【室町幕府】足利義輝【13代将軍】
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苦難の人生を歩むも足利将軍家の権威を復活させようと尽力した足利義輝について語り合おう! 3
源氏は武辺を示して自ら武将として成り立ちぬ氏族やけ それぞれ特徴あるだよ
敵に対して怯む精神的弱者おらんけな ただし物知らずが多いから斯波のらなんちゃらみたいにでっかい弓を敵の目の前で引いて撃ち殺すみたいなんやる
武器の使い方知らないんだな >>6
そこは比較するなら慶喜だな
それでも家を丸ごと残せただけまだマシか >>277
慶喜は親類達に刃突きつけられてんだからもっと酷い ガースー「貧乏人は麦をくえ
金持ちはササニシキをくえ」 >>264
足利貞氏は尊氏、直義兄弟の偉大な父だったが義輝は義昭と1歳違いの兄
しかも30歳で殺されてて奈良の興福寺で出家していた弟に何を伝えるわけでもなく
14代は義輝、義昭兄弟の従兄弟で親父の代から将軍継承争いやってたし 義輝も襲撃がなくて生きてたとしてもどうなってたかなぁ
結局織田浅井連合に負けた気がする >>281
信長は自分を討とうとした義昭さえ追放で終わらせ将軍位も奪っていない
義輝も信長相手なら命が助かり将軍のままだった可能性が高い 信長ってさ裏切られまくりだけど
それを許してるよなw
能力ある人は許す傾向なんだろうけど 律令(りつりょう)政府は、蝦夷征討軍をしばしば派遣したが、721年(養老5)に多治比県守(たじひのあがたもり)を責任者に任命し「征夷将軍」と称した。しかし、その後、奈良時代には蝦夷征討軍の主将を征夷将軍の名でよぶことはなかった。ところが、794年(延暦13)に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を征夷大将軍に任じたのを最初とし、以後、9世紀初頭までに数回の征夷大将軍の任命がなされた。そのなかでも坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が有名で武名をはせたが、813年(弘仁4)に文屋綿麻呂(ふんやのわたまろ)が任命されたのを最後に廃絶した。 将軍結構くそで、長慶に迷惑かけまくった説あるな
小説とかで随分美化されてるみたいだが 成人した男子がいなかった義稙(義視の息子)は、義晴の弟を一本釣り? >>288
本人の意思でというわけでもないんだろうが
足利義稙は管領細川高国に追い出されて将軍の座を奪われ都を落ち
高国は義植の従兄に当たる義晴を将軍に擁立して実権を握った
追い出された義稙を匿ったのが阿波守護で高国と管領の座を争っていた細川澄元
澄元は義晴の異母兄義維も庇護して阿波で匿っており
澄元の主導で義稙と義維が養子縁組
義維は有力な将軍後継者候補として異母弟義晴と争うことになった https://www.chuko.co.jp/shinsho/2023/08/102767.html
足利将軍たちの戦国乱世
応仁の乱後、七代の奮闘
山田康弘 著
足利将軍家を支える重臣たちの争いに端を発した応仁の乱。
その終結後、将軍家は弱体化し、群雄割拠の戦国時代に突入する。
だが、幕府はすぐに滅亡したわけではない。
九代義尚から十五代義昭まで、将軍は百年にわたり権威を保持し、
影響力を行使したが、その理由は何か――。
歴代将軍の生涯と事績を丹念にたどり、各地の戦国大名との関係を解明。
「無力」「傀儡」というイメージを裏切る、将軍たちの生き残りをかけた戦いを描く。
https://www.chuko.co.jp/book/102767.jpg
初版刊行日2023/8/21 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています