源頼朝、足利尊氏、徳川家康の中で最も重要なのは
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家康の弟達は、異父弟で徳川家の継承権がないから家康にとって恐れる存在ではない。
松平定勝あたりは結構有能だったらしいが。 文系は古文書を開き想像し
理系は急死の病状を検証するって
ことね 戦時中は足利尊氏って言っただけで非国民扱い
またそんな暗黒時代が来るかもね
教科書から削除されたり 頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw
156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん
頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない
>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw
ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
だよねじゃねーつーのw ネット版のホストみたいなの発見。
イケメンなら稼げるんだろうけど。
話が上手けりゃ稼げるかな。
誰かレポ頼む。
メンガでググると出てくる。 >>240
粘着必死だが
バ カ 丸 出 し だ ぞ
岡 崎 三 河 屋
>>1310年頃の足利荘担当の足利奉公人は高頼基(南右衛門入道)
ところで奉公人って何だ?w >>219
>後白河法皇
この時点でただの間違いとは言えんだろw
中学生以下w 平清盛という気も
まあ、それはギャグとしても、頼朝はある意味古代を終わらせてるよな。 清盛がつき、頼朝がこねし、天下餅をすわりしままに食うは北条 >>27
下野最強
徳川以外の頼朝と尊氏は毛野一族の末裔だしな >>250
頼朝は清和天皇の末裔(清和源氏)
足利も清和源氏の源義家の末裔
毛野一族とは姻族の血にはあるだろうが、末裔とは言わない。 その論法でいったら新田も上野だから毛野になるなw
新田後裔を称する徳川の毛野じゃねえか 失敬
>>252
×新田後裔を称する徳川の毛野じゃねえか
○新田後裔を称する徳川も毛野じゃねえか ただの万年パシリだろw
■日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝
母方の従兄弟
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
寛伝年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺(愛知県岡崎市)で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず紛紜、2ヶ月で三河国(愛知県岡崎市)に戻る
・菩提寺の滝山寺(愛知県岡崎市)僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌、滝山寺内に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
・1205年、死去する 実績のない田舎者は、都合よく夢想しがちだよなw こんな感じで現在も実績あるのか?
これが現在も堂々たる武士の国だ、よく見ろよ万年パシリの百姓共め
リーマンショック後の不交付団体
■平成 21年度 不交付団体の状況
http://www.soumu.go.jp/main_content/000032095.pdf
・全国の不交付団体 151市町村
・西三河の不交付団体 13市町村の内10市町村
豊田市、みよし市、岡崎市、安城市、刈谷市、高浜市、知立市、碧南市、西尾市、幸田町
■平成 22年度 不交付団体の状況
http://www.soumu.go.jp/main_content/000075077.pdf
・全国の不交付団体 74市町村
・西三河の不交付団体 13市町村の内7市町村
豊田市、みよし市、安城市、刈谷市、碧南市、西尾市、幸田町
■平成 23年度 不交付団体の状況
http://www.soumu.go.jp/main_content/000124636.pdf
・全国の不交付団体 58市町村
・西三河の不交付団体 10市町村(西尾市合併により3町減る)の内6市町村
豊田市、みよし市、安城市、刈谷市、碧南市、幸田町
■平成 24年度 不交付団体の状況
http://www.soumu.go.jp/main_content/000169057.pdf
・全国の不交付団体 54市町村
・西三河の不交付団体 10市町村の内6市町村
豊田市、みよし市、安城市、刈谷市、碧南市、幸田町
■平成 25年度 不交付団体の状況
http://www.soumu.go.jp/main_content/000240073.pdf
・全国の不交付団体 48市町村
・西三河の不交付団体 10市町村の内6市町村
豊田市、みよし市、安城市、刈谷市、碧南市、幸田町 これが現在も堂々たる武士の国だ、よく見ろよ万年パシリの百姓共め
平成22年度生活保護率(主要自治体)
5.30% 大阪市 141,026人
4.33% 函館市 12,187人
3.74% 東大阪市 18,892人、3.63% 旭川市 12,690人、3.37% 尼崎市 15,604人、3.31% 高知市 11,380人、3.28% 札幌市 62,531人
2.94% 京都市 43,118人、2.88% 神戸市 44,225人、2.74% 堺市 22,960人、2.65% 長崎市 11,762人、2.64% 青森市 7,962人、2.46% 福岡市 35,761人
2.26% 鹿児島市 13,700人、2.09% 北九州市 20,559人、2.06% 松山市 10,646人、2.04% 和歌山市 7,547人、2.03% 川崎市 28,571人、2.02% 広島市 23,633人
1.93% 奈良市 7,044人、1.75% 名古屋市 39,501人、1.75% 熊本市 12,792人、1.75% 宮崎市 6,970人、1.65% 横浜市 60,488人、1.62% 大分市 7,618人
1.62% 久留米市 4,914人、1.60% 千葉市 15,315人、1.59% 岡山市 11,195人、1.55% 福山市 7,162人、1.53% 盛岡市 4,571人、1.53% 下関市 4,313人
1.53% 秋田市 4,975人、1.52% 高松市 6,355人、1.44% 仙台市 14,883人、1.40% 船橋市 8,389人、1.39% 宇都宮市 7,065人、1.38% 西宮市 6,646人
1.36% 相模原市 9,710人、1.34% 倉敷市 6,355人、1.33% 高槻市 4,705人、1.28% 岐阜市 5,247人、1.28% いわき市 4,406人、1.24% 姫路市 6,641人
1.24% さいたま市 14,977人、1.19% 新潟市 9,641人、1.10% 川越市 3,739人、1.09% 大津市 3,633人、1.08% 横須賀市 4,519人、
0.96% 前橋市 3,241人
0.94% 静岡市 6,713人
0.89% 郡山市 3,029人
0.79% 柏市 3,152人
0.77% 浜松市 6,276人
0.75% 金沢市 3,436人
0.63% 長野市 2,408人
0.60% 豊橋市 2,278人
0.54% 豊田市 2,287人 ←三河国
0.46% 岡崎市 1,734人 ←三河国 東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
上方武士は、歩の頸を一つ取りは、侍の頸を十も取りたるやうに、針ほどの事を棒程に過言を申と、山本勘助が話を聞き候如くあるべきなり。
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。(中略)三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
たけき武篇の家、和朝に上杉謙信・徳川家康なり。
(『甲陽軍鑑』) >>252 >>253
徳川は自称だから論外だろ
家康の松平・徳川創作源氏物語から
三河岡崎の源氏ファンタジー歴史が生まれた 頼朝って草木も頼朝になびくって凄くない?
実質、何百年と続く 武士の世の始まりだし 武家社会は戦国時代で完全に終焉しただろ
そもそも徳阿弥こと親氏が古事記でなかった保障もないしな
そんな古事記まがいの子孫が名門武家をことごとく滅ぼし天下統一したのが江戸時代
武士の歴史は戦国時代で終焉してんだわ いや戦国もたいがいだろ
織豊ってか三好あたりからもう名門も何も無い、武士の歴史は終わってた
礼節ってもんがないと武家とは言わんな
誰が勝っても、所詮ボス猿のサル山社会
でも、本能だけじゃなく知恵もあった徳川はやはり一枚上手だった :::::::: ┌─────────────── ┐
:::::::: |ジャムリンが氷鷺に殺られたようだな…
::::: ┌───└───────────v───┬┘
::::: |フフフ…奴はウィキペディア編集者四天王の中でも最弱 …
┌──└────────v──┬───────┘
| ジャムリンめ、氷鷺ごときに殺られるとは
| ウィキペディア編集者の面汚しよ…
└────v─────────┘
|ミ, / `ヽ /! ,.──、
|彡/二Oニニ|ノ /三三三!, |!
`,' \、、_,|/-ャ ト `=j r=レ /ミ !彡
T 爪| / / ̄|/´__,ャ |`三三‐/ |`=、|,='|
/人 ヽ ミ='/|`:::::::/イ__ ト`ー く__,-, 、 _!_ /
/ `ー─'" |_,.イ、 | |/、 Y /| | | j / ミ`┴'彡\
海獺 Ks aka 98 池脱兎 頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw
156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん
頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない
>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw
ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
だよねじゃねーつーのw 武士の世、戦国時代あたりで終わっていたら
徳川は武士じゃないの?
小学生でもそんなこと言わないよ。
もう相手しないのが一番なのかorz 武士といっても、もう武士の意味合いも成り立ちも生い立ちも違う別次元に変貌してるという話なんだよ
それくらい分からないかな?偏差値いくつ?
鎌倉御家人と徳川幕府御家人て全く意味合いも質も真逆だよな?
与力も旗本も同心も鎌倉と江戸時代では全く質も意味合いも成り立ちも別次元になってる
それこそ室町までの武士は土地という価値観が重要だが、
江戸時代は土地なんて完全無視
戦国時代以降は
秀吉みたいなのがごろごろ大名にまでなってる
完全に鎌倉時代から続いた武士層は戦国時代でほぼ消滅してしまってるし
本来的武士という性質的武士は戦国時代以前以降で完全に解離している
武士というものを語るなら同じカテゴリーでは絶対語ることてきない それこそ戦国時代以前は極端な話楠木ですら武士として扱うか迷うレベルの質だったりする。
それこそ地侍でも豪農か武士か難しいという程の質のレベル
だが江戸時代は足軽中間までもが武士という範疇
もう別次元 なんで、本物の武家社会は終わってしまったんだっろうなぁ
でも、徳川は知識があったから
システムとしてのバーチャル武家社会を再現したって意味では評価できる
自身が仮想源氏となって、源氏長者に就任し
伝統的武家観念の保全・奨励に努めた
武士観念の崩壊の一途にあった戦国より遥かにまし
しかし、戦国や江戸時代の形骸化した武士道を
本物だと思って有難がっている現代人は哀れだな 本物の武士道(棒)
街道歩いてる坊主をとっ捕まえて屋敷に連れ込んで身ぐるみはぐのがそれか >>268
本物の武士道っていつの時だ?
まさか鎌倉・南北朝・室町なーんて思っていないよなw ▽幕末の剣聖
男谷信友(東京都墨田区出身、直心影流)
▽幕末三剣士
男谷信友(東京都墨田区出身、直心影流)
島田虎之助(大分県中津市出身、直心影流)
※比留間与八(埼玉県日高市出身、甲源一刀流)
※大石進(福岡県大牟田市出身、大石神影流)
※伊庭秀業(東京都台東区出身、心形刀流)
▽中西道場三羽烏
寺田宗有(東京都文京区出身、天真一刀流)
白井亨(東京都千代田区出身、天真白井流)
高柳又四郎(東京都出身、戸田流高柳派)
▽天保の六剣士
男谷信友(東京都墨田区、直心影流)
長沼恂郷(東京都港区出身、直心影流)
杉浦源次兵衛(茨城県笠間市出身、香取神道流)
千葉周作(宮城県古川市出身、北辰一刀流)
加藤田平八郎(福岡県久留米市出身、加藤田神蔭流)
大石進(福岡県大牟田市出身、大石神影流)
▽幕末著名流派別最強剣士
男谷信友(東京都墨田区出身、直心影流)
中西子正(東京都千代田区出身、中西派一刀流)
千葉栄次郎(東京都中央区出身、北辰一刀流)
岡田十松(埼玉県羽生市出身、神道無念流)
桃井直正(静岡県沼津市出身、鏡新明智流)
岡田惣右衛門(埼玉県幸手市出身、柳剛流)
▽明治の剣聖
榊原鍵吉(東京都港区出身、直心影流)
山岡鉄舟(東京都墨田区出身、一刀正伝無刀流)
下江秀太郎(栃木県鹿沼市出身、北辰一刀流) >>257
三河wwwワロタwww
捏造源氏で源氏の名を穢し
名ばかり武士集団の三河武士でまたまた源氏の穢し
三河・岡崎は日本中の恥さらしwww >>257
と、口では勇ましかったが結果的には
上方兵がマジで攻めてきたとき大半は戦わずに逃げまどい、
戦った者も信濃の中心の城を一日で落とされて滅亡(笑) >>273
馬鹿にされすぎて発狂したか?w
誰か、いい精神病院を紹介してやれw 三河馬鹿ってあらゆる時間帯に現れ
誰一人読まない無駄なコピペをエラーが出るまで貼る基地外だよね?
ニートなの? 日本史板でボコられたら
そくり同じ捏造ソースをコピペして
大河太平記板にも寄生して楽しそうw 独力で、利権まみれの南関東とガチ勝負している地域、三河以外にどこがある
足利とかいうだっぺ君が対等に話ができる相手でないだろうが
【リーマンショック後の総所得ランキング】
・課税所得額ならびに総所得額の推計を実施。本文中の数字は全て総所得額ベース。
総所得ランキング
01位 江ノ島電鉄線(神奈川県藤沢市〜鎌倉市) ←相模国
02位 阪急甲陽線(兵庫県西宮市) ←摂津国
03位 京王井の頭線(東京都渋谷区〜武蔵野市) ←武蔵国
04位 東急東横線(東京都渋谷区〜神奈川県横浜市) ←武蔵国
05位 東急こどもの国線(神奈川県横浜市) ←武蔵国
06位 東急田園都市線(東京都渋谷区〜神奈川県大和市) ←武蔵国、相模国
07位 相鉄いずみ野線(神奈川県横浜市〜神奈川県藤沢市) ←武蔵国、相模国
08位 東急目黒線(東京都品川区〜神奈川県横浜市) ←武蔵国
09位 名鉄西尾線(愛知県安城市〜西尾市) ←三河国
10位 名鉄豊田線(愛知県みよし市〜豊田市) ←三河国
11位 東急大井町線(東京都品川区〜神奈川県川崎市) ←武蔵国
12位 東急世田谷線(東京都世田谷区) ←武蔵国
13位 小田急小田原線(東京都新宿区〜神奈川県小田原市) ←武蔵国、相模国
14位 名鉄三河線(愛知県豊田市〜碧南市) ←三河国
15位 東急池上線(東京都品川区〜大田区) ←武蔵国
ソース:東洋経済オンライン
http://www.toyokeizai.net/life/living/detail/AC/a9f0b48216dc7b01346aec09db603d62/
ソースのソース:株式会社野村総合研究所 第2回全国のエリア別所得・金融資産を推計
http://www.nri.co.jp/news/2010/100330.ht >>278
趣味は鉄オタと歴史音痴の岡崎三河創作物語が大好物
関東に異常にコンプレックスを持っている
60代ナマポ不正受給者で在日らしい >歴史音痴
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw
156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん
頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない
>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw
ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
だよねじゃねーつーのw 三河馬鹿はこの辺は否定しないんだなwww
・岡崎三河創作物語が大好物
・関東に異常にコンプレックスを持っている
・60代ナマポ
・不正受給者で
・在日らしい > 関東に異常にコンプレックスを持っている
上から目線で馬鹿にしているだけだろw >典型的コンプレックス
これの事か?w
http://toppy.net/myamya/myamya40.html
>かわりに鎌倉幕府を開いた源頼朝でもいいと思うのですが。彼は熱田神宮の隣りで生まれていますから。
>こうして見ると、日本の歴史は名古屋っ子が作ってきたと言っても過言ではありませんね >>288
おいおい自分で糞レス撒き散らしておきながら
名古屋と関東の区別もつかねーのかよwww 三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流、本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女(実父は季範長男)→足利義兼→足利義氏(三河守護)
・1044年、頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・1060年、藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄弟)が、三河国碧海郡志貴荘を立券する
・季兼(三河四郎大夫)は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り、三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着する
・季兼 (三河四郎大夫 )は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券し、甥(高橋惟康)を領主に据える
・季兼( 三河四郎大夫) 、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を 支配下におく
・季兼(三河四郎大夫)室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年三河国設楽郡(愛知県新城市稲木)で過し没する(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・同時期、藤原季綱(三河守、季兼(三河四郎大夫)の弟)が、鳥羽の別邸を白川院に献上する(鳥羽殿)
・1090年、季範(額田冠者)生まれる
・季兼(三河四郎大夫)は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・1101年、季兼(三河四郎大夫)が死去する
・1114年、季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) ←大宮司職を乗っ取られる(笑)
・1137年、季範(額田冠者)は、神のお告げで大宮司職を5男範雅に譲る
・1137年、鳥羽院が、鳥羽殿内に安楽寿院を創建する
・1142年、源義国が、足利荘を安楽寿院に寄進する ・季範(額田冠者)の娘(由良御前)が源義朝の正室になり、1147年、源頼朝が生まれる
・季範(額田冠者)の娘(養女(実父は季範長男))が源義康の正室になり、1154年、足利義兼が生まれる
・1155年、季範(額田冠者)、源義国が死去する
・1157年、源義康が死去する
・1159年、由良御前が死去する
・1160年、源義朝が謀殺される
・1168年頃、三河国碧海郡碧海荘が立券され、鳥羽院に寄進される(寄進者は藤原範忠か?)
・1185年、源頼朝が幕府を開く
・1199年、源頼朝、足利義兼が死去する
・1219年、源実朝が暗殺され、1221年、承久の乱で三河の藤姓熱田大宮司家の所領が没収されると、足利義氏が縁故者として三河の権益を継承する ←足利王国の誕生 三河馬鹿ってなんで歴史音痴でスレタイが読めないの? >歴史音痴
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw
156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん
頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない
>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw
ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
だよねじゃねーつーのw ■三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流、本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女(実父は季範長男の範忠)→足利義兼→足利義氏(三河守護)
・1044年、藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・1060年、藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が、三河国碧海郡志貴荘を立券する
・1062年、藤原実範(三河守、藤原季兼(三河四郎大夫)の父)が死去する
・季兼(三河四郎大夫)は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り、三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着する
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券し、甥(高橋惟康)を領主に据える
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を 支配下におく
・1076年、藤原季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)が三河守になる
・同時期、季綱(三河守、季兼(三河四郎大夫)の弟)が、鳥羽の別邸を白川院に献上する(後の鳥羽殿)
・藤原資良(父は藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が尾張守になり、尾張目代を務める(死ぬまで、息子と共に三河に住みながら尾張目代を務めた)
・1184年、藤原顕季が尾張守になる
・季兼(三河四郎大夫)は、松御前(尾張員職の娘)と結婚し、1090年、藤原季範(額田冠者)が生まれる
・1199年、藤原長実(美福門院父)が尾張守になる
・1101年、季兼(三河四郎大夫)が死去する
・1114年、季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) ←大宮司職を乗っ取られる(笑)
・1130年、季兼(三河四郎大夫)室の松御前(尾張員職の娘)が、三河国設楽郡(愛知県新城市稲木)で死去する(城ヶ峰(愛知県新城市)の山頂に墓あり) ・1137年、季範(額田冠者)は、神のお告げで大宮司職を5男範雅に譲る
・1137年、鳥羽院が、鳥羽殿内に安楽寿院を創建する
・1140年、季範(額田冠者)が、滝山寺内(三河国額田郡)に、夫婦で蓮華寺造営、仏性灯油料として三河国額田郡恵那河内郷(愛知県岡崎市米河内)を寄進する
・1142年、源義国が、足利荘を安楽寿院に寄進する
・季範(額田冠者)の娘(由良御前)が源義朝の正室になり、1147年、源頼朝が生まれる
・季範(額田冠者)の娘(養女(実父は季範長男))が源義康の正室になり、1154年、足利義兼が生まれる
・1155年、季範(額田冠者)、源義国が死去する
・1157年、源義康が死去する
・1159年、由良御前が死去する
・1160年、源義朝が謀殺される
・1168年頃、三河国碧海郡碧海荘が立券され、鳥羽院に寄進される(寄進者は藤原範忠か?)
・1185年、源頼朝が幕府を開く
・1199年、源頼朝、足利義兼が死去する
・1219年、源実朝が暗殺され、1221年、承久の乱で三河の藤姓熱田大宮司家の所領が没収されると、足利義氏が縁故者として三河の権益を継承する ←足利王国の誕生 ■三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流、本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女(実父は季範長男の範忠)→足利義兼→足利義氏(三河守護)
・1044年、藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・1060年、藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が、三河国碧海郡志貴荘を立券する
・1062年、藤原実範(三河守、藤原季兼(三河四郎大夫)の父)が死去する
・季兼(三河四郎大夫)は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り、三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着する
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券し、甥(高橋惟康)を領主に据える
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を 支配下におく
・1076年、藤原季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)が三河守になる
・同時期、季綱(三河守、季兼(三河四郎大夫)の弟)が、鳥羽の別邸を白川院に献上する(後の鳥羽殿)
・藤原資良(父は藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が尾張守になり、尾張目代を務める(死ぬまで、息子と共に三河に住みながら尾張目代を務めた)
・1084年、藤原顕季が尾張守になる
・季兼(三河四郎大夫)は、松御前(尾張員職の娘)と結婚し、1090年、藤原季範(額田冠者)が生まれる
・1099年、藤原長実(美福門院父)が尾張守になる
・1101年、季兼(三河四郎大夫)が死去する
・1114年、藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘、季範(額田冠者)の従兄弟)が三河守になる
・1114年、季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) ←大宮司職を乗っ取られる(笑) >>135
そう言うこと
同様なことを
熱田神宮が
昔から平成の今も
神宮史をもとに
藤姓熱田大宮司家の本貫は
尾張で始まり
尾張にて継続していると
きちんと説明している
三河バカは藤姓熱田大宮司家を捏造愚弄するのもいい加減にしろ 徳川家康 愛知県生まれ
源頼朝 京都府または愛知県生まれ
足利尊氏 京都府生まれ
京都府と愛知県ばかり ■三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流、本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(実父は季範長男の範忠)→足利義兼→足利義氏(三河守護)
11世紀
・1044年、藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・1060年、藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が、私領を三河国碧海郡志貴荘として立券する、知行は保相→資良(保相の息)→惟信(資良の息)→惟信の娘(平信範の母)が伝領した
・1062年、藤原実範(三河守、藤原季兼(三河四郎大夫)の父)が死去する
・季兼(三河四郎大夫)は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り、三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着する
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券し、甥(高橋惟康)を領主に据える
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を 支配下におく
・1076年、藤原季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)が三河守になる
・同時期、季綱(三河守、季兼(三河四郎大夫)の弟)が、鳥羽の別邸を白川院に献上する(後に
鳥羽殿)
・藤原資良(父は藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が尾張守になり、尾張目代を務める(死ぬまで、息子と共に三河に住みながら尾張目代を務めた)
・1084年、藤原顕季が尾張守になる
・季兼(三河四郎大夫)は、松御前(尾張員職の娘)と結婚し、1090年、藤原季範(額田冠者)が生まれる
・1099年、藤原長実(美福門院父)が尾張守になる 12世紀
・1101年、季兼(三河四郎大夫)が死去する
・1114年、藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘、季範(額田冠者)の従兄弟)が三河守になる
・1114年、季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) ←大宮司職を乗っ取られる(笑)
・1136年、藤原顕長(父は藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘、季範(額田冠者)の従兄弟)が 三河守になる
・1137年、季範(額田冠者)は、神のお告げで大宮司職を五男範雅に譲る
・1137年、鳥羽院が、鳥羽殿内に安楽寿院を創建する
・1140年、季範(額田冠者)が、滝山寺内(三河国額田郡)に、夫婦で蓮華寺造営、仏性灯油料として三河国額田郡恵那河内郷(愛知県岡崎市米河内)を寄進する
・1142年、源義国が、足利荘を安楽寿院に寄進する
・季範(額田冠者)の娘(由良御前)が源義朝の正室になり、1147年、源頼朝が生まれる
・季範(額田冠者)の娘(養女(実父は季範長男))が源義康の正室になり、1154年、足利義兼が生まれる
・1155年、季範(額田冠者)、源義国が死去する
・1157年、源義康が死去する
・1159年、由良御前が死去する
・1160年、源義朝が謀殺される
・1168年頃、三河国碧海郡碧海荘が立券され、鳥羽院に寄進される(寄進者は藤原範忠か?)
・1185年、源頼朝が幕府を開く
・1199年、源頼朝、足利義兼が死去する
13世紀
・1219年、源実朝が暗殺され、1221年、承久の乱で三河の藤姓熱田大宮司家の所領が没収されると、足利義氏が縁故者として三河の権益を継承する ←足利王国の誕生 >>303
とーちゃんが三河にいたのに、スルーして京都に行くかよw三河は通り道だぞw
■上杉氏
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 頼朝や尊氏の母方をさかのぼった先祖の一人が
その昔一時期三河に住んでいたことがあったからって
日本史の大勢からはどうでもいいことなのに
毎日何を必死になってるんだ、三河コピペ馬鹿は 肝心の頼朝・尊氏・家康に関する知識が完全欠落しているのが
三河馬鹿の浅はかなところ 熱田大宮司家はもともと尾張出身の尾張氏
その地を母系で受け継ぐのが藤姓熱田大宮司家
源頼朝の母系を遡るのならば藤姓熱田大宮司家の母系も遡らないと
源頼朝は尾張氏の血を引いてるんだってね 元暦元年(1184)6月20日
臨時除目
頼朝推薦
権大納言:平頼盛
侍従:平光盛
河内守:平保業
讃岐守:一条能保
三河守:源範頼
駿河守:源広綱
武蔵守:平賀義信
名古屋飛ばしが明確なんだがw
尾張氏の何を語れと?w
尾張に頼朝ゆかりはありませんw
あるのは産湯伝承w 尾張氏ー尾張姓熱田大宮司家ー藤姓熱田大宮司家ー源頼朝
尾張氏ー尾張姓熱田大宮司家ー藤姓熱田大宮司家ー足利義兼…足利尊氏
ほら、源頼朝も足利尊氏も母系を遡ると尾張氏になるんだよな!
藤姓熱田大宮司家は女系を辿ると尾張氏にいきつく
三河馬鹿の出る幕なし 伊勢から上総くらいまでを繋いでた東海道沿いの水軍衆っていたよね? http://toppy.net/myamya/myamya40.html
>かわりに鎌倉幕府を開いた源頼朝でもいいと思うのですが。彼は熱田神宮の隣りで生まれていますから。
>こうして見ると、日本の歴史は名古屋っ子が作ってきたと言っても過言ではありませんね
頭の悪い田舎者乙w 303 :名無しさん@京都板じゃないよ:2012/03/23(金) 09:35:38.83
尾張國造家は、単なる外戚の藤原南家に「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われるも、神宮寺の愛染院(真言系)とスクラムを組んで対抗し、
藤原季範を締め上げた。季範の息子の代には、館を社僧に取り囲まれて外に出ることもできなくなり、頼朝に泣きつき、頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる
>「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われる(笑)
>頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる(笑)
三河(源頼朝、三河の藤姓熱田大宮司一族、天台宗系神宮寺)vs尾張(尾張氏(田島氏、馬場氏)、宗徒、真言宗系神宮寺)
当時、殺伐とした内部対立があった中、源頼朝が尾張で生まれるわけないだろうがw
頭の悪い田舎者乙w 尾張員職(熱田大宮司)-女(尾張氏)−藤原季範ー由良御前ー源頼朝
尾張員職(熱田大宮司))-女(尾張氏)−藤原季範ー藤原範忠-女ー足利義兼…足利尊氏
三河馬鹿はまずこの家系図を頭に叩き込めw
頼朝も尊氏も尾張氏の血を引いている >>315
頼朝出生地について
1.^ 『張州府志』に尾張幡屋生まれとある。
2.^ 『尾張志』には尾張幡屋で生まれた事から幡屋武者王といったともある。
3.^ 『尾張名所図会』(前編、5巻)には出生地として熱田神宮西の誓願寺が記載されている。
4.^ 『系図纂要』にも尾張幡屋で生まれた事から幡屋武者王といったとある。
以上、wikiから
三河馬鹿はこれらの史料を完全否定し
頼朝の三河生まれを証明する最有力史料を挙げられるの?
日本史板なのに史料提示をしない人だな 何が言いたいのかね?
お前さんは(^ー^)ノ
大宮司家の正体晒しか? 最近知ったんだが
名古屋君、家康とやらの母方が水野で尾張だぎゃ〜
家康は名古屋だぎゃ〜とか言っているらしなw
その発想は無かったわw
こりゃ完全に日本は中の朝鮮人と言っても間違いではないw >>317
江戸時代の書物なんですがw
アイゴーw お前の言う朝鮮人とやらの基準はなんなんだ?
どうも最近、虫が飛んでて目につくわ 頼朝については、名古屋市教育委員会が深く立ち入らない事で察してやれw >>320
で?
お前は頼朝が三河生まれだという平安時代の史料を出せるの?
そんなもんないだろうがw 岡崎市教育委員会は頼朝が三河生まれだなんて言ってないもんなあ
完全に三河馬鹿の脳内 常識的に考えれば頼朝は京都生まれ
由良御前の姉妹は女院に出仕して宮仕えしており、
由良御前も宮仕えしていた可能性がある
当然、都で暮らしていた
由良御前が三河で暮らし頼朝を三河で産んだなんて言ってるのは
三河馬鹿以外ない 頼朝が三河で生まれたとか一切言っていませんがw
レスを出してくださいよ
疲れる老人だなw >>327
>藤原季範(額田冠者、三河国 額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)
季範の本拠地は京都だろ なんで老人なの?
何でそう思ったかその結論に至った心理状況に興味があるなあ >>320
「平家物語」に
「頼朝、源氏の大将となるべきゆゑにや、かの幡屋にてぞ生まれ給ひける」
というくだりがある。
平家物語の時代に、頼朝は幡屋(尾張国幡屋)で生まれたと言ってるんだが。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています