だからすぐには受け入れていないよ。
「元興寺縁起」という説話によると、仏教はだいたい530年代ごろに、
百済の王室から日本の王室に伝えられたが、日本の王室はしばらく受け入れないで、
590年ごろやっと受け入れられた、となっている。
とすると半世紀くらいは公認されないわけだ。
もちろんこれは伝説(縁起)だから1つの手がかりに過ぎないわけだが、
はじめ、蘇我稲目が仏教を入れようとする。
ところが欽明天皇も敏達天皇も日本としては公認できないといって拒絶する。
そこで稲目はプライベートに信仰するわけだ。
ところが稲目の息子、馬子の代になると蘇我氏も勢力が大きくなったから、
公然と禁をやぶって585年、蘇我馬子が百済から伝わった弥勒像をまつるために
大法会をもようした。
そこで敏達天皇は怒って、いわゆる破仏を行ったということになっている。
この説話を信じるとすると、結局、崇峻天皇のとき飛鳥寺をつくりはじめ、
推古天皇のとき聖徳太子が仏教を国教化するまでには、大へんな抵抗があったんだと思う。