物部氏はヤマト政権以前のヤマトの王
どこから来たのか分からない後の大王家を擁する諸国連合の一員となりヤマトの地の国譲りをした
ヤマト政権樹立に伴い連合各勢力の文化や様式を取り入れあるいは融合させた
物部氏はその中で祭祀(のちの古神道)という政(まつりごと)の主要部分を職掌する地位に就いた
祭祀王はもちろん大王であるが祭祀は物部式である

後代諸国連合のヤマト政権からヤマト王権という国家の体を成すに連れて祭祀は政治に移り変わり政治でも物部氏は枢要の地位を保っていた
連合ではなく国家となったことで元諸国勢力は一臣下となり国家の命令で動かなければならなくなった
となるとこの国家権力の掌握を狙って権力闘争が激化していく

元々仏教は物部氏が持ち込んだものだった
だが祭祀がまだ大きな影響力を持つ中で仏教を新たな祭祀法として目を付けたのは蘇我氏だった
祭祀を仏教にすることで祭祀≒政治から物部氏の権力を引き剥がし蘇我氏が取って代わろう図った
こうして崇仏派蘇我氏と廃仏派物部氏という構図になった

部曲や部民で構成されているヤマト王権は氏族集団がそのまま公的機関として機能していた
ゆえに権力闘争に敗れた物部氏は氏族全体がヤマト王権から排斥されることとなり歴史の表舞台から消え去った

更に後年渡来系の中臣氏は氏族集団を主体とするヤマト王権では権力を拡大することは難しかった
ゆえに大陸式の律令という官僚制を導入することで古来からの氏族集団を排斥する手法を採った
これが王権の限界と上手く合致して律令を主導した中臣氏つまり藤原氏は巧妙に藤原一強の官僚制を敷いた
対外的にも国家組織を確立しこれより大和朝廷となる