なぜ尾張は無視されるのか?親戚の一人もいないだぎゃ〜
これではただの、頼朝が生まれたと主張する頭の悪い田舎者だぎゃ〜



頼朝の従兄弟

■行快:鳥居禅尼の息、22代熊野別当、三河国蒲形荘、竹谷荘地頭
・源義親→源為義→鳥居禅尼→行快

■鳥居忠氏:鳥居禅尼の息、鳥居氏の祖、承久の変後、三河国額田郡渡に移り住む
・源義親→源為義→鳥居禅尼→鳥居忠氏



鵜殿氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/udono_k.html


吾妻鏡 元暦二年(1185)二月

元暦二年(1185)二月小十九日癸酉。今日は、南御堂の地鎮祭です。頼朝様〔香を焚き染めた水干を着て、月毛の馬に乗られ〕その場所へ参られました。
南御堂建立の谷戸の南の山麓に、仮設小屋を作り、御臺所(政子)も一緒に入りました。今日の儀式を見るためです。午後四時ごろには、建築技術者に褒美を与えました。
褒美に馬を引き出しました。
その後、熊野神社領地の三河国竹谷(蒲郡市竹谷町)蒲形(蒲郡市御幸町)の両方の荘園の事を、裁決なされました。これ等の荘園の本来は、開発した領主の散位俊成が熊野神社に寄付したので
、熊野別当(長官)の湛快がこれを領有して、娘に譲渡しました。その娘は最初は行快僧都の妻でしたが、その後前薩摩守忠度朝臣と再婚しました。
忠度は一ノ谷合戰で討たれてしまい、平家没官領として朝廷が召し上げて、後白河法皇から頼朝様が戴いた土地です。それだもんで、開発領主の俊成の娘は、先の夫の行快に泣きついて云うには、
「さっさと事情を関東に泣きついて、その両方の荘園を与えて貰って下さい。もし、そうなれば、先々行快の子供〔彼女が生んだ〕に譲渡するから。」
そこで、この話を了解して、行快僧都は熊野から使い〔僧の栄増〕を鎌倉へよこして申し上げて来ていることなのです。行快と云うのは、行範の息子で、頼朝様の祖父の廷尉禪門〔爲義〕の外孫に当たります。
源氏の親戚なので、縁は他人とは一緒に出来ないので、元々大事にしようと思っていたので、この窮状訴えがあったので、是非も無く命令を出しました。
信仰心も厚いのでなおさらだとさ。