>>788
今でも、韓国じゃ都のことを、「ソホリ」「ソホル」の「ソウル」が首都名じゃし。
>>792の続き。
▼島津氏が継承した新羅の民俗
 島津氏は鎌倉幕府から日向・大隅・薩摩三国の守護に補任されて以来、六百年
以上にわたり南九州を支配した豪氏である。だが、その素性は案外知られていない。
島津と称する前は惟宗氏(これむね。新田八幡宮神官も惟宗氏)と言い、氏祖の
忠久は日向国守の家に生まれ、源頼朝による薩摩国島津荘の地頭職安堵が縁で
「島津氏」を名乗ったのだ。その惟宗氏とは秦氏である。…
 幕末の西郷隆盛や大久保利通らは貧しくとも「藩士」であった。彼らの伝記などを
通じて、薩摩藩には厳しい藩士教育の伝統があったはよく知られている。
特に「兵児二才」(へこにせ)と呼ばれた青年たちの若者組が有名であろう。…
 名門の美少年を「稚児様」(ちごさま)と称し奉り、集会や合宿、また「山野遠遊」
(本来の意味の「遠足」:ワンダーフォーゲル)を行ない、戦さには稚児様を先頭に
青年戦士団として戦場へ赴いた(天草の乱などでの記録がある)。この稚児様とは、
八幡神の依り代であった。実は、新羅に「花郎」(元々は「源花」と呼ばれた女性、
つまり巫女であった)と呼ばれる貴族の美少年を奉ずる青年戦士団がり、同様の
民俗があったのだ。
 三品彰英氏の研究によると、この民俗が最も残っていたのが国分と出水…
例えば出水は六地区に分けられ、兵児二才もそれに従って編成されたが、これも聖都
(ソフル)慶州が六村から成っていたという伝承を持つ新羅や、黄金の六つの卵から
生まれた男子が六加羅の王となったという神話を持つ加羅の、聖数「六」に基づく。
宇佐の辛島ハトメは、隼人の乱のとき「神軍」を率いて大隅に向かったが、
このときハトメは八幡神の依り代である「源花」であったのだ。}