最も優秀な執権北条氏は?
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政治的に優秀な執権北条家の中で最も優秀な人を考察してみてくれ
代 氏名 肖像 官位 在職 期間 享年 出身家
1 ほうじょう ときまさ
北条時政
従五位下
遠江守 建仁3年(1203年)9月
- 元久2年(1205年)閏7月 1年 11か月 78 北条氏
2 ほうじょう よしとき
北条義時
従四位下
右京権大夫 元久2年(1205年)閏7月[1]
- 貞応3年(1224年)6月13日 18年 11か月 62 得宗家
3 ほうじょう やすとき
北条泰時
正四位下
左京権大夫 貞応3年(1224年)6月
- 仁治3年(1242年)6月15日 18年 60 得宗家
4 ほうじょう つねとき
北条経時
正五位下
武蔵守 仁治3年(1242年)6月15日
- 寛元4年(1246年)3月23日 3年 9か月 23 得宗家
5 ほうじょう ときより
北条時頼
正五位下
相模守 寛元4年(1246年)3月23日
- 康元元年(1256年)11月22日 10年 8か月 37 得宗家 6 ほうじょう ながとき
北条長時
従五位上
武蔵守 康元元年(1256年)11月22日
- 文永元年(1264年)7月3日 7年 7か月 35 極楽寺流
7 ほうじょう まさむら
北条政村
正四位下
左京権大夫 文永元年(1264年)8月11日
- 文永5年(1268年)3月5日 3年 7か月 69 政村流 8 ほうじょう ときむね
北条時宗
正五位下
相模守 文永5年(1268年)3月5日
- 弘安7年(1284年)4月4日 16年 1か月 34 得宗家
9 ほうじょう さだとき
北条貞時
従四位上
相模守 弘安7年(1284年)4月4日
- 正安3年(1301年)8月22日 17年 4か月 40 得宗家
10 ほうじょう もろとき
北条師時
従四位下
相模守 正安3年(1301年)8月22日
- 応長元年(1311年)9月21日 10年 1か月 37 宗政流
11 ほうじょう むねのぶ
北条宗宣
従四位下
陸奥守 応長元年(1311年)10月3日
- 応長2年(1312年)5月29日 8か月 54 大仏流 12 ほうじょう ひろとき
北条煕時
正五位下相模守 応長2年(1312年)6月2日
- 正和4年(1315年)7月12日 3年 1か月 37 政村流
13 ほうじょう もととき
北条基時
正五位下
相模守 正和4年(1315年)7月12日
- 正和5年(1316年)7月9日 1年 48 極楽寺流
14 ほうじょう たかとき
北条高時
正五位下
修理権大夫 正和5年(1316年)7月10日
- 正中3年(1326年)2月13日 9年 7か月 31 得宗家
15 ほうじょう さだあき
北条貞顕
従四位上
修理権大夫 正中3年(1326年)3月16日
- 同3月26日 11日間 56 金沢流
16 ほうじょう もりとき
北条守時
従四位上
相模守 嘉暦元年(1326年)4月24日
- 元弘3年(1333年)5月18日 7年 1か月 39 赤橋流
脚注
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最終更新: 9か月前 得宗では貞時かなと思う。
義時は陰謀家と言われるが実際は慎重で巻き込まれタイプ
泰時は武断的側面もあるが「切れる」というタイプではない
経時は若すぎて分からない
時頼は若い時分の大病後にあまり仕事してない
時宗は時頼より精力的だがチョンボも多い印象
得宗以外だと政村だが、彼は調整役としての有能さ
金沢貞顕以下はいかにせん政治力や意思に欠ける それぞれタイプが違う優秀さだから、どこに注目するかだな
オレ的には得宗でいうと
一番頭がいい:時頼
一番人柄がいい:泰時
一番戦略家:義時
一番気が強い:貞時
一番度胸がいい:時政
一番強力:時宗
一番かわいそう:経時
一番バカ:高時 高時って今の日本みたいだな
お人好しで平和主義者で気が弱くて大人しい 一族内なら朝時みたいなパワーのある男がいるが、得宗はわりと手堅い人が多いな 経時以降の脅威的な若死に率
執権の座は寿命を縮めるのだろうか 高時は教養的にはかなり高いものがあった
ただ決定的な不幸は後醍醐という稀有な化け物がいたことだな
あれがせいぜい後鳥羽なら最初の流罪であきらめてるわ >10
毒殺が多かったからじゃね
結構毒殺説のある執権は多い 毒殺容疑は執権北条氏が陰謀好きとかいう刷り込みで語ってるだけ
根拠は何もない 連署も初代時房や2代目重時は存在感あったのにそれ以降影が薄いな
執権もそうなるけど得宗に権力集中させてしまったから仕方がないか 時房、重時、政村。誰が一番有能かと言われても難しいな
得宗との補完関係的に言えば時房がベストだったかも知れないが 貞時にとって師時は盟友というかほとんど兄弟のようなものだな
従兄弟の師時は正室の兄弟であり娘婿でもある
貞時は一人っ子だから頼りになる血縁者が必要だったんだろう 得宗家が短命なのは結核が原因とも言われているが真相は不明だ 結核は他人に移るから一度流行ると
得宗だけでなく周囲も一斉に死ぬだろ 大仏の宣時・宗宣父子は霜月騒動・嘉元の乱の討手側への関与疑惑が指摘されてるのだな みんな自分のお気に入りの時さんがいるからな
このスレは伸びるw 叛乱分子を次々に誅殺する実力主義と権謀術に長け
尚且つ名君が多いイメージ 北条時政て執権(実質的な王朝)の始祖なのに
影薄いというか評価低いよな
唐の高祖李淵みたい >宣時・宗宣父子は霜月騒動・嘉元の乱の討手
ソース希望 時政の門葉将軍(平賀将軍)というアイデア自体は面白かった
でも北条氏は資格がなく将軍にはなれないから執権政治の克服は無理か 北条時政はもともと突出した力を持つ人物ではなく
源頼朝が後を託したのは有力御家人である比企能員や
梶原景時
比企も梶原も誅殺されたが時政の意思が一方的に反映
されたわけではない
牧氏事件で義時と対立して以来、死後も謀反人として一門から
否定されることに 非名門で比企や三浦など匹敵し得る有力御家人に囲まれていたのに
確りと渡り歩いて地位を確固たるものにしたのが凄い しかしひどい官位だな…
これで130年とにかく日本の政治史を切り回したほうが奇跡だ
この官位を何とかしない限りいずれ滅んだんだろうな 時政って吾妻鏡にも記されていない空白期間があって
どういう行動をとっていたのかはっきり分からないらしいね 大した役割を果たしてなかったという見解もあるが、
時政のほうから頼朝と距離を取る状態があったと考えるほうが自然かな >>39
摂家将軍を迎えるものの
三浦泰村は九条頼経に接近して北条をも凌駕する権勢を誇ったとか
北条家が確固たる地位を築けたのは北条時頼が安達景盛の挑発に乗った
三浦泰村を討ち滅ぼしてからか >>42
頼朝の代官として上洛して守護地頭とか頑張ってたのにクビになったのは何故? 時政は石橋山から甲斐に逃げ込んでるしね
頼朝とは内乱期から確執があったのかもしれない(登用された時は手打ち成立的な状況) いったんは頼朝を見限ってるよな
時政に石橋山の時点で甲斐にコネあったのだろうか 伊豆−駿東−甲斐は近い
鎌倉−三浦氏&房総頼みの頼朝と、影響力低下を恐れて甲斐源氏と提携に傾く時政で分党したかもね
亀の前事件で伊豆に引き上げたのも、脅しかもしれんて >>39
その執権自体も最終的に形骸化していくからな
権力がだんだんと下に流れていく 得宗自身が公的には一御家人だから
家令であるはずの御内人が所司に就くと上司に過ぎなくなる矛盾 平頼綱が得宗専制を強化したのは
その家令である自らの正統性を証明し力を誇示する為か
専横はもちろんのこと身分差が軋轢を生んだんだろうね 平頼綱で失敗したのに今度は甥?の長崎円喜の専横を許すとか。
北条氏も少しは御内人に警戒してほしかったな 貞時は自分が傀儡になることと
頼綱に対する御家人たちの不満が得宗家に向くのを恐れて
大地震に乗じて頼綱を殺したけど
晩年は投げやりだったからね 嘉元の乱の前年に高時が30を超えて誕生している
父や祖父と同じリタイア年齢なのに世継ぎは乳児
貞時が焦ってもおかしくはない 北条時宗が長生きしていればかなり情勢は変わっただろうね
短命な人が多い気がする 宗政・宗頼が生きてれば、時宗幼少時の長時や政村の役目を務められたのだが。
両名の子の師時、宗方はともに貞時の側近になったがその宗方も嘉元の乱で討たれる 安達泰盛と平頼綱
外様の代表と御内人という相容れぬ両者だったが
得宗専制を構築したという点では同じ構想を持って
いたんだよな 成し得たことで見れば泰時の功績が一番大きいと思う
天皇でもなく藤原氏でもなく、武士が政を行うというのはそれまでに前例のなかったこと
幕府と朝廷の間で戦まで起こった難しい時期に幕府を固めたんだから、その功績は頼朝にも劣ってないと思うわ
泰時個人の能力は解らんが、京の貴族の中からも泰時を悪く言う人はいなかったようだし… 人物叢書を書いた上横手雅敬は、時頼以降と比較して
「幸運な時代の幸運な執権」という評価に留めてる
泰時は人物評は良いのだけどあんまり能力は評価されてない気味があるなあ 当時の多くの公家は泰時が強引に後嵯峨天皇を立てた件に関しては不満があるようだけどな
幕府北条にとってはどうしても承久の乱の首謀者の順徳天皇の系統には皇統を継がせたくなかったのだろうが 泰時は頼朝から偏諱を貰って頼時と名乗ってたのに
なぜ偏諱を捨てたのか 御成敗式目は初の日本独自の法
道理や公平さを重んじた武家法を敷き後の世も
模範とされた功績は大きい しかし和田合戦勃発の前夜にのんびり飲んでて、駆けつけてきた弟が大活躍するかたわら、
二日酔いに苦しんでたけどね 泰時ってのは面白いキャラだな
クソまじめぽくてつまらんかのような、でもトンデモキャラなような
時連も時房に変えてるから、やはり頼家がらみかもしれん>>61 >>39
今で言うと神奈川県知事とか東京都知事の地位で天下人だったわけだ。
まぁ、今でも経済の中枢の東京都知事は権限大きいし、違和感ないかも。 情報伝達も流通も移動もなにもかも遅い時代だと、中央を抑えてるのはもの凄くでかい >>65
お飾りだけど将軍(≒都知事)がいるから、
副知事が実質的な国のトップやってたという方が近いかも 武蔵は10いくつかある大国のうち1つ 相模は30いくつかある上国のうち1つ
仙台市長と宮城県知事(兼任)くらいだな… 北条氏は将軍になる道が開かれなければ、どうにもならなかったな
時政が門葉の平賀将軍を推進したのが本当なら、慧眼かもね 最初、義時は相模守だったけど、それを時房にゆずって陸奥守に
あの頃って、陸奥守のが鎌倉では上ってな感じ?
泰時は武蔵守だったし
時頼以降、相模守になったけど、やっぱ義時の先例にならったのかね
兄貴は泰時の系譜の武蔵守だったし
館もそうだよね
時頼が義時亭で、経時が泰時亭 その3か国の関係はどうなってるのだ
ランク低くても得宗は相模守じゃないとまずいのでは? 陸奥守は担当面積だけでいえば、日本最大の気がする。 陸奥守は源氏に縁のある受領名だし、末期には鎮守府将軍とずっと兼任された。
武家にとっての鎮守府将軍の重みを継承してる部分があるんじゃない? 泰時あるいは時頼あたりが陸奥守に任官しておけば、
何かのはずみで「〜将軍」と名のつく役職を狙えたんじゃないか
せっかく承久で勝者になったのに詰めを誤ったように見えるんだがな 神輿の将軍と対立したわけでなし。
てか、そんなことしたら他氏からフルボッコだろ。 時頼の執権就任が大きな転換点だったな
先代の経時は泰時の路線の合議制を踏襲しようとしていたのだろう
正室も泰時の意向で宇都宮氏を迎えてるのを見ると
時頼になって三浦排除に外戚の安達優遇を行うなどして得宗専制に変わってきた 蒙古襲来の時にリーダーシップを発揮したのは、天皇でも治天でも
将軍家でもなく、執権時宗 >>70
平賀朝雅は血統、実績ともに優秀で、北条時政にとっては当時ベストな将軍候補だろうね
武蔵国の支配に邪魔な畠山は消したことだし 北条氏自身が将軍になるのは難しいかもしれんが、
平賀朝雅の子が将軍になれば時政は再び外戚となれる
頼朝の時とは違い、今度は権勢を振るうこともできたろう >>79
将軍にも院にも蒙古にも勝つんだから北条氏は凄いと思う。
日本史上ここまで対戦成績良い天下人は珍しい。 時政と頼朝の関係は謎だな。
曽我兄弟の時も黒幕と言われつつ結局遠江守護になってる。
単に政子の存在かも知れないが「穏便」義時より面白い動きをしてる時が多い きっと中先代の乱に成功していれば、北条時行が後醍醐天皇を廃帝にして
新たに擁立した持明院統の天皇より征夷大将軍に任命されていただろう 時行って、南朝に属してたよね?親の敵の新田もそこにいる 観応の擾乱では、戦略上
足利尊氏も南朝と結んだりしていたからな >>78
北条長時を執権に据えつつも
長時を時宗が成長するまでの中継ぎとして捉え
自身は最明寺殿として実権を握っていたことからね
この時点で執権という肩書き自体が形骸化している 義時の代に将軍を形骸化して
時頼の代に執権を形骸化したら
高時の代では得宗が傀儡になってしまったね 形骸っつか高時の代で権力を失い時行の代で滅んだわけだが 周りが自分の土地あらそいに精一杯の時に、ルール作ろうよと言っていたのが北条家
一目置かれると思う。 北条家がルール作ろうよって言ったのかどうか知らんが、
仮に他の人が言っても一目おかれないわけで。
北条家が一目置かれたのは単純に、尼将軍の縁戚だったからだと思うけど。 時政が娘を嫁がせていなければ末席の御家人で終わったであろう 泰時と時頼だな
蒙古襲来を撃退した時宗も捨てがたいが。早死にせずに戦後処理まで完璧にしてたら間違いなくこいつ 時頼以降の3代で比較すると、時宗>時頼だと思う。
あとは時宗と貞時で決勝戦じゃないの
泰時は平時の名執権なのは確かだが、承久の乱では退守防衛を主張したり、
和田合戦ではヘベレケになってたり、勝負師としての能力にやや疑問符がw 承久の乱で完勝した北条義時
得宗専制という転換期を築いた北条時頼
名越一門と決着をつけ、蒙古を撃退した北条時宗 北条氏って対外的には歴代最強の一族だけど
幕府内では、たえず綱渡りだったんだな。
だって、朝廷からの官位的には、一御家人にしかすぎなかったわけだから。
だから、北条氏は自分たちの権威が上がるよう、いろいろ努力している。
当初は、源義家の外戚だった平直方の子孫だったので、
武家の棟梁の河内源氏と外戚としてやっていくつもりだったけど
実朝の暗殺で予定が狂ってしまった。 日本に限らず、世界的にみてもこれだけ優秀な統治者が出た一族はないな。
得宗家で外れと言えるのは経時と高時くらいのもん。
庶流にも人材が多いし。
義時、泰時、時頼、時宗、甲乙つけがたいわ。 高時は生まれた時代が彼にとって不幸だった
過小評価されている部分もある >>100
御家人の中でも特に格が高い家じゃなかったからね。
ごくごく平凡な坂東豪族だもんな。出身は。
そういう一族が、家格が絶対の時代に事実上の日本の最高権力者になるという難しい立場になった。
その緊張感、綱渡り加減が、いい統治者を輩出させたのだろうね。 泰時は「撫民」という言葉をよく口にしており
善政をスローガンとしたことが結果として統治者としての
正統性を高めたのだろう >>101
名君揃いの上にドロドロとした闘争劇が魅力的な時代だな
後鳥羽院や諸侯との闘争の果てに蒙古の大帝国をも撃破したのだから
凄いわ 北条時宗
日本史上最大の英雄と言っても過言ではない
時頼と時宗という名君の中継ぎを果たした
政村と長時はどのような評価なのだろうか 藤原氏も優秀な一族だと思う
藤原氏と北条氏が日本史の政治天才一族の双璧
ただ、藤原氏が政略謀略能力が優れているのにくらべて、北条氏は精神性も
統治能力もあるから名君とよばれる
藤原氏は優秀だが名君とはいわれないからな 藤原氏はその能力を国家の富の私物化にしか使わなかったからね。
私的には有能無比だが統治者としては全くの落第者だ。 藤原氏にも色々いるからな
刀伊を撃退した藤原隆家とかも居るし しかし、隆家さんはそんだけ勲功あげたのにさっぱり評価されず、些細な落ち度を咎められてお叱り受ける始末だからなw >>111
道隆系は没落したし、なにより隆家は荒れくれ者であまりいい評判がなかったんだろう 徳川氏もある意味優秀な一族だぞ
何しろ元寇のときは見事勝ったじゃないかと言う輿論を抑えて
到底無理だと言い放ったんだからw
臆病心配性も究めるとまた偉人に並びうる まぁまぁ
冷静に負けを受け入れられるのも優秀な証じゃない >>113
水無瀬家だったか、道隆ー隆家の系統が羽林家として残ってる
あと後鳥羽天皇の母は道隆ー隆家の子孫で天皇家に血が入っている
摂関の地位からこそ転落したがなんだかんだで残ってる 藤原氏は隆家に限らず武芸も正統な師に付いてやり込んだだろうしな
その点北条氏ら東国武士はほんとの自己流で、頼朝が見かねて師匠を鎌倉に招いたほどだった >>112
伊周の血もなんだかんだで五摂家に入ってるしな
藤原道隆ー伊周ー女(藤原頼宗室)ー藤原俊家ー全子(藤原師通室)ー藤原忠実ー忠通 今の近衛氏って藤原氏?
たしか現宗主は細川元首相の弟さんだよね >>119
道長に敗れた伊周、隆家兄弟の血が摂関家に入ったということか 貞時以降は政村のような得宗を後見してくれる長老的存在がいないな 北条政村は時宗にとって良き盛り立て役だったな
時宗が早死にして貞時の藩屏を揃えることが出来なかったのかな? 政村は義時の息子だからな
やっぱそのしたになると分家になるから御内人から舐められる気がする >>114
そんなもん戦国時代の武将ならば、そこそこ優秀ならば
誰でも気が付く。
守勢と攻勢では有利不利も大きく違うし
兵站の確保の重要性だって、誰でも気が付く。 >>124
金沢貞顕がその典型かな。長崎円喜・高資の専横に
打つ手なし。覚海円成・安達時顕の圧力で執権を
スピード辞任。文化人としては一流なんだが。 父親の兄弟とかがいてくれたらよかったんだけどな、時宗の兄弟は早死だし、貞時には兄弟はいないし
時頼、時宗は父の兄弟はいなかったが、義時の子の重時、政村がいたからな 姫の前の子供は格が高いが伊賀局の子供はそれに比べて格下
みたいにみえるが、やっぱ伊賀局の事件のせい? >>127
時宗の庶兄の時輔は時宗自身の手で殺してるからな 貞時は実の兄弟はいないけど、時宗の猶子で義弟の師時と宗方はいた。
宗方は嘉元の乱で失い、師時にも先立たれてしまったけど。 時宗は同母弟の宗政を、貞時にとって政村的補佐役ポジションにするつもりだったのだろ
その子の師時はいちおう最優秀執権候補ではあるのだが 泰時の嫡男の時氏が早世せずに執権に就いたら得宗専制はまだなかっただろうな 時氏ってこれと言ったエピソードねーな
凡人だったのかね 19. 無題
あ、そういや一昨日デリ呼んだらAV女優が来ました 知らない名前だけど
とりあえずおかずに嫁のおっぱいうp 早くね
tk 2014-10-14 03:17:12
28. Re:Re:無題
>マダオさん
え、永久にだめなの?アメブロ厳しいんだな
AV嬢は満足できたよ 北条なんとかって娘だった Mな俺にぴったりだったわ
多分マダオ氏と性癖違うからなぁ
tk 2014-10-14 03:33:10
http://ameblo.jp/aukoy-kun/entry-11938755000.html >>11
足利尊氏の天才的武芸が裏切らなかったら後醍醐政権は無理ですた 南北朝トランプとかあったら
ジョーカーは足利尊氏だな
使いどき切りどきが難しい 宗政が長生きしてれば貞時の中継ぎとして活躍できたかもな
霜月騒動も避けられただろう 何だかんだで、北条家は庶流が執権になっても得宗が権力を持ち続けて、大きな争いになってないんだよな。名越とかはいたけど、後醍醐側につかなかった。
一方で、足利は尊氏・直義といい、義政・義視といい、義稙・義澄といい、義栄・義昭といい、NO・2で妥協しようなんて発想は無さそう。 貞時だね
泰時は和田合戦の時に二日酔いだったり宇治川で興奮して馬隠されたり笑ってしまうし
義時は逆に慎重で堅実な以外にとくに特長ない感じ 鎌倉時代約130年間で執権が16人というのは、多いように感じる。
ひとりあたりの平均任期は10年にも満たない。
早世した人が多いのと、執権職を一門で持ち回りにしていたために見える。 大河でみたところ貞顕、盛時は、高時に馬鹿にされれいるが。貞顕、盛時の方が
官位が高いじゃないか? >>140
霜月騒動が防がれたら、北条にとってはマイナスなんじゃないか?
ある意味霜月騒動というのは北条氏による王権拡大のための大粛清だったわけだしね。 北条って公に暗殺自演語られないよな。
執権といえば赤軍粛清、長いナイフの夜のごとく自演暗殺の連続だ
この2つの自演謀略を知ってるかいなかで見方そのものが変わる。そしてあずまきょうはあきらかにしか以前の暗殺すり替えであり、典型的な権力のためのすり替え史観だとわかる
また畠山暗殺が決定的で、かなり極端なモンスターが北条家であり、あの異常な暗殺と粛清の連続からして、もうあきらかに頼朝を暗殺してない事のほうが矛盾がある。
たんに病死なら病死と落馬なら病死と公表すればいいだけなのに、死因を不明にしてる
執権は下劣な暗殺と自演を行った
執権は執権家のための強権と暗殺を行いすぎ、またそのせいで末端の権力でも暗殺が頻発して権力が混乱したのが執権権力崩壊した原因だ 高時が題目宗の布教を認めたばかりに、現代に詐欺ビジネス政治結社である創価学会が政府に巣食い蔓延る原因となった。
時宗が龍ノ口でビビらずやっておけば…逆にもっとカリスマ性が上がったかもしれないが… >>152
あれで滅びたのにな。
執権が認めたとかってあの末期の宗教結託政治が失敗したんだから、日蓮総収の正当性のなさの現れなんだよ >>101
北条に並ぶのは晋建国した司馬氏くらいか 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
ICI7M とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
CFH >>157
御成敗式目作ったり元寇追い返したりしてるのにそれはない 得宗になりたかった、得宗家に生まれたかった、太守と呼ばれたかった… 得宗になりたかった、得宗家に生まれたかった、太守と呼ばれたかった… >脚本は三谷幸喜、主演は俳優の小栗旬
見なくても糞だと分かるw
今年の大河は『太平記』の脚本書いた人だし、電通辺りからのゴリ押し俳優もいないから
久しぶりにみるつもりだけど まあ時宗だろうな。元寇を撃退。戦後処理を完璧にやってたら神として崇めてもよかった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています