物部氏とは何者??
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>>163
古代から女性の名前に子は付くよ。
「こ」の発音を子とかくか古とかくかの違いだけ。
古代の名前は女性名と男性名の区別が曖昧だった。
そのために子(古)のつく女性名のあとに「娘」を付けて区別したりはあったけどね。
「こ」のつく女性名
・車持与志古(よしこ)
・伊賀宅子(やかこ)
・忍海造色夫古(しきぶこ)
。葛城広子(ひろこ) そうか?
○○子(こ)って名前だっけ?
もともとは○○子(し)からの変換が始まりだったと
思うけども? >>165
○○子(し)っていうのは平安時代の女性名をなんて呼んだのか分からないから
後世の歴史家が便宜上音読みしているだけ
当時の人が実際にそう呼ぶんでたってことじゃない
ただし当時の日記を読むと
・藤原多子(まさるこ)
だったり、藤原安子にならって読みが同じ藤原泰子という名にしたという記述などから
(安子と泰子に共通する読みは訓読みの「やすこ」だろう)
実際には訓読みで子(こ)だった可能性は高い >>167
だから古代から現代まで女性の名が「○○こ」というのはポピュラーなんだよ
「こ」の読みに「子」の漢字を当てたのは平安時代以降
それ以前は当て字だった 天孫本紀だと、男性人名語尾のコは子じゃなくて古に統一されてるんだよね
物部阿遅古、物部石上贄古、物部恵佐古、物部老古、物部金古、物部塩古、物部竹古
物部麻伊古、物部牧古、物部目古、物部倭古
(◯◯ヒコは除く)
でも贄古は日本書紀だと贄子という表記になってる >>143
アフリカから渡来した人かも知れん
古墳時代は神話じゃ無い
神話になってるのはもっとずっと前だ ニギハヤヒなどの山上降臨型の神話って朝鮮半島に類例があるんだっけ?
比較神話学はこの板の住人は苦手そう
欽明紀前後に物部氏の半島での活躍が見られるから、
その手の文化を摂取したのも六世紀前半〜中頃かな 朝鮮の山上降臨型の神話って白山信仰で檀君神話のみだろ
内容はかなり怪しい
5千年前とか
天孫降臨神話は沖縄に明確に有るぞ
こっちは1万7千年前だ 崇排仏論争は結局どうなんだー
(1−1)実在した。原因は宗教対立。史料に書かれてることを信じろ。
(1−2)実在した。ただし政治的対立がメインで宗教対立はオマケ。宗教問題がなくともどのみち対立に至るはず。
(2)虚構だ。太子伝説の一環として創作されたものだから、オマケですら実在しなかった。 確か高地に物部(モノベ)ってあるだろ。
これと物部は関係あんのか? もののけ姫みたいだね
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?search=
%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%AE%E3%81%B9&title=
%E7%89%B9%E5%88%A5%3A%E6%A4%9C%E7%B4%A2&go=
%E8%A1%A8%E7%A4%BA 谷川健一が白鳥信仰とかいってたけど、
通説の剣神信仰をひっくり返すような根拠はないんだよなあ >>171
>欽明紀前後に物部氏の半島での活躍が見られ・・・・・・・・・・・・
6世紀に物部何某が、半島へ渡海してどういう活躍をしたの? 隋書では対馬から壱岐を「東」と表現。
隋書を読む時は「東」を南東に置き換えて読む。
では宋書。かの倭王武の上表文はどう読むか?
・東の毛人55国を征伐。
・西の衆夷66国を征伐。
・海を渡って北の95国を征伐。
中心が倭王の都になる。
文字通り読めば三番目は韓半島。
でも隋書の例で「東」を南東とすると…。
南東で毛人55国を征伐。
北西で衆夷66国を征伐。
海を渡り東北で95国を征伐。
となる。一番目は今の宮崎県方面。倭は狗奴国を倒してる。
二番目は韓半島南部。
そして三番目が本州を指す。
これからも倭王は太宰府にいたと言える。そもそも太宰府って開府儀同三司の太宰の府。
太宰府だと九州説支持者にもつまらないかもしれない。
でも太宰府なんだね。少なくとも隋の時代まではずっとね。
本州畿内説支持者は言うかもしれない。隋書で秦王国からしばらく行き海に出た。そこは瀬戸内海で、本州畿内へ行ったのだ、と。
でもそれだと小徳アホたいの弁明が合わなくなる。使者一行は引き返して倭王の都へ戻った。
王国は秦国と呼ばれてた。それ以外に出てこないから。 >>179
物部莫哥武連(物部施徳麻奇牟)、物部連奈率用歌多、物部奈率哥非、上部奈率物部烏
という人たちが欽明紀に見える
彼らは氏(物部)や姓(連)を倭の大王から賜っている一族に属しながら、
個人としては奈率・施徳といった百済の官位を持って百済王に仕えていた
おもに、百済が倭に対して外交交渉をするときの使者や、
倭と百済が共同で軍事活動するときの武将として活動している
倭の物部氏とのコネを百済王宮から期待されていたらしい
どうしてこういう人たちが生まれたかというと、この人たちの父親が倭から外交官や武将武人として朝鮮に派遣され、
現地の女性と結ばれることがあったから
欽明朝の一世代前の継体朝に、物部伊勢連父根(物部至至連)が軍事将軍として派遣されてたことが見える
また姓氏録の韓国連(物部氏の同族)の祖先伝承に、武烈朝に韓国に遣わされ復命したとき、
その活躍によって韓国氏の名を賜ったとある
韓国氏の始祖・物部塩古連公は続日本記では塩児と表記されるが、
先代旧事本紀では物部麁鹿火の従兄弟に位置づけられており、
だいたい武烈継体朝ころの人物と考えられていたらしい
あと竹斯物部莫奇委沙奇という兵士も欽明紀にはいるね
物部氏は大豪族として政権の中枢にいたから、軍事・外交面での活躍も大きかったんだろう 孝元、開化、崇神の妃は、非常に興味深い。それ以前もそうだけどね。
複数の妃はほとんどがホアカリの子孫の伝承を持つ一族だ。
もちろん物部の祖もいる。
勘違いしてはいけないのは、物部の祖、尾張の祖、和珥の祖など、すべて
「祖」であること。ホアカリとニギハヤヒの一族のほうが神武系よりも
栄えていたように見えること。 原帝紀・原旧辞の成立は欽明朝頃と見られてるが、
尾張氏が継体天皇妃を出して安閑・宣化二帝の外戚になったことや
物部氏の実在する天皇妃の唯一の例が安閑妃の宅媛だったりするのを見ると、
やはりこの頃の出来事や勢力が伝承形成に与えた影響は大きいなと、思わされるね
和珥氏系后妃も五世紀の葛城氏と六世紀後半以降の蘇我氏の間に活発に立てられているし >>44
饒速日命を祖とする登美連の氏神を祀る神社が、勢力地の奈良北部
富雄地域でなく南方磐余地域にあるのは、本貫はこの地なのか?
等弥神社 御祭神:饒速日? 奈良県桜井市大字桜井字能登1109
http://kamnavi.jp/mn/nara/tomi2.htm 奈良盆地北部、富雄川沿いにもあるよ
登彌神社 祭神:登美饒速日命 奈良市石木町648
http://kamnavi.jp/mn/nara/tomi1.htm >>152
丁未乱に敗れた宗家物部守屋一統は、被差別賎民身分に落とされたの?
125 :可愛い奥様@転載禁止:2014/04/09(水) 00:05:09.35 ID:RmDzkAoF0
>>124
ところが物部氏は、仏教をめぐって蘇我氏と対立し、ついには戦(丁未の乱)と
なってしまった。そして物部一門の頭領の物部守屋が戦死し、以降物部氏は
権力者や有力者の地位から没落した。
物部氏が権力者の地位から落ちたことにちなんで、『部落』といい・・・・・
【同和地区】部落民エッタ四つ非人の奥様(^o^)
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/ms/1395062007/124-125 部落の部と、部制の部がかぶってるから連想した、ってだけなんだろうな
部民制度に由来する氏の名前は刑部とか日下部とかいろいろあるけど、
物部は有名だから変な付会もされやすい
物部氏が大連滅亡後も普通に史料上に現れることを知らないんだろう
http://mononobe.digiweb.jp/nenpyoumononobe.html 何で大仙市の天日宮が、物部氏縁の神社なんだ?
22 :日本@名無史さん:2013/10/06(日) 00:28:02.79
・・・・・・・・・・・・・物部氏縁の神社が似てるよね
http://www.pipi.jp/~exa/kodai/tanbou/karamatu-zinja/Pages/9.html
高天原はアトランティスやムーだった?
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1377466574/22 唐松神社の社伝は古史古伝(近代擬撰国史)の物部文書だから
河内国河上哮峯じゃなく鳥海山に饒速日は降臨した、
神功皇后は三韓征伐の後、九州ではなく秋田に帰り着き、物部胆咋に祀りをさせた、
物部尾輿の孫が大連滅亡の後、落ち延びてきたのが社家の祖、
といったぐあいに、書紀や旧事紀を元ネタに秋田に引き寄せてる
こういう自分の先祖を尊く見せたいとか、祭ってる神社を由緒正しいものにしたいっていう願望から生まれる伝説っていうのは、
割とどこにでもあるんじゃないの
物部氏が出てくるから有名になっちゃったけど >>190
その家なんだけど唐松神社の宮司の家系で
権力は無いんだけど家柄が戦国時代以前から別格という感じ
あとナマハゲも空から降臨してるから
伝説と神話が妙に絡んでいる 室町時代には創建した古社なのは間違いないが、物部氏に付会された時期は謎ね
佐竹氏の転封後かもね(常陸国の久自国造、狭竹物部から案出)
部民制の時代、秋田が物部など部民設置できるほどにヤマト王権の支配が浸透していたわけではなく
それを無視して守屋の息子が落ち延びてきたなんて話を信じちゃうのはいかんわ
>>191
そういう語呂合わせはいらない 唐松神社は行って損は無いと思う
田舎なのに妙な格の高さを感じる
配置や鳥居も興味深い
なんというか神社の元祖的な感じがする 人間の持つ感触、オカルトにも通じる感覚的なものね
配置や鳥居といった演出にコロッとやられる人は、新興宗教にも騙されたりするから気をつけたほうがいい
史料を基礎に置いた議論をする歴史とは相容れない この鳥居を見て興味を持たない人は異常
http://www.pipi.jp/~exa/kodai/tanbou/karamatu-zinja/Pages/8.html
柱二本だけの鳥居は極めて少ない、しかも参道がクランクw
天日宮の存在を隠したかった感じだな こっちのほうが位置関係分かるな
ttp://www.pipi.jp/~exa/kodai/tanbou/karamatu-zinja/Pages/12.html
パノラマなんで天日宮と鳥居は直角の位置関係
天日宮が神社というより古墳ぽい
http://blue.ap.teacup.com/qmss/img/1269243245.jpg 知ってると思うが、天日宮も代々継続しているわけじゃなくて、
古伝と称して「復元」されたものだからね
もちろん古伝である保証はない 唐松神社に伝わる物部文書は
まだ半分も公開されてないんだっけ?
公開されてない部分に天日宮の事が書いてあるのかな >>185
トミは桜井にある「外山」という説もある。「とび」と読むよ。 そのため、江戸時代には桜井茶臼山(外山茶臼山)古墳を饒速日の墓にあてる俗説すらあった 神武(と後の人が名づけた)がヤマトへやって来た時、すでにたくさんの部族が
栄えていたと思われる。
紀元200年頃の日本の人口は、60万前後という推計がある。
縄文末期に7万にまで減り、西日本は3万あまりとか。
先祖を同じくする一族がいくつもあっても不思議じゃない。 >>187
部落という言葉には、もともとは差別の意味はなかったんだよ。
関西でも集落(旧大字・小字、江戸時代のムラ)のことを部落と言ってた。
「特殊部落」と言われるようになり、さらに部落だけになった。
1970年前後からかな。
物部とは無関係だね。
部民ってたくさんあるからね。 >>1
上御殿にオルドス式短剣の鋳型を持ち込んだ勢力。
頭に鹿の角を飾ってた勢力。
それ以外の解釈あり得る? 尾張氏(関西人)
国名が、他国の地名の他国人(関西人)由来は尾張だけ
大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て、国名が尾張になる
尾張(笑)、ダサいダサ過ぎるw 尾張連氏の本貫については本居宣長以来の葛城説が通説であったが、
新井喜久雄「古代の尾張氏について(上)(下)」(『信濃』21−1・2、1969年)以降は尾張説が定説となっている。
時期としては継体天皇の大和入りにともなって尾張から葛城へ進出したと見るのが有力だが、異論ももちろんある。 尾張氏(関西人)
国名が、他国の地名の他国人(関西人)由来は尾張だけ
大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て、国名が尾張になる
尾張(笑)、ダサいダサ過ぎるw 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 出雲氏
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02119.htm
出雲国造千家系図
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-izumo-senge.html
この出雲氏神代系譜を、各氏族の祖と照らすと・・
天穂日命-@武夷鳥命-櫛瓊命=伊佐我命-津狭命-櫛瓱前命-櫛月命-櫛瓱鳥海命-櫛田命-知理命-毛呂須命-阿多命-出雲振根=日本武命-A伊幣根命-B韓日狭命
@A伊幣根命-鵜濡渟命 千家氏・北島氏の祖
A伊幣根命-伊賀曾然命 出雲神門臣・建部氏・斯摩・志摩国造家の島氏の祖
B韓日狭命-野見宿祢←襲髄命の子とも言う・・ 土師氏・菅原氏・大江氏の祖
C宇乃遅命-置部臣/物部氏の祖
@武夷鳥命-櫛玉命=出雲建子命=伊勢津彦命 出雲忌部系島族・角井氏の祖
饒速日とは・・櫛瓊命=伊佐我命の事で、神武勢力に敗走した出雲建子は、兄を頼って、伊勢へ来て
長髄彦の妹、登美夜須毘売=三炊屋媛=鳥見屋媛との間に産まれた、宇麻志麻治命に伯父の長髄彦を征伐させた。
ちなみに、長髄彦は、出雲族の事代主命の子、天日方奇日方命の子孫で、天日方奇日方命の妹が、神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命。
諏訪の健御名方命が遠縁の伯父。
※1 島族は、神門氏志摩国造家の島氏を長とした領民縁者の俗称。
※2 斯摩・志摩・島に列し司馬氏は、大陸の晋国の司馬皇帝の一族の帰化の可能性あり。
※3 又、応神天皇の時代に渡来した、秦の始皇帝七世の弓月君の帰化姓、太秦国所領とした、惟宗氏末代、島津氏が志摩領民としての島族として鎌倉時代〜戦国・江戸時代まで続く家柄。
※4 斯波氏は、野々部氏の末代で、石橋氏の祖。 >>215の続き・・
木屋の資料館3.3饒速日、にぎはやひ
http://homepage3.nifty.com/kiya/sehachi/kiya33.htm
「熱田縁起」、海部氏はこれ尾張氏の別姓なり。
「尾張大国霊神社」(愛知県稲沢市国府宮町大宮)、社家は久田氏(後に野々部氏と称す。)で天背男あめのせお命を祖とする。
海部氏・度会氏は、海神=綿津見大神を祖とする、安曇氏が長。
ワタツミ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%BF%E3%83%84%E3%83%9F
神武勢力の父神、天津日高日子波限建鵜草葺不合命の親神が綿津見大神で、天照大神も、複数形の神々の俗称たる綿津見大神の1神。
ウガヤフキアエズ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%AC%E3%83%A4%E3%83%95%E3%82%AD%E3%82%A2%E3%82%A8%E3%82%BA この尾張氏の久田氏祖は、忌部氏系譜上の神の天背男だとすると・・度会氏と同祖で
火明命=櫛明玉命=櫛玉命=出雲建子命か饒速日命=櫛瓊命=伊佐我命と成る。 忌部氏は、厳密には、天照大神第3子 龍神の天津彦根命=天若日子命=七夕の牽牛・天稚彦で、次代が、天日鷲翔矢命=少名彦名命神代系譜。 物部氏は…
簡単にわかりやすく短くまとめると、
皇族同様に物部氏も神様って
言うことです
つまり天皇家と親類であり
互いに神様の血を受け継いでいる氏族であり神様って事になります
あと忌部氏も同じですね 物部氏は倉庫番。
倉庫に入れる色んな「物」を扱ってたから、「物」の部。 千家氏が嫡流で
神門氏が物部・置部の一つ下の兄
置部氏・物部氏が末っ子 日本武尊=出雲振根の朝原氏が伯父で、土師氏の菅原道真公筋は叔父の家柄。
櫛瓊命=伊佐我命と櫛玉命=出雲建子は同一人物が濃厚。
機内・関西の千家側と東海道を移動しての武蔵・千葉国造と成った島族の末代が
それぞれ違う呼び名で呼んでいただけ。
島族にも、島津国造家の斯摩・島氏と渡来系の斯摩・司馬氏が居て、秦の始皇帝七世の秦氏系惟宗・島津氏が居るからね。
呼び方・解釈の違いは、抗した渡来系出雲人の関係かも・・
又は、神武側に従った者と関東に逃れた側の関係とか・・ 武内宿禰筋の葛城襲津彦氏・・紀氏の波多氏・角氏・蘇我氏なども母系物部崇拝で島族を名乗った様だし
安倍氏も母系が物部氏で、奥州勢は、母系崇拝で間違い無さそう・・
後の、平氏源氏の平氏も武蔵武士や伊勢国造を名乗った事から、何らかの縁が有るようで・・ 財閥石橋氏も元は、伊勢志摩絡みの氏族で、島屋を営み
武家の斯波氏がルーツで斯波氏の元が野々部氏の尾張氏族で始祖を天背男命としている。 >>215
神門氏 とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E9%96%80%E6%B0%8F
豪族神門(かんど)氏が,その配下の人々を日置部・海部・鳥取部・神奴部等に編成して,杵築大神の祭料をととのえさせた。 元々の出雲大社の司祭って神門氏で、杵築大神の大社から、西暦716年に大国主命の出雲大社に改め、千家氏の祖先へと譲られたのですね。 元々の出雲大社の司祭って神門氏で、杵築大神の大社から、西暦716年に大国主命の出雲大社に改め、千家氏の祖先へと譲られたのですね。 神門古墳群は千葉にあって出雲大社の当主も千葉なのか >>234
厳密には、出雲神門臣 島津国造家の島族の人たち 黒潮系が日本海にもチョッカイを出し始めたってことなのかな? 埼玉苗字辞典
http://homepage1.nifty.com/joichi/2-6si.html
島 シマ 斯摩、志摩、司馬は島と記す。
日本書紀・神功皇后摂政四十六年(応神天皇)条に「斯摩宿祢を卓淳国に遣す」と。
百済の卓淳(とくじゅん)は慶尚北道大邱の古名。
斯摩宿祢の使が百済王の肖古王(百済十三代、在位三四六〜三七五年)に献上する。
後漢帝は朝鮮楽浪郡の南に帯方郡置く。
古代氏族系譜集成・坂上氏系図に「後漢帝―石秋王延(封東呉石秋県、至帯方郡)―マ(帯方大守。弟楯は百済上柱国)―ム(帯方大守)―f(沂州司馬)―阿智使主照(応神天皇二十年投化、居大和国高市郡桧前村)。
鞍作村主等従ひ来る」と。
呉、司馬は百済国の内なり。クレ条参照。
坂上族は東漢直(やまとのあやのあたえ)、或は桧前忌寸(ひのくまのいみき)と総称され、同族百済人蘇我氏に軍事をもって臣従した。アヤ条参照。
扶桑略記・継体天皇六年に「大唐漢人案部村主司馬達止、此の年春二月入朝す」。
大唐(大加羅)の漢人(あやひと)は百済人、案部村主(くらづくりのすぐり)は鞍作の村長なり。
日本書紀・敏達天皇条に「鞍部村主司馬達等、其の女、島・善信尼と云ふ」。
司馬氏は島氏に同じ。
蘇我馬子(司馬宿祢、島大臣)―蝦夷―入鹿(鞍作)あり、蘇我族は島氏にて鞍作部の支配者なり。
扶桑略記・推古天皇元年に「蘇我大臣馬子宿祢、飛鳥の地に於て、法隆寺を建て、島大臣並百余人、皆百済服を著す」と見ゆ。
蘇我氏の本貫地大和国高市郡曽我庄(奈良県橿原市)の曽我川は別名百済川と称す。
当地方は島岡、島田氏等が多い。
東国に於いて、島崎、島田、島根、島野、島村等の百済渡来人島族は武蔵国に多く存す。
島田、島野条参照。出雲国に渡来した島族は伊勢国・志摩国(三重県)へ移住す。
神武天皇東征の頃に伊勢津彦あり。
志摩国は島津国と称し、国造本紀に「島津国造。成務天皇朝、出雲臣の祖・佐比禰足尼の孫出雲笠夜命を国造に定め賜ふ」。
「武刺国造の祖神・伊勢都彦命」と見ゆ。
出雲臣族の武蔵国造の祖先は伊勢地方より島族を率いて武蔵国へ移住す。
足立郡島村(大宮市)は島津郷と称す。
津は人や物の集まる所の意味で島族の集落を島津、島ノと称す。 小名島は、埼玉郡道口蛭田村、市野割村、久米原村、百間領須賀村、広田村、杓子木村、足立郡沖之上村、比企郡越畑村、幡羅郡間々田村、葛和田村、西別府村等にあり。
各市町村に存す。
新潟県栃尾市五十戸、見附市三十七戸、福島県相馬郡小高町二十戸、相馬市五十七戸、原町市三十戸、郡山市四十戸、岩手県花巻市三十三戸、青森県西津軽郡深浦町十七戸あり。
・
・
島谷 シマタニ 各市町村に存す。島根県松江市十五戸あり。
嶋谷 シマタニ 川口、志木等に存す。
嶌谷 シマタニ 浦和に存す。
・
・
島谷 シマヤ 各市町村に存す。長野県埴科郡戸倉町十四戸、青森県上北郡野辺地町十七戸、西津軽郡柏村十戸あり。シマタニ参照。
嶋谷 シマヤ 与野、久喜、越谷、草加等に存す。
島屋 シマヤ 越谷に存す。
元伊勢外宮 比沼麻奈為神社 祠掌社家について
http://travel.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1395470649/
崇神天皇の時代の京丹後 元伊勢外宮 比沼麻奈為神社 祭神:豊受大神の島谷祠掌
雄略天皇の時代の天橋立 元伊勢 籠神社別宮 和貴宮神社 祭神:豊受大神の島谷神主
崇神天皇の時代の京丹後 大宮売神社 祭神:豊受大神の島谷宮司
豊受大神とは、=国常立命=神道最高位神で創造主の天之御中主命とも聞きますね。 古川C治委員長講演
http://www1.kcn.ne.jp/~kawamura/ipro/90a3/90a329.html
惟 神 の 大 道 (かむながらのおおみち) 十一月・秋季大祭 一月号・269号
惟神の大道(四魂具足の道)は、顕幽一貫けんゆういっかん(現界から、霊界に貫かれて不動の人生)の道であります。
初めに伊邪那岐命が、原人として魂を与えた島族(日本の第一先住民族)を産み、次に須佐之男命とその代々の御子神たち七代が、この一魂の島族を二魂の先住民族として同化された。
次にこの第二先住民族を、さらに大国主命系十代の神々により、三魂の第三先住民族へと同化されて、天孫降臨となります。
国譲りを経て、四魂を具えた邇々芸命系の神(氏之祖ノ神)が四魂の大和民族に同化せられ、我々が受け継いで敬神崇祖を実践し、四魂具足の行にぎょう 努め絶対道徳 (惟神の大道) を践み行く民族になるのです。
心に四魂を満ち充み みたす(常に四魂具足を思う)ことであり、自身に真心を確立するよう努めることです。 このスレにはバカしかいないんだから、
バカが斜め読みで一目で理解できるように書かないと賛同は得られないぞw >>39
>中国の史書でも習俗が倭の記述と一致する・・・・・・・・・・・
長江下流域の何という国の習俗が、倭のそれと一致すると記されてあるの? >>220
物部氏の祖は、通説と異りアメノヒボコとスサノヲなのか?
大国主、素盞嗚、天照
http://www.d4.dion.ne.jp/~arai-n/test230.htm 安曇・海部・尾張・渡会氏が、徐福秦氏=出雲族だそうで、先住の神門氏は、天皇家と出雲族連合との勢力争いに呑まれ・取り込まれ出雲族に組み込まれた・・。
出雲国譲りを正当化の為に出雲族系譜の神門氏という系譜は、デタラメで、正しくは・・
大国主命と多紀理姫命との子神、阿遅須枳高日子命の裔が神門氏、神門の語源は、阿遅須枳高日子命が先祖代々から受け継いで身に着けていた、神度剣由来だそうだ。
※神度剣=大量剣は、十束剣(とつかのつるぎ)は日本神話に登場する剣。「十握剣」「十拳剣」「十掬剣」など様々に表記される伊耶那岐命の天之尾羽張剣(伊都之尾羽張剣)=天羽々斬剣。
大国主の時代では、布都御魂剣と呼ばれた。
石上神宮には、配神を両刃の伊耶那岐命の天羽々斬剣と主祭神として、片刃の布都御魂剣の2刀を祀っている。
建御雷神から神武天皇へ受け継がれた十掬剣が石上神宮主祭神の布都御魂剣で
阿遅須枳高日子命から神門氏、日本武=出雲振根=神門振根に受け継がれた神度剣が、石上神宮配神の両刃の天羽々斬剣と思われる。
西暦700年まで出雲大社以前の杵築大社の司祭が神門氏の子筋、島津国造家、島直氏の島族で、東海道に広がった島族が武蔵・千葉国造家の親筋。
山陽道に広がった神門島族をルーツにする島谷氏は、出雲族の拠点であった、播磨国(神戸市に掛かる)を発祥とし
元伊勢の比沼麻奈為神社・天の橋立 元伊勢 籠神社別宮 和貴宮神社・京丹後 大宮売神社宮司は、京丹後周辺の9社を兼任。 秦氏ってのが好きだなw
お前らなにか呪われているんじゃないのか? 246
神社関係ができたの700年代以降だろ
つまり桓武天皇以降だってことだ
六孫王経基も桓武天皇から数えて六代目ってこと 隋書では、筑紫のあとで
東の秦王国に行くとある。
秦(ハタ)といえば八幡、
八幡神社総本社の宇佐神宮じゃなかろうか。 八幡の元ネタは半島で編纂されたらしき八萬胎蔵教からどうみても
それが日本に伝わり八幡という言葉が使われるようになったんだろ どっちゃにしろ起源は900年代後半から1000年代初頭にかけての頃だろ 251
秦王国か?
秦姓を名乗った氏族が住んで勢力を持っていたのは越前だ
他にも各地に氏族が住んでいたみたいだがな その末裔に連なる武将たちだって調べればでてくるぞ
加賀の一向一揆で没落した冨樫氏なんかもその末裔だ 秦氏
歴史
日本へ渡ると初め豊前国に入り拠点とし、その後は中央政権へ進出していった。
大和国のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡
(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)、
摂津国豊嶋郡など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。
アメノヒボコ(天之日矛、天日槍)説話のある地域は秦氏の居住地域と一致するという
平野邦雄の指摘もある[17]。難波津の西成・東成郡には秦氏、三宅氏、吉氏など
新羅系の渡来人が多く住み、百済郡には百済系の渡来人が住んだ[18]。
八幡神社もこれらの過程でひろまったのだろう。
その後源平合戦などさまざまな事跡の影響も大きいと思われる。 >>185
桜井市のトミ神社近く大字外山818には、高市皇子が勧請したとされる
宗像神社も鎮座しておりますね。「外山」の読みは、「トビヤマ」?「トミヤマ」?
富山の地名由来を追う 2011/12/17
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/30874372.html >>258
富家による出雲臣(神門臣家)の系譜の伝承 - 神々の黄昏 - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/16408628.html
富家による出雲臣(神門臣家)の系譜の伝承
古代氏族系譜集成に掲載される系譜である以下は、
http://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/archive/2012/6/17
出雲国造家の穂日家に伝承を奪われた系譜であり、神門臣家の人を穂日家の系譜に
つなぎ合わせたものであった。
富家の伝承では、伊勢津彦命は神門臣家の人であった。
国引神八束水臣津野命
┃
赤衾伊努大住日子佐別命(妻:水戸神女天甕津日売命)
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
八千矛 伊怒比売(伊努比売命、香用比売命
┃ 此命御合於大歳神生向日神聖神也)
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
伊佐我命(又、櫛八玉命 出雲国出雲郡伊佐我神社是也 出雲建子命(又、櫛玉命、伊勢津彦命居
┃ 天孫降臨時為膳夫献天御饗供奉 ) 伊勢度逢縣伊波例天皇御宇遷住東国 )
┃ 注:伊佐我命の櫛八玉と出雲建子命の櫛玉というほぼ同じ名称から、同一神である
┃ 可能性も指摘される。出雲建子という名は前後の系譜から浮いた
┃ 名称でありその可能性は高いと思われる。
都我利命(又、津狡命出雲国出雲郡都我利社是也)
富家による出雲臣(神門臣家)の系譜の伝承A - 神々の黄昏 - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/16560282.html
神門臣家の系譜は、八束水臣津野命以前も含めると、
クナト大神−八島篠−布葉之文字巧為(ふはのもじくぬす)−八束水臣津野
−赤衾伊努意保須美比古佐倭気−八千矛┬伊佐我(伊佐波)
├阿遅須枳高日子
└高照光姫
となっている。 >>260の続き
翁とクナトノ大神:虚 空 に 花 降 り:So-netブログ
能舞台に封印された花の記憶
http://nami-no-kai.blog.so-net.ne.jp/2013-04-06
クナト大神は出雲井神社(出雲富家の祖神)の祭神であり、久那斗(クナト)神社と神社名に名を遺すのは、岩手県北上市和賀町に一社あるのみである。
別名、岐(フナト)の神、幸の神、寒の神、八街(ヤチマタ)の神、道祖神、道陸神。
道々の輩の神である。
「我々の大先祖はクナトの大首長だが、もう一つの女首長にアラハバキがあり、体制側によってこれが抹殺されようとした時、クナトは地蔵に、アラハバキは弁財天への変身した。」出雲富家伝承
クナト神もアラハバキも旅をして回る神である。
「霊亀2年(716年)熊野のクナトノ大神が杵築に移り出雲大社となった」出雲富家伝承
クナトの神(祖神)→大国主・事白主→三輪氏・鴨氏
天火明(祖神)→海部氏(籠神社宮司)・尾張氏
ニギハヤヒ(祖神)→物部氏
ニニギ(祖神)→天孫族
クナト大神=国乃常立神(国土形成の唯一根源神・大元尊神)
日本書紀では 国常立神(国土形成の唯一根源神・大元尊神)
宿神とは、国つ神が特定の地域の地主神となる以前、日本列島を人々が自由に移動していた時代、
天つ神・国つ神以前の世界の神と考える。
だそうです。 島族は、神門氏で、祖が・・
岐(フナト)神、別名、クナト大神=国乃常立神−八島篠−布葉之文字巧為−八束水臣津野−赤衾伊努意保須美比古佐倭気−八千矛┬伊佐我(伊佐波)
├阿遅須枳高日子
└高照光姫
※伊佐我=出雲建子=伊勢津彦=阿遅須枳高日子
↑
>>241 八束水臣津野命=シシ神・ダイダラボッチで熊野大社建立にまつわる神。
もののけ姫のアシタカのモデルが、阿遅須枳高日子命。
シシ神は、アシタカの父か祖父・・曾おじいさんだった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています