なぜ松殿家は没落したのか?
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初代松殿基房は近衛、九条の祖とは兄弟。その家格にふさわしく
2代連続摂関を輩出したがその後は出世しても権大納言、しかも
断絶したのもおそらく室町後期とそれさえはっきりしない。
何故ここまで零落したのか? 平安末期の立ち回りが全て。
義仲と組んだのが一番の失敗。
他の要素としては近衛、九条が持ってたものを
松殿はもって無かった。
近衛 摂関家領所有と後白河法皇の寵愛&九条の対抗者ポジ
九条 鎌倉幕府に接近(頼朝との提携、摂家将軍、幕府に近い西園寺との婚姻) :::::::: ┌─────────────── ┐
:::::::: | 松殿がやられたようだな │
::::: ┌───└───────────v──┬─┘
::::: | フフ…奴はわれら兄弟の中で最弱 |
┌──└────────v────┬────┘
| 一度や二度失脚したくらいで |
| 没落するとは摂関家の面汚しよ │
└────v───────────┘
|ミ, / `ヽ /! ,.──、
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`,' \、、_,|/-ャ ト `=j r=レ /ミ !彡 ●
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/人 ヽ ミ='/|`:::::::/イ__ ト`ー く__,-, 、 _!_ / ( ゚ω゚ )
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九条兼実 近衛基実 藤原兼房 時代が違うとはいえ、
鷹司家は当主不在すら乗り切ったのにねえ 九条や近衛だって幾度の失脚にも関わらず家格を維持したというのに、松殿ときたら… 松殿さんが、近衛、九条と併存してたら、
鷹司や二条一条はなかったのかな? 近衛系は二家しかないのに次席の九条系は三家もあるよね。
摂家筆頭は近衛だけど実質九条系が勝ったということか? 単純に分裂しただけなら、本家だけが家格を保ち、
分家は摂関の資格を失いそうなもんだ。
本家が九条なのか二条なのか、難しいが。 >>12
松殿からも分家が出て摂家が増えるだけでは 九条はその祖が実質三男の兼実なんだよな。
不比等以来の非長男が最後に笑う藤原家の伝統を継いでるよなあ。 >>16
八摂家とかになったら、出番が来ない摂家当主が出てくるよ >>13
分裂した方が負けだろ
基実系と兼実系に摂関職が固定されたのに
兼実系が3系統に分裂したんだから九条家、一条家、二条家の競い合いになっちまう
それに比べて基実系は近衛家と鷹司家の二家の競い合いで済む
>>4
お前さんはロリの鏡(妻の盛子11歳<清盛の娘>)で
早死に(24歳)したけど息子の基通は怪物だったな
何度失脚しても又摂政・関白に復権する
(しかも清盛の娘である寛子との間には子供が出来なかったのも吉) >>19
近衛系枠と九条系枠で摂関分担してたんじゃなくて五摂家で分担してるから
分家多いほうが摂関なれるチャンス増えるんじゃないか?
例えば近衛系が1 九条系5だったら近衛系は3/6なれるんじゃなくて1/5以下じゃないか? >>19
清盛は近衛二代に娘を嫁がせたが、その娘たちには子ができず、
結果的に九条に嫁ぐことになった義朝の女系孫娘曾孫娘には子孫がわんさかできたな。
>>20
頼経が鎌倉将軍にならずに都に残ったとして摂関レースに勝ち残れただろうか? 道長に敗れた中関白家が浮上できなかったように
摂関全盛期ってまけたら負けたらっきりだけど
院政時代になると復活があるんだよな。
松殿は復活できない時代の伝統を守ってるw 松殿って鎌倉時代は平公家に家格落ちしたの?
大納言以上になっていない気がする。 幼少から秀才だった道元を養子にして盛り返そうとしたけど、断られたんだよね。 >>25
曹洞宗の言い伝えによれば、
・木曽義仲が敗北した後、家運の衰えを感じた松殿師家は、外甥に当る神童の誉れ高い少年を養嗣子にし、
家運挽回を図ろうとした。
・しかしその少年は父親(源通親)と母親(松殿基房の女)とに死に別れ、
世を儚んで出家してしまい、松殿家再興の夢は立たれた。
・少年はその後日宋し、道元希玄と名乗って日本曹洞宗を開くこととなる。
・・・ってことなんだが、↑これってどの程度信頼性あるんだろう?
自分の実子も掃いて捨てるほどいるところに、養嗣子を迎えるだろうか?
また村上源氏の勢力が強かった頃とはいえ、通親の没後に
その遺児である源氏の子を養子にしたところで、どの程度、家を再興できるものか?
っていう疑問は尽きない。 ごめん・・・
×再興の夢は立たれた
○再興の夢は絶たれた
×少年はその後日宋し、
○少年はその後入宋し、
さんざんですな・・・orz むしろ通親在世当時ほどの勢いはないとはいえ、
村上源氏はその後も太政大臣を輩出し清華家として残るわけだから、
その後ろ盾も借りたいくらい、
既に松殿家が落ちぶれていたのかも知れないね 後世まで見ても、
摂家が養子を迎えるのは、同族の藤原一門か皇子だもんな 武家と公家と華族が絶滅して一般人しかいなくなったんで結婚する場合皇族同士か一般人しかいない。 清和源氏の庶流の庶流とはいえ、さきの内閣総理大臣の弟君だからな。
あらゆる特権を奪われ覇気を失った近衛家には十分すぎる位よ。
でも当時の松殿家は違う。魑魅魍魎の跋扈する宮廷政治を勝ち抜くためには、
いかに源博陸の遺児とはいえ、源氏では役不足。 松殿家に養子に入り、
実兄弟や義兄弟たちと激しく争いつつ、
権謀術数の限りを尽くして、政敵である近衛家や九条家を追い落とし、
娘を入内させ、位人臣を極め、我が世の春を謳歌する道元・・・
「春は花夏ほととぎす 望月の欠けたることもなしと思へば」
↑こんなのヤダ >>36
だから仏門に入って静かに余生をおくる事を選択したというわけか… 曹洞宗のHPによれば、道元の出家の理由は母の進めだそうだ
http://saas.startialab.com/acti_books/1045176233/16004/_SWF_Window.html
しかも母の死後、松殿師家の家に引き取られている。本当か?
しかし、「ハハハこやつめ」とでも言いそうな師家だな・・・ >>38
内大臣通親の子、太政大臣通光の弟である道元を下座に座らせて
ずいぶんエラソーな北条時頼だな・・・
道元も、たかが正五位下相模守ごときに向かって「お招きいただきまして恐縮です」とか言ってんじゃねーよw >>38
通親はもっと脂ぎったオヤジに描いてほしかった。
てか、この通親若すぎだろ・・・これでは一般的な現代の日本人家族と大してかわらん。
子供向けのまんがとはいえ、
「このとき通親51歳。母親伊子の他に、最低でも三人の妻との間に五人の子をもっており、
2年後に亡くなるまでの間に他の女との間に最低二人の子を設けている」
くらいは書いて欲しい 「おらこんな家いやだー!」
と叫びながら出家しそうだなw 母親の死後は、異母兄の堀川通具に引き取られた説が定説らしいけど。
堀川通具の実子という説もあるみたいだけど。 しかしたった2ページだけとはいえ、
松殿師家が登場する漫画なんて>>38だけじゃないか?
そういう意味ではすごく貴重 元々、伊子を通親の側室に送り込んだのも、村上源氏の力を借りて
復権したいっていう思いがあったためだろうから、
もし道元を養子に画策したという話が本当だったとしても、
それは道元自身が神童だったというよりは、むしろ
>>28のような理由だったのではないかな
まあ、それで養子にしたからって挽回できたかどうかはわからんが 道元を養子に
→久我家のバックアップで太政大臣、あわよくば摂関まで出世
→それに合わせて師家の実子たちも出世
ってことかね、狙ってたのは。 当時の摂家は、有職故実に通じていないと駄目だから、頭は良くないと駄目なんじゃないの。 もちろん有職故実に限らず聡明でなくちゃならんのは最低条件で、
権謀術数って意味以前に、仕事ができないと出世できないのは今も昔も同じ。 道綱レベルに無能だと、大臣を望んでも
「お前に大臣が務まるのかよwww」って言われて終わる始末だからな 道綱ってあれでも、道綱母の息子なんだがなぁ・・
なんでああなったのか 道長が40前くらいでころんと死んでたら、
公季とか、伊周・隆家とかが後任?
あと摂関の息子は道綱とか顕光くらいか。
顕光ってあれで若い頃は蔵人頭なんだよね。
案外若い頃はそれなりには有能だったんじゃないの。
年くってぼけただけとか。 >>50
池沼を産んでしまった東大卒の女性もいるぐらいだからね むしろ道綱が道綱母の息子じゃないかったらすごいわw >>48
中納言ってのは道綱レベルの池沼でも務まるんだな >>57
道綱は実資から見たら我慢できないレベル(知らない漢字多すぎw)ってだけで
普通の会社でもコネやら派閥やらで出世した感じもまともに書けない管理職なんて
いくらでもいるんだよ
平安時代もそういう感じ 明治維新後、還俗した摂家門跡が建てた松園家とか鶴殿家というのは、
松殿家を再興したものと考えていいのだろうか? 九条家庶子で2度ほど復興しようとしたけど続かなかったんだっけ。
確か1度目は摂家、2度目は清華だったような。 松殿家の再興は三度話があって、一度目の摂家としての再興は、後水尾法皇と幕府で一代限りの扱いとして決めた。
継嗣がいても二代目から地下家に格下げて存続だったらしい。
二度目は八条宮家(のちの桂宮家)の王子、忠幸王が再興させるとかの話で、それも実現せず
忠幸王は臣籍降下して新たに広幡家を創立。忠幸王の松殿家再興の話は無しになった。
三度目は九条家の家領(300〜400石ぐらい)を分知して清華家としての再興だった。
結局、一代で断絶してしまった。 江戸時代よは、随分と絶家期間が長く、遅い時期なんですね 確か数年(十数年?)前に、史学雑誌かなにかで、室町時代の松殿家について載ってたような。
地元の県立図書館で見た記憶が。 そう言えば摂家の分流って、九条系の方が近衛系より多い印象があるけど、
どうなんだろう?
醍醐家は一条家の分流だし、富小路は一応二条家ってことになってるし。 >>62
摂家から地下家って格下げなんてもんじゃねえぞw >>62
一度目の再興はやたら扱いが悪いね
それとも摂関家の再興はそういうもんなのか? 「摂関家の再興」っていうけどさ、実際の松殿家は成立後すぐに摂関家としての地位を失った後、
平公家レベルの家として長く存続したわけでしょ。
師家の失脚から断絶まで、優に300年以上ある。
「五摂家の成立と同時期に分家したが、すぐに家格を下げた平公家」
くらいの印象だったのではないの?
少くとも、再興して摂家の仲間入りは有り得ないと思う。 結局摂関家に六家ってのは多すぎたんだと思う。
五家だって全員が持ち回りでやるには無理があるくらい。 つーか>>62の地下ってのは本当?
当時の常識からして、それもさすがに考えにくいが。
摂政が自分の息子を地下人にするくらいなら、出家させるだろ。 武家だったら、取りつぶしを願い出るレベルの屈辱だったろうな 再興って言っても、実質は分家でしょ。
名目上多少は縁がある昔の名前を使っただけで、
その分家にどの程度の格を与えるかって言う問題に過ぎないと思うけど。
もちろん、摂家である分家には抵抗が大きいだろうなとは思う。
5家でも、確か一条家親子しか年齢的適合者がいなくなったことがあった。
人材確保の面では5家は最低限、できればもう1、2家いた方が。
徳川政権は摂家にてこ入れして、朝廷統制の役を果たさせようとしていた
らしいから、それなら摂家の数的増勢を考えても不自然ではないかと。
まあ、多すぎても適任者が多いと面倒があるけどね。 >人材確保の面では5家は最低限、できればもう1、2家いた方が。
五家が成立する前は実質一家しかなかったんだが、どうよ? 世襲宮家の創設もなかなか許さなかったのに、摂家を簡単に増やしたら、天皇が怒るだろ。 地下にと言うのはどうなのかわからないけど、江戸時代には
摂家からの「養子」であれば本人の代は摂家の一族としての
格式、「実子」であれば養家の格式になるという話だったよう
な気がする。
分家の場合も、一代限りは生家の格式を与えようということ
なのかな。 「実子」は養子の種類の一種だよ。
「子」は本当の子供、現代でいう実子
「養子」はA家の子供がB家にいったとしても、A家の子供だったことが跡に残る。例えば「養子」に行ったとしても実家の
親が死んだりすれば喪に服す。
だから、摂家の子供が清華家に「養子」に行ったとしても摂家としての格式を一代のみひきずれる。
「実子」はA家の子供がB家に行ったら、A家にいたことは抹消される。「実子」といていけばA家の親が死んでも公式に
喪に服すことはできない。「所労」と称して軽く喪に服すだけ。
だから、摂家の子供が清華家に「実子」としていけば、清華家としての格式で遇される。
「猶子」は名前を借りる養子。たとえば社家が公家の猶子になれば指貫の紋や染を公家としてのものにできる。
岩倉具視は堀河家から「実子」として岩倉家に養子にいってるし、一条輝良の子実韶は西園寺家に「実子」として
いってるはず。 室町時代の松殿家っていうのが、どういう扱いだったのかは興味あるところ。
官位から言ったら、大臣になれない並の公家と同じで、
単に先祖が摂関家ってだけの話だが、
そんなこと言ったら藤原氏の諸家はすべて、先祖は摂関にたどり着くわけで、
そういう家と何の変わるところもない。
ただし、公家社会を支配していた五摂家が一応、自分たちと同族扱いしてただろうことと、
あと木曽義仲の件でこうなった、っていう事実が公家社会でも語り継がれていただろうから、
そこが特殊な感じだね。 再興されるときに摂家だの清華家だのって話になること自体、
松殿家が、単なる藤原北家支流以上にはみなされていたことを物語るな。
実際の官位は別として。
仮に岩倉家が江戸時代に断絶し、それを再興しようとした場合、
じゃあそれを久我家と同じ清華家とか、もしくは大臣家の家格にしようか?って話には
恐らくならないと思う。 違う見方をすれば、摂家も清華家も、松殿家を必要としていなかったことにもなるな。
なければないでいい、ない方が出番が増えていい。 そう(ライバルになる家が減る)なれば、そう(地位につけるチャンスが増える)なるわな。 摂家を1家、清華を1家だけ存続させて後の全家は絶家・または地下家の最下層にすればチャンスがもっと増える。 そもそも江戸時代頃の清華は、
ぶつちゃけ単に官位が高い堂上にすぎないので、
なければないで、別にたいして問題ない。
歴史的経緯と既得権で存続してただけ
あえて言えば、大臣不在だと格好が付かないかなあって、
その程度の存在意義。
それも摂家と、伝奏経験者優遇とかでも十分わくが埋まって、
特に問題ない。
摂家も本当はいらないんだけど、
一応摂関がいないと朝廷が回らない仕組みに組んであるので、
まあしょうがないから必要ってことになってる。
摂家にとってはライバルがいない方が良いには決まってるけど、
さすがに1家では人材の問題がある。
家としての摂家としては軒数が少ないほど良い。
職務としての摂関としては、ある程度までは候補者は多い方が良い。
多すぎて争いになるのも困るけど。
しかしたとえば、顕光や道綱しか候補者がいないかったら、
とかあまり考えたくないな。
江戸期でも60過ぎまで生きた摂家当主で一度も摂関にならなかった人も居て、
同時期の他家当主とのかねあいもあるけど、
たぶん相当に無能な人だったんだろうな。
その辺とのせめぎ合いで自然に軒数が収まったのが、
5家ということなのだろうか? >>84
顕光と道綱を同列に扱うなよw
顕光は左大臣まで昇って、長年に渡って道長の摂関就任を邪魔し続けた大物だろ。
字も読めない亜相とは比較にならん。 松殿と鷹司
一度は断絶した摂家同士とはいえ、立場は雲泥の差 近衛家には高陽院領、九条家には皇嘉門院領があったけど
松殿家にはこれといった経済基盤がなかったのも没落の
原因かな。 鷹司は断絶した摂家。
松殿は摂家になり損なった、あるいは滑り落ちた家が、
いつの間にか消滅した。
なんかそんな感じ。
それでも分家の名目として家再興ってことに使われたのは、
家らしきものが成立してくる以後で断絶した摂家分流が、
南朝系庶流(嫡流?)を除けば松殿だけだから?
他は分立当初から一般の公家である分家だけのような。 断絶前の松殿なんか清華ですら無いだろ?
というか羽林とかにきちんと分類されていたの? 制度化はされてないかもしれないけど、
松殿家消滅頃にはもう格付けは固まってたんじゃないの。 忠房がせめて大臣になっていれば、摂家とは行かないまでもそれに準ずる家として
残ったかも知れないね。
大臣になれなかったのは本人の才覚と運によるところが大きいのだろうから、
「神童」道元を養子に迎えようとしたのも、あながち不思議なことではない。
木曽義仲の件は松殿家没落のきっかけではあったけれど、
他の家だったらそれくらいで本当に没落はしない。
当主が反逆罪で死刑に処せられた西園寺家でさえ、何事もなかったかのように復活・存続しているわけで。
結局、師家の後数代の当主に人徳がなかったのが没落の最大の原因、ってことだと思う。 >字も読めない亜相
おっとりした性格の超絶美形な筋肉バカだっけ。
藤原道長とは兄弟の中で一人だけ仲良かったり
いろいろ面白い人なんだが
世間的には藤原道綱の母の息子という認識になるんだろうな。 世間的にも何も、道綱が道綱の母の子でなかったらそりゃ大変だ ∧_∧
( ´Д`) ズガガガガガガ・・・!!
/⌒ ヽ
/ / ノヽ _ー ̄_ ̄)', ・ ∴.' , .. ∧_∧ ∴.'.' , .
( /ヽ | ) --_- ― = ̄  ̄`:, .∴ ' ((( #)゚Д゚) .∴ '
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∠/  ̄ !、_/ / )
|_/ >>93
それと源氏の婿のイメージだな。
ちょっと上級公卿としては格落ちw 江戸時代に復活した時には一代だけ摂家扱い、二代目以降は清華だろ? 藤原忠房 藤原京家、藤原興嗣の子。右京大夫。
藤原(松殿)忠房 関白基房の子、師家の弟。大納言。
藤原(近衛)忠房 関白忠煕の子、左大臣。篤麿の父。
藤原(相良)忠房 相良氏1第9代当主。義陽の後を継ぐが14歳で病死。
藤原(大岡)忠房 九条家支流、岩槻藩主家始祖。
ややこしい・・・ 松殿家の再興は、清華家なら竹殿家、
平公家なら梅殿家にしてほしかった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています