>>179
物部莫哥武連(物部施徳麻奇牟)、物部連奈率用歌多、物部奈率哥非、上部奈率物部烏
という人たちが欽明紀に見える

彼らは氏(物部)や姓(連)を倭の大王から賜っている一族に属しながら、
個人としては奈率・施徳といった百済の官位を持って百済王に仕えていた
おもに、百済が倭に対して外交交渉をするときの使者や、
倭と百済が共同で軍事活動するときの武将として活動している
倭の物部氏とのコネを百済王宮から期待されていたらしい

どうしてこういう人たちが生まれたかというと、この人たちの父親が倭から外交官や武将武人として朝鮮に派遣され、
現地の女性と結ばれることがあったから
欽明朝の一世代前の継体朝に、物部伊勢連父根(物部至至連)が軍事将軍として派遣されてたことが見える
また姓氏録の韓国連(物部氏の同族)の祖先伝承に、武烈朝に韓国に遣わされ復命したとき、
その活躍によって韓国氏の名を賜ったとある
韓国氏の始祖・物部塩古連公は続日本記では塩児と表記されるが、
先代旧事本紀では物部麁鹿火の従兄弟に位置づけられており、
だいたい武烈継体朝ころの人物と考えられていたらしい
あと竹斯物部莫奇委沙奇という兵士も欽明紀にはいるね

物部氏は大豪族として政権の中枢にいたから、軍事・外交面での活躍も大きかったんだろう