物部氏とは何者??
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>>71
中国と日本の平均顔の違いはあまりないんだな
中国人はもっと丸顔のイメージだったけど 元々、縄文人はクメール系の民族ではなかったかというせつもあるから、縄文色の強い東北は、濃い顔が多いのもうなづけるな。
ちなみに、津軽弁と薩摩弁は共通性が多いらしい。 >>74
ねーよwww
津軽弁は東北の中では特殊で古代大和言葉が残っている
東北弁は出雲弁とそっくり >>76
越ってベトナムの事だけど
弥生人が越人なんだよ
ただ呉人も来てこれも弥生人
2500年前ごろこいつらがどっと日本に来た
半島にも来たけど日本の方が住みやすかったようで日本が多い
日本の習慣も中国南部と近い >>58
フィリピン人は目は大きくても鼻が低く色が浅黒い >>77
だから越系渡来人があ東北に
呉系渡来人は中国地方へ
エベンキツングースっ系渡来人が畿内へ
関東人はスーパーさいや系渡来人
てことだろ 呉は熊本あたりだろう。
正しい系図の保証はないが、松野連系図は後の姫氏で始まるぞ。
普通に考えたら、紀元前500年頃に呉が越により滅ぼされるだろ。
その時に離散した呉の稲作民が列島に入ってくるだろ。
それまでは、日本には縄文人がいただけで、稲作は殆ど行われていない。
そうすると、呉や山東半島、朝鮮半島に最も近いところから稲作が始まるわけよ。
この呉の渡来人と縄文人の混血が最初の弥生人で、どんどん稲作が普及し、九州一円、本州などに広がると。
次に越が紀元前2世紀に滅亡し、また離散し、一部が日本へ。
この時、既に日本で稲作が普及してたから、越人は未開の地へ。
そこが北陸の越さ。それから、北陸は粛慎が結構入ってきているからな。佐渡なんか非常に多い。 まあ海人族(モーケン族)と山祇族(セノイ族)の混血だろうな。 >>85、86
なるほど要は満州系の総称みたいな感じですね
これは畿内に多いというエベンキツングースとは違うんですか? 655年、北の蝦夷99人、東の蝦夷95人、百済の調使150人に饗応。
658年、4月、阿倍比羅夫が軍船180艘を率いて蝦夷に遠征。
降伏した蝦夷の恩荷を渟代(能代)、津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応した。
7月、蝦夷二百余が朝献した。常よりも厚く饗応し、位階を授け、物を与えた。
11月、この年、越の国守の阿倍引田臣比羅夫が粛慎を討ち、生羆二つ・羆皮七十枚を献上した。
659年、3月、阿倍比羅夫に蝦夷国を討たせた。
阿倍比羅夫は一つの場所に飽田(秋田)・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、
津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を集めて饗応し、禄を与えた。
660年、3月、阿倍比羅夫に粛慎を討たせた。
比羅夫は大河のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められ、粛慎を幣賄弁島まで追って、戦い破った。
5月、阿倍引田臣が夷50人余りを献じた。石上池で粛慎47人を饗応した。
粛慎は挹婁・勿吉と国号を改め、7世紀初期には靺鞨と名を変え、高句麗や突厥に服属し、
後に渤海を建国した南の粟末靺鞨と、後の女真となる北の黒水靺鞨に二分されている。
724年頃に建立された奥州多賀城の石碑に「西に靺鞨国」との文字がみえるが、『日本書紀』編纂時には粛慎の改号を知らなかったようだ。
612年、隋の煬帝は高句麗に遠征し、高句麗に服従していた靺鞨粟末部の大部分を帰順させ、現在の朝陽市に移住させた。
隋に帰順しなかった靺鞨粟末部の残余は、高句麗側で抵抗を続け、668年に唐が高句麗を滅ぼした後、朝陽市に強制移住させられている。
従って、日本書紀に登場する粛慎とは、高句麗と共闘していた粟末靺鞨ではなく、アムール川中流域の黒水靺鞨のことになるが、
中国の史籍には、黒水靺鞨は「東夷最強」とあり、当時の倭国水軍が敵うような相手ではない。
『日本書紀』では阿倍比羅夫が何度も「饗応」しているが、敵を饗応するのは和議が成立した場合で、実際は討伐ではなく、
蝦夷や中国大陸の部族と交易をした記録を歪曲したとも考えられるが、この時期の倭国は風雲急を告げる国際情勢にあり、
東北に水軍を派遣するような余裕があったとは思えない。 勿吉
5世紀頃から史書に現れるツングース族。
挹婁の故地の松嫩平原東辺〜沿海州南部に住して北魏・東魏に頻繁に朝貢し、周辺諸族を冦掠して「東夷最強」と称され、494年に夫餘を滅ぼした。
『魏書』には挹婁の裔とあり、言語は「独異」として近隣諸種との違いが指摘され、隋の頃より靺鞨と記されるようになった。 『満族』天山網
滿族本稱滿洲、屬東胡的一支、發祥于白山K水之間、其族源可上溯至周代的肅慎、漢代為挹婁、地北朝埋藏為勿吉、隋、唐時期為靺鞨、五代、宋、遼、金、元朝時期為女真。
満族、本は満洲と称した。東胡の一支族に属し、白山とK水の間で発祥した。
族の起源は周代の粛慎に遡り、漢代には挹婁、南北朝時代には勿吉に埋没し、隋唐の時代には靺鞨となり、五代十国・宋・遼・金・元の時代には女真となる。
悠久の歴史を有する民族だが、穢系部族(扶余・高句麗・濊貊・沃沮)に比べ、生活基盤を定住農耕に転換するのが遅く、
ツングース族本来の狩猟生活を継続していたことで、国家体制の整備構築が大幅に遅れたようだ。
勿吉國、在高句麗北、舊肅慎國也。邑落各自有長、不相總一。其人勁悍、於東夷最強。言語獨異。常輕豆莫婁等國、諸國亦患之。
勿吉国、高句麗の北に在り、昔の粛慎国である。邑落には各自に長がおり、相互の統一はされていない。
その族人は頑強にして東夷で最強。言語は特異。常に豆莫婁(扶余の後裔)などの国を軽んじ、諸国はこれを患としている。
南北朝の時代に至っても国家体制ができていない。匈奴や蒙古のようにカリスマ的な英雄が登場しなければ部族間の統一が不可能だったのだろう。
豆莫婁とは扶余の後裔が建国したのだが、挹婁時代に扶余から受けた屈辱の恨みを晴らしているかに思える。
この時期、高句麗の最盛期にあたるが、勿吉が東夷で最強ということは、高句麗をしても勿吉に対抗できなかったのだろう。
西に中原諸国、北に勿吉がいたのでは、高句麗は勢力を朝鮮半島に向けるしかしなかったことになる。 煬帝初、與高麗戰、頻敗其衆。渠帥突地稽率其部降、拜右光祿大夫、居之柳城。與邊人來往、ス中國風俗、請被冠帶、帝嘉之、賜以錦綺而褒寵之。
及遼東之役、突地稽率其徒以從、毎有戰功、賞賜甚厚。十三年、從幸江都、尋放還柳城。李密遣兵邀之、僅而得免。至高陽、沒於王須拔。
未幾、遁歸羅藝。(十三年、從帝幸江都、尋放歸柳城。在塗遇李密之亂、密遣兵邀之、前後十餘戰、僅而得免。至高陽、復沒於王須抜。未幾、遁歸羅藝)。
煬帝の初め(604年)、高麗と戦うが、その軍勢は幾度も敗戦。
渠帥の突地稽が自分の部(粟末部)を率いて降り、右光祿大夫の官位を授かり、柳城(遼寧省朝陽市)に居住した。
辺境の人々が往来し、中国の風俗を悦び、冠を被り、帯を巻くことを請う、皇帝はこれを嘉とし、錦織の着物を賜い、
これを褒めて寵した。遼東の役では突地稽はその一党を従えて、いつも戦功をあげ、甚だ手厚い賞賜を授かる。
十三年(616年)、帝の江都行幸に従い、柳城への帰路を探す。
途上で李密の乱に遭遇、密は兵を派遣してこれを求め、前後十余度戦い、僅かに免れた。
高陽に至り、王須抜もまた没した。程なくして羅藝に逃げ帰る。
この後は勿吉の名が消え、靺鞨に代わる。靺鞨とは北方の方言で勿吉のこと、両者の音が同じだとされる。 東北弁と出雲弁と九州のうちの幾つかはよく似てると思う。
薩摩人は知らんが、長崎、宮崎は似てた。 西日本の(後に東日本も)水稲稲作の源流は、北九州の板付・遠賀川あたり
と言われてるよなあ。高天原が北九州ってんなら、分かりやすいんだけどさ。
遠賀川式土器が広まった時の記憶が、スサノオと大国主命で、青銅が広まった時の
記憶がアメノホアカリとニニギでとかさ。
そんな単純じゃないんだよなあ。
だけど、どの一族も「どこかからやって来た」と言ってる。
まあ、先住民がいるんだけどね。
平定しにやって来てるから、遠賀川以降なのかなあ。 まだ北九州だのいってんのか
ほんとにどうあっても南洋航路を無視したいんだな
ほんといい加減しつこいぞ なにが平定だ馬鹿じゃねえのか?
そんなこと言ってるなら○してやろうか? 縄文後期から古墳時代まで色んなルートから
ちょこちょこ日本に移民してきたけど結局どの地域も主体は
縄文人の血統が多かったと思う。 >>71
日本人の平均顔とか言ってウチの母ちゃんの写真を勝手に使うな ____
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|:::::::::::|_|_|_|_|_| こう見えても
|_|_ノ∪ \,, ,,/ ヽ をれはイケてる男だよ。
|::( 6 ー─◎─◎ ) 財閥に近い血脈基準で
|ノ (∵∴∪( o o)∴) やりすてていい女子きめてっかんな。
| < ∵ 3 ∵>
/\ └ ___ ノ 女で心を満たそうとする人間はやった人数に比例した地獄を目撃する。←New!!!
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\\____) ヽ
東北大学大学院博士課程
吉川裕(29) 仙台在住 実在が確実視されてるのが麁鹿火
それ以前はあくまでも伝説 物部氏は今の北朝鮮付近から入ってきた北の氏族
皇別氏族だが基本独裁者 先代旧事本紀だと雄略の時代の大連は物部布都久留で、伝承に混乱があるんやで ニギハヤヒは祭神として祀っている神社も多いし、実在したんじゃないか? 『もののべ』が『もののふ』になったのでなく、もともと『もののふ』と呼んでたんじゃないの? 他の某部氏ときちんと比較してからどうぞ
ちなみに海部は音読みしただけだから新しい読み方 現代の訓読みでもなく音読みでもないのは日本の古語のなごりだろうな この場合、変わってくるのは苗字がウ行からア行への移行だね ふくは音読みだからね。
はっとりははたおり(機織り)の訛りだろう。 >>114
服部氏は
秦・波多から来ていると自称しているね。 近所に守屋さんがいて明治維新まで武士だったらしいんだけど先祖が守屋大連っていう人で本姓は物部氏なんだって そいつはモリヤという姓が先で、後から有名人の物部守屋に付会したんだよ
諏訪とかにもあるでしょ 物部の祖、尾張の祖の一族の娘が古い時代の妃に多いんだよな。 それぞれひとりづつじゃないの
伊香色謎と世襲足姫
後づけで県主系后妃を同族にしちゃう説もあるけど、それならそうと書かれるはずでしょ 物部の祖は一人かも知れんが、尾張・海部の祖の一族出身はいっぱいいるぞ。 * *
* + うそです
n ∧_∧ n
+ (ヨ(* ´∀`)E)
Y Y * www.h4.dion.ne.jp/~munyu/が移転して http://mononobe.digiweb.jp になったんでしょ 今年の物部守屋公墓前祭っていつですか
6月14日くらいかな? 物部氏こそ日本人。藤氏、高氏他は渡来系氏族に過ぎない。 伊勢・志摩国造家・武蔵国造家の人って、忌部氏なのか物部氏なのか千家系譜なのか良く分からない。
父系・母系で大国主命の出雲系譜なのは分かるのだけど・・ 皇室の万世一系が必ずしも確実ではないように、豪族たちにも盛衰があって国造の地位も入れ替わりがあるぞ はあ?平安時代の国造なんて出雲や紀伊で自称してるのがいたくらいだろ >>135
武蔵平氏・伊勢平氏系のそれぞれ何氏が、国造の地位にあったと
おっしゃるのですか? よく分からないから根拠の無いことでも好き勝手に言っていい、という考え方がトンデモを生むんだよ 下総に土着し9Cには足継、熊猪と二人も鎮守府将軍出してる物部匝瑳氏は
10Cの将門の乱の頃には全く名前出てこないね。
9Cで子孫が絶えてしまったのだろうか? 古代史はトンデモ説オンパレードでうんざりだよ。
>>132 新撰姓氏録をちゃんと読めや。
あれは、ちゃんと出自に関して、分類してある。 >>132
>物部氏こそ日本人・・・・・・・・・・・・・・・・
藤原氏は、その祖が物部氏の祖饒速日に随従河内の哮峰降臨?上陸した
部下天児屋根だから渡来人だが、同行した饒速日も同じ渡来人だぞ。
高階氏が渡来人というのは、長屋親王系以外の高階氏のことかね? 中臣鎌子は死んだあとに藤原姓を与えられてんだが?
事実、中臣姓のままの子孫もいるんだろ? 「降臨」は文字通り古代集団の信仰が生み、伝えた神話
あえて上陸だの渡来だのの意味に取らなくてもよい >>144
その藤原不比等が、>>132氏の云うように渡来人だと?
で、何処から渡来したと云われるの? 神道系にもいくつも派閥があるからその伝承を伝えてる人らを探すしかないだろうねえ 古代史料に基づいて議論すべきだ
現代の神道がどうこういうなキモい 国家神道ってとこで反発がおきてんだろw
神道自体は過去への道案内だから反発する理由が分からないけど >>145
中臣鎌足だろ
中臣鎌子って欽明天皇の時代に物部守屋と一緒に仏教反対してた別人だぞ
藤原朝臣を受けたのは鎌足が死ぬ直前だよ
文武天皇の代になってから藤原不比等が自分の子孫以外が藤原を名乗ることを禁じた >>152
落ち着いて皇極紀を見てみろ
「鎌子」表記になってるだろ
藤原朝臣誕生も、物部連→石上朝臣や物部首→布留宿祢、膳臣→高橋朝臣なんかの一連の改氏姓の時期からすると、
鎌足顕彰のために古くさかのぼらせた疑いはあるかもしれんが、根拠が無い以上、
鎌足が死ぬ直前ってことにしておくしかないね >>153
藤原不比等が若い頃は藤原史と名乗ってたみたいなもんだろ
死ぬ間際は鎌足だろ(藤家家伝他)
日本書紀天智天皇8年の記述
「庚申、天皇、遣東宮大皇弟於藤原內大臣家、授大織冠與大臣位、仍賜姓爲藤原氏。
自此以後、通曰藤原內大臣。辛酉、藤原內大臣薨」
あえて日本書紀記述を曲げてまで死後贈位にする意味がない
明確な根拠はないだろうに 古代、女性には名前がなかったし鎌子でもおかしくもなんともないが? 女性の名前を記すときは父親の名前のあとに女と入れて
何々の女(いらつめ)と記すはず じゃああの宅媛(物部木蓮子大連のむすめ)とかいう名前は何なんじゃい
あとsageないの? >>157
逆だよ
女に名前がなくなったのは平安時代以降
官位を貰う時につけるだけ
万葉集の女には名前がある
だけど古今和歌集になると女房名だったり(父の官職)女だったり
厳密に言えば平安時代以降男も名前を呼ばれなくなり
日記や和歌集には官職名で載る例が多い
>>158
・藤原与志古(鎌足妻・父は車持国子)
・蘇我娼子(不比等妻・父は蘇我連子)
父親の名前のあとに女なんて入れてないんだけど? 某足って名前、奈良時代の戸籍にもいっぱい出てくるけど、某子だと古くさい印象だったんだろうか 161
女性の場合は子は付かない
○女とつく、子がつくようになったのは後世 >>163
古代から女性の名前に子は付くよ。
「こ」の発音を子とかくか古とかくかの違いだけ。
古代の名前は女性名と男性名の区別が曖昧だった。
そのために子(古)のつく女性名のあとに「娘」を付けて区別したりはあったけどね。
「こ」のつく女性名
・車持与志古(よしこ)
・伊賀宅子(やかこ)
・忍海造色夫古(しきぶこ)
。葛城広子(ひろこ) そうか?
○○子(こ)って名前だっけ?
もともとは○○子(し)からの変換が始まりだったと
思うけども? >>165
○○子(し)っていうのは平安時代の女性名をなんて呼んだのか分からないから
後世の歴史家が便宜上音読みしているだけ
当時の人が実際にそう呼ぶんでたってことじゃない
ただし当時の日記を読むと
・藤原多子(まさるこ)
だったり、藤原安子にならって読みが同じ藤原泰子という名にしたという記述などから
(安子と泰子に共通する読みは訓読みの「やすこ」だろう)
実際には訓読みで子(こ)だった可能性は高い >>167
だから古代から現代まで女性の名が「○○こ」というのはポピュラーなんだよ
「こ」の読みに「子」の漢字を当てたのは平安時代以降
それ以前は当て字だった 天孫本紀だと、男性人名語尾のコは子じゃなくて古に統一されてるんだよね
物部阿遅古、物部石上贄古、物部恵佐古、物部老古、物部金古、物部塩古、物部竹古
物部麻伊古、物部牧古、物部目古、物部倭古
(◯◯ヒコは除く)
でも贄古は日本書紀だと贄子という表記になってる >>143
アフリカから渡来した人かも知れん
古墳時代は神話じゃ無い
神話になってるのはもっとずっと前だ ニギハヤヒなどの山上降臨型の神話って朝鮮半島に類例があるんだっけ?
比較神話学はこの板の住人は苦手そう
欽明紀前後に物部氏の半島での活躍が見られるから、
その手の文化を摂取したのも六世紀前半〜中頃かな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています