任那(日本府) 加羅 20
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何の話だよ?
半島南部で山間に開拓村邑作って平和に稲作してた農民が
意味不明に稲作教えたくて、船で日本に渡って弥生渡来人になったんだろ?
で、半島に鉄取りに行ったりで任那や加羅を分捕った?
そりゃ、単に国体のない古代に国境が無いってだけの話じゃね?
そのあと、大和朝廷が軍事的国体を作って九州や半島も平定して
高句麗との戦争を重ねて、百済や新羅を保護、傀儡独立させた。
で、400年に半島利権と無縁なすぐ滅びる弱小中原国家南朝と倭の五王が利権交渉をした。
弥生渡来人が平和そうな農業開拓地から日本を繁栄させるために来た意味が不明だけど
任那、加羅は鉄や高句麗馬まで移入した日本の大陸防衛、富国強兵に必然でしょ。
なんか、時代は繰り返す的だなw 古代韓にちなんで大韓帝国建国。
てか、関東軍は大陸渡来人のせい、とかで、歴史は直視できなかったり汁ニダねwww >>504
>半島南部で山間に開拓村邑作って平和に稲作してた農民が
>意味不明に稲作教えたくて、船で日本に渡って弥生渡来人になった
では、何で最古水田・菜畑遺跡の弥生人たちは生活痕たる朝鮮土器を全く作らなかったの?
. 土器が変わるのは風土、作者と土と熱源が違うからだろ。
政治や資本もあるかも知らんが縄文土器作家が弥生土器の流行を受け入れた。
渡来人は土器作家か? 船使える戦乱移民なら農民ですら無いだろ?
輸入じゃなくて難民定着まで用に持ってきたもんはちょっとくらい出てるんじゃね?
ただし、渡来人が縄文集落に安住しない段階であって当然弥生時代初期だよ。
弥生渡来人が縄文人と混ざった後なら有るもので間に合えば何の意味もない。
渡来人単体の集落遺跡なんてあんのかよ?
そりゃ、徐福だwww BC200じゃ弥生初期じゃない。 >>506
考古学のセンスなし。
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系農具は?
. >>503
礼安里人骨の12号墳の人骨が高顔の北方渡来形質で、41号墳は広低顔の縄文人骨
じゃったけぇ、韓国のニダー顔は縄文顔じゃがのう。
>>504
朝鮮南部でも日本列島でも、稲作が主流に成った考古学根拠も無ぁし、記紀にある
五穀の一つとしての稲作で、食は麦食依存じゃし、日本のトンデモ歴史修正主義じゃ、
稲作投影が強いだけのことじゃし。
大和朝廷なんか記紀の奈良期以前考古学的にも飛鳥期までは確認出来るけど、
全国統一じゃのトンデモ妄想じゃし。半島の鉄は半島の倭も得ただけのこと。
九州平定じゃの天智天皇以降のことじゃし、記紀じゃ筑紫王朝の倭を新羅寄りと批判
しとることからも、旧新唐書の九州の倭と畿内の日本との区別からものう。
大和が高句麗と戦闘じゃの中国史書に無ぁし、倭の五王なんか逆に日本の記紀にも
記述されとらんし。倭の五王は伽耶の話じゃろう。ましてや、当時の日本列島に隋を
撃退した高句麗と戦える軍事力は考古学的にも無ぁし。 >>503
北方渡来形質が強い西日本でも、我が広島でも亀井静香氏タイプの顔もおるけど、
比率としてはエラの張った顔は>>500-501のように、九州南部や東日本に多いい。
南方系低顔同様、日本や朝鮮に残存する縄文タイプも、 低顔じゃけぇ、
顔を上下に押し潰すと、エラの張った四角顔になるだけ じゃに。
http://ime.nu/www13.ueda.ne.jp/~ko525l7/s01.htm
[信州人の顔
『私が信州大学に赴任してはや20年近くなる。信州出身の同僚や職員、学生を見て
いると顔に大変大きな共通した特徴があることに気づく。皆、顎が大きく、
いわゆる、えらが張っている。京都を中心とする西日本の人たちは顔が細長く、
信州人のようにはえらが張っていない。長い間どうしてだろうと思っていた。
ある時テレビを見ていたら、縄文人と弥生人の頭骨から生前の顔を復元して比較して
いた。その復元された縄文人の顔が、私の同僚の藤本哲也先生にそっくりなことに
驚いてしまった。彼は生粋の信州人で、長野高校の出身である。同じ長野高校出身で
現在東大教授をしている。坂村健先生がいるが、日本独自のコンピューターOS
「TRON」の提唱者として有名な人である。この坂村先生、同僚の藤本先生、
復元縄文人の3人の顔がそっくりなのには驚く。信州人の顔は縄文人の顔である。』
と、中部東部に到るとエラの張ったニダー顔の縄文形質が増えるし、西日本人から
みたら、東京首都圏はニダー顔が増える意識は持っとるよ。じゃけぇ、西日本人顔は
()で、東日本人顔の典型は、<>の角張ったニダー顔でええんじゃなぁか。東日本人の
エラ張り供もが、自らを棚に上げて韓国へ転嫁しよるけぇ憐れなんよ。 形質なんてどーでもいいだろ?
乳だし民族服の糞まみれ犬喰い土人が
足だし尻振りの成型芸能売春婦に変わるのに100年も要らんよ。
加羅、任那に渡ったのが、そもそも弥生渡来人なんだけど
日本に稲作を普及させて開拓して人口爆発を起こしてるのに
なんで半島渡って任那加羅作って新羅や百済の建国を導いてるんだ?
アジアは一。とか言って関東軍が里帰りしたのかよ?
古代だよw 国が無い開拓地だったってことだろ?
日本の軍事国家形成期が200〜300年、
四郡進出の無かった半島南部の韓は300年以降。
基本的に大和朝廷の前身の軍事仕事だが、
400年には馬や製鉄の輸入での富国強兵政策は形成できてる。
任那加羅は大陸防衛に必然だった。
百済新羅を独立国として傀儡化して663年には成立した唐と海戦。
唐は勝利し百済は消滅するが、大陸緩衝材としての新羅は残った。
この間、900年までは遣唐使外交が続き、新羅は交渉材料として役立った。
これ以降は、半島国家支配者が中国貴族化しただの収奪地となり日本は手を引く。
近代以降、中国がロシア、欧米列強の侵攻に落ちると
日本は半島に防衛線となる古代韓にちなんだ大韓帝国を建国した。
戦局で日本は米国の管理下となるがなぜか韓はゆかりの38度線以南に残った。
で、ま〜た蝙蝠化してる。
スレのお題。 加羅任那とは何か?
日本がどんなに馬鹿でも歴史に学ぶだろwww >>508-510
縄文顔は南方モンゴロイドの顔やアイヌのような人種の顔であって、
そのフランキー氏のような顔ではないよ
上で口の話が出ていたけど、中央モンゴロイドの口は小さくない
例えばチベット人を見てみるといい
チベット人にはモンゴル人のような人種の影響があり、
モンゴル人のように上顎骨が発達していたり、顔面が平たかったり、
眼窩が垂れていなくて、眉はつり上がらず、目が垂れていないようなタイプは、
口も小さい傾向があるけど、中央モンゴロイドの影響が強いタイプ、
つまりは上顎骨は発達しておらず、顔面も平たくなく(なだらか)、
眼窩が垂れていて、眉はつり上がり、目が垂れているようなタイプは、
口も小さくなく、普通のサイズの傾向がある
何なら逆に大きめだったりする
つまり、同じ寒冷地適応を遂げたモンゴロイド同士でも、
この点にわかりやすい違いがある
シベリア先住民は口が小さい
モンゴル人も口が小さい
朝鮮人も口が小さい
日本人も朝鮮人の影響で口が小さい人がけっこういるけど、
それでも、上記のチベット人を除いた集団に比べると口が大きい傾向がある
それは上記のチベット人を除いた集団に比べると、
シベリア先住民の影響が弱いからだろう
まぁ、日本人のなかでも地域差がある
例えば関西人ははっきりと全体的に口が小さい傾向がある
中国地方人も関西人ほどではないせよ、口が小さい傾向がある
これらの地域には特に朝鮮人の影響が強いからだろう
これらの地域では目や頬骨にもより朝鮮人の特徴が出ている 続き
その点、そのフランキー氏も口が小さい
日本の縄文系は沖縄人やアイヌの顔を見ればわかるけど、
口は小さくない
フランキー氏のそれは縄文人の特徴じゃない
フランキー氏は口以外にも、目が細かったり、すなわち蒙古襞が発達していたり、
縄文系にしては眼窩が丸っこかったり、上顎骨が発達していたりと、
色々とシベリア先住民の影響が出ている
フランキー氏は顔が丸っこいんで、縄文人の影響があるのは間違いないと思う
だから縄文系と呼ぶのも間違いではないと思う
ただ、それにこう付け加えるべきだと思う
シベリア先住民の影響があると
さらには、日本の中央モンゴロイドと縄文人の混血の縄文系とは
こう書いて分類するべきだと思う
フランキー氏は日本の縄文系と朝鮮のシベリア先住系が混血した朝鮮南部の先住民系であって、
日本の弥生時代か古墳時代に新たに渡来した渡来系であると
これが正確な分類ではないかと思う >>513
単に弥生人だろ。
朝鮮から来てませんので。
弥生人は渡来当初、朝鮮土器をさっぱり作らなかった。
朝鮮経由したなら知っているはずの壺も高坏も知らなかった。
沿海州から山陰に直接渡来しただけですんで。
突出した口縁部に刻みが施される、朝鮮の土器文化ではない土器文化を持ってな。
あたかも朝鮮から来たかのような悪質極まりない詐欺はやめろよビビンバチョンセン。 >>511
乳出しじゃの日本でも昭和40年代前半頃まで電車やバスの交通機関で若い母親が
赤児へ授乳させる為公衆の面前でオッパイ出しとるんも当たり前じゃったし、
日本の水田稲作も人糞肥料を撒いた田んぼで足埋めて作業しよったし、日本国内で
誘拐拉致され売春婦にさせられた「からゆき」娘子軍や桃山期の南蛮ポルトガル船にも
詰め込まれ東南アジアの日本人町の収入源も日本女性の売春の伝統すら歴史無知は
韓国へ転嫁が好きじゃのう(笑)。まあ弥生期の列島倭人も漢への生口献上の
属領奴隷民じゃったし。
日本記紀の記述じゃの、朝鮮の馬韓や辰韓の時代に百済や新羅があったと捏造する
三国史記同様、日本の記紀も捏造文書集云うことすら無視して、記紀教典信仰は、
歴史学じゃのうて宗教カルトそのものじゃなぁか(笑)。
日本の大型古墳建設の人夫動員からも朝鮮半島へ送る兵員数なんか揃えられんよ。
員数、人件費もかかるわけじゃに妄想が好きじゃのう。 >>512-513
本土や琉球の縄文形質はアイヌ人ほど鼻が縦に隆起した人らは少なあ、どっちか
云うたら広鼻の団子鼻系が多いいわけじゃし。琉球じゃ顔面平坦度の強い縄文形質も
多いい。口の大きさは鼻同様、広顔の方が広がる確率が高いわけで、渡来系とか
縄文系の区別じゃ無ぁわ。頬骨の高さや張りも渡来系の北ツングース集団と縄文系に
顕著じゃが、チベット系や南ツングースの渡来系集団は頬骨が低く、張らん傾向も
狭顔ゆえじゃろう。
フランキー堺氏は、形質骨相からも、鹿児島典型の縄文系に成るわけじゃし。
ほいで縄文人骨じゃ、目や耳は復元出来んけぇ、縄文系の目の大きさが画一的とも
云えんわけで、日本の縄文形質は考古学的にバイカル〜シベリア樺太経由と大陸から
朝鮮半島経由の大きな二つのグループが考えられるけど、目の変化は
残らんわけじゃが、朝鮮半島経由の縄文系は朝鮮南部の縄文系と容貌が近かった
歴史的連続性は縄文期から弥生期の韓式支石墓人の縄文形質人骨からも妥当性が
あろうで。 >>514
沿海州の集団の形質がわかればいいんだけどね
>>516
>口の大きさは鼻同様、広顔の方が広がる確率が高いわけで、渡来系とか
>縄文系の区別じゃ無ぁわ。
これが違うんだよね
シベリア先住民(北方モンゴロイド)は寒冷地適応を遂げていて、
口の周りが狭くなっていて、口が小さくなっている
だけど上顎骨が発達していて、頬骨なんかも張ってるもんだから広顔で、
それこそ<>こういう顔になっている
モンゴル人とチベット人を見比べてみるといい
北方モンゴロイドと中央モンゴロイド以南のモンゴロイドとでは、
口の大きさが違っている
同様に朝鮮人と日本人とでも口の大きさが違っている
朝鮮南部の縄文系と日本の縄文系とでも口の大きさが違っている
これは朝鮮と日本のシベリア先住民の影響の違いだろう
フランキー氏の口は朝鮮南部の縄文系のそれで、
つまりはシベリア先住民の顔が混ざっていて、
日本の縄文系(縄文人+中央モンゴロイド)に比べると、
上顎骨が発達していて(顔の上半分が大きい)、
眼窩も縦に伸びて丸っこくなっていて、眉毛が高い位置で八の字を描いていて、
そのスペースを埋めるように蒙古襞が鋭く発達していたりと、
色々と違っているんで、とても同一視することはできない
最近、みやぞんなる人物がテレビによく出てくるけど、
あの人の顔なんかわかりやすい
あの人は明らかにシベリア先住民系だと思うんだけど、
フランキー氏にはああいう顔が混ざっているよ 口に関してもう一言二言
例えば政治家の安倍親子(晋太郎・晋三)の口なんかもそれで、
ああいう口は中央モンゴロイド以南のモンゴロイドには見られない
アイヌのような人種にも見られない
ちなみに、あれに近いのはコーカソイドの北方人種の口で、
コーカソイドの北方人種、特にゲルマン系の口も同様に小さい
特に、ご指摘の通り、狭顔の傾向があるブリテン諸島人なんかは、
口の小さい人が多い >>517-518
シベリアの先住民も口が広い人はかなりおるよ。しかもシベリアは[ ]顔で<>は、
古モンゴロイドの縄文系や南方モンゴロイドじゃけぇ違うで。
ほいから、日本テレビのケンミンショウで栃木は顔が訛っとるの典型はエラの張った
縄文顔と顔が細長い渡来顔じゃが、ガッツ石松さんの顔は前者の縄文顔よのう。
「訛り顔疑惑を払拭すべく栃木県を調査。八谷幸子さんに聞いたところ2つの
系統に分かれており1つ目は顔の幅が広くてエラが張っていて顎がしっかりしている、
鼻は鼻筋が太くて肉付きが良いガッツ石松タイプ、2つ目は面長な顔で全体的に彫りが
浅くてのっぺりとした顔、目が一重で細くて垂れ下がっている益子卓郎タイプが
いるという。」
まあ、口の大きさじゃの鼻同様顔の広さによるし、イギリスの狭顔北欧人種型は
東ヨーロッパの広顔が多いんに比べたら口が小さいだけのことじゃし。 魏志韓伝
韓在帯方之南東西以海為限南與倭接方可四千里有三種
三韓は方可4千里、南沿岸は倭人国
この倭人ってのは、おそらく前漢、任那加羅以前から半島にいる弥生渡来人だろ?
で、どっちからどっちに移民ってことも無くて国境無いだろ? >>516
安芸青牛は昔から盛んにフランキー堺を取り上げるが
よっぽど惹かれるタイプなんじゃろうな(笑 崇神天皇=ミマキイリヒコ は本人または先祖が「任那にいた倭人」だったという説があるが。 >>523
それ本当なんか?
だったら卑弥呼かもしれんジャマイカ。 >>517
石田肇のドキュメントが詳しい。
アムール沿海州の古代人骨や少数民族の形質を徹底解析している。
オホーツク文化人という表現を使っている。
古代のアムール沿海州人は至って扁平な顔面を持ち、中頭で、頬骨の突出が弱く、
至って渡来系弥生人骨に近い形質の人種に思えた。
ところが、のちに韃靼人が侵入し、形質が変わってしまったらしい。 >>521
フランキー堺氏は、>>500-501のベルツ氏の云う「マレー・蒙古系(薩摩タイプ)」の
典型容貌じゃけぇのう。ほいからベルツ氏は朝鮮南部も
「マレー・蒙古系(薩摩タイプ)」が増えることを指摘されとるよ。
朝鮮南部よりも、山口県の方が、「満州・朝鮮系(長州タイプ)」が多いいけぇのう。
>>526
オホーツク文化人は、高顔でも広顔の北アジア系で渡来系弥生人、渡来系古墳人は
高顔、狭顔のチベット東部から北東アジアに多い中央蒙古系じゃけぇ違うよ。 また遺伝子の話になるが、斎藤成也氏は、最近、国粋主義から柔軟な姿勢に成ったのう。
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171214-OYT8T50003.html?page_no=3&from=yartcl_page
「縄文人のDNAがアイヌ、沖縄の人たち、本土日本人(ヤマト人)の順に多く受け
継がれ、アイヌと沖縄の人たちが遺伝的に近いことが確かめられた。ヤマト人が
縄文人から受け継いだ遺伝情報は約12%だった。」
「アイヌは縄文人のDNAの50%以上を受け継いでいるのではないかと思う。
沖縄の人たちは、それより低い20%前後ではないでしょうか」と推測する。」
「衝撃的な結果でした。出雲の人たちと東北の人たちが、遺伝的に少し似ていたの
です。すぐに、東北弁とよく似た出雲方言が事件解明のカギを握る松本清張の小説
『砂の器』を思い出しました。DNAでも、出雲と東北の類似がある可能性が出て
きた。昔から中央軸(九州北部から山陽、近畿、東海、関東を結ぶ地域)に人が
集まり、それに沿って人が動いている。日本列島人の中にも周辺と中央があるのは
否定できない」出雲も東北地方も同じ周辺部であり、斎藤教授は
「うちなる二重構造」と呼んで、注目している。
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171214-OYT8T50003.html?page_no=4
[日本列島への渡来の波、2回ではなく3回?]
斎藤教授は、この「うちなる二重構造」をふまえた日本列島への「三段階渡来モデル」
を提唱している。日本列島への渡来の波は、これまで考えられてきた2回ではなく
3回あった、というシナリオだ。 >>530の続き。
[「第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで、第2段階(第2波)
が縄文時代の後晩期、第3段階(第3波)は前半が弥生時代、後半が古墳時代以降と
いうものだ。「第1波は縄文人の祖先か、縄文人。第2波の渡来民は『海の民』
だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。第3波は
弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、
大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」と語る。
のモデルが新しいのは、「二重構造モデル」では弥生時代以降に一つと考えていた
新しい渡来人の波を、第2波と第3波の二つに分けたことだという。
この二つの渡来の波があったために「うちなる二重構造」が存在している、と
斎藤教授は説く。]
じゃが、>>500-501の埴原和郎氏は、古墳期に大量渡来説で弥生期の渡来は、
九州北部〜山陰と限定された地域に多い渡来とされるし、池田次郎氏も弥生期の
中頭渡来人骨と古墳期の短頭系の本格的渡来集団を区別されとったし、後者は
日本人の特に畿内、山陽の短頭に影響のあるわけじゃが、出雲の山陰や日本海側は
中頭でも高顔の弥生的渡来形質が多いいが、畿内、山陽は、高顔で短頭の渡来形質
じゃし、弥生列島倭人の特徴と違う。関東は南関東じゃ低顔角張った顔の
縄文形質でも、短頭も目立つし、日本も地域によって特徴が違う。
まあ、古墳後期の渡来系ラインとしては、北九州〜山陽〜畿内〜東海の日本の
主要ラインよのう。弥生系の渡来者は周辺に追いやられ、縄文系は更に辺境へ追い
やられた構図は島国イギリスの渡来者の順序にも類似しとるよ。 >>531の続き。昭和期の埴原和郎氏が生体計測資料から、
「人類学教室の助手助手をしている河内まき子さんが、いろいろ統計学的に
スクリーニングをして、信用できる計測値だけを選び出して、全国的な傾向を見ると
いう研究をつい最近完成しました。
これでみると、近畿から山陽、九州の一部、四国の一部というのはかなり似ていて、
日本の中心部を占める人たちはかなり朝鮮系に似ている。
そのほか東海、関東、東北、北陸、山陰、九州の真ん中あたり、これがちょっと
違いまして、この地方の人たちを河内さんは周辺部の特徴を示す人たちといって、
かなりはっきり区別してます。…これを時代とともに追ってゆくと、中心部の人たちの
特徴が時代とともにだんだん周辺部にも及んでいることがはっきりわかる。…
古くから関西は朝鮮系、関東、東北はアイヌ系といわれていますが、アイヌ系、
朝鮮系という表現法はともかく国内における地域差はそうとうはっきりと
出ています。」
じゃが、朝鮮人の人骨サンプルは、埴原和郎氏が「北朝鮮系の人たちの骨とだと
思いますが」とされるよう北朝鮮系の人骨で、朝鮮南部人骨なら、多少日本の
周辺部に近うなるんじゃなぁかのう。 >>529
石田は韃靼侵入以前のオホーツク文化人を広顔とは言ってなかったが。
ただし、広顔であっても全然問題ない。
形質は変わるのだ。
渡来一世の形質は分からない。
我々が知り得るのは弥生開始から400年以上経った弥生前期後半からの甕棺墓に
保護され、消失を免れた人骨からだ。
一世代30年として、渡来一世から13世代も後の人骨からだ。
弥生前期の甕棺墓の古い渡来人骨ほど広顔に近く、弥生後期の土井ヶ浜人骨に
なると華奢な細面になる。
渡来人が何波もあったのではない。
そんな痕跡どこにもない。
同じ縄文晩期の渡来人が経年変化で形質が変わっていっただけなのである。 古代の人類型の話で朝鮮系ってなんだよ? 歴史的に時系列たどれないだろ?
魏志東夷伝によれば
馬韓が箕氏朝鮮系なら遼東ツングース系
辰韓が秦遺民なら、中国全土からの調達が考えられる。
そのうえで、BC200〜200年であれば、その半島南部は倭人国だろ?
弥生渡来人に半島との国境が無くて、洛陽との交易有った事実で
この時期に到れば、渡来人っていう発想自体が無意味だ。
それ以前で、弥生系渡来人が稲作を伴って移民してきて繁殖した?
日本人は米喰いすぎてアホになったんですか? 米信仰かよ? 縄文晩期の渡来人は沿海州南岸からまず山陰に渡来して、
稲作はそれから50年以上経ってから、半島からパクってきただけなんだわ。
だから最古水田、菜畑遺跡の弥生人たちは朝鮮土器を全く作らなかった。
搬入した朝鮮無文土器の壺が一基出土しただけ。
これが「稲作を持った弥生人が朝鮮南部から渡来した」だの、
「朝鮮南部から弥生人が渡来して稲作を伝えた」ように見えるなら、
全く考古学に向いてないから、今すぐ考古学をやめるべき。
稲作は沿海州南岸から渡来した縄文晩期の渡来人が渡来後に半島からパクってきただけ。
これが真相。 縄文土人が弥生土器文化に移行したから弥生人なわけで朝鮮土器作ったら朝鮮土人だw
で、沿海州弥生人が米つくりみたいなめんどくさい事始めた理由は何なの? 半島を訪れた弥生人が米の飯を食べてみて、美味いと思ったからパクってきたんだろうな。
弥生人たちは半島が先進文化や先進技術の先進地域だと認識していたようで、
半島の文化や技術をことごとくパクっているからな。
半島人の真似をする事が弥生人にとって、とてもイカシた事だったのではないか? 稲作ノウハウや農耕グッズも必要だな。
古代人なら豊穣を祈る祭祀ノウハウも必要。 弥生人たちは頻繁に半島を訪れていたようだから、その都度、知識や技術や
ノウハウがが蓄積されて最古水田は徐々に完成していった。
最古水田の弥生人は全く朝鮮土器を作っていない。
搬入した朝鮮無文土器の壺が一基出土しただけ。
半島人が渡来定着して作ったものではありません。
弥生人自身の手で作られたもの。 徐々に完成ってw
一気に技術導入しなきゃできないだろ >>541
そりゃイネと農具くらいは一気に持ってきてるだろ。
最初の稲作はものすごく原始的なものだったに違いない。
最古水田が朝鮮半島人が作ったものなら、その生活痕たる朝鮮土器を作るはずだろ。
彼らは朝鮮土器を全然作ってませんので。
搬入した朝鮮無文土器の壺が一基出土しただけ。
繰り返す。
最古水田の弥生人たちは朝鮮土器を全然作っていない。
搬入した朝鮮無文土器の壺が一基出土しただけ。
これが半島人が渡来定着して作った遺構に見えるか? >>543
1万年前の最古の稲作はモノもなかった訳だが。
朝鮮よりも温暖なんだし、意外と簡単だったと思われ。 >>545
そもそも稲作がそんな複雑難解な栽培植物なら、日本全国に広まる訳がない。
おまえはただ単に半島人の渡来定着で伝えられた事にしたいチョンなだけw >>547
じゃあ何で朝鮮半島から渡来定着して最古水田菜畑に稲作を伝えた半島人たちは
搬入した朝鮮無文土器の壺を一基遺しただけで朝鮮土器を一つも作らなかったの? >>533
韃靼侵入たぁ、具体的にどの韃靼か銘記せにゃあ。現実にオホーツク文化人が広顔で
あることは、石田肇氏が人骨挙げとられるじゃなぁか。
旧石器捏造応援の前例がある歴博の弥生期の起源を早める片棒担いどるんか?
古い甕棺にも広顔系がおったんなら例挙げてみんさいや。
弥生期どころか古墳期は特に西日本じゃ形質が急激に変ったし、我が広島県でも
弥生期は縄文形質が圧倒的に多かったが、古墳期から高顔の渡来形質が急増で、
世界的民族移動の世界史の普遍から逸脱しとらんし、おどれらカルト鎖国史観の
歴史修正主義が狂うとるんよ。 >>534
>>417-419のよう日本に古代の歴史は無ぁし、朝鮮人は半島部新羅統一から朝鮮民族、
日本は記紀の書かれた奈良期に西日本においては日本民族が成立するけど、東日本の
甲信越、関東なら平安初期、東北なら平安中後期と民族の形成期は地域に差があるよ。
箕氏朝鮮なんか存在が確認されとらん伝説じゃし、衛満朝鮮から史記列伝で牧畜と
漁業が盛んじゃった燕の文化、考古学的にゃ漁撈や狩猟と共に農耕、牧畜と多産な
営みの遼寧文化圏が半島へ影響を与えたわけで牧畜の牛に付けるベルが日本の
弥生にゃ銅鐸に成るんじゃが。馬韓は、獰猛でも降伏した敵にゃ寛容な習俗を持って
おったが、支石墓から遼寧の影響が強いわけじゃし、北方影響もあるが、農耕比重が
強い縄文形質が多かったろう。辰韓は、楽浪を同胞としたことや、元来チベット系
牧畜民系の秦に似た言語と書かれとるし、遼寧青銅文化の影響も強いし、
任那伽耶地方の弁韓も後に侵攻征服した北方木槨墓人が壊すまでは、楽浪式じゃった
し、遼寧文化の混じった漢文化の影響は強かった。これら韓の沿岸部の住民は倭人と
呼ばれたし、半島東北のワイ族も、中国語で倭と同音で、作家の松本清張氏が、
濊は中国語でwei倭もweiと関連があり、 濊の一部族、邪頭昧族を出雲の枕詞
「やつめさす」、それが故国の名前を 持って来てヤツメ・イズモではないかと
されたが。
じゃが、世界的北方民族南下で、百済も扶余系自称の高句麗文化支配層の国に
成ったし、新羅も辰韓と習俗が違うに成ったことを北朝から疑われたんも当然で、
遊牧民スキタイ式の積石木槨墓人が支配層の非中国的で西アジア的な黄金文化の国に
成ったし、任那伽耶も支配層が北方木槨で、これらの支配層が古墳期に大量移住して
来るわけで、蘇我氏のピラミッド式高句麗様式古墳も、高句麗系か高句麗系の百済人
じゃった可能性が強いわけで、百済が滅ぶ前からも大量の渡来系ゆえ、近畿や山陽は
渡来系そのものの体質に成ったとも云えよう。稲作じゃの日本でも主要産業じゃ
無ぁし、日本人の農耕主食は麦じゃったけぇのう。 >>537
米は温度差が激しい朝鮮の方が美味しいし、北大路魯山人氏も李朝に献上した米を
最上とされとるのう。まあ、朝鮮でも北朝鮮から満州の米が一番美味しい。逆に
不味いのが米産地の中国の江南の米ゆえ、炒めて食うたほうがええ。
日本でも気温の高低差が激しい地域の米が美味いし、我が広島県でも山地豪雪地帯の
県北の米が美味しい。じゃが渡来系弥生人は平野部で米作りよったけぇ
不味かったろうのう(笑)。 へー、そーなんだ。すごいね!
>日本に古代の歴史は無ぁし、朝鮮人は半島部新羅統一から朝鮮民族、
>日本は記紀の書かれた奈良期に西日本においては日本民族が成立する
まで読んだだけで、頓珍漢すぎて感動した。
米の話は酷過ぎw >>550
じゃあ縄文晩期の渡来一世の人骨を見せてくれないか?
あんた、形質が半永久的なものと勘違いしてるだろ。
形質が半永久的なものなら、今も世界中の人々がコイサン人と変わらない形質のはずだろ。
我々が知り得るのは縄文晩期から500年以上経った弥生前期後半の甕棺墓時代に
なって甕棺墓に保護された渡来一世から16世代以降の、渡来一世とはかなり形質が
変わってしまった渡来人骨だぞ。
吉野ヶ里、金隈あたりの初期の甕棺墓の人骨の頭骸ほど簡単に言うとゴツくて、
あまりシャープな頭骸じゃないんだよ。
ところが、弥生後期の土井ヶ浜人骨になると華奢で狭顔のシャープな頭骸になってくる。
両者間の時間差は3〜400年間くらい。
3〜400年でこんなにも頭骸は変わってしまうんだよ。
吉野ヶ里、金隈から土井ヶ浜までの経年変化から縄文晩期の渡来一世の人骨を
シミュレートすると渡来一世が広顔であっても何ら不思議ではないんだよ。 >>551
百済、高句麗が滅んで、大量の亡命帰化のときでさえ、全部合わせても朝鮮帰化人は
1万人くらい。
それ以前の帰化する必要のない時代の朝鮮帰化人の総数は、卑弥呼時代から秦氏を経て
白村江までせいぜい数千人規模だろう。
トータルでも2万人行くか行かないか。
日本人口がすでに300〜500万人くらいの時代。
比率にして1%にも満たない規模だぞ。
日本人種にそれほど大きな人種的影響を及ぼしたとは考えにくい。 『サカキバラ事件』?
宣伝でもしているんだろう、
と言っている人がいたけど、なぜだと思う
もれ(仮)も、そう思っていたんだけど
被害者、土師氏? 『ザ・モモタロウ』という作品、
『ドラクエ』・・・その他 「むこうにカメがいるよ」
浦島太郎?小学校の頃、演じたことがあるんだけど、ウラシマの役。
『松傾』 詳しいことは、わからないけど
そうか、そうか
と言っている人がいたり
冤罪事件? スレの本論に戻っても良いかと思うが
倭人伝の謎、投馬国 というのは半島南岸のほぼ全部で5万戸だろ?
つまり、半島南岸には邪馬台国に属する狗邪韓國以外の半島南岸倭人が5万戸ある。
九州北岸の宗像北九州が卑弥呼の九州北部連合に属していたと言えるか?
九州北部連合の邪馬台国は弱小であり半島南岸の倭国は案外でかい。
邪馬台国当時に大和朝廷勢力=宗像出雲の日本海海神族は半島に進出していた。
って、ことじゃないのか? >>561
771日本@名無史さん2018/01/16(火) 21:22:05.33
北部九州にあったとされる邪馬壹國は
南にあった邪馬台国の属国扱いされてたんでしょ
魏志倭人伝に記録されてある記述よると
「邪馬台国より以北には,特に一大率を置き,諸国を検察せしむ。」
邪馬台国より北方の国々を検察する為に
北方の国々に派遣され部署も存在し官人も駐留してたぐらいだから
卑弥呼を中心に倭人の邪馬台国はある程度の官僚制度が整っていたのがわかる >>561
出雲勢力は朝鮮半島南部の資源なり鉄器を大規模に入手していたんだっけ? >>562
魏の帯方郡は邪馬台国を冊封し、各国に官を置いた。
女王国の北に特に一大卒を置いて輸出入や入国管理を行い自由貿易を制限した。
これは、帯方郡使の言い回しであり、郡使の利権独占行使の証拠と考える。
引きこもりの卑弥呼にはそんな政治的外交統治センスは無いんじゃね〜のwww 帯方郡使は卑弥呼連合の各国に官を置いた。
統治能力、外交センスのない国に何をしに来たか?
不平等条約だろwww
アホでもわかるだろ?
考古学とか歴史学者って世間知らんの? 郡使が各国に官を置いたならそう書くだろ
どうみても和名の官が置かれていた
イコール
倭国が女王のもとに統一されていたのが
そんなに悔しいか?
日本人じゃない人にとっては?w 官有 の主語は大和朝廷か?
なら、主体の朝廷の存在が出てくる。
ここでは、官 は魏または帯方郡に雇われた 官 である。
官 自身が倭人なら、役目は案内かスパイか通訳か理解できないかも知らん。
これを置くことで魏が倭を冊封したことになる。
無能な魏使は仕事をしに来たwww >>567
はい、日本人じゃない人が破綻しましたw 倭人伝における官有の国は基本的に魏の属国である。
そういう国は畿内には無い。 >>569
いかにも九州説のふりをして
実は日本独自の古代政権を否定しようとする
日本人じゃない人のこざかしい努力 >>553
具体的反論無しの揶揄はネトウヨの嘘こきトンデモの真似そのものじゃなぁか。
>>554-555
縄文晩期に渡来系新モンゴロイド人骨自体無ぁし。金隈は土井ヶ浜以上に古墳期や
現代日本人に近い狭顔形質じゃが。
人口論は他板過去スレでも、歴博が今よりましじゃった昭和期の小山修三氏の見解ものう。
165 : 白馬青牛 ◆xl7k5goxM379 2011/09/04(日) 00:32:32 ID:iyhAGE8+
大量渡来説でも、マッケビディ&ジョーンズの年平均0,04%とすると、 更に大量渡来
じゃし、0,1%以下じゃ無い限り、幸せ回路の数値じゃろう。 それを人口増加の高い
数値を出して、「0,1%程度」じゃの田中良之氏の 学者としての良心のかけらも無い
云うことじゃが、中橋考博氏の近代 人口増加モデルを古代に使うレトリックの
援護工作じゃけぇつまらんよ。
埴原和郎氏は、年人口増加率を考えられん数値の0,2%の数値すら出しておられるんに、
中橋氏らは、都合の悪い数値は一切出さずレトリック工作するけぇ恥を晒しよるのう。
166 : 白馬青牛 ◆xl7k5goxM379 2011/09/04(日) 01:11:37 ID:iyhAGE8+
東アジア一帯の例として漢末〜三国時代の6000万〜600万への激減は
文献資料じゃけぇ、実際10分の1まで減って無いにしても、人口が
半数以下に激減は充分考えられる。そのことは、日本列島でも
倭国大乱の同時代現象で弥生後期も人口の半数は激減したろう。
ここの倭国大乱の戦死者数による減少は少な過ぎる。
白馬青牛 ◆xl7k5goxM379 2011/09/04(日) 23:54:49 ID:iyhAGE8+
小山修三氏は、奈良期は540万とも云う。弥生期の減少を含んでおらん
数値で問題があるが、約60万から奈良期の約540万ほど奈良期〜江戸期の
人口増加は伸びとらんよ。日本における人口増加は民族大移動期の
古墳期と近代明治以降になってからじゃ。 >>554-555
小山修三氏は、日本の人口で古墳期が約540万人、弥生期が約60万人、縄文晩期が
約7万6千人、縄文後期が約16万人、縄文中期が約26万人で、縄文晩期は
人口減少じゃし、渡来要素も乏しい。弥生後期の世界的人口減少を小山氏はデータに
入れておられん問題もあるが、本土日本人の半数以上は古墳期以降の渡来に間違えは
無あし、近畿や山陽じゃほとんどよのう。日本の東日本や、西日本でも外側の
日本海側や太平洋側は、古い縄文や弥生残存もあるけど、古墳期の大量移住が
全体じゃ圧倒的じゃし、世界の民族移動期現象の普遍からも逸脱しとらんよ。
ほいから、記紀以降の帰化も近江以東関東じゃし、関東の武蔵の高句麗人に
約二千移住のように人数が書かれとるもんがあるが、信濃の高句麗人は
五部族揃いでも移住数が書かれてとらんが信濃の高句麗式積石塚の分布から
関東の何倍の移住者も推測出来るし、エラまの張った縄文残存の信州でもそうじゃし、
畿内や西日本は把握出来んほどの渡来移住者が多かったんは必然で、現代近畿、山陽の
容貌からも明かじゃけぇのう。たった2万じゃの縄文度の強い東日本でもあり得んよ。 >>561->>569
人口は遺跡数からの分析で、文献の数えてもおらん常用句たぁ違うわけじゃし。
まあ、距離なんかもデタラメよのう。遠いか近いかのアバウトじゃし。
邪馬台国は漢の属国ゆえ、生口(奴隷献上)じゃし、楽浪に逆らう馬韓の方が
不屈の精神じゃったよ。
今の日本の安倍政権も米国宗主国様々じゃが、弥生期の属国奴隷根性継承しとるのう。
列島の倭に統一が無ぁけぇ、中国史書じゃ列島の倭の村落数をようけ書いとんよ。
古墳期の隋書ですら阿蘇山の記述はあっても、畿内の難波や飛鳥の記述は無ぁけぇ、
倭は九州までよのう。旧新唐書でも、倭と畿内王権の日本は区別しとるし、
日本の記紀じゃ、筑紫を磐井の乱から新羅隷下の敵国扱いから、畿内王権と九州は
反目関係と云えよう。筑紫や吉備、出雲も君姓で畿内王権の天皇家と同格扱いの
時代じゃし、東国は直姓が多く畿内王権の天皇の直属隷属の権威を利用したけぇのう。 >>563
九州と無縁の青銅器と鉄がどのルートで出雲に入ったか?
投馬国=4千里四方の三韓に接する、
半島南岸の倭人諸国が、5万戸であれば、成立する。
これらは不属女王国である。 >>571
縄文晩期に人骨を護る支石墓や甕棺墓があるのかよカス。
ぜんぶ酸性土に溶けて消失してしまった。
土井ヶ浜人骨が甕棺墓でないのに奇跡的に遺れたのは海岸の砂浜の貝カルシウムに
護られたからだ。
縄文晩期に山陰に現れて西日本中を乗っ取ってしまった弥生開始土器を考えても、
弥生早期の新町遺跡の支石墓から出土した北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が
形質上の日本最古の渡来人の痕跡である事を考えても、渡来人が縄文晩期に
やって来たと考えざるを得ない。 >>572
もう気の触れた基地外の投稿だな。
古墳期の人口が540万人いて、本土日本人の半数以上が古墳期以降の渡来なら、
300万人くらい古墳期に渡来した事になるではないか。
馬鹿馬鹿しい。
2兆%あり得ないね。
300万人も渡来したなら、もうそこかしこから韓式土器が出まくるではないか。
それに古墳期に300万人も渡来しといてだ、何で百済と高句麗の滅亡時は
1万人なんだよカス。
だいたい300万人も日本に行ってしまったなら、半島から人がいなくなってしまう
ではないか。
半島側にそうした記録も報告もないじゃないか。
脳にウジが湧いているとしか思えんな。
卑弥呼時代から百済・高句麗滅亡までの朝鮮帰化人のトータルは
2万人行くか行かないかが妥当な数字。 >>575
朝鮮半島東岸から出雲や越の国まで船で来ることはできたはずだが。
当時の航海技術でも。 >>572
300〜400年の甲斐信濃の高句麗人は
朝廷の勅営御牧に連れてこられた軍事管理された牧童であって遺民とは違う。
高句麗墳墓と同時に軍事担当の大伴氏など管理者の前方後円墳を伴うのが特徴。
百済、新羅の建国や高句麗との戦争と同時期の牛馬の移入が
大和朝廷によって成されたことの痕跡であって
この時までに、邪馬台国当時の九州王朝が東遷してる暇など無いことを物語る。
武蔵の高麗は戸籍管理されたこれら分散した高句麗人を一定地域に集めたのであり
強制連行に近く勝手に移民してきた渡来人という種類の遺民ではない。
どういう教育を受けるとそんな頓珍漢な歴史認識になるんだ?
もはや、感動したよwww >>575
距離何千里じゃの人口万戸なんか、遠いか近いか、人が多いか少ないかの中国文献、
白髪三千丈にも通じる常用句で、列島の倭の戸帳なんか無ぁわけじゃし、調べようが
無ぁけぇのう。邪馬台国も生口(奴隷)献上の憐れな属国よ。
>>576
甕棺も支石墓もわしゃ弥生期じゃ云うとるし、土器厨が縄文晩期渡来トンデモ唱えよる
だけじゃし。新町遺跡は他スレでも縄文人骨と指摘しとるし、人骨からも明かじゃ
なぁか。
>>577
わしゃ、>>571-572の小山氏と違い、中国の黄巾の乱以降の人口減少同時代現象と
して、同時代の弥生期の倭国大乱から人口減少から、弥生期の60万は半数の30万以下に
減ったと考えるし、古墳期からの渡来系は400万以上は見積もれるけどのう。
半島の方は戦乱で兵力に靺鞨や北朝胡族系が多かったように、それらが日本列島へ
渡来し、東漢氏の古墳とされる新沢千塚から鮮卑文化が認められるよう半島からだけ
云う思い込み概念が既に狂うとるよ。しかも、朝鮮半島の戸帳の記録すら中国史書でも
確認しとらんのに、われが勝手に判断たぁ、脳にウジが湧いとるのう(笑)。 >>577
戸帳、戸籍じゃが、トンデモネトウヨ寄りの岡田英弘氏が中国の戸籍を額面通り
受けとられ、後漢の5千万から黄巾の乱から半世紀で戸口450万以下として三国時代は
10分の1以下に激変し、事実上漢族の絶滅とまで云うとられる。
北方から侵入したトルコ系モンゴル系ツングース系、チベット系の「五胡」移住の
北朝を新しい漢族からの人口増加で唐代は4千万台の人口で、元・明朝になると
6千万台とされる。
まあ、城郭都市や農村から避難した流民の戸口に調査されん人らがおるけぇ大袈裟
過ぎるが「白骨が草木の下に散らばる」黄巾の乱以降の人口減少は否定出来んし、
岡田氏も誇張は兎も角半数以下に減ったろう。
日本列島なら、家畜免疫の無ぁ縄文系や豚飼育はしても牛に免疫が無ぁ弥生渡来系も
疫病で人口減は中国よりも深刻で弥生晩期から古墳前期は日本列島の人口は少なくとも
半数以下に減少し、絶滅に近い中、古墳渡来系と混血した人間のみ生き延びた状況に
なったろうのう。 >>577
ほいから、縄文派江南派のネトウヨ寄りの国粋主義の安田喜憲氏も牛型結核菌の疫病で
人口が半数以下に減少したことを指摘されとるのう。
http://akatonbo-jo.cocolog-nifty.com/jo/2004/07/post.html
「・麦作・牧畜文明は崇神天皇から大和で始まる。ここで、崇神天皇5年に結核病
(牛から)が大陸からもたらされ、半数の国民が死ぬ。その後、天然痘。
インフルエンザ、ジフテリア等の北方民族の疫病が古墳時代に始まる。」
まあ、国粋主義の安田氏の和魂洋才じゃの長江南方誘致なんはトンデモじゃが、
気候変動からの地理歴史学のローマや漢の古代文明の崩壊から北方民族南下征服に
よる中世の始まりの普遍性だけは認識されとってじゃのう。 >>578
出雲は高句麗らの新渡来人と共に越(古志)侵攻で糸魚川の翡翠を奪い新羅へ転売
したけぇのう。
>>579
信濃の高句麗人や甲斐の百済人が帰化申請したんは平安初期じゃし、それまで
独立勢力で、ましてや大伴氏や畿内政権とも関連性が薄過ぎるんよ。
大和朝廷じゃの統一概念が西日本にも無かったし、東日本でも関東以外乏しい時代で。
信濃の高句麗人らが部族名で生活しとる時点で小高句麗国じゃし。
武蔵の高句麗王族は信濃の積石塚の古い移住と違い亡命者ゆえ、関東の高句麗移民への
協力による軍制組織じゃし、高麗朝臣福信のように、従三位云う畿内中央上層貴族
にも成れたわけで。 >>580
もはや脳など無く、頭にウジしか詰まってないようだな。
だから記憶力がないんだろ。
新町遺跡からの出土人骨は縄文人骨だけじゃなく、北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨も
出土していると何回も言ってるだろ。
もうこれで3回目だぞ。
ここまで記憶力が悪いという事は、あんた大卒じゃないよな。
それに弥生人が縄文晩期に渡来したというのは定説じゃないか。
トンデモはあんただよ、あんた。 >>580
古墳期からの渡来人が400万人以上って、400万人も渡来定着した痕跡遺構が
どこにあるんだよ?
それが事実なら、古墳期の遺構は生活土器レベルで韓式土器がわんさか出土する
韓式土器遺構が大半のはずじゃないか。
百済・高句麗滅亡時に大量発生した亡命帰化人でも1万人行かないんだぜ。
馬鹿馬鹿しい。
2兆%ない。
卑弥呼時代から百済・高句麗滅亡までの朝鮮帰化人のトータルは
せいぜい1万5千人行くか行かないかだろう。 他のスレの話になるけど、
倭猿、倭猿、言っている人がいたでしょ
『倭猿』 日本にいる右翼?皇国何やら〜・・・不明、
何だか知らないけど、ほとんど、騙り、成り済ましだと思う
もれ(仮)が「関係ない」「知らない」と言っているんだから、
そうじゃない? 『311 被災地』
こういうのも、そうだと思う
とあるスレを読んでみると、
誰々って川崎に住んでいるんでしょ
と言っている人がいたり 例えば『神倭』『倭健』
というのは何なの、
漫画に出てくるキャラクター? 弥生から古墳期にそんな大量の渡来人が来たとして、
日本語が滅亡してないのは何故なんだ?
我々が使っているやまとことばは、古代朝鮮半島語なのか?
大和朝廷は日本語で百済や高句麗と外交してたのか?
沖縄首里方言と日本語の類縁関係をどう説明するんだ?
まさか、古代百済大帝国が東シナ海沿岸を支配していて、日本人はその生き残りなのか?
今朝鮮半島にいる輩は、我々の先祖を追い出した蒙古や満州や鮮卑なのか? >>591
稲作を伴って弥生土器文化で渡来した弥生渡来人の事なら古墳期に来たんじゃ手遅れです。
時系列も無視して頓珍漢な歴史認識を押し付けて議論を意味不明にするのは半島系の常套手段です。
卑弥呼系みたいな弥生渡来人が配流されて未開の半島南部の開拓に行ってるとかw
国策死刑で話になんないんだけど、ネラー的には、どうすんだよ?
白馬鹿牛はど〜でもええがのw >>592
稲作を伴っていません。
稲作は弥生開始土器の登場よりも50年以上あとなんです。
つまり稲作は渡来して50年以上経ってから半島南部からパクってきただけなんです。
それが証拠に最古水田・菜畑の弥生人たちは朝鮮土器を全く作っていません。
搬入した朝鮮無文土器の壺が一基出土しただけ。
この人たちが半島から渡来した人たちに見えますか?
彼らは縄文晩期に沿海州南岸から朝鮮半島経由せずに山陰に渡来定着して
前池式刻目突帯文土器をもたらした謎の北方系の人々。
この人たちの形質が日本全国に拡散しただけなんです。 >>593
水稲だったら水田遺構など残るけど
陸稲だったら実質なんの痕跡も残らないから
陸稲を伴ったと考えてもいいんじゃないの?
その後で水稲を半島南部から導入 なら、縄文土器作家が弥生系土器の流行を取り入れた理由は何だと思いますか?
船もろくにない時代に渡来人で人間が入れ替わる?
ろくなメディアもないのにおフランスや外国製トレンド?
はっきり言うと稲作で貯蔵以前から豆でも木の実でも壺は要ると思いますが
弥生渡来人に稲作が普及したことが結びつくという日本人の米好きには呆れます。
昭和でも貧乏人は粟稗や大根飯、麦を食え馬良いだけのことなのに。 取り入れてない
世界の歴史は農耕民族が狩猟採集民族を追いやる歴史
農耕民族は食料を安定生産して人口が増えていく
農耕民族は食料を長期保管できるから官吏や兵士を養って国力が増えていく
結果、人口増加率や軍事力の差で、農耕民族が狩猟採集民族を追いやっていく >>594
陸稲でも農具や稲籾、籾殻、炭化米などのイネの現物の出土といった痕跡遺構が
遺るはずだろ。
菜畑遺跡より前の農具やイネの現物が出土した痕跡遺構はありません。 >>595
一番最初の弥生土器、前池式刻目突帯文土器には壺も高坏もありませんでした。
この事からも彼らが朝鮮半島から渡来した人たちではない事が分かります。
壺や高坏は稲作をパクって少し経ってから、同じく半島からパクった事が
山ノ寺式刻目突帯文土器の出土層から分かります。 縄文土器の特質は祭祀的デザインかと思います。
集落で共有して原始共産制社会で数日で腐る食物も共有した。
採集や狩猟では自家消費できないもの、集落の縄張りで共有する木の実等が主食。
弥生土器は集落の共産制の意味が薄れた何かが有った時代への変化かと考えられます。
支配階級で米が通貨価値を持ち開墾荘園労働者が発生する以前で
弥生土器への変化が有った?
まあ、作者は売れるものを作る。
渡来人が持ってきたのは通貨、か これに伴う市場。 単にこれか?
古代商人は多分、黒曜石、翡翠の出雲だぞ。 >>598
遠賀川式土器は弥生開始から200年以上経った弥生前期以降の土器だぞ。
縄文晩期→弥生早期→弥生前期→弥生中期→弥生後期
勉強が全然足りない。
もっと勉強しろ。 >>602
つまり渡来人あるいは現地人でもいいが
による東方波及は
何度も繰り返して波状的に起こったわけですな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています