」と呼ばれたんだよ。
女性が1ヶ月に妊娠できる日は1日だけ(排卵日)。
若く健康な女性でも、排卵日の性交で妊娠できる確率は20%程度と言われる。
(排卵日以外に成交しても妊娠できる確率は0%)
排卵日の知識もない時代に、手当たり次第にやりまくって子供を作るには
週1なんてペースじゃなかったはず。 >>59
>普通に考えて、健康な成人男子が
>避妊なしの中だしセックスを週1回以上20〜50歳代
>の間、やるとすると
健康な成人男子でもそこまでの回数は出来ないものなんだよ。
セックスで使う体力は、仕事で使う体力とも他の運動で使う体力とも違うしね。
気分が乗らない日もあれば、さっさと寝たい日もある。
オナニーが日課で、せいぜい商売女を月1で買う程度の猿には分からないかもしれんがな。 おぉ、ほぼ同じ時間に同じ相手にツッコミしてた人が居るとはw 家斉に比べたら、家康も漁色家と言えないくらい霞んで見えるな。
しかし、信長が漁色家で子だくさんだったのはイメージに反するな。
どちらかというとモーホーというかゲイのイメージが増幅されてるから。 >>58
>側室たちが13歳から子供を産み続けたというのも考え難いし
13歳から産んだとは言ってない。
大奥に入る(側室になるという意味ではない)のは大体13歳くらいだろうって話。
そっから1年経って振る舞いや器量良しなら候補になるって感じとか聞いたが。
御三家や甲府時代の家宣と、大奥とでは全く違うだろう。 家斉は超高級料亭・八百善を贔屓にしてたびたび訪れ美食を堪能していた
そして英気を養ってまた子供作りに励むと >>68
信長は戦場で女断ちしてて(その時に男色か)
帰還して性欲が爆発してそうなイメージ
団塊の世代が出生率高かったのも同じ理由だしな
あと養子戦略で他大名家や家臣に実子を送り込んで
領地乗っ取りを繰り返してたから、そういう面でも子供作りまくってたんだろう 家斉クラスのオットセイだと一晩に一人ってことはないな。
昼間もやりまくっていたと思う。
俺も会社で事務の女の子と事務所でしてるし
倉庫でも別の娘とやってる。もちろん、夜は家で女房とも。
昼飯食った後もしたいが、適当ないい女が居ない。いればする。
家斉さんは、24時間やってたんだよ。
まわりもそうゆう体制を作っていたからこうゆう状況に
なったんじゃないのかな?24時間ハメ通し。
まわりは、いくらなんでも24時間は無理だろうと・・・思って用意。
しかし、「もっとくれ」と家斉さん。 家斉って、色ボケ将軍みたいなマイナスイメージでとらえてる人が多いけど、
病弱で大奥に入り浸りだった家重などとはちがって、健康的なアウトドア派だった。
江戸時代に亡くなった歴代将軍の中では家康に次いで2番目に長生きだった。
しかも50代に最後の子どもが生まれて以後、亡くなるまで10年くらい生きてるから、
家康とちがって晩年は性欲をセーブして、年齢相応に健康的な生活を送ってた。
そんな家斉さんが、もっと長生きしてペリー来航後の幕末期にも健在だったら、
幕府が滅亡することもなかっただろう。 >>74 性欲をセーブしたと言うより枯れたのではないだろうか?
死ぬ間際まで子作りに励んでいた家慶や保科正之の方が枯れてるイメージあるけど 家斉の顔、割と好きだよ。
家斉の養子についての記述ってないのかな。 家斉って贅沢で女好きだけど、なんか憎めないんだよな。
個人的には好人物だったみたいだし、健康的な生活送ってたし、
けっして暴君とか強権的な独裁者じゃないし。
歴代将軍としては、男のロマンを体現したようなキャラだから、
むしろ好きな部類に属するw 対する敏次郎家慶は顎が異様に長くて変な顔。
信仰する宗派を巡って家斉と家慶の仲は最悪で、家慶が実権を掌握すると、大御所の寵臣・水野忠篤、美濃部茂育、林忠英、田口喜行、中野清茂を追放したのはその証左で有った。 >>78
家斉お気に入りの牡丹の枝をうっかり折ってしまい、真っ青になってる清掃係を
家斉「おお、枝が取れてかえって見栄えがよくなったのw」
とかばって許してやった逸話なら >>83
ほぉー!
将軍にはそういうエピソード多いね。 知恵袋で見たが
オランダから輸入したガラスを女風呂の引き戸の部分に当てて覗いてたとか
階段の下に潜り込んでから女の裾の下を覗いたって本当か? >>82
基本は遺伝。
ただ、固いものを喰わないと顎が細るという面もある 布団周辺を鏡で囲んでラブホ状態にしたのは有名だが
和鏡だと結構ボヤけて映るんだよな
それもオランダから洋鏡を輸入したのか >>86
戦後、増上寺の徳川家霊廟を発掘調査したとき
家慶の頭蓋骨の歯は10代の若者みたいにほとんど摩耗がなかったそうな
柔らかく調理されたものばかり食べてたんだろうな >>89
全権委任のハリスならともかく
シーボルト程度じゃ謁見なんて無理だろうから
貴族を元にした想像図だろう Wikipediaには1826年の江戸参府の際、将軍家斉に謁見したとある
この肖像画が正しいかはわからないが、顔のイヤラシさがイメージする家斉と重ならなくもない 外人と会うからこんなオシャレしたの?
公家の狩衣みたいじゃん。 >>92
>>89の画像、両手を伸ばして「乳揉んだるど!」みたいなポーズとってたら
家斉と特定できるんだけどなあW
マジレスとしては、シーボルト謁見の文政九年だと家斉50代半ばだから
やっぱり違うだろうな、描かれている人物は若すぎる 家斉さんは、頭、バカでもまぐわいは上手だった。
これでいんじゃね。 ビッグダディー見てみろ
あんな貧乏なのに子沢山だぞっ
女は美奈子と・・・よく知らんが2〜3人だろ?
家斉は女がごまんといて金にも不自由せず(幕府の政とは別) >>102
んだな。気付かんかった。ビックダディーと美奈子な・・・
家斉からビックダディーはただもんじゃねえ。あんた東大の教授だろ? これだけたくさん作っても、早死が多いんだよなあ。鉛って説もあるが。
現代まで残ったのは一系統。家茂も子孫を残さず死んだしな。
たくさん残してるのって、水戸の斉昭公かな?
島津久光も多いが。 家斉の子と斉昭の子の生存率を比べると、後者のほうが圧倒的に高いし、
子孫の繁殖力も後者の方が圧倒的に高い。
水戸系の生命力と繁殖力の源泉は何だったんだろう? 大奥は白粉使いまくりで鉛中毒、水銀中毒になりやすい。
水戸はたぶん貧乏なのでそんなに使えなかった。 >>105 五・七・八郎麿は小石川で生まれたが、水戸で一緒に育ったんだよね?
環境の違いも大きいと思う。 不思議なことに、これだけ子供いても双子は居ないんだよな
というか有名人は双子が少ない気がする
まぁ学年に一組とかの確率だった記憶があるが 双子は不吉だから、片方は棄てられたか、始末されたか >>109
排卵誘発剤を使わない自然妊娠で双子になる確率は1%らしいので
もともとそれほど高い確率ではない。
昔は自然分娩しか方法がないので分娩できずに母子とも死ぬ確率も高かったと思われる。
天皇家でも双子と言えば仁明天皇と正子内親王(淳和天皇皇后)の双子ぐらいかな?
近世には男腹・女腹(医学的には性別は精子によって決まるが昔は女の腹で決まるとされた)
同時に複数の子を産めば人ではない畜生腹として差別の対象になり間引いたり養子に出したりしたとも言うが >>109
斉昭のひ孫に双子がいる(敦子女王、知子女王。産んだのは斉昭孫の経子妃) 個人的には24歳あたりから精子が薄くなってきたような気がする
射精の回数が減ったからだと思うが。
家斉の性欲、精力は凄いな
歳とってから分かる凄さ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています