隋唐書で古の倭は今の日本とは別国で筑紫の小国であると断じたのは
五経博士や仏教僧に学び、三国志東夷伝倭人条を読んだ聖徳太子である。

聖徳太子は三国志、邪馬台国に関しては九州説の起源、
というより、王権を行使した解釈での、邪馬台国九州宣言の 当事者なのである。

この古の倭は、倭の五王の400年までに、半島を含んだ統一が為され、
313年韓四郡撤退、対高句麗戦争、350年百済新羅の建国、
という富国強兵を為し日本はこの間に、牛馬の移入と鉄の国内生産に成功している。
太子の600年当時は隋唐の成立で、任那割譲以降日本は半島利権の撤収に向かっている。

663年の白村江百済復興というのは、皇子など人質貴族や在日半島人の送還に海軍を付けた。
基本的には、日本豪族による半島投資の引き上げを目的としたものであり、
これには唐も納得し天智天皇時代には、捕虜の返還による戦後処理を実行した。

開国派たった聖徳太子の遣唐使外交から、白村江の百済復興は百済王の逃亡で敗戦であっても
天智天皇の遣唐使外交は、古代の対馬での日本固有国境の成立で政治的に成功している。

これが歴史の真実であり、邪馬台国が九州なのは倭人伝の記述 ママ なのである。

邪馬台国論争の間抜けっぷりには呆れてモノも言えない。
というか、相手にするほど馬鹿にはなれない。