源頼朝、足利尊氏、徳川家康の中で最も重要なのは
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>>114
義仲が任官したのは「征夷大将軍」ではなく「征東大将軍」とする説が有力らしい 尾張のドン百姓に政治は無理だわなw
織豊時代(笑)は20年位だっけ?w
日本を統治したとは言えまへんw >>113
新田には運営ノウハウが無さそうだよね
100年くらい幕府中枢から弾かれてたんだろ 当時新田は朽ち果てた地方の源氏一門
兵を挙げるにも100騎くらいしかなかった
源氏嫡流の足利に対して家格も求心力を全く及ばなかったし
新田義貞自身も武将・政治家として評価は低いよね
ただ楠木や北畠と上手く共闘していれば時代は変わったかもしれない >新田
頼朝に嫌われたのがケチの付き始めだねぇ
源氏の名乗りを許されないわ、庶流に次々と独立されるわで踏んだり蹴ったり
途中合流した一族は、義貞が上野陥落させるまでは様子見してたんじゃなかろうか >>113 >>117
北条倒したのは新田だろ
尊氏は都にあって六波羅探題を攻めただけ
まさか、鎌倉攻めを指揮したのは当時4歳の千寿王
千寿王には4歳にして戦のノウハウがあったと? たかが4歳
されど4歳
昭和平成の4歳タラちゃんと比べちゃいけない
それだけ源氏棟梁足利家の嫡男が新田に付く影響は大なんだよ
事実、千寿王が加わったわずか数百騎の軍勢だった新田勢には、
上野・下野・上総・常陸・武蔵の関東各地の足利一族と
源氏一党が続々と集結を始め、その日の夕方には二十万騎に達したわけ >>117
代わりに修正したよ
三河の頼朝(女系優遇、三河の藤姓熱田大宮司家優遇)が搗き、三河の尊氏(源頼朝と三河の藤姓熱田大宮司家との縁故で三河守護になれた足利氏)が捏ねし、天下餅、座ったままで食うは三河の家康とやら >>121
に十万騎とか本気で信じてるのか?
全国統一の秀吉の小田原征伐ですらに十万なのに、
本気であの時代に関東だけでに十万集めたとでも思ってるのか?
関東の覇者後北条ですら三万レベルなのに、なんだって?
もう一回いってくれや人数を! そう興奮するなモチつけw
誰もあの時代に二十万騎きっちり揃うわけねーじゃんw
太平記や難太平記や鎌倉の北条方も古文書などに記述はあるが
当時の今川始め、書いた本人達も盛りに盛った数字くらい
理解していたはずw
けど千住王が加わっって新田の軍勢が以上に膨れ上がったのは事実って
ことだ やっぱこういうの聞くと源氏の正体はファンタジー国家からの渡来人じゃないかと疑ってしまうよ、、
実際疑惑はいっぱいあるしさ
盛りにもってよくて二千強を二十万とオオホラつくところはもう皆さんお馴染みの渡来人レベルにだ 戦国は云うに及ばず源氏も平家も似たり寄ったり
その凝縮系が家康三河・三河厨土人ってことだなw 渡来人とやらにどんだけ夢みてるんだ?
日本はもとより物部系の国ですがなあ|( ̄3 ̄)| まあありえるとしたら天皇関係でやたら天神地祇って言葉がでてくるからそれ関係の渡来してきたやつらはいるかもな
半島あたりが過去は先進地帯だのってのは幻想だからあきらめろ 日本人なんか元を糺せばみな渡来人だしww
日本列島で人類が発祥したとでも思ってんの?w >>127物部こそ得たいの知れない渡来系ですがな? 三河の頼朝(女系優遇、三河の藤姓熱田大宮司家優遇)が搗き
三河の尊氏(源頼朝と三河の藤姓熱田大宮司家との縁故で三河守護になれた足利氏)が捏ねし
天下餅
座ったままで食うは三河の家康とやら >>131
そこまで女系優遇だったのならば源氏三代がほろんだら当然に
藤姓熱田大宮司家から次の将軍が迎えられるべきだったのに。
源頼朝じゃなくて三河頼朝、三河尊氏なんでしょ。
藤姓熱田大宮司家って、鎌倉幕府や室町幕府内で
将軍の出身氏族としてどんな役職についていたの? >>109
悪りぃ三河が抜けたワw
近江尾張の頼朝が搗き
相模下野の尊氏が捏ねし
天下餅
座ったままで食うは得体知れずの三河山賊の家康とやら
その家康の捏造糞を貪り食うは三河厨の岡崎土人とやら 坊門姫は、三河の藤姓熱田大宮司家の血を引いとるがな
役職についていないのに、何故か優遇されていれば、特別な関係、優遇されていると言えるわな 火病ってる三河バカは全く学習能力ないな
尾張の熱田神宮の初代藤姓熱田大宮司藤原季範から代々
尾張熱田で生まれ熱田の地で亡くなった
宮司職として本貫も氏寺も藤原季範の代から尾張に変更してから平成の現代に至るまで
尾張になっている
三河は熱田大宮司職とは全く関係ない
三河に土着した親父も季範の大宮司職とは全く関係ない
つまり初代「藤姓」熱田大宮司は尾張なんだよ
三河藤姓熱田大宮司家は妄想の家で現実は存在しない
あえて史実に忠実に書くなら
尾張藤姓熱田大宮司
マスカキ・クズレスばっかで三河の恥をこれ以上晒すなよw
現実を観ろwww >尾張熱田で生まれ熱田の地で亡くなった
室町期以降の話だろw
頼朝同母
・坊門姫
・希義
土佐吉良氏
希義→希望(吉良八郎希望)
土佐吉良氏の歴史を記した『吉良物語』を見ると、希義は平田俊遠の弟三郎経遠の女のもとに通い、希義が討たれたあとに女は男子を生んだという。
これを希義に心を寄せていた夜須七郎が聞き付けて、頼朝の高聴に達した。頼朝はこれをにわかに信じなかったが、のちに希義の子と認め、土佐郡吾川郡のうちに数千貫の土地を与えた。
さらに、三河吉良庄に馬の飼場三百余貫を賜り、吉良八郎希望を名乗った。そして、吾川郡大野荘に吉良峯城を築城し、土佐吉良氏の始めとなったである。
史実かどうかはさておき、頼朝は何でも三河なんだなw 源頼朝関連史跡
尾張
・頼朝が生まれた産湯(頼朝は名古屋でうまれたぎゃ〜)
三河
■三河七御堂(西尾市、豊橋市、蒲郡市、豊川市、新城市)
源平合戦で死んだ将兵を弔うため発願し、文治〜建久年間に安達藤九郎盛長(三河国小野田荘地頭、のちに三河守護)に命じて造らせた
東三河に集中しているのは、盛長の出自が東三河(現在の豊橋市石巻小野田町)だったからと推測する
一覧
【西尾市】光福寺/現在の金蓮寺、弥陀堂【豊橋市】赤岩寺/弥陀堂、普門寺/観音堂【蒲郡市】長泉寺/弥陀堂、安達藤九郎盛長の墓あり、全福寺/現在は廃寺、丹野御堂【豊川市】財賀寺/観音堂【新城市】鳳来寺/弥陀堂
■滝山寺(岡崎市)
母方の一族である藤姓熱田大宮司家氏寺、伽藍造営、源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた等身大の聖観音像あり
北条政子13回忌に、足利義氏(3代目足利宗家)が源実朝、北条政子の遺骨を分骨
■その他
【岡崎市】
・光明寺/堂宇を再建
・夏山八幡宮/梶原景時を名代にして参拝、社領寄進
【豊田市】
・平勝寺/元の名は大悲密院(南北朝時代に平勝親王が改名)、寺領寄進
・二井寺(普賢院)/寺領寄進
・猿投神社/藤姓熱田大宮司一族氏神、大社に改築 【知立市】
・牛田八幡社/頼朝の目代(大江氏か?)が鶴岡八幡宮を勧請
【西尾市】
・瀬門神社/1195年に源頼朝が社殿を再建
【豊橋市】
・普門寺/堂舎再興、寺領寄進、化積上人(叔父、藤姓熱田大宮司一族か?)が学頭、頼朝等身と伝わる不動王あり
・吉田神社/社殿は安達藤九郎盛長が造営、天王社勧請
・鞍掛神社/愛馬の鞍を奉納
【豊川市】
・財賀寺/本堂・仁王門再建、寺領寄進
・宮道天神社/安達盛長に代参を命じ、京からの帰路、鞍馬装束を奉納
・八幡宮/寺領(1000町歩)寄進
【蒲郡市】
・八劒神社/社殿は建久元年(1190年)、頼朝の命により安達藤九郎盛長(三河国小野田荘地頭、のちに三河守護)が造営
【新城市】
・鳳来寺/再興、三重塔造営、寺領寄進
・今水寺/寺領寄進 >>135
初代藤姓熱田大宮司藤原季範の誕生からだから平安末期だな >>120
当時幕府軍の主力は西国の謀反軍を鎮圧するため京周辺に集結していた
鎌倉は京周辺にいた幕府軍の主力が壊滅した段階で既に死に体だった
だから六波羅探題を陥した足利が鎌倉を陥した新田よりも評価された なぜ源頼朝と足利氏は、尾張を無視するのか?
三河の熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) ←乗っ取られる(笑)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む なぜ尾張は無視されるのか?元祖名古屋飛ばし(笑)
鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、愛知県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、愛知県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、愛知県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、愛知県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、愛知県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) >>134
坊門姫は頼朝の妹で親父は頼朝と同じ
正統な源氏の血筋だろw
父系で頼朝と同じ源氏の血を引かないにもかかわらず
母系の藤姓熱田大宮司のみの血の力で頼朝に重用されないと
頼朝の母系重視・藤姓熱田大宮司重視とは言えない
坊門姫は熱田大宮司を継いだわけでなし母方の藤原姓を名乗ったこともない
父系重視で重用されたとしかいえん なぜ尾張は無視されるのか?親戚の一人もいないだぎゃ〜
これではただの、頼朝が生まれたと主張する頭の悪い田舎者だぎゃ〜
頼朝の従兄弟
■行快:鳥居禅尼の息、22代熊野別当、三河国蒲形荘、竹谷荘地頭
・源義親→源為義→鳥居禅尼→行快
■鳥居忠氏:鳥居禅尼の息、鳥居氏の祖、承久の変後、三河国額田郡渡に移り住む
・源義親→源為義→鳥居禅尼→鳥居忠氏
鵜殿氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/udono_k.html
吾妻鏡 元暦二年(1185)二月
元暦二年(1185)二月小十九日癸酉。今日は、南御堂の地鎮祭です。頼朝様〔香を焚き染めた水干を着て、月毛の馬に乗られ〕その場所へ参られました。
南御堂建立の谷戸の南の山麓に、仮設小屋を作り、御臺所(政子)も一緒に入りました。今日の儀式を見るためです。午後四時ごろには、建築技術者に褒美を与えました。
褒美に馬を引き出しました。
その後、熊野神社領地の三河国竹谷(蒲郡市竹谷町)蒲形(蒲郡市御幸町)の両方の荘園の事を、裁決なされました。これ等の荘園の本来は、開発した領主の散位俊成が熊野神社に寄付したので
、熊野別当(長官)の湛快がこれを領有して、娘に譲渡しました。その娘は最初は行快僧都の妻でしたが、その後前薩摩守忠度朝臣と再婚しました。
忠度は一ノ谷合戰で討たれてしまい、平家没官領として朝廷が召し上げて、後白河法皇から頼朝様が戴いた土地です。それだもんで、開発領主の俊成の娘は、先の夫の行快に泣きついて云うには、
「さっさと事情を関東に泣きついて、その両方の荘園を与えて貰って下さい。もし、そうなれば、先々行快の子供〔彼女が生んだ〕に譲渡するから。」
そこで、この話を了解して、行快僧都は熊野から使い〔僧の栄増〕を鎌倉へよこして申し上げて来ていることなのです。行快と云うのは、行範の息子で、頼朝様の祖父の廷尉禪門〔爲義〕の外孫に当たります。
源氏の親戚なので、縁は他人とは一緒に出来ないので、元々大事にしようと思っていたので、この窮状訴えがあったので、是非も無く命令を出しました。
信仰心も厚いのでなおさらだとさ。 >>136
>役職についていないのに、何故か優遇されていれば、特別な関係、優遇されていると言えるわな
>室町期以降の話だろw
>史実かどうかはさておき、頼朝は何でも三河なんだなw
三河バカにかかったら
父系も母系も室町時代も平安時代も史実も時代考証も関係なしってことか >>144
お前の大好きな頼朝の女系熱田大宮司を出してきてやったぞw
古代豪族尾張氏ー尾張員職ー女ー藤原季範ー由良ー源頼朝
頼朝は古代豪族尾張氏の血を引いてるんだね。
三河人の血は引いてない。
熱田神宮の有る場所=尾張
熱田神宮に近い尾張誓願寺は熱田大宮司の自宅があった場所で、頼朝生誕の地の碑が建つ。 >>146
国名が、他国の地名の他国人由来は尾張だけ
大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て、国名が尾張になる
名古屋は一切関係無し
ダサいダサ過ぎるw
頼朝の名古屋飛ばしが無慈悲過ぎるw ごめん傍からすまんが、仮に移住してきたとしても、
尾張国の人であることには間違いないんでないの?少くとも三河とは全く関係ないし。 頼朝に関しては、自分に近い源氏は粛正、母方、乳母関係者優遇は常識だろ
頭の悪いレスばかりしやがって、万年パシリの尾張猿め >>148
尾張に住んだ事すらないw熱田神宮の社領を守り切れず、三河の実力者にすがりついたはいいが、大宮司職を乗っ取られたw
尾張國造家は、単なる外戚の藤原南家に「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われるも、神宮寺の愛染院(真言系)とスクラムを組んで対抗し、
藤原季範を締め上げた。季範の息子の代には、館を社僧に取り囲まれて外に出ることもできなくなり、頼朝に泣きつき、頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる
>「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われる(笑)
>頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる(笑)
三河(源頼朝、三河の藤姓熱田大宮司一族、天台宗系神宮寺)vs尾張(尾張氏(田島氏、馬場氏)、宗徒、真言宗系神宮寺) 303 :名無しさん@京都板じゃないよ:2012/03/23(金) 09:35:38.83
尾張國造家は、単なる外戚の藤原南家に「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われるも、神宮寺の愛染院(真言系)とスクラムを組んで対抗し、
藤原季範を締め上げた。季範の息子の代には、館を社僧に取り囲まれて外に出ることもできなくなり、頼朝に泣きつき、頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる
>「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われる(笑)
三河(源頼朝、三河の藤姓熱田大宮司一族、天台宗系神宮寺)vs尾張(尾張氏(田島氏、馬場氏)、宗徒、真言宗系神宮寺)
当時、殺伐とした内部対立があった中、源頼朝が尾張で生まれるわけないだろうw
頭の悪い田舎者、名古屋人のセンズリねたじゃねーつーのw >>135
納得
三河バカが叫んでいる
頼朝・尊氏の根幹が藤姓熱田大宮司家なら
尾張が頼朝・尊氏の根幹ってことになるじゃん
尾張サゲのカスレス連発で必死だけど
自分で自分の首を絞めているってことくらい気づけよw 三河厨土人は妄想ファンタジー史しか語らないなあ
お前はなに人だ?w >>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん
頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない
>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw
ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。 >藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間
またお前はまちがえているなw
この間も間違えていたいただろう、低能め
こいつは同姓同名、後白河院とは年代がちがうだろw
藤原季兼
平安末期の管絃に堪能な殿上人。父方の祖父敦家,父敦兼,母方祖父顕季と名だたる管絃堪能者が居並ぶ家系に生まれる。
『尊卑分脈』に「正四下備後守」と注される季兼が,にわかに殿上を許されたのは崇徳天皇の御遊の際であった(『今鏡』)。
『古今著聞集』には,保元3(1158)年の復活内宴でひちりきを奏した話(巻3)や鳥羽院の八幡御幸で神楽庭火の本歌をとなえた話(巻6)などが載っている。
『梁塵秘抄口伝集』には「資賢,季兼など語らひ寄せてもきゝ」と親王時代の後白河天皇の今様先達のひとりでもあったことが記されている。
時系列さえ掴めていない、馬鹿丸出しの田舎猿め えーか低能、生没年は1044-1101年
馬鹿向けにわかり易くまとめておいた、これさえ理解できない、クルクルパーめ
三河の熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) ←乗っ取られる(笑)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む >>158
お前の言う三河人第一号・藤原実範の前の家系図は?
馬鹿なの? >>158
>藤原実範
この前を何故書かない?
藤原実範の父藤原能通はキ生まれ都育ちの貴族。
で、その息子がいきなり三河人???
血統主義で一度でも女系で三河人の血が入れば
その子孫は永遠に三河人だと言い切るお前が
なんで都人の息子を三河人だというんだ? >尾張が頼朝・尊氏の根幹ってことになるじゃん
だったら足利王国は尾張にできていたはずだろw
現実は、尾張は要らないとばかりの尾張無視w なぜ尾張は無視されるのか?元祖名古屋飛ばし(笑)
鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、愛知県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、愛知県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、愛知県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、愛知県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、愛知県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) なぜ尾張は無視されるのか?元祖名古屋飛ばし(笑)
室町幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、愛知県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)←初代・渋川義顕は、同母兄の足利家氏と共に滝山寺(愛知県岡崎市)で出家(板倉右衛門入道)
【八代将軍足利義政時代】
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、愛知県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)←初代渋川義顕は、同母兄の足利家氏と共に滝山寺(愛知県岡崎市)で出家(板倉右衛門入道)
■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)
・高氏(三河国額田郡菅生、愛知県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、愛知県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、愛知県岡崎市)
管領
・細川氏(三河国額田郡細川、愛知県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、愛知県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ
■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、愛知県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(愛知県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、愛知県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(愛知県岡崎市・豊田市)で活動 頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん
頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない
>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw
ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。 頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw
156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん
頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない
>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw
ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。 >>161
足利は下野国足利庄に発祥し、
承久の乱後に三河の地に来た外様。
どこまで馬鹿なの? >藤原実範
この前を何故書かない?
藤原実範の父藤原能通はキ生まれ都育ちの貴族。
で、その息子がいきなり三河人???
血統主義で一度でも女系で三河人の血が入れば
その子孫は永遠に三河人だと言い切るお前が
なんで都人の息子を三河人だというんだ? クルクルパーはこれだからw親戚がいっぱいの縁故地でしたがw
D藤原季範
・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)→Eへ
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))→Fへ
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→Gへ
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
E藤原範忠
・藤原忠季(大宮司、刑部丞、蔵人所雑色)→藤原忠兼(備中守、大宮司)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏、大宮司)
・野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(大宮司、室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺)
・任暁(仁和寺)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護) >尾張が頼朝・尊氏の根幹ってことになるじゃん
後醍醐天皇追悼の一大イベント
天龍寺供養参列者
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/tenryuji.html
当然、三河だらけですが、尾張は一切ありませんなw
いやいたか?w尾張だぎゃ〜と主張する、三河守の千秋三河守惟範(三河国設楽郡千秋)さんがw 三河バカが爆走しているお陰で
なぜ幕府の開祖は人気がないのか スレと
区別がつかない件についてe 頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw
156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん
頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない
>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw
ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。 滝山寺の嘘縁起のコピペ繰り返して暴れてたのは
三河馬鹿だったかw 頼朝や家康が尊氏みたいに兄弟2頭政治をやったらどうなっていたんだろうね
室町幕府と鎌倉公方みたいな2大拠点をやってたらどうなっていたんだろうね >>173
駿府で大御所やってる時は、実質的に江戸と駿府の2拠点になってたけど
江戸幕府初期は江戸と伏見が活動拠点だったし 足利歴代将軍の木像の中で
尊氏が一番優しげな貌しているな。 頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw
156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん
頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない
>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw
ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
やってんだよねじゃねーよw万年パシリの猿 >>174
江戸と駿府を未来も継続しようと思わなかったはず
一般的な史実は承知の上で
改めて、
京都ではなく
頼朝は京都ではなく
鎌倉に家康は何故に幕府を開いた
のかが不思議なんだよね 範頼を追加しておいたよ
■源頼朝・足利義兼(2代目足利当主)と三河の藤姓熱田大宮司家
家祖:藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))
☆源頼朝、★足利義兼
藤原実範
・藤原成季
・藤原季綱(三河国司)→@へ
・藤原季重
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→Cへ
・藤原行綱
・興義
・実慶
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)
@藤原季綱
・藤原友実→Aへ
・藤原実兼→藤原通憲(信西)
・藤原悦子(鳥羽天皇乳母)
・他多数
A藤原友実
・藤原能兼→藤原範季(後白河院近臣、順徳天皇の外祖父、源範頼養父)→Bへ
・女子→源頼政(上西門院に出仕、伊豆守、源三位)
・他多数 B藤原範季
・源範頼(養子、三河守)→源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧)→吉見氏
・藤原範時(八条院蔵人)
・藤原範茂(子孫は高倉家(羽林家))
・藤原重子(修明門院、順徳天皇母)→順徳天皇
・藤原範光(養子(実父は藤原範兼)、後鳥羽院近臣)
:藤原範子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母、土御門天皇外祖母)→源在子→土御門天皇
・藤原兼子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母)
・他多数
C藤原季兼
・藤原季範(蔵人所雑色、初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→Dへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(九条院蔵人、玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当、初代二階堂氏)
D藤原季範
・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)→Eへ
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))→Fへ
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→Gへ
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護) E藤原範忠
・藤原忠季(大宮司、刑部丞、蔵人所雑色)→藤原忠兼(備中守、大宮司)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏、大宮司)
・野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(大宮司、室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺)
・任暁(仁和寺)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
F藤原範信
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
・藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))→藤原範俊(左馬助、大学助、源実朝近習)
・藤原信綱(駿河守、尾張国海東郡地頭)
・藤原信雅(高松院蔵人)
・藤原憲行
・藤原実豪(延暦寺権僧正)
G藤原範雅
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司、藤原範忠に養子入り)
・藤原範経(大宮司) >>154
それでも猿のマスカキを止められない三河バカ
よっぽど尾張の藤姓熱田大宮司家と熱田神宮と尾張が大好きなんだな 頼朝はオナニーネタだみゃ〜
頼朝は名古屋生まれだみゃ〜か?w で、結局は武家も滅んで今じゃ一般市民ですよ
彼等にとって何のための800年だったのか・・・ 歴史古い順
上町台地(大阪市)
神武天皇(初代天皇)の生国魂神社(大阪市)紀元前700年 (日本列島の神そのものを祀る神社)
神功皇后の住吉大社(大阪市)
日本仏教初の官寺は聖徳太子(日本仏教の祖)の四天王寺(大阪市)後に奈良の法隆寺
難波高津宮 難波京(大阪市)(仁徳天皇などの皇居)(日本初の首都)大化の改新(天皇制の始まり)はここで行われそれは大化元年〜平成26年の今も続いている
難波津 住吉津 渡辺津(国際港湾都市(街))(物流の一大拠点経済の中心)商人が増え出す 商業都市として栄える(大阪市)石山本願寺(浄土真宗本山)(大阪市)跡地に大阪城(難波津や渡辺津が船場となり商工業が更に発展)
大阪市(難波宮、難波京)
奈良市(平城宮、平城京)
京都市(平安宮、平安京)
江戸(東の京、東京)
江戸城を築いたのは大阪の源氏
東京へはまだ遷都されていない為現在でも首都は東京じゃない wikiだが
藤原範季
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%AF%84%E5%AD%A3
>どのような伝を辿ったのか不明だが、平治元年(1159年)の平治の乱で没落した源義朝の子・範頼を引き取って
>後白河法皇の指示か奥州藤原氏との縁によるものか不明だが、源義経を庇護し
わからなければ、三河の藤姓熱田大宮司家を調べろつーの、間抜けめ
恐らく二人の援護者は藤原範忠(頼朝母の兄)
三河守になれた範頼は言うまでもないが、三河守護所があった明大寺の由来は義経創建と言われる妙大寺
これが三河ネットワーク
http://blog.livedoor.jp/ttmsh/archives/7065229.html 必死にwikiまで
晒して都合が良いとこだけ拝借・捏造して
人間として恥かしくないのかねw ホント恥ずかしい行き恥さらしのカスだなぁこいつはw
同じ人間であることが恥ずかしい 難太平記 足利歴代について
(義兼は)頼朝右大将の側近となられたが、なお世にはばかって狂人のふりをされてその代は無為に過ごされた
大げさと思ったが、当時、三河の藤姓熱田大宮司家が緩やかに分裂していたとしたら、範頼がやられたことで義兼がびびった気持ちもわからないではない
中立グループ
・藤原範忠(由良御前の兄、義兼の実の祖父)
・藤原範季(範頼の養父)
・源義経(嫁は比企尼の次女の娘)
・源範頼(嫁は安達盛長と比企尼の長女の娘)
・足利義兼
親源氏グループ
・藤原範雅(由良御前の兄、義兼の実の祖父)
・藤原範経(藤原範雅の息子、1185年に頼朝の後押しで大宮司)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・源頼朝 源頼朝⇒鎌倉神君
足利尊氏⇒無し
徳川家康⇒東照神君
初代将軍の結論は
(*◎д◎)♂ これでハッキリしてる 【ネット署名を受付中】
「朝日新聞」社長と「河野洋平」氏の証人喚問要請
http://www60.atwiki.jp/team_japan/pages/30.html
〜 慰安婦問題は全てここから始まった。 〜 訂正
難太平記 足利歴代について
(義兼は)頼朝右大将の側近となられたが、なお世にはばかって狂人のふりをされてその代は無為に過ごされた
大げさと思ったが、当時、三河の藤姓熱田大宮司家が緩やかに分裂していたとしたら、範頼がやられたことで義兼がびびった気持ちもわからないではない
中立グループ
・藤原範忠(由良御前の兄、義兼の実の祖父)
・藤原範季(範頼の養父)
・源義経(元服に藤原範忠が立会い、嫁は比企尼の次女の娘)
・源範頼(幼少期は三河の藤姓熱田大宮司家が庇護、嫁は安達盛長と比企尼の長女の娘)
・足利義兼(藤原範忠の実の孫)
親源氏グループ
・藤原範雅(由良御前の兄)
・藤原範経(藤原範雅の息子、1185年に頼朝の後押しで大宮司)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・源頼朝
_,,..--――--,,..
/::: ハゲ \
/:::" ヽ ←ジャムリン
,i :: ◞≍≍≖≍≍◟ ◞≍≍≖≍≍◟ i
`. `Y.. / ー-' ヽ '.
>イ ヽ ::.| ト‐=‐ァ' |: i ボクはジャムリンです♪
ノ∧ 丶、 ` `二´' }ィ´`フ
_人_ /N::::_:::::/::| ` r ' //:/: /‐く V
`Y´ /::::::://:::/:::::| >< /:::丁´:::::::::::::V゚}∩ * ボク、ジャムリンは
/::::nんh_::∧:::::}/八. ∨::::::」::::::::::〈ヽ.ノ///〉
. /:/| ! // 〉:::::>ヘ.ノ八 ソ::::{::::::::::::/:::} っ ウィキペディアに悪意に満ちた編集・加筆してます
//:::::::\__ノ〉::〈:::::::|/ ∧〉::::〉::::::::/::::∧ , ィ´
/:::::::::::::::::::::/::::::::\::! /:::::>'´::::::::/::::/:::い.ノ):〉 日本史板も荒らし回ってます
!:::::::::::::::::::/:::::::::::::::::ヾ厶イ:::::::::::::/:::/:::::::ヽノ:/
|::::::::::::::/ヽ:::::::::::::::<>:::::::::::::::::::/ |:::::::::::::::::::/ *
`ー七:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/ |:::::::::::::::::/
//:::::::::::::::::::::::<>::::::::::/::::/ ヽ:::::::::::/
/⌒〈:::::::::::::::::::::::::::::::::::イ::::::::/ `ー‐' * 鳴かぬなら殺してしまえ時鳥 頼朝
鳴かぬなら鳴かしてみよう時鳥 尊氏
鳴かぬなら鳴かないでいいです時鳥 家康 >>197
尊氏は
鳴かぬなら 鳴く時鳥に 替えましょう
では? 面白いスレだな
>>96
江戸幕府は「強い中央政府ありきの地方分権体制」だからな
各藩の自治を認めていた
大名に中央政治には関わらせないことにしたってあるけどそもそもが地方分権論者だったし家康
大名連中も自分の領地は自分で自治したいって連中だし
この「強い中央政府ありきの地方分権体制」がよかったんだと思う
中央集権と地方分権の融合の産物=江戸幕府
>91の維新後にスムーズに中央集権に移行できたのもこの体制のおかげかも
>室町が一番グダグタという点には異論はない
室町幕府は中央集権しすぎちゃった鎌倉幕府の反省ありきで成立した政権なんで(´;ω;`)
豊臣は組織を構築してから外征した方がよかったて今振り返ってみるとわかる
外征してる時間を政権作りにもっとまわしていればもうちょっと長く続いたかも
結局秀吉の死後に権力争いで豊臣政権が崩壊したし。ちゃんと正式に組織を作って役割分担しておけってことだな >>197
「鳴かぬなら・・・」って有名だけど、信長・秀吉・家康の実態をよく示してるとは思えないんだよね。
特に秀吉。「鳴かしてみしょう」とか、そんな良いもんじゃない。
むしろ↓こんな感じだと思う。
● ある日、森を歩いていたら、水辺を散歩している美しいお姫様に会いました。
信長は「明日から俺の側室になれ。ならぬなら殺す。明日、嫁入り道具一式と一緒に俺の屋敷に来い」
その日お姫様は逃げだして、行方不明になってしまいました。
秀吉は何を思ったかいきなり、その場でお姫様に飛びかかり、陵辱してしまいました。
次の日、哀れにもお姫様は自殺してしまいました。
家康は丁重にお姫様に向かってこう言いました。「もしよければ私と結婚してください」
数日後、盛大な婚儀が行われました。子孫は幸福に繁栄しましたとさ。 頼朝と尊氏って
どっち方がより多くの軍勢を率いたの? >>201
頼朝は屋敷に帰った後、配下に命じてお姫様の居館をつきとめ、兵を出してお姫様を連れてこさせました。
お姫様は頼朝の側室となりましたが、子を儲けることはありませんでした。
尊氏は「ボクと結婚してくれない?だめかな?」と言いました。お姫様に断られると、
その妹を連れてこさせて結婚しました。年端のいかない娘と戯れまくっている尊氏をみて、家臣はみな、
「殿はこんなょぅι"ょ好きだったとは・・・」とドン引きでした。 >>201
チンギス・ハンは何も言わず、無言で配下に合図をすると、その場でお姫様を拉致して
家に連れ帰りました。
ルイ15世は知らぬふりをして家に帰り、次の日臣下に命じてお姫様を拉致させ、
自分の邸宅の中の密園に住まわせました。
カエサルは何を思ったかいきなり、お姫様の目の前で
「見よ、私の美しき禿頭を!私は女のあなたにとって男であり、男のあなたにとって女である!」
といって、服を脱いで踊りはじめました。
お姫様はカエサルの妻となりましたが、夜な夜な奇妙な性癖になやまされる日々でした。 実朝は「ああ、あなたは美しい。どうか私のために、これを受け取ってください」と言って、お姫様に形見を渡しました。
次の日、実朝は惨殺された死体として発見されました。
義満はお姫様に「そなたは誰の娘かね?」と尋ねました。
次の日、お姫様は父親の命により義満の側室として輿入れさせられました。
家光はお姫様には目もくれず、傍らで遊んでいた少年を拉致して帰って行きました。 >>201
201は何か秀吉に恨みでもあるのかww
晩年はあれだが凌辱は幾らなんでもやらんと思うんだがな
でもホトトギスの鳴かせて見せようよりは確かに殺してしまえのほうかな秀吉は
>197の鳴かぬなら鳴かないでいいです時鳥は家康にあってるかもw個人的にツボったw
>198も鳴かぬなら 鳴く時鳥に 替えましょうは尊氏にあってる
鳴かぬなら殺してしまえ時鳥 頼朝
鳴かぬなら 鳴く時鳥に 替えましょう時鳥 尊氏
鳴かぬなら鳴かないでいいです時鳥 家康
各幕府初代将軍三人はこんな感じかな。これは広めたいw
個人的に頼朝も殺してしまえとも違うんだがいいのが思いつかない
あと秀吉はこれ 鳴かぬなら殺してしまえ時鳥
信長はどうしよう。鳴かぬなら鳴かしてみよう時鳥も違うしな >>200
徳川幕府のうまいところは
地方の藩に自治をやらせて、そのかわりに不手際があったら
その藩の藩主に責任とらせて改易することだな。
中央集権やりすぎると、怒りの矛先が中央政府に行くし
地方分権やりすぎると、中央政権の全国への統制力が崩壊するし。 うまいっつーか、幕府の成立過程からして、中央集権は無理。
地方分権しか有り得ないが、参勤交代などを進め最大限、擬似集権的にするより他に
選択肢はなかったはず。
結果として適度な分権がうまく機能したってのは事実だが、
それは徳川幕府が、与えられた状況の中で最大限良い体制を作ったってこと。
もし初めから中央集権なら中央集権で、良い体制もあり得るので、
概念として「適度な分権」が「完全な集権」よりも良い、って話じゃない。 江戸幕府はホントに運がいい。
ペリー来航まで外国からの侵略がなかったからね。
まあ秀吉が朝鮮出兵で日本侮りがたし!と宣教師が報告してたことが最大の理由だが。
しかし秀吉の中央集権全国支配体制なら外国からの侵略なんて怖くもないどころか、敵地に報復侵攻できるし、
南朝鮮をはじめ、沿岸地域に拠点を設けて大航海時代→重商主義→産業革命が始まってただろう。
それだけの蓄積が日本にはあった。
しかし家康は大名たちに媚びた土下座っぷりで天下を盗んでバカ幕府を作ったので幕府には力がなかったからペリー来たら呆気なく内乱へ向けて混迷。
関が原土下座外交の結果、
豊臣恩顧大名が20カ国で日本の1/3を支配。
伊達や毛利や上杉や毛利や佐竹など旧族外様大名達が1/3支配。
かろうじて徳川系大名は20カ国1/3支配したものの、
東海道など小国が多く面積レベルはかなり下回る劣弱な基盤しか徳川幕府にはない。
豊臣政権は立ち入り検地、太閤蔵入地設定、
与力大名による監視、
領地宛行において有力家臣の知行地や石高を指定し、
豊臣政権と有力家臣を結びつけ支配、
奉行による指南による内政干渉をしたり、
一国一円領有支配をできるだけ許さないなど、
秀吉は強力な全国支配体制を構築した。
しかし家康は立ち入り検地も蔵入地も大名家臣狙いの加増も廃止、
越後の溝口と村上の例外以外は与力大名廃止。
中小大名を移動させての一国一円支配の国持大名の増加による大名領有権の自立性の強化を背景に、
藩による分権自治を容認せざるを得なかったのが家康。
これは全て関が原で味方につけようと武断派に媚びた結果であり、
関が原が武断派によって勝利し、
西軍支持の北政所や淀とその意向で動いた女性たちも家康は処罰できず、
結果、武断派の奉ずる豊臣による論功行賞が行われ、
強欲武断派の要求を飲むハメになったからである。
幕府体制と呼ばずに幕藩体制と呼ばれる藩王による分割統治という弱体国を作ったのが家康。 >まあ秀吉が朝鮮出兵で日本侮りがたし!と宣教師が報告してたことが
ついでに言えば神社仏閣を破壊し耶蘇に改宗した日本人の女子を東南アジアに
売り捌いていた宣教師達を一網打尽にした報告も渡っているからね
信長じゃなくて良かったわ
信長だったなら今頃日本は中国共産党の一部 >>208
> 概念として「適度な分権」が「完全な集権」よりも良い、って話じゃない。
202だが、地方分権が中央集権より上とは思ってないよ
自分の書き方がわるかったかな?
>>209
秀吉は結局中央集権体制の組織は作ってないぞ
だから秀吉死後に権力争いになった
>しかし秀吉の中央集権全国支配体制なら外国からの侵略なんて怖くもないどころか、敵地に報復侵攻できるし
>南朝鮮をはじめ、沿岸地域に拠点を設けて大航海時代→重商主義→産業革命が始まってただろう。
>それだけの蓄積が日本にはあった。
なんかvipとかにいる典型的な秀吉マンセーだな
209のいうように関ヶ原の戦いで武断派による功績が大きかったからは間違いじゃない
208の徳川幕府は与えられた状況の中で最大限良い体制を作ったも事実
何もかもお思い通りに事が運ぶなんてことはあり得ないんだから
むしろその状況でどう上手く立ち回ることが政治には必要だろう
秀吉だって何もかも思い通りに事が運んだ訳じゃないし、そこをうまく対処して
権力を掌握していったんだろ。それは悪いことじゃないし、政治に悪も善もないだろ
>幕府体制と呼ばずに幕藩体制と呼ばれる藩王による分割統治という弱体国を作ったのが家康
弱体国じゃないだろ
あと藩王って何?藩主ならまだわかるんだが。インドの藩王国?それとも明治後の琉球王?
改めて言うけど幕藩体制も最初からこう呼ばれてた訳じゃない
藩は○○家中と呼ばれてた。藩主は当主だし
>210
>信長だったなら今頃日本は中国共産党の一部
意味が分からない >>210
>信長だったなら今頃日本は中国共産党の一部
家康でも同じだったかもな 信長は兵站戦略発想がないので、
ロジスティクス思考がない。
それを構想したのは武田や豊臣。
なので、織田軍では九州すら平定できない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています