任那(日本府) 加羅 20
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>>235
石器と土器じゃの妄言繰り返すのう。特に土器なんか流通か地元産じゃし、民族移動に
関連せんよ。
>>236
オンドルなら、飛鳥どころか長野県でものう。
http://naganomaibun.or.jp/archives/5896
【沢田鍋土遺跡:オンドル状施設】
中央手前のカマド下には、土器で覆ったトンネル状の溝が作られ、暖気が床面を横断する溝を
とおって壁際の溝に流れたと推定されます。
短弓も正倉院狩猟図に描かれとるのう。
http://3.bp.blogspot.com/_71OM9lkGuVg/TOORhKK4X2I/AAAAAAAAY4s/Q7WjbikSrfs/s1600/Z11-731.jpg
奥州蝦夷も短弓使うとる。
http://livedoor.blogimg.jp/gogo_amy/imgs/7/e/7e7d8890.jpg
>>238
新町遺跡の人骨が古モンゴロイドに属するんは他スレでも云うたろうが。
http://blog.goo.ne.jp/garfsn1958/e/c4f09da4a23d69a3d6f33c01413df16f/?st=1
「大陸や半島と同様な埋葬方法であることから、被葬者も、恐らく渡来系(弥生系)の形質を
持っているだろうと予想されていました。ところが、この熟年男性と推定された9号墓出土人骨は、
予想に反して頭は前後に長く(長頭)・顔面部は低顔性・低眼窩・鼻根部の陥凹という、
在来系(縄文系)の形質を持っていたのです。」
福岡県糸島半島の新町遺跡で、朝鮮系の支石墓の中に、縄文人系の 人骨が葬られていた云うんも
韓式支石墓は韓国西南部の縄文形質地域じゃし、半島土着の韓族も縄文形質が多かったわけじゃし。 >>240
だからあんたの独り善がりな考古学なんて要らないんだっての。
俺は世界標準の考古学における移動集団の故郷を特定する際に使われる材料で
世界標準の考古学でちゃんと話を進めてるんだ。
有害でむぱのあんたとは大違いだよ。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた渡来人骨は弥生早期の新町遺跡から
出土した混血人骨です。
ちゃんと調べたらどうですか?
何もかもでむぱで構成された考古学をやる頭のレヴェルに無い方。 >>237
日本神話と比較神話◎吉田敦彦
http://ameblo.jp/vipassanar/entry-12165407473.html
おそらく四世紀から六世紀にかけての古墳時代、さらにそれに続く七世紀、
そういう時期の間に日本の神話はつくられたわけです。
この時期に日本が最も密接な関係を持っていた地域はどこかと申しますと、韓半島です。当時は
三国時代と申しまして、高句麗と百済と新羅という三つの国があった。そして、この時期の
…慶州で、昔の新羅の王様の都です。その慶州の博物館に行きますと、新羅の王様のお墓から出た
出土品がいっぱい展示してあります。これを見れば一目瞭然で、後で鶴岡先生のお話にスキュタイ
の美術のことが出てくると思いますが、まさにスキュタイ的な品物がお墓からたくさん出て
おりまして、この時代の韓半島は南の端までスキュタイ人の文化の非常に強い影響を受けていたと
いうことが明瞭なわけです。
その時期には韓半島から大勢の人たちが日本に渡来してまいりました。… >>240
そんな間違った個人の間違ったブログなんか出してどうすんだよカス。
ちゃんとした考古学者のドキュメントをあたりなさいよロートル。 なるほど、自分がロートルであるという不安があるわけか >>240
北陸は新羅や伽耶と繋がっている
ヒスイの交易路が新羅〜伽耶〜山陰〜北陸とあり、
これらの交易路を頼って朝鮮の東南部から日本の山陰〜北陸に渡来した集団が
持ち込んだのだろう
短弓もこのルートで東日本にもたらされたのではないかと思う
ただオンドルも短弓も日本では一般的ではなかったし、
定着しなかった
これは日本人の基層になっている集団が、オンドルや短弓が朝鮮に普及する以前に、
朝鮮から日本にやって来たことを示唆するのではないかと思う
イメージとしては騎馬民族化した高句麗を嫌って、朝鮮から南下した純度の高いツングース、
ワイがそれにあたるのではないかと思う
あるいはワイ以前のワイみたいな集団がいたのではないかと思う
ワイとワ、ウェイとウェの名前の類似がそれを示唆している >>242
ただ新羅のほうでは卵神話になっている
東アジアではなぜか狼のモンゴル高原―卵の満州をすっとばして、
日本にギリシア―西アジアのギリシア神話が入って來る
これが不思議でしょうがない
なぜ日本にどストレートに入って來るのか 縄文時代にウラジオストクと黒曜石貿易をしてるんだから
その時期に人もやって来てるだろう >>245
で、朝鮮東南部から山陰北陸に渡来した事を証明する証拠遺跡と
その証拠石器・土器は? >>247
交流、交易と人の定着は別だよ。
確かに沿海州とは縄文早期から黒曜石交易があった。
しかし沿海州から人の定着を裏付ける証拠遺跡や証拠土器は
縄文晩期まで見られない。
島根に現れた前池式刻目突帯文土器である。
のちにその土器の担い手は九州北部に入り、弥生人と呼ばれる事になる。 朝鮮最古の土器文化である隆起線文土器なら日本から伝わったものだというのが
今の定説のはずだが。
むしろ朝鮮人の方が縄文人の末裔という事になる。
もちろん縄文人の祖先の旧石器人は半島から来た集団だけど。 北陸にはこういう人がいるんだよね
https://youtu.be/XS2hP6khGAc?t=2m1s
北陸から東北にかけては妙に顔が大きな人が多い
大陸人っぽいんだよね
まぁ、この辺が複雑なのだけど、いにしえの朝鮮人と現代朝鮮人はあまり変わっていないのか、
それとも、いにしえの朝鮮人は現代朝鮮人とはいくぶん違っていて、
より日本人に近かったのか、だとすれば、こういう妙に顔の大きな人たちは、
民族異動期というよりも朝鮮人が形質変化した後の時代になって、
歴史的に今でも脱北者が北陸に漂着するように遭難して北陸に漂着したり、
何らかの繋がりがあって定期的にやって来ては住み着いたということになる
もし現代朝鮮人といにしえの朝鮮人があまり変わっていないのであれば、
いにしえから朝鮮人と日本人はいくぶん違っていて、朝鮮人は日本人に比べると顔が大きく、
顔面が平坦で頬骨が張っていたということになる
だとすると、古墳期の大量渡来はちょっと考えづらい
そして北陸人―東北人の西日本人とは少し違ったあの大きな顔、
少し横幅の広い顔などといった特徴は古墳時代に形づくられ、
1500年前くらいからああいう顔をしていたということになる こういうじゃらじゃら着飾りるところはどこかカム人を想わせる
まぁ、じゃらじゃら着飾るのはモンゴル人もだけど 要するに北方モンゴロイド形質を帯びた顔が北陸に多いのは
何でかという事だろ?
単に弥生人の後裔だから。
沿海州から渡来した弥生人たちは島根から九州北部に至る場所から
ずっと離れなかった訳じゃないよ。
弥生中期にもなると舟に乗って北海道南部から沖縄まで交易していた事が
出土人骨から分かっている。
沖縄の南洋貝の腕輪などのアクセサリーを北海道南部に持って行って
昆布などの海産物と交換し、それを沖縄まで持って行って南洋貝と交換
というような交易活動を日本各地で営んでいた。
そのときに彼らの遺伝子が日本各地に落とされていったのである。 北方モンゴロイド形質なら日本人全体がそうだよ
もっと細かく絞らないと意味が無い 言い忘れたが、弥生人たちが北海道南部までの航路に使っていたのは
日本海ルート。
北陸や日本海側の東北に彼らの遺伝子が落とされる訳だ。 >>243
どこが、どう間違うとんかいのう? 弓矢なんか遺跡出土品に残らん文物じゃし、
考古学は残らん文物を無視する学問でも無ぁし。
>>245
新羅駐屯軍にも成った高句麗系出雲集団(大国主)による、縄文以来の翡翠の勾玉利権奪取が
出雲神話に反映されたと云えよう。
糸魚川等の越地方は出雲勢力(高句麗系)が平定したけんのう。
http://www.genbu.net/data/ecyu/takase_title.htm
高瀬神社の由来に、「大己貴命(大国主命)が北陸を平定を終え、出雲へ戻る時に、自らの御魂を
国魂神として鎮め置いたのがはじめ。」
「また、一説には、祭神は高麗(高句麗)より渡って来た神であり、」 と、出雲も高句麗と
同類で同じようなもんじゃ。
勾玉は越から出雲へ、出雲から新羅へじゃろう。出雲が越を平定し、
新羅はさぞ、ただ同然で勾玉を手に入れ喜んだことじゃろう。
松本清張氏が倭と穢(ワイ)は、weiで、三上次男氏は倭は穢と同様の北東アジアの水辺民とされる。
オンドルや短弓系が列島の土地柄に馴染んで、土着化したことと、オンドル退化も平安期の
世界的温暖化現象で現地風に成るよ。ヨーロッパ系移民が新大陸の温暖な地域に移民すると、
建築様式もクレオール移民式建築の窓を広げた熱気対策住居に成るようにのう。
高句麗も穢も含め源流の満洲河川の漁撈文化基盤に西方の騎馬民族文化が乗った複合型になった
ことで、征服国取り性格や遊牧系軍事組織も受け入れ自らの手に入れたんよ。
>>246
満洲、朝鮮も中国の遊牧民系の秦も卵生神話じゃし、包まれて誕生概念で大林太良氏が指摘する
ウイグルの五人ま子供が天幕に包まれて天孫降臨したり、日本の記紀の真床覆衾も同類の概念
と云えよう。
>>247
そがぁな、縄文教カルトのトンデモ飛躍じゃの学術板に向かんよ。 >>248
朝鮮東北部なら高句麗方墳プランの出雲や広島県、北陸の四隅突出墳の分布で分るけぇのう。
われが云うポリツェ文化も沿海州たるアムール、東満洲、朝鮮東北部の半農半牧に漁撈と狩猟を
行った北方の南ツングース生業の本質に過ぎん。
V・メドヴェジェフ氏によると「靺鞨の住居ではオンドルは無かった。これに対し、女真では
ほとんどの場合あった。靺鞨の墓では二次葬が80%を占めるが、女真では15%しかない。女真も
靺鞨も農耕と牧畜がともに行われ たが、女真では漁撈の痕跡が多く、靺鞨ではまったく見られない。
靺鞨はチュルク(トルコ系)の影響が強く、女真文化は現地の先行文化であるポリツェ文化を
受け継いでいる。」と。 女真は、靺鞨よりも、満州現地民文化やアムールに至るポリツェ文化の
伝統が強い。 つまり、高句麗、沃沮、穢、邑婁も女真に繋がる文化的要素が強いことじゃ。
>>249
縄文期のケツ状耳飾りが勾玉の原型で、満洲、内モンゴルの先紅山文化系じゃし、
日本は大量満洲北方移民の古墳期の原型は縄文期の満洲系文化の影響基盤があったし。
朝鮮は考古学調査が進んどらんけぇのう。今後の発掘に魅力的地域で学説を覆す遺跡が、
今後も出てくるんじゃなぁか。 >>261
弥生期は日本も朝鮮南部も北方モンゴロイドなんか、人骨からも少数派で縄文形質が多かったんで。
わりゃあ、思い込みで直接交易に飛躍してもつまらんわ。近隣の転売で繋がっとるだけじゃに。 >>264
だから間違ってるから違ってると言ってやってるんだよ。
新町遺跡の出土人骨は縄文人骨だけじゃないぞ。
北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が何体か出土している。
それをあんたみたいな馬鹿が縄文人骨ばーっかり唱え殺して、
まるで縄文人骨しか出土してなような話に改竄してしまった。
ウソだと思うなら、新町遺跡の出土人骨を個人ブログじゃなくて、
ちゃんとした考古学者のドキュメントで調べてみな。
北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が何体か出土してるから。 >>265
はい、考古学の基本が全然なってないね。
墓のスタイルなんか渡来人の材料には全く使えない。
それに俺が提唱してるのはポリツェじゃなくて、その1000年くらい前に
栄えたシニ・ガイだ。
間違えるなカス。
ポリツェとシニ・ガイでは土器文化がサッパリ違う。
ポリツェには刻目突帯文土器はもうない。 >>266
縄文後期の北海道南部の遺跡から山口・九州北部型弥生人骨がゴボウラの
腕輪とともに出土した事も知らんカスが。
ゴボウラという貝は沖縄辺りでしか採れない南洋貝。
渡来人形質の弥生人たちは弥生中期頃から沖縄から北海道南部までを
股に掛けて交易していたんだよ。
日本海を越えてきた人々なんだから、どうって事も無い話だがな。 >>239
突帯文土器の起源って江南だよ
江南じゃ主流に成ら無かったけど >>271
江南とは中国広東省の江南?
それとも韓国ソウルの江南? >>267
新町遺跡も含め弥生九州西部の韓式支石墓の人骨は縄文形質じゃし、新町遺跡混血云うて
誰の説なんか?
>>268
シニ・ガイたぁ何なら? 弥生と似とるポリツェ文化の前云うたら、ウリル文化、
ヤンコフスキー文化じゃが。
>>269
縄文晩期、弥生後期に北海道でや? そがぁな作り話のホラッチョ云うてもつまらんで。 >>271
ブタ広鼻の鼻の穴から鼻水が垂れてますよ。
afb1b3たっぷりの。
>>271
その証拠文献も前に貼ってやっただろ。
いかに人の話を聞いていないか、あんたが考古学をやるレヴェルの
人間じゃない事がよく分かるよ。
北海道南部の弥生後期の遺跡からゴボウラ腕輪を伴った山口・九州北部型弥生人の
人骨が出土した話も知らないなんてモグリだよ。
考古学をやめなさい。 新町遺跡の出土人骨は北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土している
というのが真実であって、縄文人骨しか出土してないというのは詐欺ですんでね。 >>274-276
わりゃ、待てども根拠提示はせずっと、根拠の無ぁ妄言を繰り返し連呼しよるだけじゃけぇ
つまらんわ。 >>277
前に貼ってるぞ。
この半年内の事だ。
知りたきゃテメエで探せよ。 知りたきゃ、
新町遺跡は既に混血人骨 2ch
でググレカス 日本国の領土だった事は無い
倭領だった事は有る
日本府が有った頃には
@日本集団は居たが日本国は未だ無かった
A倭軍は正規の百済領に百済王の倭への依頼により駐留し百済王の王権の下に行政を預かる形になって居たから日本領では無かった
日本府は今で云うと龍山基地とかハンフリーズ基地とかの類の代物 戦利品としての割譲領土だろうから、支配層だけ倭人っていうヤツな。
4C末頃〜562年だから実質180年間くらいの支配だったのではないか。 >>260
この手の顔に稲田朋美がいるなぁと思ったら、
稲田朋美も福井の人だった >>278-279
言い訳してもつまらん。今でも根拠提示すりゃあええだけん事すら出来んのかいのう。
>>280-281
考古学的にも北方から南下した北方木槨墓人が伽耶、倭を支配したんは明かじゃし、
その頃は日本列島に国家すら、軍事遺跡すら無ぁけんのう。
http://members3.jcom.home.ne.jp/kofun2-hp/kankknkime2.htm
「E4世紀以後、金官伽耶時代の木槨墓から中国系とは異なる北方農耕遊牧民文化の副葬品が
出土する。騎馬用甲冑・馬具・各種鉄製品・蒙古鉢形冑・桂甲・轡・木芯鉄張り輪鐙が出土。
初めて殉葬が確認される。北方系の墓制が前時代の墓をつぶして築造したので大成洞遺跡では、
重なった墳墓があった。」
と、伽耶牧畜民系の北方木槨墓人は、前権力者の墓を潰し、かなり乱暴な支配したが、
その時代が高句麗広開土王時代の倭で、考古学的な軍事力と一致するし、日本ローカル鎖国史観
の任那日本府説のトンデモは否定された状況となったんじゃに、ネット右翼らは、
まだ妄言連呼しよるようじゃのう(笑)。 >>283
言い訳はそっちだろうがカス。
もう一度、そのドキュメントが見たきゃ自分で調べろ。
その手順は279に書いた。
とにかく新町遺跡は既に混血人骨で、縄文人骨しか出土してないというのは詐欺。
詐欺の流布はやめろよ。 >>284
まずあんたは考古学の基本が出来ていない。
世界標準の考古学では渡来人などの移動集団の故郷の特定に使われる材料は、
その集団が生産していた石器と土器だけ。
他の文物や墓のスタイルとか入れ墨などの風習風俗なんかは交流交易を通じて幾らでも
導入なり搬入なりが出来てしまうので使えんの。
生産していた石器や土器の補足材料で使うだけで、それ単独では材料には使わんし、使えんの。 >>281 那國だから元々南方系稲作倭人國だよw
寧ろクダラが大陸方面から来た余所者に政権を乗っ取られて隋唐に朝貢し始めたので
大陸側に向かっては百済(Baidi)を名乗る様になり
南側の倭人諸国に向けては滅亡するまでずっとクダラを名乗り続けて盟邦関係を保つ政策を執って居た
と見る方が諸事件を鑑みるに正解に近いよ >>283 えー全然おかしくないよ
@辺り一面何処も小国スケールの時代の南方系稲作倭人国家
A漢の半島進出に伴う諸倭國地域(合間に諸韓国も点在)の戦時化や統廃合やの進展により北九州倭の支配下に入る
B漢の後の高句麗南進により西は百済東は弁韓からの圧力を受ける様になる
C北九州の某倭の内乱により支配が弱まると百済馬韓辰韓が高句麗と正面戦闘している間隙を突いて弁韓が東から奪取
D結局弁韓も高句麗に滅ぼされるがこの頃から高句麗の勢力が衰退し始め高句麗の後詰に新羅が半島南岸に進入する時期に百済が西から奪取
➅百済が衰亡期に入ると新羅からの圧力を退ける為に平時からのヤマト軍の半島への駐留が必要になり当時の事なので兵糧の現地調達の為等に因り百済が百済王権の下でヤマト軍に任那地域の行政権を付与
(日本國は未だ無かったので件の行政府は当然に「日本府」なんて名称では在り様も無かったがこれが20世紀に通称された日本府)
F高句麗が唐に決定的に半島での覇権を奪われるとそれまで高句麗側に付いて居た新羅は唐に寝返って百済を挟撃したので百済は滅亡する事に為りその最晩期頃に駐留ヤマト軍も百済支援を諦めて任那から撤退
ベトナム戦争末期のサイゴンからの米軍撤退の如き様に為り多数の百済人がヤマトへ亡命した
だから何処にも矛盾は無いよ >>288 ちょっと思い出し違い
×D結局弁韓も高句麗に滅ぼされるがこの頃から高句麗の勢力が衰退し始め高句麗の後詰に新羅が半島南岸に進入する時期に百済が西から奪取
○D高句麗は辰韓まで討ち滅ぼし弁韓をも攻め立てたがこの頃から高句麗の勢力が衰退し始め高句麗の後詰に新羅が半島南岸に進入して弁韓を滅ぼしたのであるがこの際に百済が西から任那四邦を弁韓より奪取 >>288 ちょっと何が何でも直して置きたい
○@辺り一面何処も小国スケールの時代の南方系稲作倭人国家
◎@辺り一面何処も小国スケールの時代の南方系稲作倭人国家群 >>287ー290
さり気に詐欺を働いてるじゃないか台湾ウンコ色ブタ広鼻ブタ顔ブタ原人。
で、南方系が渡来した事を証明する証拠遺跡とその証拠土器・石器は?
. 遺跡も土器石器も大日本帝国の朝鮮学者と大韓民国の国粋学者が好きな様に弄り回してて不都合な代物は湮滅しているから絶対的な物証には最早為らない
>>292は自分で堀ったの何か持ってる? 高句麗が朝鮮半島の南端に達したのは5世紀の話だからねー土器石器の話じゃ証拠にならないし >>293
誤魔化すなサギサギ華南ブタゴリラ台湾ブタ広鼻。
で、南方系が渡来したという狂言を証明する証拠遺跡と証拠文物、
とりわけ証拠土器・石器と、そんな詐欺を働いているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
. そもそもさー軒並み倭国だったクダラやカヤやが百済やら弁韓になったのも
韓人が朱蒙みたいに倭人やら漢人やらを征服して国を打ち立てたんじゃ無くて
倭人小邦が時勢に圧されて合間に点在していた韓人小邦(難民集落もっとはっきり言うと落人部落)を内包する形で統合してどうにか仲良く倭人國クダラだのカヤだのに為ってたのが
高句麗からの圧力が厳しく為ったんで隋唐に朝貢して保護を求める様になり冊に封じられる際に便宜的に韓國に為っただけなんだよね
新羅は7世紀になるまで高句麗陣営に付いて居たから倭人國のままで何とか韓になっていなかったんだよ
新羅は高句麗が唐に朝鮮半島から追い出され始めた頃に唐にジャンピング土下座して冊を受けて寝返ったんだが
その際に冷遇していた滅亡辰韓の王族か外交官かの子孫か何か知らんを急に好いおべべ着せて引っ張り出して来て併合以来厚く新羅王の重臣に遇せられて来たかの如く振る舞わせ辰韓を僭称して唐の信用を勝ち取ろうとした
オリジナルの辰韓はずっと以前に高句麗に討ち滅ぼされてるよ >>297補足 そうそう新羅は唐が西方の騒擾に応じる為に朝鮮半島から引くと冊封名で在る辰韓を捨てて新羅に戻ってるだろ?
つまりはそう言う事なんだよ弥生時代とかとっくに終わった後の話なの あーまだ思い出し違い有った
倭が(一旦失ってしまう)任那四邦の支配権を得た頃にはもうヤマト政権できてたな >>287-288
倭たぁ三上次男氏が云われるよう、北東アジアの水辺民の総称じゃし、魏志倭人伝ですら、
倭人を稲作民族じゃと書いとらんよ。しかも弥生の農耕は江南みたぁな稲作一辺倒じゃ無ぁし、
北方の麦作民要素が強い。
歴史上、北方から南方への征服支配は普遍じゃが、南方から北方への征服支配は遊牧民の
アラブ人以外例が無ぁわ。しかも列島の倭に軍事遺跡なんか弥生期や古墳前期にゃ
無あわ。日本列島が伽耶支配層に征服されたんよ。>>283の伽耶北方木槨墓人の軍事的性格から
明かじゃし、倭の五王も伽耶北方木槨墓人じゃし、年代からも矛盾が無ぁけんのう。
>>293
> 大日本帝国の朝鮮学者と大韓民国の国粋学者が好きな様に弄り回してて不都合な代物は
湮滅しているから」云うて、実名も根拠も提示せにゃあ。わりゃ、首相の安倍ちゃんや
カルトネット右翼みたぁに大嘘こき云うことんなるで。
>>294
おどりやあ! >>283をわざとらしゅう無視しよって、こん糞外道らだきゃ、トンデモの
カルト歴史修正主義捏造歴史拡散しょってもつまらんど。 >>297-299
まだ、トンデモ云いよんか。高句麗、百済、新羅、任那伽耶、日本列島も北方勢力による
征服によって出来た国じゃし、農耕民は軍事組織力に欠けとるし、北方民族の支配無しに、
国家形成は無理じゃ。
新羅は高句麗駐屯軍の北方積石木槨墓人が辰韓や倭を征服して出来たし、辰韓へ駐屯した連中は
高句麗へ帰っとらんわ。
ヤマト国なんか、奈良期の記紀編纂概念じゃけぇ、飛鳥朝くらいしか遡れんけぇのう。
三国史記が百済や新羅を馬韓や辰韓の時代に捏造編纂するんと日本も一緒じゃわい。 >>297
むしろ高句麗が倭サイドで新羅は非倭サイドのような気がするけど・・・
高句麗語が倭語であれ、高句麗に残った地名が倭語であれ
高句麗では倭人(非大和朝廷)の力が大きかったんじゃないかな だから世界標準の考古学では移動集団の故郷の特定に使われる材料はその集団が
生産していた石器と土器だけ。
他の文物や風習風俗なんかは交流交易を通じて幾らでも導入なり搬入なりが
出来てしまうから使わんの。
墓のスタイルだとか、馬具だとか、貨幣だとか、そんなもんは交流交易を通じて
幾らでも導入なり搬入なりが出来てしまうので使えんの。 >>302
新羅は本来、倭サイドだけど親中派がだんだん権力をつかんできて
非倭サイドになったんだと思うよ 百済と言われている秦氏も伝わっている朝鮮土器から見ると、
実際のコンテンツは新羅人らしい。 百済が発展する時期に百済難民が出るのはおかしいよな
しかも高い技術をもった職人集団が >>302
糞外道よ、倭語なんか、この世に存在せんわ。そもそも倭が言語集団云う根拠は何一つ無ぁわ。
民族学者の大林太良氏が半島と韓と倭は、村落や生業様式の違いの区別とされるよう、
半島の倭は韓族の言語に近かった可能性が強いし、後世の半島を侵した倭冦も、
半島西南部の被差別民や済州島の残留モンゴル人が大半じゃし、高麗期の頃まで倭は水辺集団
総称で言語集団じゃ無かったんで。
>>303
われん、根拠も提示出来んトンデモ妄想考古学じゃのつまらん。>>283の「北方系の墓制が
前時代の墓をつぶして築造したので大成洞遺跡では、重なった墳墓があった。」 と、
支配層の交代で非中国系の北方系牧畜民文化系が中国文化系の前支配層の墓を破戒しとるけぇ
征服したこたぁ、間違えあるまあ。伽耶地方と北九州が弥生期甕棺の同一文化圏地域を
北方木槨墓人が支配した証左じゃなぁか。
>>304
弥生期から、列島の倭は親中派云うたぁ中華系隷属ゆえの奴国の金印に、邪馬台国らの
生口(奴隷)献上。
馬韓のような漢文化への抵抗心も無ぁ属領奴隷根性。
新羅は、中華色の強い辰韓の時代と違い、非中国系の北方や中央アジア文化。
まあ、新羅は大唐帝国にも戦争で勝っとるけぇのう。ほいじゃが、その頃の新羅支配層は
唐に日和見しよったんじゃが、旧百済系、高句麗系の連中が抵抗し唐と戦争に成って、唐を
撃退したんが真相よのう。
>>305
秦氏は腹(ハラ)氏族制度から、ツングース系の文化要素が強いし、天皇家の騎馬護衛集団でも
あるけぇのう。まあ、新羅、伽耶地域からの渡来じゃが、東西漢氏同様、非中国系の北方民族
南下した北朝の牧畜民要素が強い。殊に東漢氏は鮮卑色が強いのう。
>>306
難民じゃ無うて百済の北方系支配層らは日本列島へも移住するよ。
ゲルマン、エフタル、五胡、扶余・高句麗の世界的北方民族移動期、征服南下期じゃし。 倭は言語集団じゃないけど、高句麗の地名として日本列島民に近い(半島では他に見られない)言葉が色濃く残っている以上、それは倭と同族の影響と見るべきじゃないの?
モンゴルとか「呼ばれたこともある」程度のものを倭に含めて考えるなら、倭に関して話す意味なんてほぼないじゃん
倭のホームは基本日本列島じゃないのか
日本列島民の中で倭が少数派だったとか、韓族の言語が本来日本列島のものと同系だったとかならわかるけど >>300 稲作は鎌倉時代中期まで浅田が無く弥生時代以来の深田でやってたんですが麦作要素って何ですか?
深田って麦作って言うより蓮作に近いノリですよ? >>300 北方から武力を用いた勢力の進出が有ったのは事実ですが
征服者が被征服者の手柄を盗んで手柄の無い二世三世の自己正当化文治政治を実施する為の箔付けや初代の神格化に用いる常套手段についても考慮されては如何ですか?
やって居ない征服者はそれこそ1割に満たないのではw? >>283は最初の事件と最後の事件との間に間が有り過ぎまんな
西暦紀元前後の高句麗系の小国が日本列島にも点在していたのは事実ですが
中国の影響無しならそれこそ稲作なんて持って来られません
日本列島の稲は如何なる経由説に於いても全て中国大陸南部を経由しているからです
連中は羅(ラ)で在って那(ナ)ではありません
高句麗南下の日本列島への影響は確かに有りますが日本列島全体の統一政権レベルの影響となると
継体天皇伝説だとか神功皇后伝説だとか後に高句麗の勢力がピークを過ぎた以降に何とか日本列島(倭人豪族諸国諸邦乃至ヤマト)を抱き込もうとして新規参入組が事を構えた件ばかりです
高句麗本国の意図に沿った日本征服は結局のところ計画的には失敗し結果オーライで生き残った蘇我稲目がオオキミに近侍するに至りました
後に百済系の藤原氏にとって代わられます >>301 大陸から國家主義者がやって来て諸邦を束ねて行ったのは認めますが北方民族が高句麗に束ねられたとする以前に漢が朝鮮半島の付け根から中部域に進出し半島南部と日本列島に政治的影響を与えていた件を忘れて居ませんか?
つまり漢代以前に日本列島にやって来た北方民族は高句麗なんて纏まった大勢力では無く温かい土地に行きたかったか漢に追われた部族程度の集団だったのです
漢が衰退して以降に高句麗として南にやって来た連中は硬軟取り混ぜて各国を勢力下に収めて行きますが初期に軟式で子分にしたのが倭人國シラ(新羅)です
倭人國クダラも新羅とは異なりますが恐らく従前の支配者層との婚姻に因り高句麗の王子が支配権を取得して而して温祚を為したと称したのを歴史と伝統のウリナラファンタジーが朱蒙の御曹司オンジョなどと捻じ曲げて今日に伝えて居ます
新羅は7世紀初頭まで高句麗への忠誠を南方から倭に揺るがされ続けながらも概ね保ちますがクダラは隋唐のオファーに目が眩んで冊を受け百済(マンダリンだとBaidi)になり以下有名な展開となりました そもそも超古代〜古代の朝鮮半島に於ける韓人ってのは中華地域からの難民落人の総称に過ぎないので在って
後に隋唐に冊を受ける際に儂等は隋唐様の方から流れて来た民で文明を理解できますから土地を耕して納税しますだ命ばかりは御助けをって願い出る際に
古くに来たって意味で韓代に話が一括りにされてるだけです
それより新しい世代の難民認定を隋唐に申し出たのが高句麗グループからの脱却を図った自称百姓斉済難民です 一般名詞概念 温祚=従前の勢力を粛清したりせずにお優しく懐柔しながら即位し支配権を得る事
ウリナラ概念 温祚=高句麗の開闢者朱蒙の長男オンジョ BC3C以前の無文土器時代に中華の影響は半島に見られない。
従って、箕子朝鮮、衛氏朝鮮はBC3C以降という事になる。
しかし楽浪郡においても中国灰陶の技術はあるのに中国土器の器種器形が
見られない。
BC2Cの中国本土は漢代であり、鬲などの三足土器がまだ活躍していた
はずなのに、箕子朝鮮〜楽浪郡時代の半島には一切それが見られないのである。
ゆえに箕子朝鮮〜楽浪郡などの朝鮮侵攻した中国人とは中国本土の人々ではなく、
遼東あたりの非中華、半中華とも言うべき集団だったと思われる。 あれ高句麗王子温祚じゃ無くて高句麗温祚だっけだと高句麗王本人がクダラ王権を穏便に接収したになるねどうだったっけ >>308 現代韓国語の語彙ですら東南アジアまで起源を遡る事をできます
韓国人は既にそれを知って居ますが決まりが悪いので東アジアでは黙って居ます
しかし既にインドネシア辺りでは自然派観光アクティビティに参加する若年世代の「開明派」等が現地人に向かって「ウリらは元は同胞ニダ仲間ニダ(嗚呼ウリがお前たちの先祖ニダと言いたいニダグッ(言葉を呑み込む音))」等とやらかして居ます
韓国の極悪グループは文科省に潜り込んだ通名キャリアを用いて日本の公式歴史観を
北方起源乃至朝鮮起源乃至現在自分達が嵌り込んで居る華夷秩序に塗り替えてしまって
その上で自分達の方から開明的な南北合流グローバルシビライゼーションモデルを持ち出して
日本人と現在の立場を逆転させようと画策実行している最中なのです >>317に示された戦略に依り韓国は19世紀から20世紀前半に於いて欧米諸国に依り認められた日本の西洋式学術界に於ける見識や地位を盗もうとしているのです 国公立大学の論文指導教官も今や中国人韓国人ばかりです 中国共産党が
日本が欧米諸国との間で19世紀(本当は16世紀)から20世紀初頭に掛けて構築した相互理解を齟齬が有った出来てなかったと喚き散らして無かった事にして
現代欧米人と最初に価値観を共有できたアジア人は中国人で在った事に歴史を修正しようとしている所行の数々は皆さん既に御存知ですね 台湾ブタの「朝鮮を叩く正義の味方ショー」の怪文書には
いつも笑わせられるww >>317
朝鮮語で東南アジアと関係ありそうなのって「海」くらいだぞ
新羅後:patɯl 、中期朝鮮語:patah、
オセアニア祖語/ポリネシア祖語:wasa、インドネシア諸語:pasaŋ (満ち潮)
しかも「海」に関しては、
高句麗語(類推):patan、日本語:wata、
アイヌ語:atuy(海の)・watara(海中の岩)
といったふうに似たのがゴロゴロあるぞ
これは朝鮮半島の民が東南アジア由来というより、
東南アジア・オセアニアの民が活躍してたから言葉が広がっただけじゃないかな >>308
むしろ高句麗人と日本人が同族と見るべきだろう
それで朝鮮南部人が倭人なのではないのか?
今の朝鮮語(新羅語)はモンゴル語みたいな朴訥な響きがある一方で、
妙に前のほうに強勢が來る
これは誰が言ってるわけでもなく、自分の思い付きで
だけどもおそらく当たっているのではないかと思うのだけど、
北方の言語は後ろのほうに強勢が來る
南方の言語は前のほうに強勢が來る
北方の言語は我慢の言語で抑制が利いていて弾力に富んでいて、
べらべら喋っていると早口になる
語と語の間が詰まっている感じ
南方の言語は奔放な言語で開放的で緩くて、怒っても迫力がない
語と語の間が間延びしている感じ
例えば北方の言語に英語(イングランド英語)、ドイツ語(ヒトラーの演説を思い出すといい)、
つまりゲルマン諸語がある
南方の言語にロマンス諸語(イタリア語はいくぶん北方的な弾力がある、
逆にスペイン語はイタリア語に比べるとより南方的で緩い)、
アフリカの言語、西南アジアの言語、東南アジアの言語、
中国の広東語などがある それで日本語は、やはりゲルマン語に近い感じがするんだな
ゲルマン語は大変弾力に富んでいる
一昔前はこんな感じで早口で喋っていたらしいイングランド英語
https://youtu.be/CmO_8NYxl1A?t=10m27s
ロバート・プラントはウェスト・ミッドランズ方言の話者らしいけど、
アメリカ大陸に渡ってケルト語話者との混血、交流によって、
ドイツ語風、ドイツ語訛りのようなイングランド英語に比べると、
いくぶん緩く、大陸的な大らかさがあるアメリカ英語との違いに注目されたい
ヒトラーの演説
https://youtu.be/T2jhno1BL3w
激しくも抑制が利いていて、言葉の真ん中から後ろのほうに力が込められている、
わかるかな、この感じ
日本語にはこれらの特徴が備わっている
ただ日本語には地域差があり、東日本の方言は朝鮮語(新羅語)風で、
より南方的で、強勢が前に來る
西日本の「たナか」に対して東日本の「タなか」、
西日本の「りンご」に対して東日本の「リんご」のように、
東日本の方言は我慢が足らない そして本家の朝鮮語(新羅語)にも同じ特徴があり、
やっぱり本家だけあって朝鮮語はやたらつんのめるように喋る
朝鮮人のせかせかした性質が反映されているのかもしれんが、
ともかく朝鮮語は我慢が足らない
一方で、北朝鮮人は朝鮮語(新羅語)を喋りながらも、
どこか日本人の日本語を想わせる
あの北朝鮮の国営放送のアナウンサーの喋り方にしても、
ただ力強いだけでなく、韓国のアナウンサーの喋り方に比べると、
いくぶん抑制が利いている
韓国の朝鮮語よりもより日本語の標準語に近い印象を覚える 果たしてこれは倭人の影響なのか
倭人は南北の(自分の勝手な設定だけど)言語の普遍性から
ひとり逸脱して南方にいながら北方的な言語を喋っていたのか
その関連になるものとして形質が挙げられよう
ラテン諸国の人々がゲルマン人ではなくラテン人然としているように、
言語の影響には少なからず人の影響があり、もし倭人が高句麗人に影響を与えているのであれば、
高句麗人の子孫である北朝鮮人には少なからず倭人の影響があろう
もっといえば、北朝鮮人は韓国人よりも倭人に近いということになろう
倭人とは何か?
倭人とは九州人であるから、それも古い九州人であるから、
九州の古い人々たる九州の辺境の人々のことで、
長崎の離島人や九州南部人、その延長線上の沖縄人などがこれにあたる
果たして北朝鮮人は彼らに近いのだろうか?
それで北朝鮮人が一体どういう形質をしているのかといえば、
彼らは大変に北方的な形質を帯びている
彼らは見るからに南方人じゃない
もっというと、彼らは朝鮮南部の韓国人よりも日本人に似ている
それで日本人とは誰か、日本人とは一体どこの日本人を指しているのか?
それは本州の日本人、もっと範囲を狭めると本州の西日本人で、
本州の西日本人は南方人より北方人に近い
そこから導かれるのは本州の西日本人は北方から出てきて、
言語が高句麗と近いのであれば、倭人が高句麗に影響を与えたのではなく、
高句麗から出てきた高句麗系の言語話者が日本に入ってきて、
倭人の言語を塗り替えたということだろう 弥生開始時の土器を見ると沿海州南部の青銅器時代あたりの土器と
文様が一致してるため、弥生人はその辺りから渡来してきた事が分かるから、
高句麗とは近いだろうな。 ついでに書くと北朝鮮人は表情もどこか日本人を想わせる
北朝鮮の少女たち
https://flic.kr/p/7GVPhj
北朝鮮兵士
https://flic.kr/p/859mNe
韓国人より抑制的で鋭い印象を受ける
まぁ、顔はなぜか妙に横に広いのだけど
おそらく彼らは日本人と分かれた後に何かと混血したのだろう あと朝鮮人は「あぁ〜」って言う
これは嘆息であったり吃驚であったり色々意味があるのだけど、
音の印象からしてとても南方的で(力強い点はいくぶん北方的)、
こんな言い方するのもなんだけど堕落している印象を受ける
スポーツ中継で実況している人がこれ言っちゃうんだよね
日本人なら縮まって「あっ」って言う
まぁ、こんなところにも朝鮮人の南方的な要素を感じる 例えばアラビア語に「アッラー」がある
最近よく耳にするのだけど、あれも前に強勢が來る
よくアラビア語というかアフロ・アジア語族の特徴を示しているのではないかと思う
「アッラー」も日本語なら「伊藤」のように「アラー」と、
「ラー」を強める で、江南なんだろ?w
それを証明する証拠遺跡も証拠文物も無いし、そんな狂った事を
言ってる頭のおかしな考古学者も一人も居ない。 >>309
弥生期も麦作が欠かせんかったし、古墳期でも米は五穀の一つに過ぎんし、
江南のように稲作一辺倒じゃ無ぁんで。
江南なんか、水位が高うて、土が湿って麦なんか根腐れするけぇ出来んけぇ、
中国南北風土を分けるんは、淮河ラインなんよ。
江蘇省でも、淮河の北は徐州会戦の戦記の「麦と兵隊」
のように麦作地域で完結しとるし、日本のように春から夏に米つくり、秋から冬に麦いう、
混合は無いぁし、北中国のもんは、麦が主食で南中国じゃ米が主食じゃし、
日本も麦が主食で米が多くの国民に主食として認識されたんは戦後の高度成長期で、米主食が日本
じゃ半世紀しか無ぁわ。
まあ、日本は米食文化の本場の東南アジアからしたら欠落要素が強い。米で麺を作らんし、
ライス・ペーパーの文化も無ぁし、日本は北方の麦食文化側なんよ。 >>309
日本人の多くの白米主食は戦後の 高度成長期以降じゃ。
http://www.geocities.jp/goodlife0703mameta/rekishi/kakeibo/nouminkakeibo.html
記録にのこる江戸時代の農家の家計簿です。 元禄期(1688〜1704) の田2町と畑5反を
持つ豪農の家計です。 毎日の食事は、1人麦5合と きび1合です。米を食べるのは、正月・盆
など年に26日だけでした。
江戸時代初期のころから幕末のころまでの農家の家計簿です。比較的
大きな農家は別として、米の取れ高10石前後の農家ではよくてトントン、 ほとんど赤字です。
表をよく見てみると、食費の内訳は米よりも麦の方が 多いのが分かります。麦ばかりの家計も
みられます。 衣食住費、生産諸 掛費も米を売却してねん出しますから、米はほとんど
食べることは できません。
http://www.jrt.gr.jp/yaki_imo/70-73.pdf
竹原市吉名町は、「貧乏人は麦を食え」といった、池田勇人元総理大臣の出身地であります。
戦前たくさんのサツマイモを栽培して、これが大事な食料でした。また、麦も主食としていました。
池田元総理の失言は、当地 のものからすると違和感はなく、暴言とはとらえられていません。
http://waga.nikkei.co.jp/play/kiko.aspx?i=MMWAa1004006032009
せんべい 西日本は小麦粉系、東日本は米系
現時点での印象でいうと西日本に小麦粉系が多く、東日本は南部せんべい
などの例外はあるものの総じて米系が支配的ではないだろうか。 >>308
鮮卑に拉致された倭人も含め三国志の時代の倭人認識たぁ北東アジアの水辺民じゃし、
倭の極南界が北部九州の奴国じゃし、列島がホーム認識はさらさら無ぁわ。
日本の支配層は高句麗系集団ゆえ、言語に数詞に共通点があるんは当然のこと。
>>310
日本人も朝鮮人も8割は北方からの渡来系じゃし、在来土着系は渡来者がもたらした疫病で
人口減になるけぇのう。
>>311
日本の米文化も麦作地域の山東経由が南限じゃのう。蘇我氏の古墳とされるピラミッド型も
高句麗系方墳じゃけぇのう。
>>312
高句麗は北方牧畜民系の部族、氏族集団組織ゆえ、新参協力部族も参加者、トルコ系、モンゴル系
ツングース系、チベット系の五胡系渡来者を含め圧倒的に増えるけぇのう。
辰韓を支配した新羅も高句麗駐屯軍傭兵が居座り支配したけぇ、高句麗支配層の積石塚と違い、
積石でも木槨墓云う、モンゴルから西アジア、西洋に連なる墓で、ましてや奴隷民の倭人でも
無ぁし、高句麗や百済が母体北方民族系文化に漢文化を混じえた胡漢文化と違い、
新羅は完全に非中国系の黄金文化よのう。中国は黄金たぁ絹と玉の文化じゃし。
>>314-316
高句麗や百済は文献上扶余出自を名乗っとるけど、高句麗や百済の北方積石塚と違い、
扶余が木槨墓云う点から、扶余を名乗らん任那、伽耶の支配層の北方木槨墓の方が扶余要素が
強いけぇ、基本的に嘘こく性質の文献を史実に認定したらトンデモに成るよ。 >>317
>韓国の極悪グループは文科省に潜り込んだ通名キャリアを用いて日本の公式歴史観を
北方起源乃至朝鮮起源乃至現在自分達が嵌り込んで居る華夷秩序に塗り替えてしまって
その上で自分達の方から開明的な南北合流グローバルシビライゼーションモデルを持ち出して
日本人と現在の立場を逆転させようと画策実行している最中なのです」
はあ? トンデモカルトはわれん方で。
じゃが、韓国人は日本人が騎馬民族系云うんを嫌う人もおるし。 >>317
これなんかのう。―朝鮮人による司馬遼太郎の歴史観批判―
http://www.shibano-jijiken.com/NIHON%20O%20MIRU%20JIJITOKUSHU%2033.html
{司馬は、中国の周辺民族達は、この様に頭を削る事で“‘中国の周辺民族’と言う
アイデンティティーを、頭の形で立証した。”と語った。この様に、同文同種の親族系列である
満州族とモンゴル人、 そして日本人が辮髪をしたのに反して、他の種族である中国人は辮髪を
しなかった。然し、唯一韓国人は、同じモンゴル系統でありながらも中国人と共に辮髪を
しなかった。これに対して司馬は、辮髪をしない韓国人と中国人が自ら‘文明の中心’の中にいると
自負しながら、周辺族たちを野蛮へ追いやったと信じた。彼の眼に、韓国人は、中国と一緒に
“文明の中にいたし、文明の中にいた為、人間”として扱われたが、日本人は、他の周辺族達と
並んで辮髪のアイデンティティーを表示した為に、‘野蛮’として扱われたと見えた。
司馬は、中国人が辮髪しないことに対してはさほど反感がなかったようだ。彼が目障りに感じた
のは韓国人だった。人種的にとか言語構造で、モンゴル系統である韓国人は、どうして辮髪を
しなかったのか、司馬は、韓国人が中国に追随する ‘小中華’を自負した為に辮髪をせず、日本人を
含んだ周辺族を差別したと信じた。さらに、この様に韓国人が自らを‘小中華’と見て、‘文明’
の中にいると自負する為に、日本人を‘倭野郎(日本人野郎)’と、蔑視し、人間以下の扱いを
したと主張した。
‘小中華’を自任した韓国が、中国と一緒に東アジア文明(中国文明)の陣営にあって、他の陣営には
モンゴル・日本が席を取っている構図が、司馬の文化分類法だ。司馬が韓国を言及するとき、
通例中国と同じ線上に 置いて語る理由が、即ちそんな対比的構図に根ざしている為だ。
中国と韓国を一つの束として処理してしまった司馬の文化分類法で、
韓国はモンゴル族―満州族―日本人として連結される周辺文化に属さない。 }
http://www.geocities.jp/nal9999/NOW/HISTORY/BENP4.jpg >>318
日本の学問もカルト歴史修正主義で隠蔽、捏造が韓国並みか、あるいは中共並に蔓延りよるよ。
旧石器捏造に加担した学者ら見てみんさいや。
>>319-320
トンデモカルトは根拠提示せんのう(笑)。
>>323-325
モンゴル語やツングース語に訛りが近いんは、北朝鮮の方じゃけど。殊にツングース満洲語と
北朝鮮は日本の出雲や東北と同様のズーズー弁じゃし。
>>326
九州人自体がラテンの乗りじゃけぇのう。
九州兵もラテン系のノリに近いよ。共に規律なんか守らんけど、九州兵の方が、他部隊や敵から
糧量や武器を掠奪、強盗したりして、凶暴度が断然ラテン系たぁ、比べもんにならんほど上回っ
とるよ。九州兵はラテン系のノリじゃけど同地域の(九州島は朝鮮半島の延長上にある)韓国兵の
性格に近い。 森金千秋氏が広島39Dから、熊本58Dへ転属された時の記述で、
「広島兵団の厳正な軍紀と対照的に、規律はきわめてルーズであった。第三十九師団では
想像もできないことであったが、この部隊では、古参兵たちが、日夕点呼ののち夜おそくまで
酒を飲む風習があった。このため、初年兵は夜おそくなってから鶏料理をつくらされたり、
羅店の町に酒を買いにやらされたりした。」と。
元熊本第六師団の半澤幸親氏は、
「夜も酒と女で賑わう盛り場が方々にあって、第一線帰りで血の気の多い九州男児が、一個師団も
まとまって駐留しているとなれば、何がしかの "コト"が起こるのは必然である。この赤鬼軍団は、
夜戦にも強く、規律維持に当たる憲兵や兵站部隊相手に、平素からの不平不満を酒の勢いで
爆発させ、乱暴狼藉を働く者もあとを絶たなかったようだ」と。
まあ、権威を持つ憲兵相手に暴れてもええけど、兵站部隊相手じゃ弱い者虐めになりますね。
九州兵はラテン系の乗りですから規律なんか守りませんよ。 >>328
朝鮮南部の容貌については、鈴木武樹氏も江上波夫との対談で、
「鈴木 ぼくが不思議に思うのは、南朝鮮の人たちの顔よりも、北朝鮮の人たちの顔のほうが
日本人に似ていますね。
江上 日本人は一般に南朝鮮の人ほど顔が平たくないし、またあれほど短頭ではないね。 」 >>326
司馬遼太郎氏と梅棹忠夫氏の対談から、
http://cds190.exblog.jp/12935194
{ 梅棹「たとえば日本人が昔から軍事的組織能力に秀れているところなんか、遊牧社会の原理が
かなり入っているでしょうね。あれだけ卓越した軍事能力は、農耕社会からはなかなか出てきません」
司馬氏は、「日本人はわりに自己規制がきいている民族で、ヨーロッパでいえば北方的なものが
主流になっていますね。 」
「中国人というのは現実肯定というか欲望肯定の民族でしょう。そこから出た儒教は、もともと
禁欲的なものじゃない。ところがこれが日本に入ってくると、どこか堅苦しく禁欲的な道になって
しまう」
この「遊牧民族→騎馬民族の文化的遺伝子」である「自己規制の強さ」は、思想にも影響している、
という方向に対話は進んで行きます。 }
まあ、ラテン系や中国や朝鮮系、南方稲作民系は欲望肯定で、北方牧畜民的自己規制も
自己抑制も欠けとるし。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています