天皇の日本史
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日本の天皇というのは独特なもので、いわゆる万世一系ですが、
長い歴史のあいだには、いつそのまま亡びても不思議はないほどの
危機を何度も経験しています。
天皇の地位が力で奪えるものであったなら、藤原氏、源頼朝、北条泰時、
織田信長、豊臣秀吉、その他日本史の上にあらわれた実力者たちが、
いつでも天皇に代わることができたでしょう。
しかし実際には二千年近くのあいだ一度もそんなことは起こらなかった。
これは日本の不思議であり、日本史の不思議です。
ヨーロッパだったら王を倒した者はそのまま王になる。
そのため近世のはじめまでは血腥い戦争の連続だった。
日本ではむしろ相争う権力者の両方が天皇をかつごうとする。
なぜか?
それを実際の歴史に即して考えてゆくのがこのスレのねらいです。 >>108
本文主義の総元締のようなものは天皇制だろ。
その天皇制が最大の危機をむかえるのは、南北朝時代だと思う。
いつの時代でも、権力者はたとえ天皇の実質的な力を弱めてもつねになんらかの位置に据えていた。
秀吉にしても、家康にしても天皇を圧迫はしたけれど、権威の象徴と
見做していたことに変りがなかったように思う。
ところが、尊氏がいちばん信頼もし、いわば足利家の番頭である高師直は
「天皇なんて所領ばかり取って無駄な存在だ、あんなものは木か金でこしらえておけばいい」といったという。
「太平記」の作者は「あさましきかぎり」と憤慨してるけど、もっと大胆不敵なヤツがでて来る。
美濃の守護土岐頼遠は、街頭で光厳上皇の行列に出あい、「院の車ぞ。下馬せよ」と注意されると、
「なに、インの行列、イヌの行列だと」といって、上皇の車をかこんで矢を射かけたという。
古い権威なんぞ屁とも思っていない新しい人種が、この時代に登場したということだろうな。 天皇制否定にまで行きつかざるを得ないものを思想として持っていたのが、後醍醐天皇の臣、資朝だ。
なにしろ伝統や先例の権威を否定し、これを嘲笑する反体制の思想家だからな。
しかしそれにもかかわらず、天皇制が存続したのはなぜかといえば、まあ、
簡単にいえば尊氏が廃止しなかったからだよ。
古い権威を一顧だにもしなかった高師直や土岐頼遠が出て来たが、その反面、
地方の武士の間には綸旨や令旨がたいへんな権威をもって通用したこともこのころの現実だよ。
だからこそ、尊氏にしても新田義貞にしても、兵を挙げようとしたものはすべて大塔宮の令旨をもらった。
そうしないと、兵を動かせないんだ。
とくに尊氏はその効用についてよく知っていたので、いったん敗れて九州へ逃げるときでも、
ちゃんと光厳上皇から院宣をもらうことを忘れなかった。
だいたい、この時代の大多数の武士の考えは保守的で、本当に革命を考えていたとは思えない。 武士の側自体に貴種崇拝の思想があるからね。
力や才覚があるから尊敬されるのではなく、
家柄が良いということで重んじられる。
源氏や平氏が地方に下って武家の棟梁になれたのも、
貴種崇拝の考えがあったればこそでしょ。
足利氏も一流の源氏出身だから天下に覇を唱えることができた。 源氏も平氏もとどのつまりは、天皇の血筋につながる。
貴種崇拝は天皇制思想だともいえるな。 後醍醐天皇は意欲ばかり先走って、現実が見えないから、
自分のイデオロギーをしゃにむに通そうとする。
これが後醍醐天皇の政治の特徴だな。 王侯制度や貴族制度ってのは武力の他に外交が権力の源泉で
また外交に於いて最も高い信頼度を得る方法は姻戚関係を持つ事だった
学校の授業では弥生人は朝鮮半島から渡って来たくらいしか言わないけれども
奈良時代くらいまでは中国が本気を出して攻めて来たら周辺国は吹かれて飛ぶ様な存在だったし(白村江で負けた後には唐軍が北九州に進駐していたらしいw)
日本の朝廷は朝鮮半島の諸王朝と姻戚関係を幾度も結び直していた
これらの人脈を全部潰してしまうと朝鮮乃至中国に攻められてしまうかも知れないとの懸念が室町幕府までは大きかったので覇者は皆とも征夷大将軍より上を望まなかった
織田信長は南蛮貿易を通じて朝鮮でも明でもやっちゃえるかもと考える様になったので殿上人になった
秀吉は信長に倣い実行に移した
家康は海外に野心が無かったので管理貿易にだけ執心した
日韓併合や満州国建国もこれらの歴史が大義名分になった 後醍醐天皇の頭の中には、はじめは宋学の大義名分論があったけれど、
新政開始後は現実の問題処理に追われて、イデオロギーがどうのとはいってられなくなった。
南朝についた武士も北朝についた武士も、最大の関心は自分の所領を一寸でも伸ばすことだ。
そのために鎌倉幕府を倒したわけだからな。
なにも後醍醐天皇の大義名分論に共鳴したわけじゃない。
天皇に現実が見えないというのはそのことなんで、そこに天皇の悲劇がある。
だから、戦いが終われば、当然、恩賞を要求する。
ところが後醍醐天皇の恩賞の与え方は、武士の本当の欲求にさっぱり応えなかった。
せっかく、記録所や雑訴決断所などの新政を運営する役所もつくったのに、そこに働く人材もいなかったし。
なんだかないないづくしみたいだが、それが天皇親政の実体なんだよな。 明徳3年(1392)、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に神器を返し、この結果、
およそ60年にわたって対立していた南朝と北朝は合体する。
めでたし、めでたし。 〜都道府県の居住意欲ランキング〜
1位は『 京都 』
「地域ブランド調査」(全国3万2124人から回答)によると、
47都道府県のうち、最も「住んでみたい」と思われている地域は京都府でした。
京都は、回答者のうち12.2%が「ぜひ住みたい」と答え、13.3%が「できればすみたい」と答えるなど、
ほぼ4人に1人といえる25.5%が居住意欲を示しています。
年代別にみると20代の居住意欲が最も高く、ほぼ4割である39.8%が居住意欲を示しています。
そこからさらに学生に絞ると、なんと半数を超える53.7%という結果となります。
つまり、学生など若い世代の居住意欲がかなり高いのです。 南北朝合体を実現させたのは、もちろん義満の力だろうけど、
こう抗争が長びくと情勢も大いに変わってきたよな。
楠木正儀は北朝側に走るし、南北両朝とも内部対立がはじまった。 >>121
一世代でおわらんかったもんだから子の代でみてるとたすき掛けおきてるんだよね
北朝なのに南朝にはしってしまったり
それぞれの内輪揉めから
南朝から北朝にいっちゃったとかが内情かな? >>121
北朝天皇を擁立し、北朝から征夷大将軍に任じられた足利尊氏すら
後村上天皇に臣従したりしてるから。
室町幕府自体、初期はどっちの天皇でも良かった。 >>121
とくに南朝側は、後醍醐天皇の遺勅のうけつぎ方に二派あって、
一つは朝敵ことごとく滅ぼすという抗戦派、もう一つは和平派だ。
このころは、両者の関係が決定的に悪くなっていた。 >>119
朝廷の中も、いろいろ割れていたし、後小松天皇の立場も微妙だった。
事実、奥吉野には南朝が残るし、その影響はずっと後の応仁の乱(1467〜77)
まで尾を引き、小倉宮が南朝の後胤だと称して動きまわる。
終戦後になっても熊沢天皇なんていうのも出たしw >>119
こんとき統一されたって
教科書ではめでたしめでたしになってるけど、残った旧南朝系はそのままどうなってったの?
一部はそのまま後南朝たててきえてしまったけど、統合した人たちもその後は二度と系統的に表舞台にですに終わってるから
消えちゃったの?
忘れた頃にしんせき降下させられて仏門おくりになったん? 義満は後小松のお父さんの後円融天皇と同じ年だな。
そうすると、二人の関係は、もちろん天皇と臣下だけども、
感情の上では親子のような気持ちだったかもしれん。
だから、義満は自分は天皇の上位という意識がでて来て、
出家した後はまるで法皇のようにふるまっている。
たとえば北山殿の行幸の場でも、ふつう法皇がすわる上座にすわって、
列席の貴族をおどろかしている。
なくなってからは、太政天皇(譲位した天皇のこと)という号を朝廷から
おくられ鹿苑天皇とよばれている。
それに、孫の義嗣の元服は親王のそれに准じて内裏で行った。
このとき義満の正室日野康子は准母(天皇の母がわり)の称号を受け、
もうこうなると、義満は天皇とちっとも変らない。
後小松天皇としても、それを横目でみて内心、面白くなかったろうな。
もっとも、そんなことはおくびにも出さなかったろうけど。 >>127
足利義満と後円融天皇は同い年の従兄弟。
足利義満の母紀良子は後円融天皇の母紀仲子(広橋兼綱の養女になったので広橋仲子とも)の異母姉だ。
このように義満と後円融天皇は血縁が近いだけではなく、たびたび後円融天皇は義満の皇位簒奪に脅えていた。
次第に妄想も激しくなり、後円融天皇は後小松天皇の母である三条厳子を足利義満と密通したと疑って怒りのあまり
刀の鞘で殴打、驚いた厳子は里へ逃げ帰ったという実話まである。
鞘殴打事件は後小松天皇が生まれた6年後のことだが、足利義満は後小松天皇母との密通を疑われたことまであるという点で
後小松天皇とも浅からぬ関係がある(後円融天皇の妄想が事実でかつもっと早い時期から密通があったとしたら
義満は後小松天皇の実父の可能性もなきにしもあらず…)。 義満の行動パターンをみていると、武士であると同時に、
公家化して行く、この二つの行動様式を巧みに一身に兼ね備えている。
武家の棟梁でありながら、公家の伝統に結びつくことに、
一種の活路を見出すという感覚があったようだ。
小さいとき、父の義詮をなくし、わずか10歳で将軍になって以来、
複雑きわまりない権力争いにまきこまれながら、そういう感覚を
身につけたんだろうな。
同じ3代将軍でも家光よりはるかに条件が悪い。 なに?少しは室町押しでも始まったのか?
異様に江戸時代ばかりとりあげてたもんな
あとは戦国時代とかな 義満以後の将軍は義満の中の武士の部分と公家の部分を分業するような形で受け継いでいく。
つまり、非常に武士的に振舞おうとする将軍と、すっかり貴族化した将軍という具合にハッキリ二つのタイプに分けられる。
たとえば、義満の息子・義持は関東武士的な性格を濃く残している。
偏見から世阿弥を迫害したり、対外貿易をやめたり、なんだか親父がやったことにいちいち反対する。
朝廷から義満に太政天皇の号を贈られると辞退しちゃう。
古い武家の棟梁といったおもむきがある。
義満に可愛がられた義嗣が長生きしていれば、教養の点でも趣味の点でも、義満の持っていた公家的側面を引きつぐはずだったと思う。
そのつぎの義教は武断派だね。
あまり、守護大名に強権を振ったせいで、赤松満祐に暗殺されてしまう。
その後の義政は徹底して公家化して行く。その両方の原型が義満の中にあるわけで、公武合体を一身に体現していた義満だが、
その政策もまた、公と武のバランスが巧みにとれていると思う。
政治の実の部分もうまい人だが、虚の部分というか、情報戦略が大へんわかった人のような気がする。
北小路室町に花の御所をつくったり、そのあと丹後の天橋立や厳島に豪奢な行列をつくって遊覧の旅をする。
それが文化育成にもつながった。
たんに文化育成ではなく、政治に利用することも計算に入れている。 もともと幕府方は南北どっちでも良かっただろ。
たまたま軟調後醍醐が親政やりたがったんで武家棟梁の尊氏は
北朝と組んだだけで。
幽閉中の後醍醐が吉野に逃げ出しても、にこやかに送り出す
くらいなもんで。 安土桃山時代には、伝統的権威の頂点に立った人が3人いると思う。
まず、足利15代将軍義昭、これはおちぶれたとはいえ室町幕府の総帥だ。
つづいて本願寺の教主顕如、これは蓮如以来、大政治集団となった浄土真宗の指揮者で全国の一向一揆の精神的支柱だ。
つづいて、正親町天皇。
以上3人だが、戦乱の時代が過ぎてそのうち誰が生き残ったかというと、正親町天皇なんだよな。
あとの2人は信長と争って結局ほろびてしまう。
正親町天皇は実力の世界に一切タッチしないで、純粋に非政治的な立場を通したから生き残ったんだろうな。 >>130
未だに戦国時代とか情弱丸出しだろ。バテレンかぶれの横暴者とか
足軽上がりの成り上がりみたいなのばかりで、ロクに文化もない。 戦法は武士らしい一騎打ちもやめてしまって、歩兵戦で南蛮の飛び道具だ。 武将たちは無闇に残虐な真似ばかりして世の中は荒んでるし。
ロクな時代でない。 大陸出兵の土産物で茶道は起こったか。
ノリキューも秀吉が腹切らせたろ。 >>133
信長くらい残虐な性格だと強いは強いが部下にあっさり討たれちまう。
あんまり自慢にならん。 >>139
信長が残虐なせいで部下に殺されたというのを信頼できる一次史料で証明しよう。
他のスレで暴れているアンチ信長君。 力の強い順、あるいは金のある順でいったら、顕如、義昭、正親町天皇の順になるだろうな。
信長からのやられ方もこの順にひどいな。
顕如をリーダーと仰ぐ本願寺門徒は数万人焼き殺されたというし、
本拠である石山本願寺は海上封鎖されて兵糧攻めにあって落城した。
力に抗するに力をもってした悲劇だな。
義昭の方は最初は信長のお蔭で将軍になったが、たんなる精神的権威としての立場がつらぬけず、
妙な政治的画策をして、信長を裏切ったので、結局追放されてしまう。
義昭は見通しの悪さで亡びたという印象だ。
正親町天皇となるとこれはもう、自分を信長に利用させるだけで、それで安泰だった。
何しろ正親町天皇は貧窮して、践祚してからもお金がないために3年ほど即位できなかったからな。
御所の塀がくずれたまま直せないので、三条の橋の上から中の灯りが見えたというほどの暮らしをしていたのだが、
自分の利用価値を正しく認識していたので、あわてずさわがず、戦乱の世に処したのが成功したわけだ。
さすがに権威の総元締めはかしこい。
義昭や顕如にはまだまだ伝統の知恵が足りなかったな。
しかし信長という人も偉い人だったね。
当時天下を取るにはいくつかの方法があったと思う。
一つは北条早雲のように、関東に武家政権をうちたてて鎌倉幕府を踏襲しようとするもの。
もう一つは、まず自分の領国を固め、生産を高め、武力を蓄えた上で次々に隣国を攻めていくやり方。
いろんな天下争奪のプランがある中で、最初から京都に目を向けていた信長が結局は天下をとった。
これは偶然じゃないと思う。 ↑で書かれているけど、信長、顕如、義昭、正親町天皇の関係って興味深い
格付けとしての関係と実力としての関係があるしね
誰か今の時代に例えてみてよ 無理やり今の時代にあてはめた場合、正親町天皇は今上天皇、顕如は今の浄土真宗の教主として、
問題は信長と義昭だけど、安倍総理が義昭になるのかな?その場合は信長は誰? 義昭ー信長の関係は野田ー安倍になるのかな?
妥当なような違うような
まあぴったり当てはまるはずもないけどね 義昭-信長の関係は協力関係にもあったわけだし全然違うだろ あくまでも「形」としては、幕府の将軍は今の首相になるんだろうな
信長の該当者はわからんけど >>141
正親町天皇が貧窮したのは、足利幕府の力が弱まったので、
幕府の武力で守られているはずの朝廷に、各地の御料地からの
上りが、大名に横領されてこなくなったからだよ。
だから、当時は幕府再興をうたう大名が入洛するのを朝廷も歓迎した。
大名の側としても、そういう大義名分のもとに自分の武力を京に
しめすことの有利さを知っていた。
これはみんな同じで、武田にしても上杉にしても、最終的には、
そこに眼をつけていた。
しかし結果的に信長が成功したということだ。
戦国大名は武力さえあれば天下を取れたというのはウソで、
将軍家とか天皇家とかの伝統的権威を復興させるという、
大義名分がなければ一般の武士が納得しなかった。 明治天皇すり替え説ってちょっとでも可能性のある話なの? >>150
そういう反日が喜びそうなのは近代史板でやってろよ >>128
すり替えならこっちのほうが可能性高いんじゃないか 安倍首相は祖父である岸信介を政治家として尊敬していると言ってました。
また、安倍首相は現皇室に対しても敬意を示し、「我々政治家がどんなに頑張っても
陛下の代わりは務まらない。これは皇室の歴史そのものだから」と言うニュアンスの
ことを言っていました。
しかし、尊敬する岸信介は生前、「明治天皇は維新の折にすり替えられた」と
言っていたようです。
この発言は現皇室の正統性を根底から否定しかねないですよね。
皆さんはこの辺どうお考えですか? ちなみに今の天皇も昭和天皇の実子じゃないよ。
今上天皇は私の家系は百済にゆかりがあると言ったことあるだろ。
昭和天皇のお嫁ちゃんの香淳皇后は島津家の出だ。
島津家は百済にも新羅にもゆかりがあるんだ。(三韓=韓国)
明治維新以降、天皇家は実は政治的に利用されていて政治も民族主義者に操られていた。
今もか...(韓国議員連盟)主に長州藩・薩摩藩ね。
天皇家は実は戦・戦争・クーデターによる天皇征伐・排除でその時代が決まる。
今の天皇家はマスコミと政治を利用し、いわば日本の象徴を作り出している虚像。
美しい日本を捨て、西洋文化を取り入れ近代化を作りだした北朝の象徴なのだ!
近代化とは「美しい日本」を捨てることだった。
南朝・北朝は今でもある。
天皇家は南朝にあり。これが正しい。
今上天皇は北朝の南朝派。
だが極右の北寄りの氏族の安倍氏を任命したのは今上天皇さm。
「中国は嫌いだけど、韓国は交渉もできない愚かな国」発言。
右翼思想が軍国主義・社会主義につながる。 明治天皇すり替え説とか明治の元勲が一同に介したあの写真とかおもしろい話だけど全部ウソだからな >>149
関白とか征夷大将軍とかいう位も、結局、天皇につながっているから権威になる。
この時代、正親町天皇にしろ後陽成天皇にしろ、生身の天皇は蔭の人だったからな。
ところが、この天皇が賜わる位をめぐって、政権の交替がつぎつぎとおこなわれた。
天皇というものの面白さがそこにある。 豊臣秀吉は後陽成天皇を(少なくとも表面上は)尊重していましたが、
関白政庁として御所を遥かに凌ぐ豪華絢爛な聚楽第を御所の近所に
建てました
この辺の精神的、権勢的駆け引きはどういうものなんでしょうかね? matome.naver.jp/odai/2136862417660256501
天皇と安倍は親戚 、安倍は現在日本人独裁支配工作中。
www.youtube.com/watch?v=qZve5N-_doI
ユダヤが明治天皇を朝鮮人にすり替え
田布施朝鮮人昭和天皇が中国で金をユダヤの為に略奪。実行部隊「巣鴨プリズン」には触れず。
ロシア国営テレビゴールデンタイム放送
blog.livedoor.jp/home_make/archives/1845811.html
第二次世界大戦もユダヤ茶番戦争。ユダヤによる日本人傀儡支配代理人田布施朝鮮人昭和天皇が
敵国にいる仲間と演技で戦争しただけ。家族の為、日本の為、1919年の牧野の精神で戦った日本人は
みんな死刑。一方でユダヤ茶番戦争を仕掛けた田布施朝鮮人には利権。
小和田家は日本人を何万人も水俣病で虐殺したチッソ創業一族。外務省も小和田中心に在日支配。
チッソに抗議した家族は逮捕。小和田家には利権www
しかも、水俣病になる事を知っていた意図的な虐殺工作。
www.youtube.com/watch?v=9cs6I9dh5UM
ユダヤが在日を右翼と左翼に分けて茶番対立支配。
ユダヤが敵対思考に工作員を送り茶番対立支配。
自分の利益しか考えず他人の利権には嫉妬に狂う朝鮮人が何で街宣右翼やって
天皇を批判した日本人を殺せるのか?考えてねwww
ハイ、お前ら全員相手に完全論破!! 天皇家は南朝にあり。これが正しい。
今上天皇は北朝の南朝派。
明治維新以降の企業家は皆、半島混血種。
政治家も多数。平民は大和民族。
出世するのは半島混血種。
利用されるのは、在日。
日本人=扶余族+エヴェンキ+大和民族の交配種。
神道の国日本。
仏教徒日本。
なーのにクリスマスを祝う馬鹿な民族。
おどれらキリシタンか。
売国奴め >>161 明治天皇すり替え説から太平洋戦争で日本占領のストーリーは
既に
ユダヤが勝って自分達の好きにできる様になったので
今上から筋を元に戻してあって
すり替えを騒ぐお調子者を利用できる機会に使って嵌めて天皇家の権威を数倍高める段階まで進んで居る
との噂も80年代には流れていたがw実際どうなの詳しいおまいら? 豊臣秀吉の治世になっていきなり公家や太政官の数が飛躍的に増えたわけじゃないですよね
豪華絢爛な関白政庁の聚楽第に出仕する公家、太政官はそれまで何処にいた人ですか?
新しい関白政庁の聚楽第ができたことによって、取り壊された古い政庁があったわけですか? >>158
あの写真が偽物だと根拠ってなんですかね? 天皇は世界で王という地位+宗教的な神話教主的地位もあったってのがデカイよねえ
わかりやすく言うと 天皇=ローマ法王+アレキサンダー大王 みたいな…
素人的主観だけどこれは強いよホント
代重ねする毎に弱くなる王的立場も宗教的立場なら弱まることも無い
むしろ神秘性が増して強くなる
王的立場も新勢力に関白なり将軍なりつけるだけでやはり残る
新製力が天皇家を倒せば新勢力となったとはいえ疲弊した状態で賊軍扱いでフルボッコされる可能性がある
つまり日本では2回連続で天下取りできる軍事力と求心力がないと天皇家を超える事はできなかったと
天皇システムマジすげえww
儒教とか学問的なもんだったし
キリスト教とか早いうちに流れ込んできてたらヤバかったね
なんつー奇跡的な位なんだ天皇。あるいみマジ神だな… 歴史板なのに酷いな、中高生しか居ないの?
新皇将門や日本国王義満なら「男系系図」持ってたろうから出来たかもかしれない、そういう事。
後は知識暗記より理由を自分で考えることな。 ニート天皇はナマポの在日
ニート天皇はナマポの在日
ニート天皇はナマポの在日 江戸時代に入ると、鎖国して政治の中心も京都を離れるわけだが、
それだからかどうかは知らんが、徳川幕府の政治は陰険になるな。
さりげなく規則をつくっておいて、その規則に相手がはまって自滅
するのを待つ。
真正面から力ずくで相手を倒す、あるいは失脚させる攻撃型ではなく、
相手のミスを誘い、有無をいわせないところでぎりぎり締めつける。
後水尾天皇が憤慨のあまり、一時は退位を考えたという紫衣事件なんか
その典型だろうな。 ゴダイゴだー、大政奉還だーっても変えられん変えない方が良いと権力者も庶民も思った理由を考えてみよう。 >>173
後水尾天皇擁立を実現したのは他ならぬ家康なんだよな。
〜古事記代〜:天孫降臨、国譲り、神武東征===天皇↑
〜古墳時代〜:皇族同士の内戦、皇族主導===天皇↑
〜平安前期〜:藤原氏の興隆、摂関家の繁栄===天皇↓
〜平安後期〜:院政のはじまり、摂関家の失墜===天皇↑
〜室町中期〜:南北一統以後影響力弱まる=====天皇↓
〜江戸中期〜:国学の興隆→明治維新の原動力===天皇↑ 明治維新はキリシタン革命。島原の乱はイエズス会とフランシスコ会の内戦。ドミニコ会は布教を続ける。大名、近代華族はほとんどキリシタン。家畜には国家神道を与え、キリスト教式の替わりとする。フルベッキ写真は被差別部落のキリシタン。 >>173
禁中並公家諸法度17カ条で、天皇と公家たちをがんじがらめにしばり、
これで、朝廷は幕府に絶対抵抗できないようにされてしまった。
それとは別に後水尾天皇がやめた直接の原因は、春日局謁見事件だろ。
まあ、それにしても退位して上皇になって仙洞御所でじつに文化的で自由な生活を
楽しんだようだからいんじゃね。 >>178
むしろ、近年の説だとむしろ紫衣事件がきっかけで統制が強化された訳で、家康存命中はまだ豊臣対策で手が回らなかった。 外人は日本と皇室の歴史が理解出来無い。
>>1の理由が全世界の常識だからだ。
そこで外人に説明する時は
「天皇はローマ法王みたいな位置付けで権威の象徴」
「天皇と徳川や豊臣の関係はローマ法王とローマ皇帝の関係みたいなもの」
と言うと大概は納得する。 キリスト教圏の欧米なんかはローマ法王を例に出せば理解しやすいかもしれないが、日本人ならローマ法王との決定的な違いも理解しとく必要がある。
ローマ法王は十二使徒のペテロの後継者であり、出発点から宗教的権威であること。
ローマ帝国からの弾圧の後、国教化や帝国の東西分裂、西ローマの滅亡といった歴史的経緯により、民衆に深く関わる事になった。
末端の行政機関が未整備だったゲルマン諸国は、この教会組織を利用する事で民衆を支配し、結果的に教会は世俗社会に対して大きな権力を持つようになった。
一方、皇室は祭政一致の古代王権を出発点としている。
これ自体はユーラシア大陸においてもさして珍しい事ではないが、
治乱興亡の激しい大陸にあっては、異民族による王朝交代が日常茶飯事だった。
そして、アジアの王朝は最後まで君主が世俗権力と宗教的権威を兼ねる存在だったが、日本では実力者が天皇の権威によりその統治権を代行するように推移していった。
結果的に、ヨーロッパの政教分離のような形になった。
ただし、ローマ法王はインターナショナルな存在であるが、天皇はナショナルな存在なので、
バチカンのように分離独立する必要はなく、今でも対外的には国家元首として振る舞われておられるので、
いち宗教教団の教祖のような扱い方は不適切だし、憲法や法律を変えて、そのようにする必要もない。
ローマ法王もローマ皇帝もローマの最高神祇官 - Wikipedia
ユリウス・カエサルもまずは最高神祇官になり
のちのカエサルもみな最高神祇官になった
カエサルの血筋は皇帝ネロでとだえたが最高神祇官の地位は受け継がれ続けた
日本の皇室は日本の最高神祇官たる伊勢の斎宮を出す家系であり今も血筋は繋がっている
執政者たる摂政関白も征夷大将軍もその地位は天皇の勅許にもとづくものだ
西ローマ帝国 - Wikipedia
379年に、ウァレンティニアヌス1世の息子にして後継皇帝のグラティアヌスは、
最高神祇官 (pontifex maximus) の衣裳を羽織ることを拒否し、
382年には、異教の神官の権利を剥奪して、異教の祭壇をローマの元老院から撤去した。
そして最高神祇官(Pontifex Maximus)の称号をローマ教皇に譲ったのである。
天武朝98年間は後継に空いた日が無い(持統天皇除く
まさかここまで磐石だったとは思わなかった知らなかった >>183
世界史でカッコいい用語に大空位時代があったが
日本史上最大の大空位時代ていつかな?
今は皇室典範に天皇崩御後直ちに皇太子が即位とあるから
タイムラグはゼロ秒だな
天皇不在の瞬間が全く存在しない
神功皇后の胎中天皇
継体天皇即位までの空位
天智天皇、持統天皇の称制 細かくいうと、先帝崩御後は践祚で、
即位するのは即位の礼を以てだな 応神崩御後の仁徳と菟道稚郎子との譲り合い
反正崩御から允恭即位の間
清寧崩御後の仁賢・顕宗の譲り合い
武烈崩御から継体即位の間 明治以前は弘文天皇がいない空位期間をどうしていたんだろうか 日本民族1億3000万人の中で、遡れば皇族に行き着く人間は民族全体の何割くらいいるの? 韓国の大学教授 「日本書紀は、日本の歴史歪曲の根源。三韓征伐・任那日本府説は、新羅コンプレックスの産物だ」
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1389486220/ >>190
親が通婚していない帰化、特別外国人らを除く全員。 2014/1/30付
(入門講座)日本古代史への旅(4)天皇号はいつから使われたか 文献・出土史料で諸説 千田稔
http://www.nikkei.com/article/DGKDZO66052750Z20C14A1BE0P00/
わが国で、いつごろから「天皇」という称号が使われたかについては確かな答えがない。
私見では舒明朝
天武天皇(在位673〜686年)の時代には天皇号があったと見るのが有力だが、使われ始めた時期については、
文献史料によるか出土史料なども考慮に入れるかで見解は分かれる。推古天皇(同593〜628年)にまで
さかのぼるとする説もあるが、私は舒明天皇(同629〜641年)に始まったのではないかと考えている。
… 宗教から歴史、政治経済、社会問題まであらゆる情報の宝庫!
本日の講義は「大日本帝国は生きている・靖国神社」です。
日本を守るため、命を散らした英霊たちと天皇の真実!
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/ やっぱり一条天皇の時代にデジカメ持って行ってみたいな
一条はもちろん道長・定子・彰子・清少納言・紫式部・藤原 行成とか
写真で撮り捲くりたいぞ
貴族飯も食ってみたいし日本縦断して写真撮ってみたい 宗教から歴史、天皇、政治経済まであらゆる情報の宝庫!
本日の講義は『大日本帝国は生きている 特攻隊の精神』です。
桜のように美しく咲き、そして潔く散る… それが日本人の魂!
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/ >>貴族飯
そういうのが売りのホテルもあるようだ。
各時代の料理を再現したコースばかりの店とかできないのかな?
あったら通いたい…。
↓
http://www.narapark.jp/tenpyou/ ビックカメラ札幌店 副店長
佐藤伸弦が天皇の悪口をフェイスブックに書く
その後削除 後鳥羽上皇の評価について 彼は自らの理想のもとに、鎌倉幕府に挑んだ豪傑なのか、
それとも身の程知らずのキチガイなのか?どうなんでしょうか? >>1
日本の二重性の二重王のこれからについての素案
宗教王=天皇陛下+大規模皇族+華族
権力王=徳川征夷大将軍+上級武士
なお、下級武士は百姓に二本差しを便宜上許したものであり、
これは農民であるので
天皇陛下の側に属すので権力王側ではない。
なお、皇族をわざわざ大規模皇族と書いたのは、
現在の小規模皇族は汚いアメリカが
天皇陛下の血筋を途絶えさせるための謀略だからである!
なお、現在大日本帝國は継続しており、
大東亜戦争は継続しており、
大東亜共栄圏は繁栄を続けており、
目下、アメリカ全体主義国家の破壊と
人種解放と世界の安定に向かっている状況である。 >>1民主主義は多数派とされる者達が少数派を虐殺するためだけに存在します。
>>240
それ支那事変。
支那事変圧勝です。
一号作戦とその司令官の岡村大将について調べればわかります。
三戒なども。
支那人の圧倒的大声援のもとで一号作戦は完遂されました。
「日本人が匪賊(国民党軍と八路軍)を討伐してくれた!次の王朝は日本だ!」
>>241
権力者たちの合議制(昭和時代の自民党の派閥の合議制)のほうが
民主制(テロリスト民主党を選んでしまう欠点)より明らかに優れています。
>>242
>日本は封建制度が一番合ってるよ。
僕もそう思います。
天皇陛下がおはして、その配下に征夷大将軍がいるバランスの良さ。
>>243
>日本に独裁者制度って合わないような印象なんだけど。
征夷大将軍は独裁者ではありません。
二重王の宗教王・権力王のうち権力王を担当する王です。
宗教王=天皇陛下
権力王=征夷大将軍 >>5
>6世紀の半ばごろから仏教が入ってきてるが、これを受け入れるのは天皇家としては
かなりの決断だったと思うな。
天皇陛下は喜んで仏教を受け入れました。
いや、天皇陛下こそが仏教を日本に導入したお方です。
ミトラ教=神道
ミトラ教=仏教
だからです。
なぜならば、天皇陛下と蘇我氏と聖徳太子のルーツは
アスカ=パルティア大帝国でユーラシア北方遊牧騎馬民族大帝国出身だからです。
飛鳥=アスカ=ヒト=クニ@北方遊牧騎馬民族 >>6
>百済の王室から日本の王室に伝えられたが、日本の王室はしばらく受け入れないで、
「皇室、ね?不敬罪で死刑にされちゃうよ?」みを
ユーラシア北方遊牧騎馬民族大帝国=アスカパルティア大帝国=フーユ(扶余)=クダラ(百済)=ミマナ任那日本府=日本帝国
>>8
天皇陛下=ユーラシア北方遊牧騎馬民族大帝国皇太子
蘇我氏=ユーラシア北方遊牧騎馬民族大帝国系アスカパルティア大帝国ミトラ教大神官
つまり、天皇陛下と蘇我氏と聖徳太子は血縁者。 >>9
「なんでこの人にレスが付かないのかなあ?馬鹿ばっかりじゃないのこのスレ??」みを
>天皇一族は渡来人であり、日本列島にいた原住民を制圧して一つにまとめた。
「理解も表現法も違うかな」みを
天皇陛下=日本帝国の王の中の王
日本帝国=扶桑国+文身国+三輪王国+大漢国+邪馬壹国+越の国+河内国
日本人=縄文人*アスカパルティア大帝国皇族貴族神官
>神道は西洋宗教を日本列島に持ち込んだ渡来人(天皇一族)が、
原住民の自然崇拝とドッキングして作り上げていった神学体系ということになる。
神道=ミトラ教
>徐福 : ユダヤ教の儀式と風習、旧約聖書を日本列島に持ち込んだ。
それは支那における扶桑国伝説と扶桑の木伝説と蓬莱山伝説の混交体だね。
>秦氏 : 原始キリスト教(ミトラ教の一派)と新約聖書を日本列島に持ち込んだ。
秦氏ら=ミトラ教大神官蘇我氏の先遣隊
>蘇我氏: ミトラ教の中でも東洋グノーシス主義の流れを汲む仏教を輸入
蘇我氏=ミトラ教大神官であり最後に渡来して日本に本格的にミトラ教を導入 >>9
「お兄ちゃん鋭い!!」みを
>原始キリスト教とグノーシスの流れを汲む仏教は本質の部分(ミトラ教)では共通する。
カトリックやプロテスタントは頑なに認めないが、
イエスキリストはエッセネ派(ミトラ教の一派)に属してグノーシス主義者だった。
アスカ(ユーラシア北方遊牧騎馬民族大帝国)ミトラ教
→メソポタミア文明サカ人(スメル人(シュメル人(シュメール人)))ミトラ教
→派生物ミトラシズム(ミシアにズムになまる(メシアニズムになまる))@東イラン高原
→ユダヤ王ユダヤ人バビロン虜囚ミトラ教を学ぶ
→ユダヤ王ユダヤ人パレスチナに帰されミトラ教とメシアニズムを信仰し続ける
→「お母さんは処女なのに懐胎して僕が生まれた。」とか言っている
少しだけ頭のおかしな大工の息子イエスがあるときユダヤにいた。
→ユダヤ人はユダヤからメシアが現れたと大喜びした。
→キリスト教成立
→新約聖書成立
→ミトラ教が広まっていたローマ王国(ローマ帝国)にミトラ教を土台にキリスト教が広まった。
→旧約聖書成立
>今のキリスト教はイエスの思想からかけ離れたミトラ教の模倣に過ぎない。
そのとおりです。
キリスト教アタナシウス派はイエスの思想からかけ離れたミトラ教の模倣に過ぎず、
キリスト教の言う悪魔とはミトラ教最高神太陽神ミトラ様であり、
キリスト教の言う唯一絶対神とは悪魔の最高神にすぎない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています