【室町幕府】足利義輝【13代将軍】
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苦難の人生を歩むも足利将軍家の権威を復活させようと尽力した足利義輝について語り合おう! >>3
家康だって武芸の達人だったんだが、終わってるか? 剣を振るどころか、ウンコちびっても天下獲ってるからな
結局、勝ったものが正義 陪陪臣に御所に攻め込まれた義輝と家康じゃ比較にならんわな。 いやマジな話だけど、義輝について「「将軍が武芸の達人でどうするよ?www」って
下らん殿様趣味みたいにバカにする人が結構多いんだよね。
でもそういう人でも、武芸の達人だった家康はおろか、
猿楽気狂いで自分を主人公にした謡曲を作らせ、自ら能を舞った秀吉なんかは
特に批判したりしない。
要は、同じことしてても、勝っていれば批判しないし、負けてれば批判する人ってだけの話。 将軍が武芸の達人なのが悪いんじゃなくて
現役の将軍が自分で刀振るう状況が悪いと言ってるんだと思うが まあ、攻め込まれて負ける状況が「終わってる」ってのは当り前だけど、
この場合、剣を振るうかどうかは関係ないな。 攻め込まれても刀一つ振るわなかったらそれはそれで叩かれるだろ
大坂城に攻め込まれているのに最後まで出陣せず
刀も振らなかった秀頼は馬鹿殿扱いだし 負ける負けない以前の将軍が先頭に立つかどうかは
どっちのタイプもアリで刀を振るう事が悪いって事は無いな
どっちのタイプでも有能な将軍もそうじゃ無い将軍もいる 地に落ちた将軍家を和睦の仲介や名前を授けたりして権威を回復させつつあったことは評価されてもいいんじゃない? 名前は代々の将軍も授けてるし仲介も別に義輝だけがやってるわけじゃない
三好長慶が将軍に対してかなり融和的だっただけで義輝側が何かしたから将軍家の権威が回復してたって事はない これだけ波瀾万丈の生涯と最期なのに
大河の主役になってないのは不思議 あまりに若くして殺されたから
一年引っ張るのは難しいのかな? 政治を壟断する奸臣に必死に抵抗して殺されるという
死に様が曹髦に通じるものがあるんだよな 20
人間の行動がそんなに違うものだと思ってるのかお前さんわ だいたい分かるぞ
海外から日本にきたときに似てる〜とか自分の
ところの価値観で感じたんだろ
仏教あたり広がっているってのはそういうことだ >>20
天皇にも改元の際に無視されるなど室町殿の権威を下げただけの
無能に過ぎんがな。 ぶっちゃけ派手に死んだこと以外はパッとしないよね、この人。
逆に言えば、死に様さえ派手で中二受けするなら、
それなりにファンをつくし擁護もしてもらえるってことだけど。 時流が圧倒的に下剋上に追い風で室町的な権力の衰退期に
その伝統勢力の当事者ができることなど当初から限られてるわけで
むしろ誰がなってもパッとしようがない末期の将軍家に生まれて
義輝はいろいろと頑張った方だと思うけどね
京兆家が落ち目の時代に管領になった細川高国や晴元が
なんだかんだと20年以上畿内政権維持したのももっと評価されていい
そら死に様は大切よ
松永久秀とかまさにその中二コースで不動の人気獲得だし
本能寺なしで老衰で死ぬ信長はもはや信長じゃない
三好長慶も最期派手に死んでたら
いまより知名度・人気がもっとあったはずたぶん >>23
朝廷はこの時代は改元申請は室町殿の権限だと見なしてる
永禄改元の際は将軍の京不在が長期化していたので
三好からの改元申請をイレギュラーな形で認めただけ
逆に義輝が将軍として在京していた長慶晩年に
三好が再び改元申請した時は朝廷は要請を完全無視して却下している 最期の奮戦の様子に関して通説よりフロイスの日本史の方がまだ現実的に感じる。
現実離れしとるというほどでもないが というか、リアルタイムの記録が、
フロイスの手紙(最初薙刀で、次に剣で戦って死んだ)と
言継卿記(自害した、とだけで戦ったかどうか記載なし)の二つだから、
信憑性って意味では、この二つが一番高い。
あとのは誰がいつ書いたかもわからんようなのか、
日本外史みたいに200年以上後に書かれた小説同然のものだし。 結果的に将軍殺しは反三好・松永派に大義名分を与えるだけで何のメリットもない悪手だったな >>17
と言うよりも将軍で殺されたのはどれくらいいるの?
のこりは源頼家と実朝くらいじゃないの? >>31
結果的に義輝殺したために義昭擁立した織田が正統性を獲得して
三好滅亡の主要因のひとつになったから、まぁ因果応報ってかんじはする
天正年間に毛利が義昭擁立したときでさえ
まだ西国では鞆ノ浦幕府が「公儀」として信長の「公儀」と対抗できる
それなりの政治的権威があったわけだから
足利将軍家の政治的権威って実にしぶてぇ…ってのが実感だわ
そういう意味では三好による義輝殺害は三好にとっても利するところが
なかったし、時期尚早だったとしか思えないわ 信長様が 実は室町幕府第六代将軍足利義教の崇拝者って説があるが、この剣豪将軍義輝への入れ込みぶり見てると まんざらではなさそうな >>33
実は、北条や徳川と違って 【倒幕】はされなかったしな >>36
実朝の例があるから否定はしないが
しかし、将軍暗殺の疑惑があったり 朝廷を攻撃したりしたのに そんなに非難されない北条執権 元と高麗に大勝利したので
救国の武士団でもあるしな
北条幕府は >>38同意
更に 義満の金閣外交自体は 良し悪しは別に 柔軟性あり
しかも勘合で国力ついたら 四代義持
6代義教の頃には
一転 強硬
力の北条
技の足利だな >>42の割には同じ
渾名で呼ばれると
大喜びで戦術丸パクリな信長様
どんだけ足利義教が好きだったのやら >>40
足利家の強かさは流石だな。応仁の乱後も100年続いたし 10代以降は実権はなくて庇護してくれる大名たちのところを
転々としてたがな >>48
そんなん庇護先も亡くした南朝残党に比べたらまだマシ。 >>51
水戸黄門のお陰でな。
しかも跡形もないから後腐れもないから。 義輝が29歳で死んでるという事実は結構驚く
どんだけ濃い人生だよ
まあ親父の義晴も39歳で病死してる割に語ること腐るほどあるけど 傀儡守護代から畿内統一政権の主になった三好長慶も42歳病死だし。 義輝が殺されたとき母親も一緒に死んでるからな
もともとそんなに長生きしたイメージはない 結局義昭の弟ということになった尾池玄蕃という私生児 どうでもいいが
2chの自作自演の朝鮮人にはマジで
氏んで欲しいわ 全讃史の説からすると烏丸氏の側室がいたらしく、細川光尚の嫁と同族 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 岡山は地震とか少ないらしいからね
しかし何故でここでこんな話題を 美談としてよく信長と心を通じていたことにされるが、傀儡であることをよしとしない誇り高い性格は弟と同じ
信長はどっちが将軍でも一切遠慮はしなかっただろうし結局衝突はしたであろう
違いといえば信長包囲網を築き上げた弟ほどの調整能力は見られないので割とあっさり追放されたかもしれない 逃げようとしたっていうけど何のために剣術習ったんだ?ファッション剣術かよ 一部のキモオタが史実も知らずに蝗みたいに持ち上げてただけだから・・ 義満の足元にも及ばない
つか剣豪だったという確たる証拠もなしに剣豪将軍とか嘘広めたら駄目だろw 一応、卜伝の直門だったというのは確かだし、
上泉信綱を招いて兵法披露をさせたのもおそらく間違いないから、
剣術好きで、自分でも相応にやってたことは事実だろうな。
あと、最後に自ら戦って討ち死にしたのも多分事実。
でもそれだけで剣豪呼ばわりってやっぱ無理があるだろ。
結局、こいつを持て囃してる奴って、事実とか一切興味なくて、
「剣豪将軍」って言葉の響きが好きなだけなんだろうな。 ほんそれ
過大評価してるのは中二患ったミーハーとエロゲーやりすぎのキモオタだけって時点でもうね
戦って討ち死にする前にまず一度逃げようとしてるからなぁ
刀を取り替えながら奮戦し〜とかいうのも捏造だから剣豪というにはショボすぎる 剣豪将軍て呼び名がそもそも妄想から生まれたもんなんだよなぁ 弟のが賢いだろ普通に
こいつは何してたんだよw上でも出てたけど土壇場で役に立たないなんちゃって剣術か? >>73
当時はこういう場合、逃げるのが普通。
むしろ無謀な戦いを挑んだ無能将軍。 >>73
通説では母や家臣に逃げる事を勧められたが、武家の棟梁たる自分が逃げ出しては元も子もないと言って敢えて残ったってことになってるが
まあ死んだら結局意味ないんだけど 「母や家臣に逃げる事を勧められた」というその「通説」が何に書いてあるのかわからないが、
フロイスらの記録によれば、戦いに赴こうとする将軍を母親が抱きしめて止めようとしたが、
将軍は、「自分は、どこかで隠れて腹を切って死のうとは思わない。
最後は雑兵に打たれることになろうとも、戦うことを選ぶ」とあり、
家臣らと戦って脱出することを選択したと記録されている。
永禄記やフロイスの記録では、将軍の母は逃げることを勧めたというよりは、
大将は最後の一兵が討たれるまでそれを見守るべきだ、というもので、
戦わないことを勧めるものだが、逃げることを勧めたわけではないよ。 大覚寺義俊の記録では、外から囲みを突破してきた幕臣が、
将軍が一人で馬に乗って東河原に逃げることを勧めてはいる。
しかし将軍は、家臣全員を犠牲にして主君一人が助かるなどあってはならないことだと、
その案をありがたいことだと感じながらも即座に捨て去り、
主従全員での脱出を目指して最後の戦いを開始したとある。
この記録においても、将軍の戦いは脱出を目指したものであり、
一人で馬で駆け抜けるか、主従一体となって戦って血路を切り開くかの方法論の違いにすぎない。
実際、彼らの戦いで何人か脱出できた幕臣もいるようだが、
早足の馬を一人で走らせても、厚い囲みを突破して京都郊外まで脱出できたかどうかは
難しいところだろう。
後年に書かれた後太平記などの軍記物では、
これで最後なので、地獄への道連れに一戦して、一人でも多くの敵を倒そうというような描写だが、
これにも母や家臣に「逃げることを勧められた」とは書いてないようだが。
>>77の「通説」というのは
信長公記などに記された織田信忠の最期と混同しているんじゃないかな。 あれは弟のが賢いというよりは、
安宅冬康を殺し、将軍も殺した三好三人衆が
織田信長と比べて後の考えが無さ過ぎただけだろう。
もちろん信長とて義昭を討ち取ったり切腹に追いやること自体は造作もないことだし、
その後の展開は、義輝死後の三好三人衆が追い込まれていった展開よりも、はるかに楽なものであったとは思うが。 >>28
1564年の改元なら、あれは三好側ではなく松永側から出されたもの。
この時代の松永久秀は独立して行動していたという説と、
三好家の家臣として、三好家の意向の元に動いていたという説があるから、その説に乗っとれば三好側と言えなくもないが。
他に将軍家の意向の元に動いていたという説もあるが。
>>30
他にも記録だけなら、事件の7日後に書かれた樊噲も及ばないほどの働きを見せて自害という梅仙軒霊超のものや、
御所は黒土となったという御湯殿上日記など無数にあるよ。
というかなぜ日本外史をわざわざ挙げるか解らないな。
あれは信長公記や信長記などの無数の書物の記述を集めて、こうだったであろう歴史を漢文で書いた本で、
各巻末や初めの論の部分を除けば、日本外史には著者のオリジナルな箇所はないよ。まあ全く無いことはないが。
そこは成立時期不明の永禄記や、足利季世記、
後年の軍記物である小瀬甫庵の信長記や後太平記などを挙げて、信憑性を疑うべきところだろう。 足利季世記の信憑性に関しては、松田毅一・川崎桃太などのように、
フロイスの日本史やフロイスの書簡との一致点からか、それを全面的に受け入れて、
フロイスの記述の方を逆に否定する研究者もいるが。
この二人は一応、フロイスの日本史の翻訳者でもあるのだが。 >>30
山科言継の記録では、将軍は討ち死にしたとある。
戦って自害という記録も大覚寺や信長公記や永禄記にある。 剣豪将軍とか言う剣豪じゃなかった将軍だし過小評価されてるくらいで丁度いいわ
政治能力カリスマともに皆無だし
最期の話は捏造だし 「剣豪じゃなかった」というのはよくわからないな。
落語家じゃなかったとか、弁護士じゃなかったとかいうのならまだ解るのだが。
剣豪や酒豪などの呼び名は、剣や酒が強いというエピソードがある人物に、
他人があとから勝手につけるものだ。
剣豪と呼ばれるために満たせなければならない厳密な条件があるわけでもないので、
>>84が足利義輝のことを剣豪と呼びたければ、
勝手に剣豪と呼んでもどこからも文句は来ないと思うよ。 ああちょっと勘違いしてた。
>>84は足利義輝は剣豪ではなかったと言いたいわけか。
剣豪と呼ばれるための厳密な条件があるわではないから、
この程度のエピソードでは俺は剣豪とは認められないというのなら、
それもやっぱりどこからも文句は来ないと思うよ。 最期の話が捏造という説もあるな、しかしあるだけで奮戦したという説の方が今の所通説だろう
第一、塚原卜伝から剣の技を学んだのは事実なのだから一般人よりは腕は立った筈 義輝が剣で戦って強かったというエピソードを完全に否定するのは難しい。
死去して間もない頃に書かれた書状や、
同時代人たちの複数の記述を全部嘘だと否定するためには、
その記述に矛盾するような別の史料が必要になるが、
義輝が剣で戦って強かったというエピソードを否定するような矛盾する史料が存在しない。
仮にそれらの記録が全部嘘だったとしたら、
義輝のために嘘までついて最期を飾って讃えようとした人間が当時、
異国のバテレンから、仏僧、儒学者、他所の大名家に仕える武将に至るまで
複数いたことになる。
なかには幕府がとっくに滅んだ慶長年間に書かれた軍記物や
寛永年間に林羅山が書いたものまである。
これらを全部嘘だとすれば、
義輝のカリスマが皆無という主張のほうが揺らぐ。 おそらく捏造だろうと否定できるのは、
何本もの刀を次々と取り替えたという足利季世記や永禄記などの軍記物が記すエピソードくらいだが、
これも実際に完全に否定しようとなると、
もしそんな面白い話があったのなら、甫庵が信長記とかに採録したよね、くらいだしなあ。
まあ、この刀を取り替える話は軍記物以外では確認できないと思うので、
自分はそんな同時代の書状や日記類で確認できない話は受け入れないと主張しても大丈夫だろう。
同時代人の記録でフロイスの日本史には、長刀から打刀に持ち替えたという若干近い話はあるが。 江戸時代初期に松永久秀の子孫の松永貞徳が、
義輝などは深夜に路上で刀をふりまわして人を斬り殺していただけの悪御所だった、
あんな悪御所のために死んだ人間は一人もいなかったと戴恩記で書いたのも、
義輝=刀で戦って強い将軍
というイメージが当時すでに確立していたことを前提にして言い始めた悪口だろう。
このエピソードも、足利季世記等の刀を取り替えるエピソードと同じで、
もしそんな面白い話があったのなら、同時代人の書状や日記類や、
安土・桃山以降に大量に書かれた軍記物のどれかに収録されただろうという点で
やはり捏造だろうと考えられるものだが、
まあ、これも辻斬りの部分は、完全に否定できる同時代の記録も多分存在しないと思うから、
肯定する同時代の記録も存在しないが、信じたい人は信じても良い話だろう。 最近の足利関係の本とか
剣豪将軍足利義輝は本当に剣豪だったのか?っていうの読んだらカリスマ?ねーよって気分にはなる 日本外史が出てくるのは
wikiに書いてあるからだと思う。 今の「剣豪将軍」のビジュアルイメージが日本外史の
「将軍様は伝家の宝刀を数十本床に突き立てて、抜いては斬り、抜いては斬りで無双しました」が
ベースだからじゃねえの。
いや割とマジでこの盛り盛りの最期抜きで、
こいつのどこに魅力があるのか教えてくれ。 日本外史が出てきたのはtogetterの、
剣豪将軍足利義輝は本当に剣豪だったのか?で取り上げられているからでは? 「剣豪」の定義が曖昧だから、余計に評価が分かれるんだろうけど、
とりあえず、こいつが剣豪って言ってる連中は、
剣持たせて強いって話があったら剣豪って考えてるってことでいいのか? スレ違いだが、日本外史は室町幕府の将軍に、「様」のような敬称をつけたりはしない。
かの大楠公ですら、日本外史は本文では「正成」と呼び捨てにする。
日本外史が、本文で敬意を払うのは、徳川家康の一族と、浅野長政の一族だけ。
「将軍様は伝家の宝刀を数十本」などと書くのは、
足利季世記や永禄記だろう。
江戸時代に編纂された重編応仁記でも、
将軍は「公方」と呼んで、「様」はつけない。
日本外史は、論賛や序論では、
楠氏は「楠公」や「公」と呼んでいるし、
織田信長と豊臣秀吉の二人も、右府、太閤と呼んではいるが、
頼朝、時宗、尊氏らには、そのような扱いはしない。 剣豪の定義以前に、
その剣持たせて強かったって軍記物に書かれている最後が、
信用できるかできないかって話になっているんじゃないかなあ。 関係ないけどこいつの狂信者らしきマジキモ中年オヤジにsnsで絡まれてから
大嫌いになったわ
そんなに多くはないからこそ余計に信者の質って重要だよなと思った 自分の庇護者を見抜けない程度には頭の回らない奴だったって印象しかないなぁ
実際最近の歴史ゲームとかだと弟の義昭のが優秀だったりするし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています