物部氏とは何者??
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とても簡単な稼ぐことができるホームページ 念のためにのせておきます 検索してみよう『立木のボボトイテテレ』 30I >>502 ->>504 なんだか迫力ありますね、出雲の伝承ですよね? 欽明朝から天智・天武朝あたりまではどういう伝承になってるのかも是非聞きたいです! 伊加賀色許雄命は、伊加賀色許賣命の「弟」で、『日本書紀』や『新撰姓氏録』では「物部氏」の祖神とされている。 『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。 日本一社 延喜式式内社 阿波國麻殖郡 伊加賀志(いかがし)神社 鎮座地 徳島県吉野川市川島町桑村字大明神1635 御祭神 伊加賀志許賣命(いかがしこめのみこと) 伊加賀色許雄命(いかがしこおのみこと) またもや、日本で唯一、徳島県にしか存在しない延喜式式内社である。 『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。 また、日本書紀によると伊加賀色両神の母(『先代旧事本紀』によれば“父”) とされる大綜杵命(饒速日命5世孫)も、隣町鴨島町の「御所神社」に祀られている。 このような人間関係から一般的には、伊加賀色許雄命から更に遡って饒速日命までを「物部氏の祖」とし、 物部なのだから、みな河内(そもそも“河内”は阿波の一般的な地名)の人間であると単純に考える人が多い。 しかし、 @ 「イカガシ」の名を冠し、「イカガシコメノミコト」を御祭神とする式内社が、全国で阿波国麻植郡のみに存在すること A 伊加賀志神社は朝廷から「大明神」の称号を送られていること B 母神もまた同地(忌部の本拠地である)麻植郡に祀られていること C 『阿波両国神社録』(1430)に当社が忌部神社8摂社のひとつに挙げられていること などから、伊加賀色許賣命は阿波忌部の女性である可能性が高いと考えられる。 同じく祭祀を司る物部氏との関係は、同族分派の可能性が非常に高い。 @阿波 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 天孫本紀には物部多遅麻の子には印葉という子がおり、その弟に伊与という人がいるとしています。 でも日本の苗字7000傑にある物部氏系図には伊与の名がなく代わりに阿佐利という人がいて、風早氏祖と書かれています。 伊予国には風早国造が居たそうですが、物部伊与=物部阿佐利という理解で良いのでしょうか? >>528 >伊予国には風早国造が居たそうですが、物部伊与=物部阿佐利という理解で良いのでしょうか? 「忌部はん」が全国に散っていったんだから、無きにしも非ず。 後世の氏姓の大元は渡来系以外はすべて「忌部はん」 @阿波 >>531 君は高貴な存在だよ。家来になりたいよ。 京都の五塚原古墳 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E5%A2%B3 「古墳時代最初期の3世紀中葉-後半頃の築造と推定される[3]。 向日丘陵の首長墓群では最古になる[4]。墳丘の「斜路状平坦面」は箸墓古墳(奈良県桜井市、一説に卑弥呼の墓)と共通する古い形式であるほか、 前方部の形状は東田大塚古墳(奈良県桜井市、箸墓古墳と同時期か)と一致する[8][3]。」 被葬者は誰であろうか。ごく普通に考えて山代国造、山代県主の類であろう。 ならば候補者がいる。 先代旧事本紀・巻第五「天孫本紀」に出てくる山代県主の祖・長溝(ながみぞ)である。 崇神の叔父である伊香色雄命の義理父にあたる。 同じく箸墓との関連が言われる大阪・交野の森古墳群の雷塚古墳。 被葬者は誰であろうか。 候補者がいる。 天孫本紀に交野連と書かれてる多弁宿祢命(たべのすくね)である。 伊香色雄命の子である。 ここにきて箸墓と強く関連する二つの古墳の被葬者候補に伊香色雄命を軸とする二人の人物が浮かび上がってきた。 箸墓古墳とは伊香色雄命の墓ではないだろうか。 彼が磯城の王であったことは姉のイカガノシコメと「ヒメヒコ」を形成してることでも明らか。 そのイカガノシコメから産まれたのが崇神。 崇神墓を古事記の記述から行灯山古墳として、叔父で磯城の王であった伊香色雄命が崇神より巨大な墓を造ってたとしても不思議ではない。 このように先代旧事本紀は考古学と整合するのである。 >>536 >このように先代旧事本紀は考古学と整合するのである。 伊加賀色許雄命は、伊加賀色許賣命の「弟」で、『日本書紀』や『新撰姓氏録』では「物部氏」の祖神とされている。 『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。 日本一社 延喜式式内社 阿波國麻殖郡 伊加賀志(いかがし)神社 鎮座地 徳島県吉野川市川島町桑村字大明神1635 御祭神 伊加賀志許賣命(いかがしこめのみこと) 伊加賀色許雄命(いかがしこおのみこと) またもや、日本で唯一、徳島県にしか存在しない延喜式式内社である。 『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。 また、日本書紀によると伊加賀色両神の母(『先代旧事本紀』によれば“父”) とされる大綜杵命(饒速日命5世孫)も、隣町鴨島町の「御所神社」に祀られている。 このような人間関係から一般的には、伊加賀色許雄命から更に遡って饒速日命までを「物部氏の祖」とし、 物部なのだから、みな河内(そもそも“河内”は阿波の一般的な地名)の人間であると単純に考える人が多い。 しかし、 @ 「イカガシ」の名を冠し、「イカガシコメノミコト」を御祭神とする式内社が、全国で阿波国麻植郡のみに存在すること A 伊加賀志神社は朝廷から「大明神」の称号を送られていること B 母神もまた同地(忌部の本拠地である)麻植郡に祀られていること C 『阿波両国神社録』(1430)に当社が忌部神社8摂社のひとつに挙げられていること などから、伊加賀色許賣命は阿波忌部の女性である可能性が高いと考えられる。 同じく祭祀を司る物部氏との関係は、同族分派の可能性が非常に高い。 @阿波 伊加賀志(いかがし)神社 http://sueyasumas.exblog.jp/10039623/ 旧辞本紀は何でも物部の系譜にしちゃうから忌部も当然のように物部の一部みたいにしちゃってるのかもね。 >>538 >旧辞本紀は何でも物部の系譜にしちゃうから忌部も当然のように物部の一部みたいにしちゃってるのかもね。 そりゃ、真逆だよ。 ここでいう忌部一族とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。 忌部一族とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>19 >饒速日命(物部氏の祖)は天皇家より早く大和地方に進出してた >もう一つの天孫一族・・・・・・・・・・・ 天孫族饒速日を国津神大己貴の8世孫という系図『因幡國伊福部臣古志系圖』を 延暦3年(784年)に作成した伊福部臣富成は、そのようには見做していなかった。 8世紀後葉当時の因幡國では、饒速日は天孫族とは見做されていなかったと 云うことか? 「因幡国伊福部臣古志系図」 http://mononobe.webcrow.jp/siryou/ihukub.html 物部氏 とは 物部守屋は 秦河勝に くびをきられた 八尾太子堂に 墓?がある ニギヤハヒ 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 の 子孫 すなわち アマテラス 土地をとられ 命も 子供も ころされた かわいそうな 運命だ インカ といいマヤ といい 先住民はくちくされるのか? ただし 物部氏は 天高原から おりたった シュメールの人 だった アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p= 長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search ;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>541 天火明命=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と伝承する丹後籠神社の 主張と違い饒速日命は、ニニギの兄の天火明命と同一人物ではないと いう説ですね? 221日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:06:54.90 ・・・・新撰姓氏録でも、饒速日の後胤の物部氏は、天孫ではなく、ただの天神とされている。 天火明≠饒速日とされている。 神武・倭国の連合東遷説 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1535685239/221- ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . >>500 この物部氏の遠賀川から大和盆地東遷説ですか? 九州北部遠賀川(おんががわ)流域に比定されている不弥国にいた物部氏の一部が、同じ 九州北部の隣国「奴国」との軋轢の中、より広い耕地を求めての旅立ち・・・・・ 【もう一つの日本】物部氏1/4 もう一つの天孫降臨 2010-02-14 ttp://kojiyamanet.hateblo.jp/entry/2010/02/14/%25e3%2580%2590%25e3%2582%2582%25e3%2581%2586%25e4%25b8%2580%25e3%2581%25a4%25e3%2581%25ae%25e6%2597%25a5%25e6%259c%25ac%25e3%2580%2591%25e7%2589%25a9%25e9%2583%25a8%25e6%25b0%258f14%25e3%2580%2580%25e3 >>538 橘氏=楠氏も、物部氏後裔ですか? 838 :日本@名無史さん:2013/05/13(月) 16:00:13.93 >>837 物部って後の橘氏=楠氏だよね。 出雲国譲り・ニニギ降臨〜神武東征〜崇神治世★4 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1362647012/837-838 幼稚園の先生に物部さんと言う苗字の人がいたな。家も結構近くで古めかしい家だった。 日ユ同祖論をややこしくしているのは、丹後丹波とか伊勢志摩とかいう神道の総本山みたいなところが日ユ同祖論の総本山でもあり、物部の総本山でもあるところなんだと思う。 −倭国中枢(北部九州)…「魏志倭人伝」 邪馬台国VS狗奴国=曹魏vs孫呉の代理戦争勃発(「孫」呉は狗奴国後背地・宮崎へ「天孫降臨」で後方支援) →曹魏、帯方郡の張政を派遣→神武東征(敵前逃亡)狗奴国滅亡→邪馬台国勝利するも、台与で断絶→崇神の四道将軍に降伏、ヤマト王権の配下へ −辺境地域(本州/出雲・吉備・大和)…「古事記&日本書紀」 出雲(朝鮮半島から青銅・鉄?の輸入販売)&吉備(瀬戸内海の塩・桃販売)の混血王・大物主が、東海と共に唐古鍵を挟み撃ちにして征服、ヤマト王権樹立(纏向型前方後円墳) →饒速日(神武東征)→物部氏として臣下へ→崇神、四道将軍を派遣し、邪馬台国を併合、全国統一 物部、秦族、同じ穴のムジナ(キツネ?) 徐福さま、一度目に連れられ渡来(出雲王国/山陰地域)した秦国人二千人 の子孫たちが後の秦族 徐福さま。二度目に渡来した際に引率されてきた秦国人(童男童女、あらゆる職能技術者、徐福さまの身内親戚縁故者ほか)三千人。 九州佐賀(吉野ヶ里)を本拠として拡散したのが物部。 物部は大国主連合を裏切って神武についた裏切り者だろ? >>22 逆に分解して別人ってしていかないと真相分からないのでは? 大和朝廷の統一前は普通に地域王国が乱立しているから、 各地の神や支配層を義兄弟にしたり同一人物にしたりでまとめていくわけで 「天照国照 彦天火明 櫛玉饒速日命」あった場合、 元々は全部別人ってことじゃないの? >>483 >息津鏡と辺津鏡 名前からして玄界灘の宗像の飛び地だったんだろうな >>492 >>499 前漢鏡は畿内から全く出ないらしいので、やっぱり籠神社周辺は九州倭国の飛び地だったのでは? >>563 天照国照 彦天火明 櫛玉饒速日命」 1人です。 徐福/徐市(フツ)が一度目に出雲王国(山陰地方)に渡来した際に自称したのが、「ホアカリ」 出雲王国の乗っ取りを謀ってクーデターを起こす(実行犯はホヒ、その息子のヒナドリ(出雲大社の国造家の祖!))も、 結局失敗して、出雲王国から捕縛、ソッコー殺害命令が出て居場所を失って 配下二千人や妻子を置き去りにして母国、秦国に逃げ帰りました。 二度目の渡来の際に自称したのが「ニギハヤヒ」 三千人を引き連れ有明海に入り、佐賀の吉野ヶ里に拠点を築き上げ定住。 彼らは後に国を建てて秦国人が建てた国!との自負から「筑秦国」を号したのが後に筑紫に変化したらしい。 彼らはいわゆる、物部族でしたから、物部王国と言って良いでしょう。 物部氏が日本中に九州の地名をばら撒いたせいで 九州内の出来事が本州で起きたかのように解釈できたり、背乗りできるようになったという認識で合っていますか 蘇我氏と争って物部本家が滅ぼされた時、物部守屋の本邸は難波にあったらしいから 物部氏は朝鮮からの渡来人の子孫だろう しかし日本古来の八百万の神を崇拝していたらしいから、渡来したのは、かなり昔だと思われ 物部氏が足踏み踏鞴の管理をしてたんだから 足踏み踏鞴が始まった時期だろうな 物部の系図をみると、伊香色雄命まではみんな出雲までの交易路の要衝の祭神の名前だよ。 それに、饒速日もあとから付けくわえた祖神であって、元々からの物部氏の祖神ではないな。 まあ、十千根あたりからじゃないの、実際の物部氏の人物としては。 饒速日は、四条畷の馬飼い女真族の神さんだろう。 その四条畷の長身の女真族の一派が登美の白庭台あたりへ進出し、長脛彦のあだ名で呼ばれたのじゃないの? 饒速日は、物部氏がのちになってから取り込んだ神さんということだよ。 しかし、物部氏は天理にやってきたときにはすでに大王のもとで鉄器生産する鍛冶集団だったのだから、 それ以前にはそこそこの鍛冶集団だったはず。 どこから来たのかという点が焦点。 しかも、物部氏は倭鍛冶であるとみたほうがいいだろう。 韓鍛冶は南河内の橿原市の大県で活躍していた。 >>575 訂正 南河内の橿原市の→南河内の柏原市の >>575 倭鍛冶の神には天目一箇神がいる。 この神の妻は宗像女神とされる。 さらに、この神は天御影神と同一とされる。 天御影神は近江の御上神社の祭神だ。 とすると、天目一箇神系の倭鍛冶は宗像から近江につながるラインで鉄素材を受けていた可能性がある。 倭鍛冶の物部氏はこの宗像ラインで鉄素材を入手する鍛冶集団だった可能性が出て来る。 宗像氏が半島との交易に乗り出すのは5世紀頃からで、沖ノ島祭祀が国家祭祀となった時期に当たる。 そして、宗像氏と秦氏とは強いつながりがあるようだ。 宗像から近江につながるその街道の途中に秦氏が陣取っていることは、倭鍛冶集団にとっては鉄素材の入手に関して秦氏と関係ができることは自然なことであろう。 物部氏が大和に入るまえには、秦氏とも関係があった可能性はあるだろう。 当時としては、秦氏は民間の大財閥だったのだから、当然といえば当然であろう。 古代の巨大宗教団体の長ってところが、一番本質だと思うわ。 物部氏は「八十物部」と呼ばれる古代第一の大姓だけど、 後世の鈴木さんの例とかでわかるように、宗教絡みだと全国に広がりやすい。 大伴氏も蘇我氏も全国に広がってないのに、物部氏だけ広がるのは、 物部氏の本質が宗教団体だったからだと考えるしかないと思うわ。 5世紀後半頃に各地にいた鍛冶集団が天理の物部氏を中核として統合したのが、大族としての物部氏だろう。 全国に物部氏が散在しているのも、そうした統合があったことを示していいるのではないか。 その統合の時代は雄略天皇の頃だろう。 この時期に武器武具の製作が画一化したことと符号する。 また、職能集団はそれぞれが独自に祭儀様式を保持していて、鍛冶集団も独自の祭儀様式でつながっていた可能性はある。 >>490 奈良時代じゃ、さすがに飛鳥時代の物部氏の立場とは関係ねーわ。 /\ / ⌒ \ / (山口県) \ / \  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ___________ //TTTTTTTTTTTTTTTTTT\ /:::::/TTTTTTTTTTTTTTTTTTTTT\ /:::::::::/TTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTT\ /:::::::::::::/TTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTT\ /:::::::::::::::::/TTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTT\ /____/_____________________\ 物部神社に行ってきた 良かった 観光地化していなくて趣があった >>573 >十千根あたりからじゃないの、実際の物部氏・・・・・ 『紀』の垂仁朝に記される饒速日七世孫の 物部十千根or止智尼(トチネ)が実在人物とおっしゃる根拠は何なの? >>583 良かったと言われるのは観光地化していなくて 閑散としていたのがですか? 行かれた物部神社は名古屋市のですか?大田市のですか? 物部氏のルーツは福岡県の遠賀川流域だろう。 その流域に鞍手町新北(にぎた)と言う地名がある。 名前の類似性からニニギとニギハヤヒは新北出身のような気がする。 集団ストーカーってどうやら警察がやってるみたいなんですけど関係有るんですかね 牛へんがついてるから牛に関わる一族なんだろうけど 食べる派なんだろうか 牛を食べない宗教を否定して蘇我と揉めたのか? |`゙'''ー==============ー'''゙| . ゝl!i!li!lil!li!lil!il!ili!lil!i!li!lil!il!ili!イ ,.r''"=|_|^|_|_|__|_|_|_|_|_|_|_|_|_|_|^|='、,, __,.r''"=/^|^|^|^|^|^|^|^|^|^|^|^|^|^|^|^|^|=゙''-、__. ..`、エ@=@=@=@=@=@=@=@=@=@=@=@=@エr''´ ヽ::_丿 ヽ::_丿 ヽ::_丿 ヽ::_丿 ヽ::_丿 ヽ::_丿 ..|::::[_]::::[_].┏━━━━┓:[_]::::[_]::::| ..|:.┌──┐┃.門 恩 迎.┃┌──┐.:| .o__________ .ヽ└──┘┗━━━━┛└──┘./ / 属 国 清 大 / |:::::::::::::/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ:::::::::::| .||〜〜┐. ./ 旗 国 麗 高 / |::::::::::::| .|:::::::::::| .|| 歓 | ./ /// ̄ ̄\\\ / |__:| . |__:| .|| 迎 | ./ / / ̄`| / | ::::| .. | ::::| .|| 宗 | ./ |\_/ / / | ::::| .. | ::::| .|| 主 | / \\\__/// / | ::::| ニダー、今年も貢物. | ::::| ..|| 国 | / / | ::::| 少ないアルよ | ::::| || 様 | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ,,,r,,,.,,,:,:,|,,,、 ∧∧ ,,L,,,,,:,:,::|,, ||〜〜┘/ ..| :::::| /支\ |' :::`| .|| / `゙"゙',,¨゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙ ̄ ( `ハ´) '"`゙`゙゙゙゙ミ`゙゙゙゙゙゙゙、゙゙`""゙ ∧,,_∧ ( ))) ) ∧,,_∧ ヒェー、宗主国様お許しを… 、,.,,<♯`Д´> | | | <`Д´♯>,,.,、 (,⌒) |lll|lll|l )) (__)_) (( l|lll|lll| (⌒,). ..⊂、`ヽ⊃ >⊃ ..と< とノレ ∨ ∨ ∨ ∨ Σ ガンガンガガガン… ハゲチョンは黙っとけ ∧___∧ / / / / ⊂( ・∀・) 、,Jし // パン (几と ノ ) て.彡⌒ ミ //'|ヽソ 彡 Y⌒Y< ´;ω;`> /ノ / | \ 彡 l r Y i| ヽ/、/ヽ/ ヽ/ U> |:_|j (⌒⌒) ファビョ━ l|l l|l ━ン!!!!!. ∧_,,∧ ⊂<# `Д´> まともな思考なんかできたら / ノ∪ 朝鮮人なんてやってないニダ!!!! し―-J |l| | 人ペシッ!! __ \ \  ̄ ̄ 石切さんと枚岡さん、春日さんと石上さん、 鹿島さんと香取さん、この微妙な位置関係は偶然かな 中臣氏が出雲神族とは考えられないが 饒速日命と邇邇芸尊の双方の降臨に関与した可能性もまあ考えられなくはないのかな ニギハヤヒ、速玉の尊、ミカエル、なんとなく共通する気がする 三国時代の司馬懿・司馬昭か公孫淵(文懿)が物部氏のルーツの可能性はあると思う。卑弥呼とも年代が一致するし。ただ老荘と並行して仏教が流行ったけど 物部のトーテムは鹿。サカ族。 百済、扶余とは同族。 藤原氏のルーツとなった。 中世には蒼き狼=柔然、突厥系トゥルクメンと混血。ジンギスカンを生み出し世界を席巻した。 トーテムからのみの想像力。 物部っつー事はアレだ、今で言う倉庫番だ 大して偉かねえな >>598 だが、サカ族は蘇我氏かもしれない。 仏教を広めているし、サカとソガの音が似ているから 物部が苗字のやつは後世の人 物部はたくさんいたから職業みたいなもん 先祖が物部のうちは中世に物部〇〇って〇〇が苗字となり今に至る >>588 アマテラスの孫とされるニニギが福岡県鞍手郡鞍手町新北(にぎた)出身 のような気がする?論拠が神名と地名が似ているからだと? ニニギが高天原から降臨したクシフルタケに相応する地形の地が新北には あるのか?高天原に相応する地は新北近辺の何処なのか? >>565 >二度目の渡来の際に自称したのが「ニギハヤヒ」 >三千人を引き連れ有明海に入り、佐賀の吉野ヶ里に拠点を築き・・・・・ 母国秦国から1度目は山陰地方に渡来し2度目は有明海北辺に渡来したと? 母国秦国というのは現在のどの地域にあったという説なの? 渡海して来たなら引き連れた3000人は一体何隻の船団に分乗して渡来したとの考えか? >>565 >>605 類似説が下示スレにもみられるがスサノヲ=ホアカリ=ニギハヤヒとは妄説炸裂やな? 194日本@名無史さん2022/02/02(水) 16:29:39.20 ・・・・・徐市とスサノオだけは、二度日本に来ている。 一度目は和名、ホアカリ、出雲の五十猛海岸辺りに到着 二度目は和名ニギハヤヒを名乗り、九州に。出雲の分家の宗像家と組んだ・・・・・ 欠史八代とは何だったのか? 其2 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1551800369/194- >>606 日本語が不自由な論破王?w 今日も香ばしく発狂してるなw 九州以外の地域の人には徐福はアレルギーあるから流石にそこまでわたしは書いてない >>2 基本、非公開でしょ 本は持ってるけどさ 守屋の娘だか何だかの神社 氏の始まりは「部」だよ。日本と同じ「部」の集まりを持ってたのが鮮卑。 >>606 >>514 下記サイト主の開陳説だと大物主=ニギハヤヒだそうな なお徐市>>606 とは通常は徐福と記される伝説上の人物 物部氏之事 饒昇 2013年元日 ttps://joushou.jimdofree.COM/ ほとんど廃スレだから書いても無駄だろうが…。 九世紀末、関東八洲を股に掛けて暴れ回った「僦馬の党」、その一党を率いた「東国賊首」。 彼とその党類こそは正に武士の魁であったと目されている。 彼の名は、物部氏永。 彼は古代ヤマトに権勢を極めた物部氏と何か関わりある者だったのか。 然りとすれば如何な曲折の末にヤマトの名族が関東へ流れたのか。 素人なりにかなり調べてもみたが何も材料は無い。 今もし幸いにして識者のこれを見るあらば御教示を乞う。 しかしその頃には記紀が広く知れ渡っていますが… 藤原氏の祖・中臣氏が関東・鹿嶋から西進したこととの関係性はありますか? 諏訪地方を陰で支配したモリヤ一族は物部守屋の子孫説。 今の当主は女性で独身。 >>614 八十物部といって源平のように腐るほどいる。関東に流れても全く不思議はない。 >>614 >然りとすれば如何な曲折の末にヤマトの名族が関東へ流れたのか。 いわゆる、関東忌部だ。 「仮称忌部一族(阿波勢力)」の一派、忌部氏(斎部)は、物部氏の衰退(丁未の乱)後、 残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。 @阿波 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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