任那(日本府) 加羅 20
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>283は最初の事件と最後の事件との間に間が有り過ぎまんな
西暦紀元前後の高句麗系の小国が日本列島にも点在していたのは事実ですが
中国の影響無しならそれこそ稲作なんて持って来られません
日本列島の稲は如何なる経由説に於いても全て中国大陸南部を経由しているからです
連中は羅(ラ)で在って那(ナ)ではありません
高句麗南下の日本列島への影響は確かに有りますが日本列島全体の統一政権レベルの影響となると
継体天皇伝説だとか神功皇后伝説だとか後に高句麗の勢力がピークを過ぎた以降に何とか日本列島(倭人豪族諸国諸邦乃至ヤマト)を抱き込もうとして新規参入組が事を構えた件ばかりです
高句麗本国の意図に沿った日本征服は結局のところ計画的には失敗し結果オーライで生き残った蘇我稲目がオオキミに近侍するに至りました
後に百済系の藤原氏にとって代わられます >>301 大陸から國家主義者がやって来て諸邦を束ねて行ったのは認めますが北方民族が高句麗に束ねられたとする以前に漢が朝鮮半島の付け根から中部域に進出し半島南部と日本列島に政治的影響を与えていた件を忘れて居ませんか?
つまり漢代以前に日本列島にやって来た北方民族は高句麗なんて纏まった大勢力では無く温かい土地に行きたかったか漢に追われた部族程度の集団だったのです
漢が衰退して以降に高句麗として南にやって来た連中は硬軟取り混ぜて各国を勢力下に収めて行きますが初期に軟式で子分にしたのが倭人國シラ(新羅)です
倭人國クダラも新羅とは異なりますが恐らく従前の支配者層との婚姻に因り高句麗の王子が支配権を取得して而して温祚を為したと称したのを歴史と伝統のウリナラファンタジーが朱蒙の御曹司オンジョなどと捻じ曲げて今日に伝えて居ます
新羅は7世紀初頭まで高句麗への忠誠を南方から倭に揺るがされ続けながらも概ね保ちますがクダラは隋唐のオファーに目が眩んで冊を受け百済(マンダリンだとBaidi)になり以下有名な展開となりました そもそも超古代〜古代の朝鮮半島に於ける韓人ってのは中華地域からの難民落人の総称に過ぎないので在って
後に隋唐に冊を受ける際に儂等は隋唐様の方から流れて来た民で文明を理解できますから土地を耕して納税しますだ命ばかりは御助けをって願い出る際に
古くに来たって意味で韓代に話が一括りにされてるだけです
それより新しい世代の難民認定を隋唐に申し出たのが高句麗グループからの脱却を図った自称百姓斉済難民です 一般名詞概念 温祚=従前の勢力を粛清したりせずにお優しく懐柔しながら即位し支配権を得る事
ウリナラ概念 温祚=高句麗の開闢者朱蒙の長男オンジョ BC3C以前の無文土器時代に中華の影響は半島に見られない。
従って、箕子朝鮮、衛氏朝鮮はBC3C以降という事になる。
しかし楽浪郡においても中国灰陶の技術はあるのに中国土器の器種器形が
見られない。
BC2Cの中国本土は漢代であり、鬲などの三足土器がまだ活躍していた
はずなのに、箕子朝鮮〜楽浪郡時代の半島には一切それが見られないのである。
ゆえに箕子朝鮮〜楽浪郡などの朝鮮侵攻した中国人とは中国本土の人々ではなく、
遼東あたりの非中華、半中華とも言うべき集団だったと思われる。 あれ高句麗王子温祚じゃ無くて高句麗温祚だっけだと高句麗王本人がクダラ王権を穏便に接収したになるねどうだったっけ >>308 現代韓国語の語彙ですら東南アジアまで起源を遡る事をできます
韓国人は既にそれを知って居ますが決まりが悪いので東アジアでは黙って居ます
しかし既にインドネシア辺りでは自然派観光アクティビティに参加する若年世代の「開明派」等が現地人に向かって「ウリらは元は同胞ニダ仲間ニダ(嗚呼ウリがお前たちの先祖ニダと言いたいニダグッ(言葉を呑み込む音))」等とやらかして居ます
韓国の極悪グループは文科省に潜り込んだ通名キャリアを用いて日本の公式歴史観を
北方起源乃至朝鮮起源乃至現在自分達が嵌り込んで居る華夷秩序に塗り替えてしまって
その上で自分達の方から開明的な南北合流グローバルシビライゼーションモデルを持ち出して
日本人と現在の立場を逆転させようと画策実行している最中なのです >>317に示された戦略に依り韓国は19世紀から20世紀前半に於いて欧米諸国に依り認められた日本の西洋式学術界に於ける見識や地位を盗もうとしているのです 国公立大学の論文指導教官も今や中国人韓国人ばかりです 中国共産党が
日本が欧米諸国との間で19世紀(本当は16世紀)から20世紀初頭に掛けて構築した相互理解を齟齬が有った出来てなかったと喚き散らして無かった事にして
現代欧米人と最初に価値観を共有できたアジア人は中国人で在った事に歴史を修正しようとしている所行の数々は皆さん既に御存知ですね 台湾ブタの「朝鮮を叩く正義の味方ショー」の怪文書には
いつも笑わせられるww >>317
朝鮮語で東南アジアと関係ありそうなのって「海」くらいだぞ
新羅後:patɯl 、中期朝鮮語:patah、
オセアニア祖語/ポリネシア祖語:wasa、インドネシア諸語:pasaŋ (満ち潮)
しかも「海」に関しては、
高句麗語(類推):patan、日本語:wata、
アイヌ語:atuy(海の)・watara(海中の岩)
といったふうに似たのがゴロゴロあるぞ
これは朝鮮半島の民が東南アジア由来というより、
東南アジア・オセアニアの民が活躍してたから言葉が広がっただけじゃないかな >>308
むしろ高句麗人と日本人が同族と見るべきだろう
それで朝鮮南部人が倭人なのではないのか?
今の朝鮮語(新羅語)はモンゴル語みたいな朴訥な響きがある一方で、
妙に前のほうに強勢が來る
これは誰が言ってるわけでもなく、自分の思い付きで
だけどもおそらく当たっているのではないかと思うのだけど、
北方の言語は後ろのほうに強勢が來る
南方の言語は前のほうに強勢が來る
北方の言語は我慢の言語で抑制が利いていて弾力に富んでいて、
べらべら喋っていると早口になる
語と語の間が詰まっている感じ
南方の言語は奔放な言語で開放的で緩くて、怒っても迫力がない
語と語の間が間延びしている感じ
例えば北方の言語に英語(イングランド英語)、ドイツ語(ヒトラーの演説を思い出すといい)、
つまりゲルマン諸語がある
南方の言語にロマンス諸語(イタリア語はいくぶん北方的な弾力がある、
逆にスペイン語はイタリア語に比べるとより南方的で緩い)、
アフリカの言語、西南アジアの言語、東南アジアの言語、
中国の広東語などがある それで日本語は、やはりゲルマン語に近い感じがするんだな
ゲルマン語は大変弾力に富んでいる
一昔前はこんな感じで早口で喋っていたらしいイングランド英語
https://youtu.be/CmO_8NYxl1A?t=10m27s
ロバート・プラントはウェスト・ミッドランズ方言の話者らしいけど、
アメリカ大陸に渡ってケルト語話者との混血、交流によって、
ドイツ語風、ドイツ語訛りのようなイングランド英語に比べると、
いくぶん緩く、大陸的な大らかさがあるアメリカ英語との違いに注目されたい
ヒトラーの演説
https://youtu.be/T2jhno1BL3w
激しくも抑制が利いていて、言葉の真ん中から後ろのほうに力が込められている、
わかるかな、この感じ
日本語にはこれらの特徴が備わっている
ただ日本語には地域差があり、東日本の方言は朝鮮語(新羅語)風で、
より南方的で、強勢が前に來る
西日本の「たナか」に対して東日本の「タなか」、
西日本の「りンご」に対して東日本の「リんご」のように、
東日本の方言は我慢が足らない そして本家の朝鮮語(新羅語)にも同じ特徴があり、
やっぱり本家だけあって朝鮮語はやたらつんのめるように喋る
朝鮮人のせかせかした性質が反映されているのかもしれんが、
ともかく朝鮮語は我慢が足らない
一方で、北朝鮮人は朝鮮語(新羅語)を喋りながらも、
どこか日本人の日本語を想わせる
あの北朝鮮の国営放送のアナウンサーの喋り方にしても、
ただ力強いだけでなく、韓国のアナウンサーの喋り方に比べると、
いくぶん抑制が利いている
韓国の朝鮮語よりもより日本語の標準語に近い印象を覚える 果たしてこれは倭人の影響なのか
倭人は南北の(自分の勝手な設定だけど)言語の普遍性から
ひとり逸脱して南方にいながら北方的な言語を喋っていたのか
その関連になるものとして形質が挙げられよう
ラテン諸国の人々がゲルマン人ではなくラテン人然としているように、
言語の影響には少なからず人の影響があり、もし倭人が高句麗人に影響を与えているのであれば、
高句麗人の子孫である北朝鮮人には少なからず倭人の影響があろう
もっといえば、北朝鮮人は韓国人よりも倭人に近いということになろう
倭人とは何か?
倭人とは九州人であるから、それも古い九州人であるから、
九州の古い人々たる九州の辺境の人々のことで、
長崎の離島人や九州南部人、その延長線上の沖縄人などがこれにあたる
果たして北朝鮮人は彼らに近いのだろうか?
それで北朝鮮人が一体どういう形質をしているのかといえば、
彼らは大変に北方的な形質を帯びている
彼らは見るからに南方人じゃない
もっというと、彼らは朝鮮南部の韓国人よりも日本人に似ている
それで日本人とは誰か、日本人とは一体どこの日本人を指しているのか?
それは本州の日本人、もっと範囲を狭めると本州の西日本人で、
本州の西日本人は南方人より北方人に近い
そこから導かれるのは本州の西日本人は北方から出てきて、
言語が高句麗と近いのであれば、倭人が高句麗に影響を与えたのではなく、
高句麗から出てきた高句麗系の言語話者が日本に入ってきて、
倭人の言語を塗り替えたということだろう 弥生開始時の土器を見ると沿海州南部の青銅器時代あたりの土器と
文様が一致してるため、弥生人はその辺りから渡来してきた事が分かるから、
高句麗とは近いだろうな。 ついでに書くと北朝鮮人は表情もどこか日本人を想わせる
北朝鮮の少女たち
https://flic.kr/p/7GVPhj
北朝鮮兵士
https://flic.kr/p/859mNe
韓国人より抑制的で鋭い印象を受ける
まぁ、顔はなぜか妙に横に広いのだけど
おそらく彼らは日本人と分かれた後に何かと混血したのだろう あと朝鮮人は「あぁ〜」って言う
これは嘆息であったり吃驚であったり色々意味があるのだけど、
音の印象からしてとても南方的で(力強い点はいくぶん北方的)、
こんな言い方するのもなんだけど堕落している印象を受ける
スポーツ中継で実況している人がこれ言っちゃうんだよね
日本人なら縮まって「あっ」って言う
まぁ、こんなところにも朝鮮人の南方的な要素を感じる 例えばアラビア語に「アッラー」がある
最近よく耳にするのだけど、あれも前に強勢が來る
よくアラビア語というかアフロ・アジア語族の特徴を示しているのではないかと思う
「アッラー」も日本語なら「伊藤」のように「アラー」と、
「ラー」を強める で、江南なんだろ?w
それを証明する証拠遺跡も証拠文物も無いし、そんな狂った事を
言ってる頭のおかしな考古学者も一人も居ない。 >>309
弥生期も麦作が欠かせんかったし、古墳期でも米は五穀の一つに過ぎんし、
江南のように稲作一辺倒じゃ無ぁんで。
江南なんか、水位が高うて、土が湿って麦なんか根腐れするけぇ出来んけぇ、
中国南北風土を分けるんは、淮河ラインなんよ。
江蘇省でも、淮河の北は徐州会戦の戦記の「麦と兵隊」
のように麦作地域で完結しとるし、日本のように春から夏に米つくり、秋から冬に麦いう、
混合は無いぁし、北中国のもんは、麦が主食で南中国じゃ米が主食じゃし、
日本も麦が主食で米が多くの国民に主食として認識されたんは戦後の高度成長期で、米主食が日本
じゃ半世紀しか無ぁわ。
まあ、日本は米食文化の本場の東南アジアからしたら欠落要素が強い。米で麺を作らんし、
ライス・ペーパーの文化も無ぁし、日本は北方の麦食文化側なんよ。 >>309
日本人の多くの白米主食は戦後の 高度成長期以降じゃ。
http://www.geocities.jp/goodlife0703mameta/rekishi/kakeibo/nouminkakeibo.html
記録にのこる江戸時代の農家の家計簿です。 元禄期(1688〜1704) の田2町と畑5反を
持つ豪農の家計です。 毎日の食事は、1人麦5合と きび1合です。米を食べるのは、正月・盆
など年に26日だけでした。
江戸時代初期のころから幕末のころまでの農家の家計簿です。比較的
大きな農家は別として、米の取れ高10石前後の農家ではよくてトントン、 ほとんど赤字です。
表をよく見てみると、食費の内訳は米よりも麦の方が 多いのが分かります。麦ばかりの家計も
みられます。 衣食住費、生産諸 掛費も米を売却してねん出しますから、米はほとんど
食べることは できません。
http://www.jrt.gr.jp/yaki_imo/70-73.pdf
竹原市吉名町は、「貧乏人は麦を食え」といった、池田勇人元総理大臣の出身地であります。
戦前たくさんのサツマイモを栽培して、これが大事な食料でした。また、麦も主食としていました。
池田元総理の失言は、当地 のものからすると違和感はなく、暴言とはとらえられていません。
http://waga.nikkei.co.jp/play/kiko.aspx?i=MMWAa1004006032009
せんべい 西日本は小麦粉系、東日本は米系
現時点での印象でいうと西日本に小麦粉系が多く、東日本は南部せんべい
などの例外はあるものの総じて米系が支配的ではないだろうか。 >>308
鮮卑に拉致された倭人も含め三国志の時代の倭人認識たぁ北東アジアの水辺民じゃし、
倭の極南界が北部九州の奴国じゃし、列島がホーム認識はさらさら無ぁわ。
日本の支配層は高句麗系集団ゆえ、言語に数詞に共通点があるんは当然のこと。
>>310
日本人も朝鮮人も8割は北方からの渡来系じゃし、在来土着系は渡来者がもたらした疫病で
人口減になるけぇのう。
>>311
日本の米文化も麦作地域の山東経由が南限じゃのう。蘇我氏の古墳とされるピラミッド型も
高句麗系方墳じゃけぇのう。
>>312
高句麗は北方牧畜民系の部族、氏族集団組織ゆえ、新参協力部族も参加者、トルコ系、モンゴル系
ツングース系、チベット系の五胡系渡来者を含め圧倒的に増えるけぇのう。
辰韓を支配した新羅も高句麗駐屯軍傭兵が居座り支配したけぇ、高句麗支配層の積石塚と違い、
積石でも木槨墓云う、モンゴルから西アジア、西洋に連なる墓で、ましてや奴隷民の倭人でも
無ぁし、高句麗や百済が母体北方民族系文化に漢文化を混じえた胡漢文化と違い、
新羅は完全に非中国系の黄金文化よのう。中国は黄金たぁ絹と玉の文化じゃし。
>>314-316
高句麗や百済は文献上扶余出自を名乗っとるけど、高句麗や百済の北方積石塚と違い、
扶余が木槨墓云う点から、扶余を名乗らん任那、伽耶の支配層の北方木槨墓の方が扶余要素が
強いけぇ、基本的に嘘こく性質の文献を史実に認定したらトンデモに成るよ。 >>317
>韓国の極悪グループは文科省に潜り込んだ通名キャリアを用いて日本の公式歴史観を
北方起源乃至朝鮮起源乃至現在自分達が嵌り込んで居る華夷秩序に塗り替えてしまって
その上で自分達の方から開明的な南北合流グローバルシビライゼーションモデルを持ち出して
日本人と現在の立場を逆転させようと画策実行している最中なのです」
はあ? トンデモカルトはわれん方で。
じゃが、韓国人は日本人が騎馬民族系云うんを嫌う人もおるし。 >>317
これなんかのう。―朝鮮人による司馬遼太郎の歴史観批判―
http://www.shibano-jijiken.com/NIHON%20O%20MIRU%20JIJITOKUSHU%2033.html
{司馬は、中国の周辺民族達は、この様に頭を削る事で“‘中国の周辺民族’と言う
アイデンティティーを、頭の形で立証した。”と語った。この様に、同文同種の親族系列である
満州族とモンゴル人、 そして日本人が辮髪をしたのに反して、他の種族である中国人は辮髪を
しなかった。然し、唯一韓国人は、同じモンゴル系統でありながらも中国人と共に辮髪を
しなかった。これに対して司馬は、辮髪をしない韓国人と中国人が自ら‘文明の中心’の中にいると
自負しながら、周辺族たちを野蛮へ追いやったと信じた。彼の眼に、韓国人は、中国と一緒に
“文明の中にいたし、文明の中にいた為、人間”として扱われたが、日本人は、他の周辺族達と
並んで辮髪のアイデンティティーを表示した為に、‘野蛮’として扱われたと見えた。
司馬は、中国人が辮髪しないことに対してはさほど反感がなかったようだ。彼が目障りに感じた
のは韓国人だった。人種的にとか言語構造で、モンゴル系統である韓国人は、どうして辮髪を
しなかったのか、司馬は、韓国人が中国に追随する ‘小中華’を自負した為に辮髪をせず、日本人を
含んだ周辺族を差別したと信じた。さらに、この様に韓国人が自らを‘小中華’と見て、‘文明’
の中にいると自負する為に、日本人を‘倭野郎(日本人野郎)’と、蔑視し、人間以下の扱いを
したと主張した。
‘小中華’を自任した韓国が、中国と一緒に東アジア文明(中国文明)の陣営にあって、他の陣営には
モンゴル・日本が席を取っている構図が、司馬の文化分類法だ。司馬が韓国を言及するとき、
通例中国と同じ線上に 置いて語る理由が、即ちそんな対比的構図に根ざしている為だ。
中国と韓国を一つの束として処理してしまった司馬の文化分類法で、
韓国はモンゴル族―満州族―日本人として連結される周辺文化に属さない。 }
http://www.geocities.jp/nal9999/NOW/HISTORY/BENP4.jpg >>318
日本の学問もカルト歴史修正主義で隠蔽、捏造が韓国並みか、あるいは中共並に蔓延りよるよ。
旧石器捏造に加担した学者ら見てみんさいや。
>>319-320
トンデモカルトは根拠提示せんのう(笑)。
>>323-325
モンゴル語やツングース語に訛りが近いんは、北朝鮮の方じゃけど。殊にツングース満洲語と
北朝鮮は日本の出雲や東北と同様のズーズー弁じゃし。
>>326
九州人自体がラテンの乗りじゃけぇのう。
九州兵もラテン系のノリに近いよ。共に規律なんか守らんけど、九州兵の方が、他部隊や敵から
糧量や武器を掠奪、強盗したりして、凶暴度が断然ラテン系たぁ、比べもんにならんほど上回っ
とるよ。九州兵はラテン系のノリじゃけど同地域の(九州島は朝鮮半島の延長上にある)韓国兵の
性格に近い。 森金千秋氏が広島39Dから、熊本58Dへ転属された時の記述で、
「広島兵団の厳正な軍紀と対照的に、規律はきわめてルーズであった。第三十九師団では
想像もできないことであったが、この部隊では、古参兵たちが、日夕点呼ののち夜おそくまで
酒を飲む風習があった。このため、初年兵は夜おそくなってから鶏料理をつくらされたり、
羅店の町に酒を買いにやらされたりした。」と。
元熊本第六師団の半澤幸親氏は、
「夜も酒と女で賑わう盛り場が方々にあって、第一線帰りで血の気の多い九州男児が、一個師団も
まとまって駐留しているとなれば、何がしかの "コト"が起こるのは必然である。この赤鬼軍団は、
夜戦にも強く、規律維持に当たる憲兵や兵站部隊相手に、平素からの不平不満を酒の勢いで
爆発させ、乱暴狼藉を働く者もあとを絶たなかったようだ」と。
まあ、権威を持つ憲兵相手に暴れてもええけど、兵站部隊相手じゃ弱い者虐めになりますね。
九州兵はラテン系の乗りですから規律なんか守りませんよ。 >>328
朝鮮南部の容貌については、鈴木武樹氏も江上波夫との対談で、
「鈴木 ぼくが不思議に思うのは、南朝鮮の人たちの顔よりも、北朝鮮の人たちの顔のほうが
日本人に似ていますね。
江上 日本人は一般に南朝鮮の人ほど顔が平たくないし、またあれほど短頭ではないね。 」 >>326
司馬遼太郎氏と梅棹忠夫氏の対談から、
http://cds190.exblog.jp/12935194
{ 梅棹「たとえば日本人が昔から軍事的組織能力に秀れているところなんか、遊牧社会の原理が
かなり入っているでしょうね。あれだけ卓越した軍事能力は、農耕社会からはなかなか出てきません」
司馬氏は、「日本人はわりに自己規制がきいている民族で、ヨーロッパでいえば北方的なものが
主流になっていますね。 」
「中国人というのは現実肯定というか欲望肯定の民族でしょう。そこから出た儒教は、もともと
禁欲的なものじゃない。ところがこれが日本に入ってくると、どこか堅苦しく禁欲的な道になって
しまう」
この「遊牧民族→騎馬民族の文化的遺伝子」である「自己規制の強さ」は、思想にも影響している、
という方向に対話は進んで行きます。 }
まあ、ラテン系や中国や朝鮮系、南方稲作民系は欲望肯定で、北方牧畜民的自己規制も
自己抑制も欠けとるし。 >>326
日本も朝鮮も広義の ツングースじゃが、生粋の狩猟、半農半猟のツングースほど正直じゃのうて、
日本や朝鮮は農耕民的な嘘吐きが増える。 シロコゴルフ氏は「ツングースは概して嘘を吐く
人物を嫌う。」 ほいから、ワイ族や満州族の南ツングースものう。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kanbun-wai-.htm
穢族の性格。「其人性愿愨、少嗜欲、有廉恥、不請哀。言語法俗 大抵與句麗同、衣服有異。
(族人の性質は素直で誠実、欲を好まず (無欲)、廉恥を知り、哀れみを請うことはない。
言語風俗は高句麗に似るが、服装には違いがある。)」
朝鮮人よりもツングース満州族の性格に近いわ。
http://blog.goo.ne.jp/truenet/e/fd808e08aec7bd1dc26126fc1f8d4861
http://www.geocities.jp/timeway/kougi-74.html
満州族が北京に入った1645年頃、北京で満州人を見た神父マルチン・マルチニは「彼らは
他国人に会うことを喜ぶ。彼らはシナ人の尊大がもたらす傲慢さや意地悪さを好んでおらず、
従って、彼らのとっつきあいはよほど人間らしい」とその素朴さをほめている。
同じ頃、越前(福井県)の三国の商人が(中略)彼らは1年北京で満州人と起居をともにした
のち朝鮮を経て帰国した。 その見聞したことを記録した「異国物語」によると、満州人は
「ご法度万事ご作法の如く厳しく、事のほか正直に申し受け候。上下とも慈悲あり、偽りごと一
切無く、金銀取り散らしおきても盗みとり無く、いかにも律儀に候」と記している。
北京の中国人については「北京は人のこころ、韃靼(だったん=満州)の人とちがい、盗みも
いつわりもあり、慈悲は無く候」とこき下ろしている。
まあ、日本も嘘を吐く体質は、特に文明化されとるお役人、文化人らに多いよ。文明的堕落よ。 結局、弥生人の故郷を沿海州南部だと見抜けなかった60年代の初めて渡来人に携わった
考古学の基本が出来ていない人類学者たちが悪いんだよね。
特に金関とか。
墓や農具や石器を元に渡来人骨の故郷を朝鮮南部にしてしまった。
彼らが朝鮮土器をサッパリ作らないという基本的な矛盾さえ見落としてしまった。
かと言って、刻目突帯文土器は縄文土器とされていたから朝鮮南部しか見えなかった訳だ
。
古い時代の考古学の誤りである。 >>326
189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/15(金) 11:38:36.03 ID:7uSn6aZ80
縄文系のほうが兵士としては強いよな。
弥生系が多い関西はダメだ、特に大阪とか京都とかは弥生系の割合が日本一。
なので兵士がとても弱い。弥生系の元になったのは中国南部。
中国兵が弱いのと同じ。
逆に九州(南部)や東北は強兵で有名だった。縄文系の比率が高い県である。
193 :白馬青牛 ◆sKm0uQPecU :2014/08/16(土) 00:29:03.16 ID:g/r0DuBY0
>189
南九州の熊本師団が広島師団と共に闘い、広島師団以上の武勲立てたことなんかあったんか?(笑)。
「広島五師団の陣地攻略の巧みさは日露戦争までさかのぼってみると
まず大石橋付近の戦闘がある。広島五師団は名古屋第三師団、大阪第四師団、 熊本第六師団と
共に第二軍で闘ったが、敵塁は堅固で各隊は固着し進展せず、 広島五師団の夜襲で勝利を
呼び込む。 この戦闘は天聴に達し、第二軍は勅語を拝受した。
「第ニ軍ハ大石橋付近ニ於テ優勢ナル敵ヲ攻撃シ次テ第五師団ヲシテ夜襲ヲナサシメ
遂ニ之ヲ破リ防御堅固ナル陣地ヲ陥レ併セテ営口ヲ占領シ水路ノ利ヲ占ム朕深ク毎戦能ク
其功ヲ奏シタルヲ嘉ス」
奥ニ軍司令官の五師団に対しての賞詞文にも
「明治三十七年七月二十四日五師団ハ(中略)堅固ナル敵陣地ニ対シ攻撃ヲ実施セシニ
敵ノ頑固ナル抵抗ニ由リ日暮一旦戦斗ヲ中止セシモ夜長更ニ全力ヲ挙テ決意敵塁ニ突入シ
以テ其拠点ヲ奪取セリ子此夜襲ノ効果ハ我軍全般ノ作戦ヲ有利ナラシメタルモノニシテ
敵ノ主力カ敗退セシハ蓋シ 此勇敢ナル動作ニヨルモノ多カルヘシ仍テ本職ハ
特ニ五師団ノ功績ヲ 賞賛シ(中略)」 >>326
194 :白馬青牛 ◆sKm0uQPecU :2014/08/16(土) 00:43:19.65 ID:g/r0DuBY0
>189
明治天皇も、「第五師団ヲシテ夜襲ヲナサシメ (中略)朕深ク毎戦能ク 其功ヲ奏シタルヲ嘉ス」
九州人の奥司令官も、「仍テ本職ハ 特ニ五師団ノ功績ヲ 賞賛シ」
と明治天皇にも九州人司令官にも名があからん熊本師団は、駄目じゃのう(笑)。
あんたが褒める東北も>177-183-185のように広島師団たぁかなりレベルが下がるよ。
九州人は東北をライバル視しよるようじゃが、東北なら互角に渡り合える気分でおるんじゃろう。
じゃが広島師団と比べられたら弱いことになるけぇ、真の精強、広島師団の存在は、無かった
ことにしようとする姑息な根性よのう(笑)。 結局、江上も青牛のおやじもその60年代の金関の渡来人朝鮮南部説の
餌食になってしまった。
渡来人が沿海州南部であると最初から発表されていれば、その後の
考古学ももっと違った展開になっていただろう。
全ては考古学の基本が出来ていない考古学あけぼの時代のボタンの
掛け違いである。 今、扶桑国について調べてたんだけど、
(個人的に扶桑は東海〜九州の日本列島内だと思ってるが)
梁書に書かれてる扶桑国の官位である大対盧・小対盧について、
高句麗の対盧と関係しているような気がしてならない
もう日本と高句麗がブラザーにしか見えん >>344
日本列島への渡来ルートとして、対馬海峡と間宮海峡に絞られるけぇのう。
朝鮮南部云うても、寒冷化による世界的北方民族南下移動期ゆえ、満洲や朝鮮北部、東部蒙古あたり
からの渡来者も含むわけじゃし。
江上波夫氏は、かつての任那伽耶に騎馬民族文化遺跡が発見される前から、
「任那伽耶にも必ず出て来ますよ」の予言は結果的に当たったのう。
まあ、直接沿海州は無ぁわ。
>>345
「梁書」の 扶桑国は、「車有馬車、牛車。鹿車。國人養鹿、如中國畜牛。以乳爲酪」
乳利用牧畜文化じゃったり、「其婚姻、壻往女家門外作屋」労役婚も牧畜民的習俗。
「貴人第一者爲大對盧、第二者爲小對盧、第三者爲納咄沙。」は、高句麗の對盧と一緒じゃが、
扶桑國がどこんあったかは不明。 >>346
縄文前期頃の沿海州〜アムールの遺跡で隠岐の黒曜石が出土し、
北陸あたりの縄文遺跡からは円筒土器やけつ状耳飾りが出土している。
直接渡来の日本海交易をしているとしか考えられんね。
騎馬文化こそ朝鮮南部までリレー形式で間接的に伝わってきただけだろう。 >>346
それに最古水田菜畑の人々も北方モンゴロイド形質を帯びた
混血人骨が出土した新町遺跡も朝鮮土器をサッパリ作っておりませんのでね。
稲作や支石墓は朝鮮南部から導入したことは確かだが、それらを導入した人々は
朝鮮南部の人々じゃないな。 >>348
半島南部の水稲作は九州島や瀬戸内と比べて同時期か遅い位の開始だよ >>349
ほう。
で、そんな狂った事を言ってる頭のおかしな考古学者の氏名と
所属団体は?
華南淡褐色ブタ広鼻巨大タラコ唇ブタ顔ブタ原人のタイワネシアのハノイひと。 >>322
確かに日本は米食文化って感じがしない
米食文化というと、やたらおかずをごはんや米加工の食品と一緒に食べる
大食い文化という感じだけど、日本の場合は少ないおかずをきっちり食べる小食文化という感じで、
ごはんの存在感がいちまいち大きくない
ごはんが後からくっ付いてきた感じで、ごはんもまたおかずの一つみたいな、
ごはんもまた副食みたいな位置づけになっているように思う
だから日本のおかずってのは妙に独立していて自己完結的なんだよね
例えば豆腐は大陸ではごはんのお供みたいな食べ物だけど、
日本に入って来ると妙な発展を遂げて、ごはんに合わなくなる
独立した食い物になるんだな
それで日本の食べ物ってのは大体薄味で油を使わず、何か生ものに似たような、
日本酒に合う食い物になる
これはやっぱり、穀物といわず魚介類がかつて主食だったのような印象を抱かせるんだな
それに後から穀物がくっ付いてきた
だから、ごはんを中心におかずを色々ついばむ大食い文化ではなく、
ごはんもおかずのようにきっちり食べ切る小食文化が日本には根付いたのではないかと思う
やっぱり食べ物に恵まれないところで育まれた文化って感じがするんだな
だから質素を旨とすることを良しとする考えも自然に生まれた
出された食い物を残すぐらいが礼儀だって中国人の発想は、穀物を貯蓄して、
穀物が有り余っている農耕民の発想だな
日本人はそれほど農耕民ですらないのかもしれない >>337
そう、朝鮮人はラテン系ほど無気力じゃない
朝鮮人はヨーロッパでいえばフランス人にあたるのではないかと思う
フランス人はラテン的ないい加減さとゲルマン的なきっちりしたところを併せ持っていて、
きっちりしていていい加減というハイブリットだと思う
フランス革命を起こす知識人(法律家、哲学者)、資本家、軍隊はいるけど、
ゲルマン諸国のように自浄作用が働かず、むちゃくちゃやってしまう
南ヨーロッパは無気力で何もしないから特に害はないけど、
フランスはラテン的なノリが加わったゲルマン的なバイタリティでもって、
色々やるからヨーロッパを混乱に陥れる
朝鮮もそんな感じではないかと思う
朝鮮人は妙な自尊心があって、プライドが高いところも
フランス人に似ている 人種のるつぼだから○○人というアイデンティティを保つのが大変という点では
共通点はあるだろうな
ただ、フランスが実際ヨーロッパの文化の中心という地位を手に入れた
一方で韓国はウリナラ起源を叫ぶだけだからなあ 詩を作る人の数も作られた詩の数も世界一という文化を踏まえて
「フランス語は世界一美しい」と主張するのと
文学的活動が盛んでもないのに
「ハングルは世界一」と主張するのは似て非なるものだと思うけどね ネットでちらっと見たんだけど、
鬼界カルデラの噴火で縄文人が大量に大陸へ避難して、
そこで暮らし続けたり日本列島に戻ってきたりってありうる? >>354-355
ちなみにフランス人はドイツやイギリスのゲルマン、
スペインやイタリアのラテンを退けて、自らをケルト人の子孫と自称したりする
だからなのか、アイルランド人やスコットランド人は憎きイングランド人より、
フランスにシンパシーを感じたりするらしい
一方で、フランスはギリシア・ローマ文化の継承者とも自称する
朝鮮とフランスの違うところは、朝鮮はフランスに比べると無機質で、
この点では少しドイツっぽい
また抑圧的な点もドイツっぽい
ドイツ人ほど朝鮮人は抑圧を撥ねつける力がないから、
かなり社会的にも人間的にも抑圧されてしまって、
ああやって感情を爆発させるところはドイツとだいぶ違うけど
これに関してはフランスと朝鮮は対照的ではある
フランスはあの地中海の澄んだ青い空、乾燥した空気の影響なのか、
開放的で、デカルトとかルソーとか、およそ朝鮮では出てこないであろう、
自由な発想の人間が出てくる
現実的なイギリス人に対して、自由な発想のフランス人で、
フランスはラテン的な甘さはあるけど、この世の原理を探求しようとする
ヨーロッパ人的な性格がとても強い
それでも、あのきっちりしていていい加減な感じ、
放埓に振る舞うがゆえに攻撃的、過激になるところ、
対外的に朝鮮が日本に粘着するようにドイツに粘着するところ、
外国の都合というものをあまり考えていないところ、
だから近隣諸国から嫌われているところなどは朝鮮と似ているなぁと
思わずにはいられない >>340
あぁ、確かに日本人には嘘つきがいる
小保方いじめの時にそれまでの態度を豹変させて
あんなことやってたこんなことやってたと平気で嘘つくやつ、
ありもしないこと平気で吹聴するやつ、日本には冷酷な嘘つきがいる
日本で抹殺される人の最期は哀れだ >>356
それを証明する証拠遺跡とその証拠文物、とりわけ証拠土器・石器が一切無いだろ。
常識で考えろ。 >>342-343
大阪といえば浪花恋しぐれ
https://youtu.be/8xXmLUMhtuY
この岡ちあきの浪花的マッチョ臭がプンプンする歌い方、
これが西日本人のベースにあるのではないかと思う
これが北方民族の我慢強さ、意欲ってものではないかと思う
このカムのおのこという歌
https://youtu.be/nlqrXCaq_bE
この糞気張りながら歌ったかのような力強い歌唱方法といい、カム人の顔つきといい、
柔和な中国南部人よりよほど西日本人に近いと思う 中国南部人が祖先なら、ブタくさい顔をした南方ヅラ、ブタゴリラ、ブタボルネオ、
ブタホンコンといった感じの醜悪極まる顔面がわんさかいるはずだろ。 >>349
はあ? 日本に朝鮮の松菊里たぁ古い稲作遺跡なんかあったや?
われも、根拠の無ぁカルトネット右翼妄言の受け売りで洗脳され、トンデモ云うて何の意味が
あるんかいのう?
>>352
米食文化圏は温かい米食うし、日本のように冷や飯は食わんゆえ、日本の旅行会社も米文化の台湾
旅行者とか中国からの旅行者用に温めた弁当出すけぇのう。
中国南方人は米主食ゆえ、日華事変でも食糧の米を温めよって、日本兵が冷や飯食うんを
米の食い方知らんと蔑視しとったし、日本人たぁ米を食うて来た朝鮮人からも、戦前日本人は
米の食い方知らん云われたけぇのう。今の韓国でも弁当は温かい米を食うけんのう。
日本の米なんか、酒の加工品用に作られたようなもんじゃし、米食文化自体、お隣の朝鮮半島たぁ
劣っとるけぇのう。
オカズも朝鮮半島の方が、バンチャン豊富は現在進行形じゃが、昭和期でも韓国人は
草食動物かと思えるくらい、野菜食うけぇのう。
日本人なら魚主食でも、山の得物の鹿や猪肉が主食でも、オカズ菜の野菜類は脇もんじゃし、
米なんか酒の摘みで味が変る時、一口食うオカズに過ぎんし。 朝鮮半島最古の水田遺構はBC11Cのオクキョン遺跡。
日本より古い。
最古のイネの現物は4〜5000年前のもの。
日本より1000年以上古い。 >>352-353
朝鮮人は無気力じゃ無ぁけど、フランスは北のゲルマン要素がラテン系で極めて強いが、
言語的にゃラテン系言語民族。
わしゃ、朝鮮人はケルト系民族の向こう見ずの闘争心、戦闘の強さからもラテンたぁ
ケルト色が強いと思うとるよ。
フランスは大陸の合理主義ゆえ左翼的理想主義で、経験主義基盤で独立精神のイギリスの
保守主義たぁ、朝鮮朱子学基盤風土はフランス啓蒙主義の左翼思想に近い。
日本に至っては、左翼啓蒙主義を嫌韓感情のカルトネット右翼が唱えよるし、お隣の半島以上に
狂うとる狂信カルトが蔓延りよる故じゃろうて。
>>358
安倍ちゃん先頭に政治屋の嘘こき、お役人官僚の嘘こき、先の大戦の高級軍人の嘘こきも、
日本じゃ当たり前の日々をおくっとるよ。 >>360
上の岡千秋氏と都はるみ(李春美)さんの「浪花恋しぐれ」は懐かしいのう。
ほいじゃが、確かに岡千秋氏は、下の方のチベット人の中でも日本人に近い容貌の
カム人(西康人)や南ツングース満州族系たぁ、モンゴル系容貌ゃし、北方の中でも北方容貌じゃ
のう。モンゴル行ったらモンゴル人と容貌だけなら認識される可能性が極めて高い容貌よのう。
一方、在日の都はるみ(李春美)さんは、朝鮮南部の韓人、倭人の典型容貌で南ツングース系ほど
顔が高うも無ぁし、モンゴル系でも無ぁよ。
まあ、カム(西康)人は気質的に温厚な東日本人に似ず、西日本人に似とるけど。 玉?遺跡の農地わ畔無しで一続きの緩斜面だから水田じゃ有り得無いよ >>366
日本の掲示板に来るなよ。
台湾の掲示板から出てくるなよ。 >>363 サンプルを寄越せ第三国の白人様に再検査して貰う 朝鮮学者の北方経由陸稲先行説には
@ 稲の野生原種は水稲で在る事実
A 水稲でも陸に播いて収穫できる事実
B 水田発明のプロセスとして必須の自然潟栽培の存在
C Aは寧ろBが上手く行かなかった際の更なる緊急避難策で在った可能性
についての考察がすっぽり抜けて居て全然腑に落ちない学説ばかり 最古に伝わっている農具とイネの粒の形を見れば日本の稲作は半島から
入ってきたものとしか考えられない。
半島にはどういう経路で稲作が伝わったのか?
山東半島経由か遼東半島経由しかない。 九州で稲作が始まる時期の長江下流域の文明わ
既に中粒種と短粒種を栽培分け為て居たからね
農具も日本に伝わった器物は全て揃って居たし そんなウソ狂言を働いているサギサギ考古学者など一人もおりません。
台湾人は日本の掲示板に来ないでくれ。
つか、来るなブタ野郎! 稲作が伝わった頃の中国にはクワもエブリもない。
ところが日本に一番最初に伝わった農具はクワとエブリであり、
最古水田にはスキはまだ無かったのである。
しかも中国の農具は石刃。
日本稲作が中国からなんて2兆%あり得ません。 >>369
種撒いたら勝手に出来とった、狩猟採集の半栽培の陸稲なんか、農耕社会じゃ無ぁし、
日本にゃ縄文農耕唱えるトンデモの佐藤洋一郎氏云う学者がおるけど、
朝鮮の学者云うて誰か具体的に云わん限り、おどりゃあ、大嘘こきになるで。
>>370
水稲稲作地域の江南から、直接は半島も列島も無理ゆえ、山東か遼東になるのう。
>>371
長江文明云うトンデモが流行っとるけど、長江に文明なんか無ぁよ。江南開発が南北朝期の
中国北部人の農地開発から文明化したと云えよう。
長江、南中国は長粒インディカ米が圧倒したけぇのう。じゃけぇ日本人は江南、南中国の米は
不味い云うし、逆に中国東北部の旧満州や朝鮮北部の米は美味い云うけぇのう。
まあ、温度の高低差がある方が米は美味いし、日本列島でも比較的北の方が米が美味い。
広島県でも豪雪地域の県北の米が美味いわけで、県南の米そのものは不味いが、酒の為の
加工用に適するし、酒粕にしたら美味しいのう。 もし長江から稲作が伝わったいたらどうなっていただろうか?
最初に伝わる農具は石刃のスキ、除草用の石鋤、石鎌のはずである。
稲籾は長細い中粒種が全体の約半分。
米は陶鼎で炊くか、陶鬲で蒸す方法が伝わっているはずである。 >>335 えーでも90年代以降に白人様に原モンゴロイドの東アジアへの流入経路は全く南方説が正しいって言われて
急に九州琉球台湾雲南チベットはウリの子孫ニダ説を喚かなくなっちゃったじゃんw
今頃は慌てて経路をひっくり返しながらも日本人は何もかもウリに教わったニダ理論を再構築しようと必死なんでしょw? >>375 縄文時代から先行する自然潟栽培での唯一の農具は石包丁じゃねw? 出た、いつもの台湾ブタボルネオのイントロ詐欺、
朝鮮を叩く正義の味方ショーww
まず最初に必ず朝鮮を叩いて正義の味方を装ってから本詐欺に入るという
中国4000年の必勝詐欺手法wwww
二段構造型詐欺手法ww >>374 稲作自体は縄文時代にとっくに南西諸島伝いに日本列島乃至朝鮮半島南部まで来て居て
弥生時代中期に北の陸路を魏に塞がれて居た滅亡呉から難民が東支那海に向かって巽艮一擲伝説の蓬莱へ渡り
これが後々平安時代にまで通用する程のハイパーな灌漑農耕技術をを齎したが一番無理が無い そもそも細石器では無い石包丁や石鋤の様な幅広石刃が無いと木を削って板を作るって発想にならない金属器じゃ遅過ぎ >>379
で、縄文期の南西諸島における稲作の証拠遺跡とその証拠文物と、
弥生期のブタハノイ呉からブタ顔ナンポー人難民が渡来定着した事を
証明する証拠遺跡とその証拠文物、とりわけ証拠土器・石器と、
そんな狂言詐欺を働いている悪質なキチガイ考古学者の氏名と所属団体は?
華南淡褐色エラ張り短顔ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇ブタ顔ブタ原人が
祖先のタイワネシアのブタブタしいナンポーヅラのお方。 魏志倭人伝にある通り日本には
元から南方系の要素を持った
海洋民族である倭人が生活していた。
対馬や壱岐等でも生活していた倭人は
有力な海洋民族が全く存在しない
対岸の朝鮮半島沿岸にたやすく
進出しまくっていた。
ノルマン人がイングランドに進出するように。
後北朝鮮人は南朝鮮人より日本人に近い
容貌だというが、単に楽浪郡の頃に
中国人と混血しただけだ。
もとより日本人は朝鮮人より中国人に
容貌が似ている。 中国人が定着した痕跡遺構が日本には一切ないので。
弥生人は沿海州から遠路はるばる山陰までやって来た海洋集団。
朝鮮南岸まで行く事など朝飯前。
稲作、農具、大陸系磨製石器、支石墓、高床式倉庫、青銅器、鉄器、ぜーんぶぜんぶ朝鮮南部から自らの手で取り寄せただけ。 弥生人は支配民族であり海洋民族で
ある倭人が九州や本州の開墾田で
使役させる為に
朝鮮から連れてこられた奴隷だ。 ところが朝鮮半島で生活するよりも
日本列島で倭人の下で農奴として
暮らしていくほうが
よっぽど暮らしやすかったのか
朝鮮半島にいる親戚を次々と
日本列島に呼び寄せてコロニーを
形成したのが弥生人集団だ。
歴史は2度繰り返すというが >>385
じゃあ何で弥生人は朝鮮土器をさーっぱり作らず、沿海州の土器なんか作ってたの?
それに何で九州北部の黒川式縄文土器は弥生人の刻目突帯文土器に負ける形で一掃されてるんだ? もともとユーラシア大陸全般に普及
していた突帯文土器は中国を通じて
朝鮮半島に伝播した。
これらの技術を持った朝鮮人を
倭人が徴用して日本列島に連れてきた。
これが弥生人のルーツ。
土器の作り手が倭人から弥生人に交代
したため縄文土器はすたれた。
日本に来た弥生人は朝鮮半島にいた頃より
覚醒して遠賀川式土器など違うスタイルの
土器を次々に考案していった。
朝鮮半島に残された朝鮮人は
作るのがめんどくさい突帯文土器
を作るのをやめ、
朝鮮無紋土器を作り続けていた。 >>387
そんなバカ丸出しの狂言を働いて何か楽しいか?
だいたい朝鮮から突帯文土器は数点しか出土していない。
日本の刻目突帯文土器のルーツを朝鮮に求める事自体、無理がある。
それに朝鮮のものは最古のものから壺とセットだ。
何で伝わった当初から壺を伝えないのか荒唐無稽。
壺は最古水田の登場後に朝鮮土器からパクった器種だぞ。
壺があったのに何故か壺を伝えず、ずいぶん後から出身地から壺をパクるのか。
挙動不審にも程がある。 もともと日本列島には壺など存在せず
形状不安定で不便だから伝来しなかった。
ところが朝鮮から弥生人が入植するに
つれてやっと壺も伝来した。 >>389
だったら何で朝鮮土器の壺を作らないの?
最古水田からは間違いなく朝鮮から導入された農具や大陸系磨製石器が出土しているが、この間違いなく朝鮮から稲作を伝えた弥生人たち、摩訶不思議な事に朝鮮土器をさーっぱり作らない。
朝鮮無文土器の壺がたったの一点出土しただけ。
その後から出土する壺はやはり沿海州南西部のシニ・ガイ文化にルーツがある刻目突帯文土器なのである。
縄文晩期に沿海州から渡来した集団が朝鮮南部との交流を通じて彼ら自身の手で稲作やら青銅器などの先進文化や先進技術を導入していただけなのである。 百済、新羅に侵略された加羅国からの避難民が
宮崎のえびの高原から小林にかけて住み着いたのだろう。
韓(加羅)国岳という地名は、
山に登れば加羅が見えるという意味なのだろう。 1 : 日本@名無史さん2017/03/12(日)
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
90 : 日本@名無史さん2017/03/12(日)
>>88
狗邪韓國は何人の領土?
95 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/03/12(日)
>>90
領土といいう観念に語弊があるかとは思いますが韓人の国でしょう
金官国の全身とするのが通説です 本当の古代史
辰韓の鉄=遼寧省鞍山市の鉱山地帯
公諱隆字隆百済辰朝人也=隆は遼寧省の百済人であり公州の百済人ではない
この文は辰韓の位置を間違えていたり遼寧省の百済を知らない人には理解不能
「辰王がいた方の百済人」とかっこよく書いたら未来人には意味不明となった
渤海の国号、震=大氏発祥の地が過去の辰韓だった
震が辰に通じるのは自明だが、辰韓を韓国東部と解釈して思考停止するのは踏み込み不足
辰州、奉国軍、節度。本高麗蓋牟城。唐太宗會李世勣攻破蓋牟城、即此。
渤海改為蓋州、又改辰州、以辰韓得名。
高句麗の蓋牟城は遼寧省撫順市に比定されており、その位置は鞍山市の北東である
帯方郡(4900戸)=営口市、半径5km
あとは魏書韓伝にそってならべる
多婆那國=倭国(大連)東北1千里=中朝国境の卒本地方
好太王の碑文にある倭、百残、新羅の位置=遼寧省から鴨緑江の下流域
倭の五王が南朝に派遣した倭国使は靴をはいていない
通説(痛説)では裸足の集団に広域大戦争をさせてしまった
「西暦391 - 412年」中に、「倭」は「高句麗」と「鴨緑江」にて職貢図によれば「裸足」で戦わなければならない
のちに坂上田村麻呂の東北遠征が西暦800年に行われ、異民族風のアテルイが捕まえられる
何なんですかこの古代史!順序が逆ならまだしもなぜこうなるの
西暦400年に鴨緑江を攻め、その400年後に東北地方を攻めるのは不自然だ
この時点で倭=日本列島説はアウト
そもそも日本列島は韓と界接していないので最初からアウト
2重の意味で倭=日本列島説はアウト
http://i.imgur.com/9GXhZ3N.jpg
http://i.imgur.com/zVOyZ0J.jpg
http://i.imgur.com/z3XqL6t.jpg 西暦400年代、倭、百済、新羅は好太王に故郷を追われ朝鮮半島に逃げ込み拡散分布する
東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五國=海北とは遼寧省南岸
東、西、海北には領土があるが南の領土はなぜ主張しない=南進中を意味する
ここで博多中心説を採ると博多の南には領土があるはずなのでアウト
ここで奈良中心説を採ると西側の国が少なすぎるのでアウト
つまり倭王武にとって帰る国などなかった
道遥百済(省略)句驪無道=倭国、百済、句驪は陸続き、句驪はひどいと南朝に泣きついた
故郷を奪ったので句驪無道なのです、倭王武の悲痛な叫びを曲解せずまじめに聞きましょう
半島各地で任那ができる、倭国本体南下する
最後の遣使記事は502年=引越し中を意味する
西暦500年代初頭、倭国本体は九州に上陸し、先住民を土蜘蛛あつかいする
天孫降臨記念日を太古の昔に設定した日本書紀はこの時点でアウト、証拠能力ゼロ
志賀島の金印=先住民にとられないように埋めて隠すも、埋めた場所を忘れる
前方後円墳は堤防の概念がない先住民が積み上げた塚を倭国人がこれ幸いと墓に転用したものだ
塚の作成年代≠墓になった年代、これ重要
ため池あるとこ古墳あり、ため池なければ古墳なし
倭国人は堤防の概念、その他中国文明を知っており最初から巨大古墳を作っていない
6世紀の終わりには日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなった(wikipedia参照)
上の理由は残土を堤防に使う
塚を墓であると主張するには副葬品などの提示が必要だ
塚はあっても墓はない、いわゆる空墓がかなりあるのはなんででしょう? 百済の熊津城=熊岳城
白江の口=熊岳城の南西、白沙湾
「百済辰朝人」であるところの「扶余隆」は百済五方「北方」の城「熊津城」で暮らしていた
熊岳城の南西に「白沙湾」という地名がグーグルマップでも発見できる
これはいったいどういうことだ!
熊津道行軍總管、右威衞將軍孫仁師等破百濟餘衆及倭兵於白江,拔其周留城
韓国西部の公州に行くには高句麗の中を通らなければいけない
つまり熊津道は高句麗の手前側(唐に近い側)にあったはずだ
詔發淄、青、萊、海之兵七千人=山東省の北側から出撃した
人怪其故,答曰:擬削平遼海,頒示國家正朔
劉仁軌自ら「遼海」と明示しており、どうみても渤海湾(遼東湾)のことだ
公州の西の海を遼海と呼ぶのならインド洋も遼海だ
なお言うまでもないが、劉仁軌の役職は檢校「帶方州」刺史だった
扶餘隆率水軍及糧船。自熊津江往白江、會陸軍同趣周留城。仁軌遇倭兵於白江之口
熊津江(熊岳河)と白江(浮渡河)とは開口部が違う川である
熊津江を出て白江に向かったところ白江の口で倭兵と遭遇したのだ
通説の錦江説は合っていますか?白江の上流に熊津江があるのではありません
百済平定物語は渤海の東側にある遼東半島のお話しであり、公州を攻撃したのではなかった
(蘇)定方自城山濟海、至熊津江口=蘇定方が平定した百済もまた遼東半島である
通説が正しいならばこの箇所は「至白江口」となる。白江=錦江説、アウト
大連の北側にある白沙湾を日本列島から攻撃するのは西暦660年では不可能なはずだ
かの有名な白村江の戦いに作文疑惑が浮上した!
日本書紀には資治通鑑や三国史記を見ながら作文した箇所がちらほらある
特に天智紀は作文だらけ、白村江のくだりは全部作文
白村江への旅程については何も書かず、いきなりワープしているではないか!
宇宙船艦ヤマトのようにワープしている時点で作文確定!
http://i.imgur.com/5buzTh0.jpg
http://i.imgur.com/6Q0x678.jpg 倭=日本列島を主張する日本書紀のおかげで重要な比定位置はことごとく南東に平行移動した
日本で見つかっている古い木簡は7世紀、韓国の場合は6世紀=楽浪郡ピョンヤン説、アウト
日本で見つかっている古い石碑は7世紀、韓国の場合は6世紀=楽浪郡ピョンヤン説、アウト
楽浪郡は紀元前108年にできたはずで、いくらなんでも漢字の伝来が遅すぎる、はいアウト
檢校帶方州刺史、劉仁軌は遼海を削平(平定)する、遼海とは遼河が注ぎ込む海、遼東湾のことである
この遼海を拡大解釈しなければならない帯方郡=ソウル説、アウト
仮説の検証2項目
武藝啓(省略)有扶餘之遺俗=渤海人は奈良の支配者の出自が遼寧省にあることを知っていた(ビンゴ)
いまだに奈良公園ではシカを放し飼いにしている
坂上田村麻呂の東北遠征800年=この仮説で無理なく説明可能、大和朝廷史観では遅すぎる(ビンゴ)
邪馬台国=近畿説九州説、大和朝廷史観全部まとめてアウト
500年上陸説が正しい 「アイヌ人と渡来人の混血は7世紀が始まり」…遺伝学研究所
2015年08月24日 16時52分
http://www.hazardlab.jp/know/topics/detail/1/0/10761.html
国立遺伝学研究所と東京大学の共同チームは、アイヌ人や日本列島本土人の遺伝情報を解析した結果、
遺伝子配列の違いから、縄文人の子孫と見られるアイヌ人と、弥生人の子孫とされる渡来人の混血は、7世紀に始まったと推定する研究結果を8月24日までに発表した。
日本列島には、おもに北海道に住むアイヌ人、琉球諸島のオキナワ人、日本各地に分布して生息する本土人の3種類の人類集団が居住している。
国立遺伝学研究所の斎藤成也教授らのチームは、性染色体以外の遺伝情報を調べて、60万カ所で見られる遺伝子配列の違いを解析した。
その結果、毛髪と歯、顔の造形に関係する2つの遺伝子の近くに存在する塩基配列が異なる部分の解析から、アイヌ人と日本列島本土人には大きな違いがあることが判明した。
研究チームは、アイヌ人を縄文人(採集狩猟民)の子孫、中国大陸から渡来した漢民族や朝鮮民族を、弥生人(農耕民)の子孫と仮定した場合、
日本列島本土人における縄文人の遺伝的割合は約20%に達し、これら二つの民族の混血は、少なくとも55世代前、すなわち7世紀ごろに始まったものと突き止めた。
斎藤教授は「遺伝子解析の結果、アイヌ人が東アジアのなかで独自の系統的位置を占めていることが明確に示された」と話している。
なおこの論文は日本人類遺伝学会が発行する「Journal of Human Genetics」電子版に掲載された。
国立遺伝学研究所と東大の共同チームが日本列島本土人の混血モデルを解析した図(国立遺伝学研究所の論文より作成)
http://www.hazardlab.jp/contents/post_info/1/0/7/10761/%E6%B7%B7%E8%A1%80.jpg そもそも朝鮮南部からは
縄文土器に始まって、前方後円墳まで出土してるわけでしょ。
あとは言わずもがなでしょ。 >>399
ところが朝鮮由来説をとるアホがたくさんいる
ベクレチョンコ蝦夷なんてもろその類 https://goo.gl/MFkghn
これ本当だったら、普通にショックじゃない?? 最新DNA研究と縄文人 斎藤成也
http://jomonjin.info/archives/504
出雲地方が大陸に近いにもかかわらず、関東の人のほうが、大陸の人たちの遺伝子に近いことがわかりました。 >>400
アホだからそういう説を取るわけじゃなくて
その方が自分たちにとって都合がいいから取るんだぞ >>45
>天皇の先祖は・・・・任那馬韓辰韓加羅を支配し、百済新羅を属国としていた ・・・・・・・・・・・
ふーん、何という文献or金石文にそう記載されているのかな?
ヤマト王権が百済・新羅を属国としていたなら、百済・新羅が朝貢に出向く先が
ヤマト王権でなく当時の中国王権だったのは何故なのかな?
当時の中国王権が、倭五王からの百済・新羅を支配する安東将軍号申請を
認可しなかったのは、何故なのかな?
脳内妄言でなく客観資料に基づいた発言をしようね。 >>404
朝貢というのは属国だからするもんじゃないし
国と国の関係とは関係がない
あくまで皇帝とその相手個人(使節)との関係
ササン朝ペルシアの使節も朝貢あつかいだし
アッバース朝イスラム帝国の使節も朝貢扱い
だがイスラム帝国やペルシア帝国が中国の属国だったという事実はない 新羅や百済が倭に朝貢というのは眉唾だが、人質を取ってたのはガチだな 百済や新羅の建国に倭人の進出がかかわっているのは確かだが
百済建国まで明確な国邑の成立のない半島の孤立農業集落が船もって日本に移民する意味が無い。
移民の可能性は漢四郡の侵攻だが、遼東や北部は文化圏が違うのではないか。
少なくとも漢の倭奴国当時九州は楽浪と交易していた。
九州と半島の国境も認められないがBC200年以降の遺民移民は無い。
鉄の採集などに関しても逆行している。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています