天皇の日本史
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日本の天皇というのは独特なもので、いわゆる万世一系ですが、
長い歴史のあいだには、いつそのまま亡びても不思議はないほどの
危機を何度も経験しています。
天皇の地位が力で奪えるものであったなら、藤原氏、源頼朝、北条泰時、
織田信長、豊臣秀吉、その他日本史の上にあらわれた実力者たちが、
いつでも天皇に代わることができたでしょう。
しかし実際には二千年近くのあいだ一度もそんなことは起こらなかった。
これは日本の不思議であり、日本史の不思議です。
ヨーロッパだったら王を倒した者はそのまま王になる。
そのため近世のはじめまでは血腥い戦争の連続だった。
日本ではむしろ相争う権力者の両方が天皇をかつごうとする。
なぜか?
それを実際の歴史に即して考えてゆくのがこのスレのねらいです。 後白河院は、二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽まで5人の天皇をみている。
これは白河院の場合と同じように、自分の眼の前をつぎつぎと天皇が代るのを眺めながら、
自分の皇統がずっと続いてゆくさまを見て楽しんでいるという感じがする。 信西入道が後白河院を評して、日本・中国を通じてまれにみる暗愚の天皇だが、
二つだけ徳を持っている、一つは他人に相談しないで物事を決めること、
もう一つは聞いたことは絶対に忘れない、年月がたっても心の底におぼえていることだ、といっている。
信西はさらに注を加えて、最初の特質は従来の天皇観からすれば大きな欠点だが、
ほかに欠点が多すぎるので、せめてこれを徳とするだってさw
従来の天皇は、自分では何事も決定しなかったのに、後白河院は先例を無視してどんどん自分で決めちゃう。
同時代の人間に言われてんだから、まあ、そういう人なんだろうよ。 南朝と北朝どっちが正統なのかそろそろ白黒付けようぜ >>62
後白河法皇が、嘉応元年(1169年)の出家後に儲けたのは
晩年の寵妃・丹後局との間に儲けた覲子内親王一人だけだろ 慈円の兄九条兼実は丹後局を嫌っていたし
愚管抄でも別にほめてないが >>69
信西の批評だという点が面白いな。
信西は稀にみる秀才で、中国の歴史に関する学識が深かったから、
天皇は中国の皇帝のようにならねばならないと思っていたかもしれない。
信西自身は少納言どまりの身分の低い貴族だから、政局を動かすことができない。
そこで、後白河院を通じて自分の理想を実現しようとしたのかもな。 >>69 面白い
>>70 北朝、断じて北朝
南朝なんか最後のほうでは全国的に支持を失ってるんだぞ
どっかのサイトであった解説
北朝:現実主義、融通が利く、武家と調和、権威とわきまえ権力を求めない
南朝:理想主義、教条的蒙昧、武家と敵対、権威のみならず権力も求める >>73
中国でも六朝までは政事責任者は上級貴族だ。
家柄がないとちゃんとした地位につけない。
ところが、唐代(618〜907)になると、家柄がなくても官人採用試験にパスさえすれば宰相にだってなれるようになった。
そういうことを藤原時代の日本人が知って、秀才の下級貴族はかなり不満を持ったということも想像できる。 信西はあるとき、藤原頼道(摂政・関白)のところへ行き、
自分はこんなに勉強したのに偉くなれないとさめざめ泣いたという話がある。
信西は唐の科挙制度のことはくわしく知っていただろうから、
門閥制度の現状に対して激しい不満を抱いていたと思う。 >>78
いや、藤原頼通って信西が生まれる前に死んでるだろ 後白河法皇が、裏でいろんな画策をし、1人1人宿敵を自滅させていった陰険な
マキャベリストだとする解釈はいつごろから固定化されたんだろうな。
昔からの説じゃなくて、案外、吉川英治あたりが最初かな。
井上靖の「後白河院」もそうだが、しかし、後白河院がそこまで計算してやったとは思えないな。
どちらかというと、フラフラ泳いでいく型だったような気がする。 保元の乱のときは、後白河院はなにもできなかったろうな。
信西、平清盛、源義朝たちの取巻きが勝手にことをはこんだわけだ。 >>81
平清盛の嫡母である藤原宗子が重仁親王(崇徳皇子)の乳母であったことから
清盛は最後まで態度保留で崇徳は清盛の支援を期待してたんじゃなかったか
後白河の側で保元の乱を主導していたのは信西とはいえ
いくらなんでも後白河本人もかつては居候するほどの仲だった実兄に帝位を渡さない
覚悟はあったはず 後白河院はもともと天皇になれそうもなかった人だからな。
だから、若いころから今様をやったり、遊女とつき合ったりしていた。
ところが、逆にそういうところが買われてひょんなことから天皇になった。
敏腕のホープよりも、新橋や赤坂で相当の実績がある、
おっとりした人を社長に据えたほうがいいと取巻きは考えたんだろう。
本人はまさか社長になるとは思っていなかった。 >>70
現在の皇室の見解では南朝が正統みたいだね。 >>83
後白河院は女遊びの経歴を買われて天皇になったわけではないし
もともとそれほど帝位から遠かったわけでもない
後白河は后腹だし2番目・3番目の兄は障害児だったため早くから長兄・崇徳が夭折もしくは男子がない場合のスペアだった
鳥羽上皇が晩年に美福門院を寵愛して母待賢門院が出家に追い込まれ異母弟近衛天皇が即位したため少々グレはしたが
実際に後白河が白拍子と遊んでいるさなかにも美福門院は後白河の皇子(後の後二条)を養子にしていた それにしても遊女から今様を習う天皇というのは、当時の宮廷社会の常識からいってもまことに革命的だな。
身分制度があれほどやかましい宮廷のなかに、どうやって遊女を入れることができたのか? >>86
宮中にずっと住むのは天皇と皇太子(東宮)だけ
即位前の後白河は宮中に住んでないよ >>86
お気に入りの遊女には下級女官として適当な身分をやればいいだけだ。
もちろん、実際は仕事をさせないで、今様を歌合せたりなんかする。
いまだって、特定の関係の女性をとりあえず秘書として入社させておく、
という手があるだろw 当時の遊女は売春婦そのものだが、それほど問題にしたかどうかだな。
むしろ一種の職業婦人だという気持ちの方が強かったんじゃね。
たとえば、左大臣にまで昇った藤原頼長は自分の日記の中に、
たまたま遊女のことにふれ、「これと通ず」と堂々と書いているくらいだからな。
まだ梅毒も渡来してなかったしね。 後白河院は、結局、何をしたらいいのか、自分としていったい何をしたいのか、わからなかった人だろ。
権力者になりたいと、さほど思っているわけでもないし、
権威という点では、すでに最高の権威で、これ以上望みようがない。
しかも、自分をめぐっていろんな人間がうごめく。
それに対しても同じ程度の愛情と同じ程度の迷惑を感じている印象だ。
後白河院と対蹠的なのが清盛で、あれだけの地位につきながら、
絶えず自分が誰であるか証明しなければ不安だったんだろうと思う。
そのために、白河法皇の御落胤説にすがったり、ついには安徳天皇の外戚になる。
そこで初めてホッとしたとたん、皮肉なことに清盛の凋落がはじまるわけだ。
何かしっかりしたものを必死につかみたがっている清盛が、
彼の望むものをすべて持っているにもかかわらず、
何をしたいのかさっぱりわからない後白河法皇を眺めている関係は、なんともいえず面白い。
歴史の皮肉だな。 >>88
さすがに庶民出身の遊女に官位を与えて宮中に召し出した例はないよ
同時代に庶民出身の常盤が九条院の雑仕女に選ばれた例があるが
これも殿上はできず(清涼殿に上がることができない)天皇にお目見えできない
(常盤が十二単来て貴族出身の女房同様に中宮のお傍でお使いなどの仕事をしていた大河の清盛はおかしい。
雑仕女って炊事洗濯などの水仕事を主にする下っ端)
そもそも後白河は在位2年で退位している
2年間ぐらい宮中に白拍子を呼べなくてもよかったと思うんだが
行幸や行楽で宮中を出れば訪問先や別院へは白拍子を呼んでもいい >>90
御両人の話が合う部分があったとすれば、白拍子のことかなあ。
清盛は本当かどうか知らないが、祇王・祇女とか仏御前とかに熱を上げた履歴があるから、
白拍子についてなら、お互い気安く語り合えたかもしれないなw >>69
実際の院政は後鳥羽上皇の承久の乱の失敗で終わるわけだが、そこで天皇制本来の姿に戻る。
つまり、天皇は祭りを、幕府は政治をするようになる。
ただ一度だけ、後醍醐天皇が天皇親政という少し変わったやり方をして、
それは成功することなく足利幕府に引きつがれる。
それ以後は政治をリードする天皇は出てこなかった。
つまり、院政時代は天皇が支配者意識にめざめて、
この日本国を藤原家に代って統治してやろうと思ったわけで、その意味では変則的だが、
逆にいえば、天皇の本質を鏡で照らし出したような時代といえる。
天皇という試料を歴史の実験室に入れて、どこまでがシャーマンの親方で、
どこまでが国家元首なのか、反応させてみたのが、院政時代だ。
その中で生れたのが、後白河院という、歴代天皇のなかできわめて特異な変種だったということだな。 武家政治の時代は幕府が権力で朝廷が権威だから、天皇家としては政治に責任を持たなくていいし、
ある意味では気楽な時代だ。
ところが天皇の中には幕府から政治権力を奪おうとして無理をした人がいる。
後鳥羽上皇と後醍醐天皇だ。
後鳥羽上皇は頼朝が幕府を開いて三代目の実朝で源氏が断絶したときに、
これを機に執権の北条義時を討とうとして逆に敗れて隠岐島に流された。
しかしこの後鳥羽以上にすさまじい権力欲を持った天皇が後醍醐天皇だな。
これも幕府を討とうとして逆に笠置山で敗れ隠岐島に流される。
ところが後鳥羽院は隠岐島では和歌を詠んだり、のんびり風雅を楽しんでいたが、後醍醐天皇は、
隠岐からさかんに綸旨を出して、諸国の武士に協力を要請した。
そしてやがて隠岐島を脱出し、尊氏が六波羅探題を倒すのに乗じて京都にもどり、建武の親政をはじめる。
ところがこの親政はむしろ武士の所領をとりあげてしまうので、
不満を持った武士たちは尊氏をいただいて京都に攻めのぼる。
後醍醐天皇は吉野に逃れ、南北朝の争乱がここからはじまるわけだが、その最中、
亡くなるときに天皇はわざわざ自分の遺体を北面にして葬るように遺勅する。
天皇は南面して葬られるのが普通なのに、朕は京都の天をにらんで死ぬといって、片手に剣、
片手に法華経を持って亡くなったというんだから、かなりはげしい意志の持主で、
ちょっと日本人離れした怨念の人という感じがする。 当時は大覚寺統と持明院統が交互に天皇を出す時期で、
皇太子になってもなかなか天皇になれず、
即位したのが32歳、当時としては例がない。
その間に政治への関心が高まっていたんだろ。 父親が後宇多天皇だから、4代も間があって天皇になるわけだ。
その間相当な不満が鬱積していたこともあるだろうな。
政治好きの背後には、宋学の影響があると思われる。 宋学のなかには大義名分の思想があって、これは王道を尊び覇道を卑しむという考え方だ。
つまり、幕府を倒し、王政を復活させようという後醍醐天皇にとって、うってつけの思想だった。 しかし、どうなんだろ。
後醍醐天皇のやり方をみると、宋学という筋道の立った思想のほかに、
密教的というか呪術的な影響がみられるよな。
吉野へ逃れたときに活躍する山伏とか、真言立川流などという邪教など、
後醍醐天皇のまわりには、なにかドロドロしたものがあるように感じてならないんだが。 天コロ様の権威を利用すれば、
実権を握りつつ、無批判に天コロを崇拝している愚かな大衆を支配できる。
それに尽きる。 >>98
まあ、あのころの人の宗教生活は、天台・真言を信じながら、
禅僧に近づき、同時に念仏を唱える。
天皇はすべての宗派に公平・平等であるべきだとされていたからな。
よくいえば八宗兼学、悪くいえば雑信仰だ。 >>95
大覚寺統と持明院統の対立は、たんなる天皇の対立ではなく、公家社会の対立でもあったからな。
大雑把にいうと、上級貴族は持明院統、下級貴族は大覚寺統を支持したようだ。
それについては「徒然草」におもしろい話が載っている。
あるとき、腰のまがった眉のまっ白な西大寺の静然上人が参内するのをみて、
西園寺実衡が「なんと尊いお姿だろう」と感嘆したところ、側にいた日野資朝が
「年をとっただけで尊いなら、老いさらばえたむく犬も尊いだろう」とうそぶいて、
彼のもとにその犬をおくったという。
西園寺のような上級貴族と資朝のような下級貴族の伝統や先例に対する
感覚のちがいをよくあらわしているエピソードだと思う。
資朝や俊基が目指したのは古臭い伝統の破壊、いまの言葉でいえば反体制運動だな。 武士についても同じようなことがいえる。
足利尊氏は源氏の正嫡、武家の正統だ。
身分の低い武士は北朝側についてもたいして出世は望めない。
そう思って南朝側をみると、あそこなら案外、出世できるかもしれないというんで、
後醍醐天皇のまわりに集まってきたんだろ。
南北朝の対立といっても、べつにイデオロギー的に真っ二つに割れているわけじゃないからな。
一家の中でも、惣領が尊氏側につけば、それと反目する庶子が南朝側につくという具合だった。
あくまで利害打算で動いてんだから。 後醍醐天皇の政治スローガンは、一口に王政復古、天皇親政といわれるけど、
実際、建武中興でやったことは、土地をすべて天皇家のものにしようとするようなムチャクチャなことが多く、
いったいどんな政治構想があったのか疑問だな。
もちろん、初期の段階で関所を廃止し経済活動を活発にしようとしたり、
米の価格を抑制する政策を推し進めたりするんだけど。 >>103
初期の段階は、宇多・醍醐・村上天皇の延喜・天暦の治、
いわゆる摂関政治以前の天皇制にもどそうという理想は持っていた。
ただし、延喜・天暦の治を理想の時代とするのは後世の虚像だけどね。
実際は平将門の乱があったり、非常に乱れていた。
後醍醐というおくり名はあきらかに醍醐天皇を意識している。
しかし、ふつうおくり名は亡くなってからつけるんだが、後醍醐というのは生前からの自称だ。
そこに延喜・天暦を再現したいという情熱はうかがえるけど、
現実はもはや古代天皇制に戻れるような時代ではない。
後醍醐天皇はこういう歴史の現実が見えなかった。
建武中興の失敗の原因はこれにつきると思うな。 >>101
大覚寺統と持明院統の争いは天皇家及び
西園寺家と洞院家(洞院家は西園寺家の傍流)の争いが発端
下級貴族と上流貴族に分かれて対立していたわけではない
実際に南朝と北朝に兄弟が分かれて仕えた例も多数 >>105
むかしあったある型を理想化して、それを再現するというかたちで革新のスローガンを掲げる。
これはひとつのパターンだね。
相手側の尊氏も鎌倉幕府初期の北条義時・泰時の時代を理想の政治体制とし、そこへもどすといっている。
明治維新だって、王政復古だからな。
意志を決定するときいつも不安で、一種の理想形をつくって、それのアナロジイで自分の意志を決める。
まったくの新しい原理じゃダメなんだな。
この傾向は政治ばかりではなく、仏教の場合も同じだな。
法然や親鸞、戦闘的な日蓮さえ「本文に曰く」といい、権威を過去の経典に求めている。
法華経や涅槃経にこう書いてある、といわないとみんなを納得させることができない。
独創じゃダメなんだ。
こういう本文主義は現在まで続いているよ。 DQN「おきに流されるって、後鳥羽上皇かよwww」
↓
DQN「おきに流されるって、北条政子かよwww」 >>108
本文主義の総元締のようなものは天皇制だろ。
その天皇制が最大の危機をむかえるのは、南北朝時代だと思う。
いつの時代でも、権力者はたとえ天皇の実質的な力を弱めてもつねになんらかの位置に据えていた。
秀吉にしても、家康にしても天皇を圧迫はしたけれど、権威の象徴と
見做していたことに変りがなかったように思う。
ところが、尊氏がいちばん信頼もし、いわば足利家の番頭である高師直は
「天皇なんて所領ばかり取って無駄な存在だ、あんなものは木か金でこしらえておけばいい」といったという。
「太平記」の作者は「あさましきかぎり」と憤慨してるけど、もっと大胆不敵なヤツがでて来る。
美濃の守護土岐頼遠は、街頭で光厳上皇の行列に出あい、「院の車ぞ。下馬せよ」と注意されると、
「なに、インの行列、イヌの行列だと」といって、上皇の車をかこんで矢を射かけたという。
古い権威なんぞ屁とも思っていない新しい人種が、この時代に登場したということだろうな。 天皇制否定にまで行きつかざるを得ないものを思想として持っていたのが、後醍醐天皇の臣、資朝だ。
なにしろ伝統や先例の権威を否定し、これを嘲笑する反体制の思想家だからな。
しかしそれにもかかわらず、天皇制が存続したのはなぜかといえば、まあ、
簡単にいえば尊氏が廃止しなかったからだよ。
古い権威を一顧だにもしなかった高師直や土岐頼遠が出て来たが、その反面、
地方の武士の間には綸旨や令旨がたいへんな権威をもって通用したこともこのころの現実だよ。
だからこそ、尊氏にしても新田義貞にしても、兵を挙げようとしたものはすべて大塔宮の令旨をもらった。
そうしないと、兵を動かせないんだ。
とくに尊氏はその効用についてよく知っていたので、いったん敗れて九州へ逃げるときでも、
ちゃんと光厳上皇から院宣をもらうことを忘れなかった。
だいたい、この時代の大多数の武士の考えは保守的で、本当に革命を考えていたとは思えない。 武士の側自体に貴種崇拝の思想があるからね。
力や才覚があるから尊敬されるのではなく、
家柄が良いということで重んじられる。
源氏や平氏が地方に下って武家の棟梁になれたのも、
貴種崇拝の考えがあったればこそでしょ。
足利氏も一流の源氏出身だから天下に覇を唱えることができた。 源氏も平氏もとどのつまりは、天皇の血筋につながる。
貴種崇拝は天皇制思想だともいえるな。 後醍醐天皇は意欲ばかり先走って、現実が見えないから、
自分のイデオロギーをしゃにむに通そうとする。
これが後醍醐天皇の政治の特徴だな。 王侯制度や貴族制度ってのは武力の他に外交が権力の源泉で
また外交に於いて最も高い信頼度を得る方法は姻戚関係を持つ事だった
学校の授業では弥生人は朝鮮半島から渡って来たくらいしか言わないけれども
奈良時代くらいまでは中国が本気を出して攻めて来たら周辺国は吹かれて飛ぶ様な存在だったし(白村江で負けた後には唐軍が北九州に進駐していたらしいw)
日本の朝廷は朝鮮半島の諸王朝と姻戚関係を幾度も結び直していた
これらの人脈を全部潰してしまうと朝鮮乃至中国に攻められてしまうかも知れないとの懸念が室町幕府までは大きかったので覇者は皆とも征夷大将軍より上を望まなかった
織田信長は南蛮貿易を通じて朝鮮でも明でもやっちゃえるかもと考える様になったので殿上人になった
秀吉は信長に倣い実行に移した
家康は海外に野心が無かったので管理貿易にだけ執心した
日韓併合や満州国建国もこれらの歴史が大義名分になった 後醍醐天皇の頭の中には、はじめは宋学の大義名分論があったけれど、
新政開始後は現実の問題処理に追われて、イデオロギーがどうのとはいってられなくなった。
南朝についた武士も北朝についた武士も、最大の関心は自分の所領を一寸でも伸ばすことだ。
そのために鎌倉幕府を倒したわけだからな。
なにも後醍醐天皇の大義名分論に共鳴したわけじゃない。
天皇に現実が見えないというのはそのことなんで、そこに天皇の悲劇がある。
だから、戦いが終われば、当然、恩賞を要求する。
ところが後醍醐天皇の恩賞の与え方は、武士の本当の欲求にさっぱり応えなかった。
せっかく、記録所や雑訴決断所などの新政を運営する役所もつくったのに、そこに働く人材もいなかったし。
なんだかないないづくしみたいだが、それが天皇親政の実体なんだよな。 明徳3年(1392)、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に神器を返し、この結果、
およそ60年にわたって対立していた南朝と北朝は合体する。
めでたし、めでたし。 〜都道府県の居住意欲ランキング〜
1位は『 京都 』
「地域ブランド調査」(全国3万2124人から回答)によると、
47都道府県のうち、最も「住んでみたい」と思われている地域は京都府でした。
京都は、回答者のうち12.2%が「ぜひ住みたい」と答え、13.3%が「できればすみたい」と答えるなど、
ほぼ4人に1人といえる25.5%が居住意欲を示しています。
年代別にみると20代の居住意欲が最も高く、ほぼ4割である39.8%が居住意欲を示しています。
そこからさらに学生に絞ると、なんと半数を超える53.7%という結果となります。
つまり、学生など若い世代の居住意欲がかなり高いのです。 南北朝合体を実現させたのは、もちろん義満の力だろうけど、
こう抗争が長びくと情勢も大いに変わってきたよな。
楠木正儀は北朝側に走るし、南北両朝とも内部対立がはじまった。 >>121
一世代でおわらんかったもんだから子の代でみてるとたすき掛けおきてるんだよね
北朝なのに南朝にはしってしまったり
それぞれの内輪揉めから
南朝から北朝にいっちゃったとかが内情かな? >>121
北朝天皇を擁立し、北朝から征夷大将軍に任じられた足利尊氏すら
後村上天皇に臣従したりしてるから。
室町幕府自体、初期はどっちの天皇でも良かった。 >>121
とくに南朝側は、後醍醐天皇の遺勅のうけつぎ方に二派あって、
一つは朝敵ことごとく滅ぼすという抗戦派、もう一つは和平派だ。
このころは、両者の関係が決定的に悪くなっていた。 >>119
朝廷の中も、いろいろ割れていたし、後小松天皇の立場も微妙だった。
事実、奥吉野には南朝が残るし、その影響はずっと後の応仁の乱(1467〜77)
まで尾を引き、小倉宮が南朝の後胤だと称して動きまわる。
終戦後になっても熊沢天皇なんていうのも出たしw >>119
こんとき統一されたって
教科書ではめでたしめでたしになってるけど、残った旧南朝系はそのままどうなってったの?
一部はそのまま後南朝たててきえてしまったけど、統合した人たちもその後は二度と系統的に表舞台にですに終わってるから
消えちゃったの?
忘れた頃にしんせき降下させられて仏門おくりになったん? 義満は後小松のお父さんの後円融天皇と同じ年だな。
そうすると、二人の関係は、もちろん天皇と臣下だけども、
感情の上では親子のような気持ちだったかもしれん。
だから、義満は自分は天皇の上位という意識がでて来て、
出家した後はまるで法皇のようにふるまっている。
たとえば北山殿の行幸の場でも、ふつう法皇がすわる上座にすわって、
列席の貴族をおどろかしている。
なくなってからは、太政天皇(譲位した天皇のこと)という号を朝廷から
おくられ鹿苑天皇とよばれている。
それに、孫の義嗣の元服は親王のそれに准じて内裏で行った。
このとき義満の正室日野康子は准母(天皇の母がわり)の称号を受け、
もうこうなると、義満は天皇とちっとも変らない。
後小松天皇としても、それを横目でみて内心、面白くなかったろうな。
もっとも、そんなことはおくびにも出さなかったろうけど。 >>127
足利義満と後円融天皇は同い年の従兄弟。
足利義満の母紀良子は後円融天皇の母紀仲子(広橋兼綱の養女になったので広橋仲子とも)の異母姉だ。
このように義満と後円融天皇は血縁が近いだけではなく、たびたび後円融天皇は義満の皇位簒奪に脅えていた。
次第に妄想も激しくなり、後円融天皇は後小松天皇の母である三条厳子を足利義満と密通したと疑って怒りのあまり
刀の鞘で殴打、驚いた厳子は里へ逃げ帰ったという実話まである。
鞘殴打事件は後小松天皇が生まれた6年後のことだが、足利義満は後小松天皇母との密通を疑われたことまであるという点で
後小松天皇とも浅からぬ関係がある(後円融天皇の妄想が事実でかつもっと早い時期から密通があったとしたら
義満は後小松天皇の実父の可能性もなきにしもあらず…)。 義満の行動パターンをみていると、武士であると同時に、
公家化して行く、この二つの行動様式を巧みに一身に兼ね備えている。
武家の棟梁でありながら、公家の伝統に結びつくことに、
一種の活路を見出すという感覚があったようだ。
小さいとき、父の義詮をなくし、わずか10歳で将軍になって以来、
複雑きわまりない権力争いにまきこまれながら、そういう感覚を
身につけたんだろうな。
同じ3代将軍でも家光よりはるかに条件が悪い。 なに?少しは室町押しでも始まったのか?
異様に江戸時代ばかりとりあげてたもんな
あとは戦国時代とかな 義満以後の将軍は義満の中の武士の部分と公家の部分を分業するような形で受け継いでいく。
つまり、非常に武士的に振舞おうとする将軍と、すっかり貴族化した将軍という具合にハッキリ二つのタイプに分けられる。
たとえば、義満の息子・義持は関東武士的な性格を濃く残している。
偏見から世阿弥を迫害したり、対外貿易をやめたり、なんだか親父がやったことにいちいち反対する。
朝廷から義満に太政天皇の号を贈られると辞退しちゃう。
古い武家の棟梁といったおもむきがある。
義満に可愛がられた義嗣が長生きしていれば、教養の点でも趣味の点でも、義満の持っていた公家的側面を引きつぐはずだったと思う。
そのつぎの義教は武断派だね。
あまり、守護大名に強権を振ったせいで、赤松満祐に暗殺されてしまう。
その後の義政は徹底して公家化して行く。その両方の原型が義満の中にあるわけで、公武合体を一身に体現していた義満だが、
その政策もまた、公と武のバランスが巧みにとれていると思う。
政治の実の部分もうまい人だが、虚の部分というか、情報戦略が大へんわかった人のような気がする。
北小路室町に花の御所をつくったり、そのあと丹後の天橋立や厳島に豪奢な行列をつくって遊覧の旅をする。
それが文化育成にもつながった。
たんに文化育成ではなく、政治に利用することも計算に入れている。 もともと幕府方は南北どっちでも良かっただろ。
たまたま軟調後醍醐が親政やりたがったんで武家棟梁の尊氏は
北朝と組んだだけで。
幽閉中の後醍醐が吉野に逃げ出しても、にこやかに送り出す
くらいなもんで。 安土桃山時代には、伝統的権威の頂点に立った人が3人いると思う。
まず、足利15代将軍義昭、これはおちぶれたとはいえ室町幕府の総帥だ。
つづいて本願寺の教主顕如、これは蓮如以来、大政治集団となった浄土真宗の指揮者で全国の一向一揆の精神的支柱だ。
つづいて、正親町天皇。
以上3人だが、戦乱の時代が過ぎてそのうち誰が生き残ったかというと、正親町天皇なんだよな。
あとの2人は信長と争って結局ほろびてしまう。
正親町天皇は実力の世界に一切タッチしないで、純粋に非政治的な立場を通したから生き残ったんだろうな。 >>130
未だに戦国時代とか情弱丸出しだろ。バテレンかぶれの横暴者とか
足軽上がりの成り上がりみたいなのばかりで、ロクに文化もない。 戦法は武士らしい一騎打ちもやめてしまって、歩兵戦で南蛮の飛び道具だ。 武将たちは無闇に残虐な真似ばかりして世の中は荒んでるし。
ロクな時代でない。 大陸出兵の土産物で茶道は起こったか。
ノリキューも秀吉が腹切らせたろ。 >>133
信長くらい残虐な性格だと強いは強いが部下にあっさり討たれちまう。
あんまり自慢にならん。 >>139
信長が残虐なせいで部下に殺されたというのを信頼できる一次史料で証明しよう。
他のスレで暴れているアンチ信長君。 力の強い順、あるいは金のある順でいったら、顕如、義昭、正親町天皇の順になるだろうな。
信長からのやられ方もこの順にひどいな。
顕如をリーダーと仰ぐ本願寺門徒は数万人焼き殺されたというし、
本拠である石山本願寺は海上封鎖されて兵糧攻めにあって落城した。
力に抗するに力をもってした悲劇だな。
義昭の方は最初は信長のお蔭で将軍になったが、たんなる精神的権威としての立場がつらぬけず、
妙な政治的画策をして、信長を裏切ったので、結局追放されてしまう。
義昭は見通しの悪さで亡びたという印象だ。
正親町天皇となるとこれはもう、自分を信長に利用させるだけで、それで安泰だった。
何しろ正親町天皇は貧窮して、践祚してからもお金がないために3年ほど即位できなかったからな。
御所の塀がくずれたまま直せないので、三条の橋の上から中の灯りが見えたというほどの暮らしをしていたのだが、
自分の利用価値を正しく認識していたので、あわてずさわがず、戦乱の世に処したのが成功したわけだ。
さすがに権威の総元締めはかしこい。
義昭や顕如にはまだまだ伝統の知恵が足りなかったな。
しかし信長という人も偉い人だったね。
当時天下を取るにはいくつかの方法があったと思う。
一つは北条早雲のように、関東に武家政権をうちたてて鎌倉幕府を踏襲しようとするもの。
もう一つは、まず自分の領国を固め、生産を高め、武力を蓄えた上で次々に隣国を攻めていくやり方。
いろんな天下争奪のプランがある中で、最初から京都に目を向けていた信長が結局は天下をとった。
これは偶然じゃないと思う。 ↑で書かれているけど、信長、顕如、義昭、正親町天皇の関係って興味深い
格付けとしての関係と実力としての関係があるしね
誰か今の時代に例えてみてよ 無理やり今の時代にあてはめた場合、正親町天皇は今上天皇、顕如は今の浄土真宗の教主として、
問題は信長と義昭だけど、安倍総理が義昭になるのかな?その場合は信長は誰? 義昭ー信長の関係は野田ー安倍になるのかな?
妥当なような違うような
まあぴったり当てはまるはずもないけどね 義昭-信長の関係は協力関係にもあったわけだし全然違うだろ あくまでも「形」としては、幕府の将軍は今の首相になるんだろうな
信長の該当者はわからんけど >>141
正親町天皇が貧窮したのは、足利幕府の力が弱まったので、
幕府の武力で守られているはずの朝廷に、各地の御料地からの
上りが、大名に横領されてこなくなったからだよ。
だから、当時は幕府再興をうたう大名が入洛するのを朝廷も歓迎した。
大名の側としても、そういう大義名分のもとに自分の武力を京に
しめすことの有利さを知っていた。
これはみんな同じで、武田にしても上杉にしても、最終的には、
そこに眼をつけていた。
しかし結果的に信長が成功したということだ。
戦国大名は武力さえあれば天下を取れたというのはウソで、
将軍家とか天皇家とかの伝統的権威を復興させるという、
大義名分がなければ一般の武士が納得しなかった。 明治天皇すり替え説ってちょっとでも可能性のある話なの? >>150
そういう反日が喜びそうなのは近代史板でやってろよ >>128
すり替えならこっちのほうが可能性高いんじゃないか 安倍首相は祖父である岸信介を政治家として尊敬していると言ってました。
また、安倍首相は現皇室に対しても敬意を示し、「我々政治家がどんなに頑張っても
陛下の代わりは務まらない。これは皇室の歴史そのものだから」と言うニュアンスの
ことを言っていました。
しかし、尊敬する岸信介は生前、「明治天皇は維新の折にすり替えられた」と
言っていたようです。
この発言は現皇室の正統性を根底から否定しかねないですよね。
皆さんはこの辺どうお考えですか? ちなみに今の天皇も昭和天皇の実子じゃないよ。
今上天皇は私の家系は百済にゆかりがあると言ったことあるだろ。
昭和天皇のお嫁ちゃんの香淳皇后は島津家の出だ。
島津家は百済にも新羅にもゆかりがあるんだ。(三韓=韓国)
明治維新以降、天皇家は実は政治的に利用されていて政治も民族主義者に操られていた。
今もか...(韓国議員連盟)主に長州藩・薩摩藩ね。
天皇家は実は戦・戦争・クーデターによる天皇征伐・排除でその時代が決まる。
今の天皇家はマスコミと政治を利用し、いわば日本の象徴を作り出している虚像。
美しい日本を捨て、西洋文化を取り入れ近代化を作りだした北朝の象徴なのだ!
近代化とは「美しい日本」を捨てることだった。
南朝・北朝は今でもある。
天皇家は南朝にあり。これが正しい。
今上天皇は北朝の南朝派。
だが極右の北寄りの氏族の安倍氏を任命したのは今上天皇さm。
「中国は嫌いだけど、韓国は交渉もできない愚かな国」発言。
右翼思想が軍国主義・社会主義につながる。 明治天皇すり替え説とか明治の元勲が一同に介したあの写真とかおもしろい話だけど全部ウソだからな >>149
関白とか征夷大将軍とかいう位も、結局、天皇につながっているから権威になる。
この時代、正親町天皇にしろ後陽成天皇にしろ、生身の天皇は蔭の人だったからな。
ところが、この天皇が賜わる位をめぐって、政権の交替がつぎつぎとおこなわれた。
天皇というものの面白さがそこにある。 豊臣秀吉は後陽成天皇を(少なくとも表面上は)尊重していましたが、
関白政庁として御所を遥かに凌ぐ豪華絢爛な聚楽第を御所の近所に
建てました
この辺の精神的、権勢的駆け引きはどういうものなんでしょうかね? matome.naver.jp/odai/2136862417660256501
天皇と安倍は親戚 、安倍は現在日本人独裁支配工作中。
www.youtube.com/watch?v=qZve5N-_doI
ユダヤが明治天皇を朝鮮人にすり替え
田布施朝鮮人昭和天皇が中国で金をユダヤの為に略奪。実行部隊「巣鴨プリズン」には触れず。
ロシア国営テレビゴールデンタイム放送
blog.livedoor.jp/home_make/archives/1845811.html
第二次世界大戦もユダヤ茶番戦争。ユダヤによる日本人傀儡支配代理人田布施朝鮮人昭和天皇が
敵国にいる仲間と演技で戦争しただけ。家族の為、日本の為、1919年の牧野の精神で戦った日本人は
みんな死刑。一方でユダヤ茶番戦争を仕掛けた田布施朝鮮人には利権。
小和田家は日本人を何万人も水俣病で虐殺したチッソ創業一族。外務省も小和田中心に在日支配。
チッソに抗議した家族は逮捕。小和田家には利権www
しかも、水俣病になる事を知っていた意図的な虐殺工作。
www.youtube.com/watch?v=9cs6I9dh5UM
ユダヤが在日を右翼と左翼に分けて茶番対立支配。
ユダヤが敵対思考に工作員を送り茶番対立支配。
自分の利益しか考えず他人の利権には嫉妬に狂う朝鮮人が何で街宣右翼やって
天皇を批判した日本人を殺せるのか?考えてねwww
ハイ、お前ら全員相手に完全論破!! 天皇家は南朝にあり。これが正しい。
今上天皇は北朝の南朝派。
明治維新以降の企業家は皆、半島混血種。
政治家も多数。平民は大和民族。
出世するのは半島混血種。
利用されるのは、在日。
日本人=扶余族+エヴェンキ+大和民族の交配種。
神道の国日本。
仏教徒日本。
なーのにクリスマスを祝う馬鹿な民族。
おどれらキリシタンか。
売国奴め >>161 明治天皇すり替え説から太平洋戦争で日本占領のストーリーは
既に
ユダヤが勝って自分達の好きにできる様になったので
今上から筋を元に戻してあって
すり替えを騒ぐお調子者を利用できる機会に使って嵌めて天皇家の権威を数倍高める段階まで進んで居る
との噂も80年代には流れていたがw実際どうなの詳しいおまいら? 豊臣秀吉の治世になっていきなり公家や太政官の数が飛躍的に増えたわけじゃないですよね
豪華絢爛な関白政庁の聚楽第に出仕する公家、太政官はそれまで何処にいた人ですか?
新しい関白政庁の聚楽第ができたことによって、取り壊された古い政庁があったわけですか? >>158
あの写真が偽物だと根拠ってなんですかね? 天皇は世界で王という地位+宗教的な神話教主的地位もあったってのがデカイよねえ
わかりやすく言うと 天皇=ローマ法王+アレキサンダー大王 みたいな…
素人的主観だけどこれは強いよホント
代重ねする毎に弱くなる王的立場も宗教的立場なら弱まることも無い
むしろ神秘性が増して強くなる
王的立場も新勢力に関白なり将軍なりつけるだけでやはり残る
新製力が天皇家を倒せば新勢力となったとはいえ疲弊した状態で賊軍扱いでフルボッコされる可能性がある
つまり日本では2回連続で天下取りできる軍事力と求心力がないと天皇家を超える事はできなかったと
天皇システムマジすげえww
儒教とか学問的なもんだったし
キリスト教とか早いうちに流れ込んできてたらヤバかったね
なんつー奇跡的な位なんだ天皇。あるいみマジ神だな… ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています