任那四邦は倭人国群の内でヤマト領だった時期もあったが馬韓だったか弁韓だったかがヤマトから任那を奪った
その後に百済が入り日本府の置かれた時期には百済領だった
百済は衰退し始めると東からの新羅による圧力に耐える為にヤマトに半島への常駐を依頼した
ヤマトはこれを請けるに当たり任那の割譲を要求したが百済王室内の調整が着かなかった
そこでヤマトの皇子を百済の臣下にしてこれに任那を下賜するといった複雑な手続きが採られた
この結果ヤマトからの援軍は外国軍では無く日党(=)義勇軍の体裁で任那に常駐した
故にヤマトからの援軍に依り置かれた行政府には日本府の名称が用いられた