>>283 えー全然おかしくないよ

  @辺り一面何処も小国スケールの時代の南方系稲作倭人国家

  A漢の半島進出に伴う諸倭國地域(合間に諸韓国も点在)の戦時化や統廃合やの進展により北九州倭の支配下に入る

  B漢の後の高句麗南進により西は百済東は弁韓からの圧力を受ける様になる

  C北九州の某倭の内乱により支配が弱まると百済馬韓辰韓が高句麗と正面戦闘している間隙を突いて弁韓が東から奪取

  D結局弁韓も高句麗に滅ぼされるがこの頃から高句麗の勢力が衰退し始め高句麗の後詰に新羅が半島南岸に進入する時期に百済が西から奪取

  ➅百済が衰亡期に入ると新羅からの圧力を退ける為に平時からのヤマト軍の半島への駐留が必要になり当時の事なので兵糧の現地調達の為等に因り百済が百済王権の下でヤマト軍に任那地域の行政権を付与
   (日本國は未だ無かったので件の行政府は当然に「日本府」なんて名称では在り様も無かったがこれが20世紀に通称された日本府)

  F高句麗が唐に決定的に半島での覇権を奪われるとそれまで高句麗側に付いて居た新羅は唐に寝返って百済を挟撃したので百済は滅亡する事に為りその最晩期頃に駐留ヤマト軍も百済支援を諦めて任那から撤退
    ベトナム戦争末期のサイゴンからの米軍撤退の如き様に為り多数の百済人がヤマトへ亡命した

だから何処にも矛盾は無いよ